LOGIN三度目の入籍予定日、森崎晴南(もりさき せな)はまたしても「忘れられない女」のために約束を破った。 区役所の前で独り立ち尽くす花江咲夜(はなえ さくや)は、ある男に電話をかける。 「あなたと結婚するわ」 相手は、晴南の宿敵である荻野千暁(おぎの ちあき)。 これ以上、報われない愛のために自分を押し殺し続けたくはない。 咲夜はわずか一週間で、晴南との思い出も、家も、愛も、そのすべてを完膚なきまでに断ち切った。 だが、咲夜が千暁の腕に抱かれ、慈しまれる姿を目の当たりにした瞬間、あんなに彼女を「卑しい女」と罵っていた晴南の瞳は血走り、狂ったように膝をつく。 「咲夜、もう一度やり直そう。結婚式も挙げる、今までの償いもするから……頼む!」 「理想的な元カレっていうのはね、死んだも同然に静かにしている人のことよ。晴南、誰もあなたをその場で待ち続けたりしないわ」 失って初めて、己が愛していたのは誰だったのかを悟った晴南。 しかし、すべてはもう遅すぎた。 彼女の隣に、もう彼の居場所はない。
View Moreスタジオに足を踏み入れると、咲夜の助手である宝井晶子(たからい あきこ)がすぐさま後ろに付き従った。晶子は不安を隠しきれない表情で、咲夜に問いかける。「咲夜さん、森崎グループが突然資金を引き揚げるって言ってきたんですけど……一体どういうことなんですか?」どうやら影響を受けたのは花江グループだけではなかった。咲夜と晴南が共同で運営しているこのスタジオにまで、その余波が及んでいたのだ。咲夜も、この可能性をまったく想定していなかったわけではない。だが、現実として突きつけられると、やはり胸の奥が鈍く痛んだ。自分がこのスタジオにどれほどの心血を注いできたか、晴南は誰よりも近くで見てきたはずだった。それにもかかわらず、こうもあっさり資金撤退を告げてくる。たとえ自分から手放す覚悟を決めていたとしても、いざ現実となれば心が揺らぐのは避けられない。「森崎グループと締結した当時の契約書を用意して。あとで私から直接、向こうへ交渉に行くわ」咲夜は落ち着いた口調で晶子に指示を出した。契約締結時、ある条項を盛り込んでいたはずだった。スタジオ側の過失ではなく、森崎グループ側の都合によって一方的に撤退する場合、スタジオ側がゲームの全権利を買い戻す権利を有する――という内容だ。つまり森崎側がこのゲームから手を引くのであれば、スタジオは新たな提携先を探し、プロジェクトを存続させることが可能になる。晶子はスタジオ設立当初から、常に咲夜の傍らにいた。咲夜の仕事の進め方を熟知し、その思考速度にも即座に対応できる存在だった。だからこそ資金引き揚げの知らせを受けた直後、晶子はすでに契約書を取り出し、該当条項に正確に付箋を貼った状態で準備を整えていたのである。晶子から手渡された契約書に目を通し、咲夜はわずかに口角を上げた。「行きましょう。森崎グループへ」晶子はすぐに後へ続きながら、困ったように言い添えた。「実は、あちらには真っ先に連絡を入れたんですが……代表の秘書から『社長は不在で、当面の間は予約も受け付けていない』って言われまして」その対応を聞けば、咲夜が晴南に接触してくるのを意図的に避けていることは明白だった。咲夜は足を止め、その可能性に思い至る。スマートフォンを取り出して晴南へ発信したが、呼び出し音は鳴るものの応
雅紀の胸は、娘への不憫さでいっぱいに満たされていた。咲夜は静かに首を横に振った。「辛くなんてないわ。ただ……もうこれ以上は続けられないだけ。お父さん、晴南は私の運命の人じゃなかったの。勝手に決断してごめんなさい。私のわがままよね」これまで必死に押し殺してきた感情が、父を前にした瞬間、ついに堰を切った。咲夜の瞳は赤く潤み、今にも零れ落ちそうな涙を湛えていたが、それでも父の前で泣き崩れるまいと懸命に耐えていた。その健気な姿が、雅紀の胸をいっそう強く締めつけた。雅紀は震える手を伸ばし、咲夜の目尻に滲んだ涙をそっと拭った。「咲夜は……よく、頑張った。わがままなんかじゃ……ない。もう、いいんだ。無理に続けなくて……いいんだよ」そう言うと、雅紀は咲夜を静かに抱き寄せ、その背を優しくぽんぽんと叩いた。本当に謝らなければならないのは、父親である自分の方だった。自らの不徳がグループをここまでの窮地へ追い込み、何よりも大切に育ててきた娘を、会社のために森崎家の前で卑屈な立場へ立たせてしまったのだから。雅紀は咲夜を不憫でならず、それ以上に、かつての自分の過ちを深く悔いていた。咲夜は父の腕の中で、声を殺しながら静かに涙をこぼした。どんな決断を下そうとも、父だけは無条件で自分の味方でいてくれる。だからこそ彼女は、よほどのことがない限り、雅紀の前で弱さを見せたくはなかった。雅紀は、押し殺された咲夜のすすり泣きを聞きながら、やり場のない思いを胸に抱え、ただ黙って寄り添い続けた。やがて気持ちが落ち着くと、咲夜は父の腕からそっと身を離した。そして雅紀をまっすぐ見つめ、力強く言った。「お父さん、安心して。森崎家の助けがなくても、私は絶対に花江グループを潰させたりしない。持てる力のすべてを尽くして、必ず支えてみせるから」現状がどれほど持ち堪えられるのか、咲夜自身にも確信はなかった。それでも、このまま敗れるつもりなど微塵もなかった。雅紀は咲夜の肩を軽く叩いた。「そんなに……自分を、追い詰めなくて……いいんだ。お父さんは、咲夜を信じているよ」そう言って、穏やかな微笑みを向ける。「お父さんは……味方だ。咲夜は、とても……優秀な子だ。お前なら……きっと、できる」雅紀は心から咲夜を信頼していた。たとえグループを
グループの件とは別に、咲夜と晴南は共同で所有するゲームスタジオも抱えていた。現時点では、まだそのスタジオにまで直接的な影響は及んでいない。助手からの報告を受けながら、咲夜は深く思索に沈んだ。事態がここまで悪化した以上、スタジオの解体ももはや時間の問題だろう。その前に、打てる手はすべて講じておかなければならない。このまま事業を継続するのか、それとも手放すべきか――咲夜は重大な決断を迫られていた。だが、彼女の胸の内では、すでに一つの答えが静かに定まっていた。咲夜は気持ちを切り替えると車を走らせ、療養所へと向かった。父・雅紀は脳卒中によって半身不随となって以来、この療養所で静養を続けている。到着したとき、雅紀は介護士に車椅子を押され、外気浴に出ているところだった。咲夜はそのまま部屋で静かに待つことにした。十数分後、介護士に付き添われて雅紀が戻ってきた。咲夜の姿に気づいた介護士は、親しげな笑みを浮かべて声をかける。「咲夜さん、いらっしゃい。ちょうどお庭で日光浴をしてきたところなんですよ。雅紀さんも今日はご機嫌がよさそうです」雅紀は当時、激しい怒りと衝撃が重なった末に脳卒中で倒れた。不全麻痺にとどまったのは不幸中の幸いだった。当初は寝たきりで、言葉も判別しづらい状態だった。しかし、雅紀自身が懸命にリハビリへ取り組み続けた結果、今では杖を使えばわずかながら歩行が可能となり、発語もゆっくりではあるものの、以前よりははっきりと聞き取れるまでに回復していた。咲夜は介護士を手伝い、雅紀がベッドに横になるのを支えた。「皆さんに果物を買ってきました。よろしければ、皆さんで召し上がってください」微笑みながらそう告げると、介護士は恐縮した様子で頭を下げた。「咲夜さん、いつもお気遣いいただいてありがとうございます。それでは、私はこれで失礼しますね。何かありましたらナースコールでお呼びください」咲夜が訪れるたびに差し入れを持参するため、介護士も今では遠慮なく受け取るようになっていた。介護士は静かにドアを閉め、部屋を後にした。咲夜はベッドサイドに腰を下ろすと、血行を促すため、雅紀の両足を丁寧にマッサージし始めた。沈黙のなか、咲夜の思考は巡っていた。晴南との決別を、どう父へ切り出すべきか。これほど大
寝室へ戻った途端、咲夜のスマートフォンには真奈美からのメッセージが怒涛のように押し寄せていた。【咲夜、どうしてもそんなに意地を張るつもり?本当に花江家のことなんてどうでもいいの?お父さんやご先祖様が代々築き上げてきたものを、このまま潰して平気だっていうの?】【私やお父さんが死んだあと、ご先祖様にどう顔向けすればいいのよ】【分かってるわ、あなたが辛い思いをしてきたことは。でも、あの白羽さんは晴南さんにとって忘れられない人なのよ。あなたが少し我慢すれば済む話じゃない】【男なんて外で遊ぶものよ。心を繋ぎ止められないなら、せめてお金だけでもしっかり握っておけばいいの】【咲夜、お願いだからお母さんの言うことを聞いて。今もお父さんは病院にいるのよ。もしグループが本当に倒産したら、お父さんにも一族にも合わせる顔がないわ】画面を埋め尽くすメッセージの列を、咲夜は無表情のまま見つめていた。母の言葉の端々に滲む無力感や、縋るような祈りの気配は理解できる。だが、その悲痛な懇願の一つひとつが、鋭利な刃となって咲夜の胸を深く抉った。しばらく感情を押し殺したまま画面を見つめていた咲夜は、やがて静かにスマートフォンをロックする。今は真奈美とこの話題を論じ合う気分には、到底なれなかった。実際、花江家の事業は数多くの分野で森崎家と深く結びついており、一朝一夕で切り離せるような単純な問題ではない。今の彼女にできるのは、両社の業務提携を一刻も早く正確に切り分け、整理することだけだった。そう考え、助手へ電話をかけようとしたその時、スマートフォンが震えた。表示されたのは見覚えのある番号。荻野千暁からの着信だった。番号を登録していたわけではない。それでも、これまで数度連絡を受けるうちに、咲夜は自然と彼の番号を覚えてしまっていた。通話に出ると、受話口の向こうから低く落ち着いた声が響く。「咲夜」なぜか彼に名前を呼ばれるたび、甘く囁かれているような錯覚に陥る。咲夜はすぐに意識を引き戻し、静かに応じた。「はい」このタイミングで千暁が電話をかけてきた理由に心当たりはなかった。だが、用もなく連絡してくるような男ではない。咲夜は黙って、彼が本題を切り出すのを待った。期待を裏切ることなく、千暁は言った。「助けが必要なら、俺を頼