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第4話

Author: 橙意
薬を塗る手を止め、私は彼を見上げて尋ねた。

「私一人で行くの?君は来ないの?」

蓮はため息をつき、少し残念そうな顔をしながら答えた。

「仕事が忙しいんだ。今回は無理だけど、次は一緒に行こうな?」

でも蓮、私たちに「次」はもうないの。

私は顔を伏せ、黙々と作業を続けながら言った。

「会社の都合で休みが取れないかもしれないわ」

「心配するな。そこは俺がなんとかする」

「でも、行きたくない」と私は固辞した。

すると彼は有無を言わせない口調で言い放った。

「大丈夫だって。もう予約済みでキャンセルもできないんだ」

私は何も言わなかった。ただ心の中では冷たい波が押し寄せていた。

昨夜、半分眠りながら耳にした彼の電話の内容が頭をよぎる。

「彼女には言わないつもりだ。一日でも長く隠せるならそれでいい。

念のため、結婚式の間、旅行を組ませてどこか遠くに行かせるさ」

電話の相手がため息をついて問い詰める。

「それで?彼女をただの浮気相手にするつもりか?」

蓮は長い沈黙の後、煙草の煙を深く吸い込み、ゆっくりと吐き出した。

「これからのことは……成り行きに任せるしかないな」

胸が痛み、押しつぶされるような気分でベッドに横たわり、涙が視界を滲ませる。

この七年間、自分がどれだけ愚かだったかと思い知る。

蓮、私は君のことを何も分かっていなかった。

愛していないのなら、どうして正直にそう言わないの?

私がしがみつくのを恐れたから?

だから結婚式の間、こんな手を使って私を遠ざけようとしたの?

こんなまどろっこしい方法を使わなくてもよかったのに。

でも安心して。君の望む通り、私は君の人生から完全に消えてあげる。

「飛行機の出発はいつ?」と彼に尋ねた。

「二日後だ」

私は微笑みながら答えた。「わかった。行くよ」

彼は明らかに安堵の息をつき、自然と私の頭に手を伸ばそうとした。

私はそっとかわし、彼の手から逃れる。

彼は少し驚いたように固まったが、すぐに笑顔を作って言った。

「出発前に、飯でも食おうぜ」

私は少し考えた末に、頷いた。

明日はちょうど私たちが付き合い始めて七周年になる日。

なら、きちんとお別れしよう。この関係は、その日始まり、その日終わることになるのだから。

翌日、私は早めに彼との約束のレストランに到着した。

すると蓮も時間通りに来たが、佳乃を伴っていた。

「高橋さん、ちょうど如月社長と近くで用事を済ませていたので、一緒に来ちゃいました。邪魔してませんよね?」

私は首を横に振り、口には出さなかったが心の中では残念に思った。

最後の食事も、結局まともに締めくくることはできないようだ、と。

蓮はテーブルに淡泊な料理を並べた。

それを見た佳乃が笑いながら言った。

「如月社長、こんな薄味の料理、高橋さんの好みに合わないんじゃないですか?」

蓮は気にした様子もなく答えた。

「お前、生理中だろ。辛いものは控えとけ」

そう言いながら、サービススタッフを呼び、佳乃の前にあった冷たい飲み物を片付けさせ、代わりに生姜茶を注文した。

佳乃は口をとがらせ、不満そうに文句を言った。

「如月社長、いつも私のこと構いすぎですよ」

すると蓮は彼女の額を軽く指で叩き、微笑んだ。

「俺が構わないと、後で腹が痛くなって泣くくせに」

佳乃は舌を出して笑った。

「そんな大げさな。如月社長が私のことを気にかけすぎなだけです」

二人は私の目の前で、まるで周りが見えていないかのようにいちゃついていた。

私はそれをただ無表情で眺めていた。心は驚くほど静かで、何の波も立たない。

食事の最中、突然「火事だ!」と叫ぶ声が響いた。

店内は一瞬で騒然となり、客たちは四方に逃げ出し始めた。

私も席を立とうとしたその瞬間、一人の人影が目の前を駆け抜けた。

蓮が佳乃をしっかりと抱きかかえ、迷いもなく彼女を守りながら外へと走っていったのだ。

朧げに思い出す。

18歳のあの日、彼が私を守るために身を投げ出してくれたこと。

状況もシーンも違うけれど、かつて私を抱きしめてくれたその人は、今はもう私を守らない。

無事に安全な場所へ着いた蓮が振り返り、遠くに立ち尽くしている私を見つけた。

彼の目には驚きが浮かんでいた。

「さっきは焦ってて……わざとじゃないんだ」

私は笑って彼を遮った。

「大丈夫。気にしてないから」

やがて旅行の日が来て、私は早めに荷物をまとめ、部屋を出た。

部屋に私の痕跡がもう何一つ残っていないことを確認し、静かにドアを閉めた。

もちろん、旅行には行かなかった。

私は実家に戻り、婚約者との結婚に向けて準備を進めることにした。

一方の蓮は佳乃とのウェディングドレスの試着に忙しく、私のことなど気にも留めていないようだった。

結婚式当日、私は初めて婚約者の誠司と対面した。

写真よりもずっと素敵な人だった。容姿も体格も非の打ち所がない。

華やかな結婚行列に囲まれ、私は車に乗って式場へと向かう。

すると途中で反対方向から来る別の花嫁行列と出くわした。

双方の車が停まり、新婦同士でブーケを交換するために窓が開いた。

そのとき、向こうの車の中に蓮がいることに気づいた。

私たちの視線が交わり、彼は目を見開いた。

彼の声が震えていた。

「奈月……どうしてここに?」
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