城下町まで来ると、私のお腹がグゥとなってしまった。
街中に充満する美味しそうな食べ物の匂いが罪深いのだ。その音を合図に、すぐ近くの店に入った。
テーブルマナーなど気にしなくて良いような割とわしゃわしゃした店だ。
お昼時を少し過ぎたせいか人がまばらだ。(この店⋯⋯カレーの匂いがする)
店の雰囲気とは裏腹に、ユンケルは椅子を引いて私を座らせた。
(紳士ね⋯⋯) ユンケルが王室の近衛騎士団の白い制服を着ているせいか、周囲の人の注目が集まるのが分かった。 ここにくる客は素朴な格好から察するに平民が多そうだ。紙に書かれたメニューを見て絶句する。
発する言葉が通じていたから気にも止めていなかったが字が読めない。(どうしよう⋯⋯早くナタリアとして過ごした記憶を取り戻さないと)「このシェフのおすすめカレーで」
「私も同じもので⋯⋯」 ユンケルが注文したのと同時に、私は字が読めない事をバレないように同じものを頼んだ。 そして、どうやらこの世界でもカレーが存在するらしい。「今度は、もっと良い店に連れて行かせてください」
向かいの席に座っているユンケルが身を乗り出して、私の耳元で囁く。 そのくすぐったい誘いに私は首をふった。「ご馳走して頂いた事にはお礼を言わせてください。それでも、私とコスコ卿が会うのはこれで最後です」
私の言葉に明らかにコスコ卿が戸惑っているのが分かる。
おそらく彼は私を見張っているように言われた命令を無視してまでキノコ狩りに付き合ってくれていた。それでも、私は攻略対象である彼と一緒にいる気はない。
もうすぐ、このゲームの主人公ラリカが現れてゲーム本編が本格的に始まる。そこにナタリアの存在はない。
きっと、ここで私が自ら姿を消すのが正解で、そうでなければ強制的に存在を消されてしまいそうだ。(攻略対象と関わるのは危険だわ)
ダン!
その時、私の目の前のテーブルを叩く手が見えた。今日は本来であれば、僕とオスカーの誕生日だった。 オスカーは僕と同じ皇后の息子で、温和な性格をしていて国民人気も高い。 僕が皇帝になる上で1番邪魔な男だ。 そして、もう1人気にも留めていなかったのに邪魔で仕方がなかった男がいた。 第1王子のマテリオだ。 父上が気まぐれに手を出したメイドの子で血筋は卑しい。 しかし、彼は嫌がらせに死地に追いやっても、いつも勝利をおさめ生きて帰ってきた。 マテリオは平民人気は高いが、血筋を重んじる貴族からは軽んじられている。 彼は僕にとってライバルでも何でもなかった。 あの日、中庭でナタリアと一緒に秘密の計画を立てる彼を見つけるまでは⋯⋯。 聞き耳を立てるなんて下品なことだとは分かっていたが、見たことも無い程に柔和に微笑んでいるマテリオと頬を染めるナタリアを見て心臓が止まりそうになった。 ナタリアと初めて会ったのは、彼女の家が没落してエステルの家で彼女がメイドとして働き始めた時だ。艶やかな黒髪に長いまつ毛に彩られた憂いを帯びた美しいパープルアイ⋯⋯僕より1歳年下だと言うのに大人びた彼女に釘付けになった。一目惚れというものを生まれて初めてした。 僕は自分の地位を確固たるものにする為に、エステルと婚約していた。 だから、ゆくゆくはナタリアを僕の情婦にでもしたいと思っていた。 ナタリアに隙を見ては話しかけた。 何を考えているか分からないが、僕に興味を持っているようにも見えた。 ナタリアが頻繁にマテリオの元を訪ねていると聞いた時には、エステルの影を感じた。 彼女は僕がナタリアに惹かれているのに気がついて、僕が彼女から興味を失うようにマテリオに接触させたのだろう。 そうでなければ、頻繁に皇宮を訪れるナタリアをエステルが咎めもしない訳がない。 「ナタリア⋯⋯僕たち別人に生まれ変わらないか? 他国の戸籍を買ったんだ」「マテリオ、私はあなたと一緒にいられるならば自分が誰だとかどうでも良いわ」 2人は寄り添いながら、中庭で愛
「ダニエル・ガレリーナ皇子殿下に、エステル・ロピアンがお目にかかります」 今日はダニエルの誕生祭だ。 私は自分の誕生祭にも関わらず、私をロピアン侯爵邸まで迎えに来てくれたダニエルを見て心から好きだと思った。 彼は他の多くの男のようにナタリアに興味を惹かれたりもしたようだが、それはあくまで一時的なものだ。 平民になったナタリアと彼とでは不釣り合いだし、ロピアン侯爵邸の後ろ盾が欲しい彼は私を大切にしている。 チラリと彼が侯爵邸の屋根裏部屋の窓を見るのが見えた。(ナタリアが気になるのね⋯⋯) 気になったところで、ロピアン侯爵邸のメイドに過ぎない平民のナタリアはお留守番だ。 彼女が皇宮でのパーティーに出られる事などない。 彼女は男を惹きつける特別な何かを持っているのではないかというくらい、男は皆彼女を放っておかなかった。 まあ、それは彼女の中に流れる卑しい娼婦の血によるものだろう。(もしかしたら媚薬を使ってたのかもしれない⋯⋯あのキノコの効き目は凄かったわ⋯⋯) 彼女は、そう言ったもので男の情欲を煽ることはできても、私のように大切にされる女にはなれない。 ダニエルだって、ナタリアの前では彼女を庇う素振りを見せても私と2人きりの時は私だけを大切にしてくれる。「殿下、早く参りましょ」 私はピッタリと彼の腕に絡みつき、馬車でも彼の隣の席を陣取った。 今日の私は秘密の香水を持っている。 ナタリアが私に渡して来た媚薬入りの香水だ。 昨日、私を性的に興奮させたキノコを元に作成したらしい。 悪臭という欠点を補うように、様々な成分を調合したと彼女は言っていた。 ようやっと彼女も自分の飼い主が誰であるかを認識したようだ。 皇室の馬車のフカフカのソファーに座りながら、ダニエルの腕に頬擦りする。「殿下、お誕生日おめでとうございます。これからも、共に時を重ねていきましょうね。マテリオ皇子殿下もオスカー皇子殿下も排除できましたし、次期皇帝の座は殿下のものです」「
槇原美香子としての記憶は取り戻したが、ナタリアとしての記憶がない事が不安で仕方がない。 字も読めないだけでなく、ナタリアの人間関係も思い出せない。(ただ1人との関係を除いては⋯⋯) ゲームの中でも数回お茶会の舞台として登場する、白亜のロピアン侯爵邸に到着する。ガレリーナ帝国一の富豪の家だけあって、庭に咲いているバラまで最高級品であることが分かった。 しかし、そのようなもの目に入らないくらい侯爵邸の門で私を待ち構えている忘れられない女がいた。(エステル・ロピアン⋯⋯) ナタリアとしての記憶として思い出せたのはエステルとのものばかりだ。 頭から水を掛けられたり、雪空の中外に締め出されたり。 思い出す度に恐ろしさと憎しみで震えが止まらなくなる。(字さえも思い出せないのに、辛い記憶は思い出すのね⋯⋯)「今度は別の男を連れ込もうとしているの? このアバズレ女! とっとと来なさい」 私を馬から引き摺り下ろそうとするエステルをユンケルが止めようとする。 私は首を振って、ユンケルの行動を制した。「今、行きます。エステル様⋯⋯」 私は馬から降り、渦巻く怒りを必死に抑えながらお辞儀をした。 ユンケルにキノコの入った麻袋を手渡される。 中には悪臭を放つキノコもあるので、私は麻袋の口をそっと手で掴んで閉じた。 今の私にはキノコがある。 エステルに復讐する準備はできている。 屋敷の中に入るなり、入り口の所でエステルが振り返って意地悪そうな顔をした。「そこに座りなさい。あんたみたいな下品な女をこれ以上、この名門貴族であるロピアン侯爵邸に入れる訳にはいかないわ」 私はエステルに言われた通り、床に正座した。 するとエステルは近くにあった花瓶を手に取り、花を抜くとその水を私の頭から掛けた。 ほのかなバラの匂いが顔や顔に纏わりつき、頬を水が伝う。 彼女は私の顔を見ると何か嫌がらせをしないと気が済まないようだ。 そして、侯爵令嬢と雇われて
城下町まで来ると、私のお腹がグゥとなってしまった。 街中に充満する美味しそうな食べ物の匂いが罪深いのだ。 その音を合図に、すぐ近くの店に入った。 テーブルマナーなど気にしなくて良いような割とわしゃわしゃした店だ。 お昼時を少し過ぎたせいか人がまばらだ。(この店⋯⋯カレーの匂いがする) 店の雰囲気とは裏腹に、ユンケルは椅子を引いて私を座らせた。(紳士ね⋯⋯) ユンケルが王室の近衛騎士団の白い制服を着ているせいか、周囲の人の注目が集まるのが分かった。 ここにくる客は素朴な格好から察するに平民が多そうだ。 紙に書かれたメニューを見て絶句する。 発する言葉が通じていたから気にも止めていなかったが字が読めない。(どうしよう⋯⋯早くナタリアとして過ごした記憶を取り戻さないと)「このシェフのおすすめカレーで」「私も同じもので⋯⋯」 ユンケルが注文したのと同時に、私は字が読めない事をバレないように同じものを頼んだ。 そして、どうやらこの世界でもカレーが存在するらしい。「今度は、もっと良い店に連れて行かせてください」 向かいの席に座っているユンケルが身を乗り出して、私の耳元で囁く。 そのくすぐったい誘いに私は首をふった。「ご馳走して頂いた事にはお礼を言わせてください。それでも、私とコスコ卿が会うのはこれで最後です」 私の言葉に明らかにコスコ卿が戸惑っているのが分かる。 おそらく彼は私を見張っているように言われた命令を無視してまでキノコ狩りに付き合ってくれていた。 それでも、私は攻略対象である彼と一緒にいる気はない。 もうすぐ、このゲームの主人公ラリカが現れてゲーム本編が本格的に始まる。そこにナタリアの存在はない。 きっと、ここで私が自ら姿を消すのが正解で、そうでなければ強制的に存在を消されてしまいそうだ。(攻略対象と関わるのは危険だわ) ダン! その時、私の目の前のテーブルを叩く手が見えた。
皇城を出ようとする途中、何度も夜間の護衛騎士に引き留められそうになった。しかし、私から離れてついてくるユンケルがアイコンタクトをとると騎士たちは納得するように下がった。「皇城は街中でしたね。すみません。キノコが取れる森まで案内して欲しいのですが⋯⋯」 城門を出たところで、私は到底キノコなど生えない栄えた街中である事に気が付いた。後ろについてくるユンケルに助けを求めると、ユンケルは黙って馬を連れて来た。 「お乗りください。キノコが沢山生えているレオノラ森まで案内します」 真夜中なのに無理なお願いを聞いてくれるユンケルは優しい方だ。ゲームの中でも、私は彼のような包容力のある男と一緒になるのが一番幸せなんだろうと漠然と思っていた。 「失礼致します」 ユンケルは一言静かに断ると、私を自分の前に乗せて後ろに自分が乗った。 同じような体制でダニエル皇子とも馬に乗ったが、ユンケルは私に密着しないよう気をつけているのが分かる。 その紳士のような振る舞いに思わず心の中で拍手した。 馬は真夜中の街を想像以上に速いスピードで走った。 私は少し怖くて馬の首に引っ付こうとする。「もう少しスピードを落としましょうか⋯⋯このスピードでも2時間はかかる場所なのです。レオノラの森は⋯⋯」「いえ、このスピードでお願いします」 馬に乗り慣れていなくて、お尻が痛い。(2時間⋯⋯それ以上はお尻が火を吹きそうだわ⋯⋯) それにしても、私の要望通り本気でキノコの名産地に連れて行ってくれるようだ。(私を見張るように命令されていたはずなのに、良いのかしら⋯⋯)「あの⋯⋯私を連れ出して宜しいのですか? 見張っておられていたのでは?」「そうですね。でも、あなたを見ていると願いを何でも叶えてあげたくなるのです」 一瞬、ユンケルの返答に心臓が飛び跳ねた。「願いを何でも叶えてあげたい」はユンケルがラリカに言ったセリフだ。 彼はラリカに惚れていたから、そのように彼女を甘やかす事を言ったのかと思っていた。
髪を引っ張られ、浴槽から引き摺り出される。 私は自分が裸であることに気がついき、バスタオルを咄嗟に手に取り体に巻き付けた。「あんたの飼い主が誰か分かってないようね。ダニエルはあんたみたいな、下品な女の腹から出てきた女が触れていいような男じゃないのよ」 私は今、生まれを否定されているらしい。 ナタリアは元は貴族だと聞いたが、母親は平民なのだろう。 今、否定されているのはナタリアで私ではない。 今、私を怒鳴りつけているのは初対面のエステルであり如月教授ではない。 それなのに怒声を浴びると、私はトラウマからか体が震えて喉が詰まって声が出せそうにない。 私はその場の床に跪いた。 いわゆる土下座というやつだ。 これをすれば、相手の怒りは一時でもおさまる。 何が間違っているなんてどうでも良い。 今、自分が責められているこの場から逃げたい。「も、申し訳ございません。私が悪いのです⋯⋯」 怒鳴られると思考が停止してしまい、殆ど言葉が出てこない。「な、何なの? そんな格好で土下座してプライドはない訳? そうだ、あんんたの情けない姿、みんなに見てもらいましょう」 エステルは楽しそうに笑うと、部屋の扉を開けようとした。 私は自分の姿に気がつき、慌ててベッドからシーツを抜き取りバスタオルを巻いた自分の体にかけた。 そして、彼女を怒らせないように、再び跪いて床に頭を擦り付けた。(きっと、あと1時間くらいこうしてれば、許してもらえる⋯⋯)「夜間の護衛騎士の皆さん、こちらに来てください。面白いものが見られますよー」 エステルの言葉に胸の中に冷たい空気が流れ込んでくる気がした。 体をダンゴムシのように縮こまれせて、ひたすらに床に頭をくっつける。 パシン! 頬を叩くような音がして、少しだけ顔を上げると燃えるような怒りを瞳に宿したダニエル皇子と目があった。「殿下、何をなさるのですか?」 エステル嬢は赤くなった頬を抑えながら、