Share

第409話

Auteur: シガちゃん
歩実は警備員に連れられていく間、意外にも暴れなかった。だが、振り返ったその目には、燃え残った悔恨が色濃く宿っていた。

これまで順風満帆に歩んできた彼女にとって、この敗北は到底受け入れがたいものだったのだろう。

由奈は静かに視線を外した。

やがてアンデル教授が歩み寄る。「まさか、あの論文があなたのものだったとは。私が確認を怠ったせいです。長門さんの言葉を鵜呑みにしてしまいました」

心からの悔恨が滲む声だった。そして、ふっと苦笑する。「もしあなたが白石先生の教え子でなければ、今すぐにでもM国へ連れて帰りたいところです」

由奈は小さく首を振る。「あの論文は、当時は空論だと笑われることも多かったんです。私自身も、自信があったわけではありません。でも、教授が評価してくださったからこそ、研究として世に残ることができました。脳医学の分野では、まだまだ学ぶべきことばかりです」

アンデル教授は朗らかに笑った。「本当に、私の弟子になってほしいくらいですね」

「私の前で堂々と引き抜きですか、それは感心しませんね」いつの間にか近づいていた恭介が、わざとらしく咳払いをする。

すでに会議室の人影は
Continuez à lire ce livre gratuitement
Scanner le code pour télécharger l'application
Chapitre verrouillé

Latest chapter

  • 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る   第413話

    歩実はベッドの上で呆然と天井を見つめていた。頭が重く、意識は濁った水の中に沈んでいるようだった。――自分が、切り捨てられる側になるなんて。転落する前は、誰もが彼女に味方していた。けれどひとたび立場を失えば、同じ人間たちが、まるで示し合わせたかのように背を向ける。急に、昔のことが恋しくなった。祐一が、まだ彼女を宝物のように扱ってくれていたあの頃。あのときの彼女は、すべてを手にしていたはずなのに、それでも満たされなかった。だからこそ、圭介とあんな愚かな関係を持ってしまったのだ。圭介が与えてくれる金銭的な余裕を享受しながら、祐一の信頼と甘やかな愛情も手放せなかった。迷いがなかったわけではない。後悔だって、何度も胸をよぎった。それでも最後は、罪深い欲望に負けた。――もし、あのとき圭介と関わらなければ。妊娠もしなければ。四億を受け取って海外へ逃げなければ。結末は、違っていたのだろうか。そう思った瞬間、目の奥が熱くなる。込み上げてくるのは悔しさよりも、激しい後悔だった。自分が、選ぶ相手を間違えたのだ。廊下の足音に、はっと我に返る。警察官が一人の人物を伴って入ってきた。亜紀だと思い込んで顔を上げた、その瞬間――視線の先に立っていたのは、由奈だった。歩実の表情が凍りつく。「すみません、少しだけ二人で話をさせてもらえますか」由奈は穏やかに微笑んだ。警察官はうなずき、病室の入り口へ下がる。扉が閉まるや否や、歩実は勢いよく身を起こし、由奈の手首をつかんだ。「あなたがやったんでしょ!」歯ぎしりするような声。左耳が聞こえなくなってから、世界は半分閉ざされた。人の声が遠く、眠りから覚めたときは、静寂が怖くて息が詰まる。そんな自分を受け入れられない。けれど由奈の前で弱さを見せるわけにはいかなかった。自分がこんな目に遭ったのは、すべて由奈の仕業だ――そう思い込まなければ、立っていられない。由奈は手首を振りほどかず、静かに見つめ返す。「私が、何をしたんですか?」「弟のことで腹いせしたのよ!私に復讐したんでしょ!」歩実の声は震えていた。「今の私を見て満足?あなたは私を憎んでるだろうけど、結局、あなたも私と同じよ!絶対に許さない。あなたも、いつか全部失うから!」しばらくの沈黙のあと、由奈が口を開く。「証拠はあ

  • 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る   第412話

    由奈はスマホを握ったまま、バルコニーへ出た。「……今、なんて?」「長門先生が、警察署から病院に運ばれて緊急手術になったんです」綾香の声はひどく抑えられている。「脾臓破裂による大量出血と脳震盪。さっきやっと一命は取り留めて、今はICUです」由奈は眉をひそめた。「警察が病室の前を固めてます。さっき様子を見たけど……正直、かなりひどいです。失禁もしてましたし。でも、おかしくないですか?今、勾留中だったんでしょ?どうしてこんなことに……」由奈も、その点が引っかかっていた。一瞬、これは歩実の常套手段ではないかと思った。同情を引き、保釈を狙うための「自作自演」。だが、命の危険を伴うほどの「苦肉の策」など、そう何度も使えるものではない。「因果応報じゃないですか?」綾香が鼻で笑う。「前に、あの人が浩輔さんにやったこと、今度は自分に返ってきただけですよ」由奈は、ほんのわずか言葉に詰まった。……本当に、そうだろうか。偶然にしては、出来すぎている。しかも、あまりにも。「池上先生?」沈黙が長いのを気にしたのか、綾香が声をかける。由奈は我に返った。「知らせてくれてありがとう。状況はよく分かりました」「ううん。役に立てたならよかったです」綾香は明るく言って、通話を切った。由奈が室内に戻ると、真里がショールを羽織って出てくる。「もう帰るの?」「はい。今日は本当にありがとうございました」「遠慮しないで。時間があれば、またいつでも来てちょうだい」真里はそう言って、由奈の手をやさしく包んだ。……目を覚ました瞬間、歩実は異変に気づいた。体が、動かない。そして――左耳が何も聞こえない。「……耳……?」痛みに耐えながら上体を起こそうとすると、すぐに看護師が駆け寄り、肩を押さえた。「長門さん、まだ起き上がっちゃいけません!」「どうして……どうして左が聞こえないのよ!」歩実は看護師の腕をつかみ、半ば錯乱したように叫ぶ。その声に反応して、警察官が病室へ入ってきた。「耳が聞こえないの!全部、あいつらのせいよ!」首筋に血管を浮かべ、必死に訴える。「刑事さん、あの人たち、最初から私を狙ってたの!裏で誰かが指示してたのよ!そう……池上由奈!あの女が黒幕よ!」警官はまず彼女を落ち着かせるよう、低い声で言った。「事情はきちんと

  • 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る   第411話

    歩実の目に、あからさまな苛立ちが走った。「あなたたち、誰?気安く話しかけないで」その言葉に、先頭に立っていた短髪の女の笑みがすっと消える。次の瞬間、何の前触れもなく手が振り上げられ、乾いた音が留置場に響いた。歩実は勢いよく床へ倒れ込む。はっと我に返ったときには、すでに三人に取り囲まれていた。短髪の女が歩実の髪を乱暴につかみ、無理やり顔を上げさせる。「ここがどこだか分かってるの?その態度はないんじゃない?」「……ひ、人違いじゃないの?」三人の目に宿る敵意を察し、歩実はとっさに声の調子を落とした。「人違い?してないよ。あんた、長門歩実でしょ?」女は手のひらを滑らせ、顎を強くつかむ。「自分が何してきたか、忘れたとは言わせないよ」肩がびくりと震える。歩実は女を突き飛ばした。「何のこと?ここは警察署よ?手を出したら、あなたたちだって無事じゃ済まないわ!」少し太った女が腕を組み、鼻で笑う。「へえ、ここが警察署だって分かってるんだ。前にあんたも、同じことやらせたくせに」「……どういう意味?」一瞬、思考が止まる。だが、短髪の女は考える隙を与えなかった。鋭く蹴りが入る。「っ……!」腹部に衝撃が走り、息が詰まる。続けざまに拳と足が落ちてきた。「やめて……!」歩実は丸くなり、必死に身をかばう。だが三人は容赦しない。その間、壁の隅にあるはずの監視カメラは、いつの間にか電源が落ちていた。やがて、歩実がほとんど動かなくなった頃。「何をしてる!」当直の警察官が駆け込んできた。床に横たわる歩実は、全身が焼けつくように痛む。耳鳴りがひどく、周囲の声が遠く霞む。骨が折れたのではないかと思うほどの激痛。額の端から、熱い液体が頬を伝って流れていく。――痛い。ただ、それだけがはっきりしていた。そのとき、ふいに脳裏にある名前が浮かんだ――池上浩輔。……一方その頃。由奈は警察署を出たあと、真里の招きで麻雀の席へ向かった。集まっていたのは、沙也加と麻央。初めて触る牌に、由奈は少し緊張していたが、真里が一通り教えると、二、三局で流れをつかんだ。気づけば、かなりの額を勝っている。「初心者ボーナスってやつね」麻央が笑う。「これが本気のレートだったら、今ごろ私たち、財布が空っぽになっちゃったわよ」沙也加が八筒を捨て

  • 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る   第410話

    夜、由奈がレストランに足を踏み入れたとき、そこにいる客はただ一人――祐一だけだった。白いシャツ姿の祐一は、柔らかな琥珀色の灯りの下に立っていた。袖を手首までまくり、細い指先でマッチを擦る。小さな火が揺れ、テーブルの燭台へと静かに移った。背後の大きなガラス窓の向こうには、ネオンが幾重にも重なり合い、夜の江川市を縁取っている。――ずいぶんと、気取った演出だ。もしこれが昔だったなら、きっと胸が熱くなっていたはずだ。けれど今は、ただ少し足を緩めただけで、由奈は静かに席へ歩み寄った。「……どういうつもり?」祐一は手に残った火を消し、かすかに笑う。「最近、君とちゃんと二人きりで食事してなかっただろ。せっかくだから、少しだけ『それらしく』と思って」「そこまでしなくてもいいのに」「もしかしたら、これが最後かもしれないし」その言葉に、由奈はぴたりと動きを止めた――また同情を引こうとしている。椅子を引き、腰を下ろす。「末期がんでも宣告されたみたいな言い方、やめてくれる?」祐一が低く笑う。「じゃあ、俺が死んだら困るってこと?」「くだらない」それ以上相手にせず、由奈は店員を呼んで注文を済ませた。祐一は何も言わず、ただ彼女を見つめている。食事が運ばれても、祐一はほとんど口にしなかった。視線だけを上げる。「俺たち、まともなデートって……したことあったかな」由奈は一瞬、言葉を失う。祐一はゆっくりとナイフを動かしながら続けた。「旅行に行ったときに、ちゃんと埋め合わせようと思ってた。でも……結局、行けなかったな」「祐一。結局、何が言いたいの?」彼は問いには答えず、静かに言った。「君と、ちゃんとした結婚式も挙げてやれてない」――結婚式。その言葉に、由奈の表情がわずかに曇る。フォークを置いた。「それを言うために、今夜はこんなことを?」祐一は否定も肯定もしない。由奈は小さく笑った。「この世にはね、取り戻せないものがあるの。祐一、心に残った傷は、なかったことにはできないのよ」祐一の指先が白くなる。喉の奥から、かすれた声が落ちた。「……それでも、忘れてほしい」由奈の瞳から、わずかな笑みが消える。「どうして私が忘れなきゃいけないの?」祐一はまっすぐに彼女を見る。「忘れてほしいと、俺が思ってるから」由奈は静かに

  • 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る   第409話

    歩実は警備員に連れられていく間、意外にも暴れなかった。だが、振り返ったその目には、燃え残った悔恨が色濃く宿っていた。これまで順風満帆に歩んできた彼女にとって、この敗北は到底受け入れがたいものだったのだろう。由奈は静かに視線を外した。やがてアンデル教授が歩み寄る。「まさか、あの論文があなたのものだったとは。私が確認を怠ったせいです。長門さんの言葉を鵜呑みにしてしまいました」心からの悔恨が滲む声だった。そして、ふっと苦笑する。「もしあなたが白石先生の教え子でなければ、今すぐにでもM国へ連れて帰りたいところです」由奈は小さく首を振る。「あの論文は、当時は空論だと笑われることも多かったんです。私自身も、自信があったわけではありません。でも、教授が評価してくださったからこそ、研究として世に残ることができました。脳医学の分野では、まだまだ学ぶべきことばかりです」アンデル教授は朗らかに笑った。「本当に、私の弟子になってほしいくらいですね」「私の前で堂々と引き抜きですか、それは感心しませんね」いつの間にか近づいていた恭介が、わざとらしく咳払いをする。すでに会議室の人影はまばらだ。アンデル教授は肩をすくめた。「もっと早く教えてくださればよかったのに。惜しい逸材を逃しました」「教授こそ、何も聞かなかったでしょう?」恭介は冗談半分に言う。二人の軽いやり取りに、由奈は苦笑した。本当は、自分から説明する機会はいくらでもあったのだ。やがて三人は会議室を後にする。廊下に出たところで、恭介が足を止めた。「まだ用があるのだろう?私は一人で帰るよ」由奈は一瞬きょとんとし、それから小さく笑った。「ありがとうございます、先生。では、失礼します」「ああ、無理はするなよ」短く手を振る恭介の背を見送り、由奈は研究センターを出た。スマホを取り出し、綾香に電話をかける。数コールの後、眠気の残る声が応じた。「……池上先生?」「ごめん、起こしちゃいました?」「あ、大丈夫です。明日は休みなので、これからまた寝るつもりでした」あくび混じりの返事。由奈は少し声を落とした。「前に集めてくれた証拠、全部データで送ってもらえますか?そろそろ使うことになりそうです」一瞬で目が覚めたように、綾香の声がはっきりする。「はい、すぐ送ります!」「ありがと

  • 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る   第408話

    「証拠なんてないでしょう!」歩実の叫び声が、会議室に鋭く響いた。これまで気配り上手で穏やかと評されてきた彼女の姿は、もうどこにもいない。由奈はわずかに口角を上げる。「Aグループの全員は、あの報告書が破棄されたデータだと知っていました。知らなかったのはBグループだけ」静かに、しかし確実に追い詰める声。「だからこそ――このタイミングで騒ぎ出したBグループの人間が、ノーラングループと接触していた可能性は高い、ということになります」歩実はその場に固まった。視線が、Aグループの面々へと走る。だが誰一人、驚いていない。動揺もない。まるで最初からすべてを分かっていたかのような顔をしていた。その瞬間、彼女は理解した。――自分は仕組まれていたのだと。乾いた笑いが、喉から漏れる。「……池上先生ってずいぶんと用意周到ですね」「あなたに比べれば、可愛いものです」由奈の声に温度はない。「私は一度も、あなたに仕掛けたことはありません。でもあなたは、何度も私を陥れようとした。今回、備えていなければ――また同じ目に遭っていたでしょう」上層部が短く命じる。「警備を呼べ」数分後、警備員が現れ、歩実の腕を取った。「離して!私はアンデル教授の部下よ!」歩実は必死に抵抗する。そのとき――「……これは、いったい何事ですか?」アンデル教授が駆けつけた。歩実は警備の手を振りほどき、彼のもとへ駆け寄った。「アンデル教授、助けてください!」だが、アンデル教授が状況を把握する前に、恭介が淡々と告げる。「ノーラングループに研究報告を渡したのは、彼女です」アンデル教授の目が、ゆっくりと歩実へ向けられる。「……違います!」歩実は首を振る。「白石先生、何かの間違いでは?」彼の声には、まだ戸惑いが残っていた。由奈が静かに口を開く。「間違いかどうかは、すぐ分かります。ノーラングループが研究結果の不備に気づけば、必ず報告書を渡した本人に連絡するはずですから」その言葉が落ちた、まさにその瞬間、歩実のスマホが鳴った。会議室が、水を打ったように静まり返る。鳴り続ける着信音だけが、やけに大きく響いた。由奈が眉をわずかに上げる。「……出ないんですか?」歩実は唇を震わせる。四方から向けられる視線に、逃げ場はない。アンデル教授の顔に、はっきりとした失望

Plus de chapitres
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status