INICIAR SESIÓN彩夏は向かい側に座り、膝の上に手を置いたまま、微動だにしなかった。きっと、再会する場面を何度も想像していたのだろう。俺が泣くことも、彼女を罵ることも、あるいは、俺が飛びかかって彼女を殴ることも。けれど、俺がこんなにも平静でいるとは思っていなかったはずだ。静かに、かつて一番痛かった傷を、もう一度彼女の目の前に突きつけるように。彩夏は何度も喉を動かし、ようやく絞り出すように言った。「ごめんなさい」俺は彩夏を見つめ、静かな声で尋ねた。「俺があのとき、ずっと痛いって叫んでたの、知ってた?」彩夏の目が一気に赤くなった。「知ってた」「それでも、看護師と一緒に俺を押さえつけたんだ」彩夏は唇を動かしたが、一言も出てこなかった。それが事実だったからだ。俺はそれ以上、何も聞かなかった。もう泣きもしなかった。ここまで来た俺には、彼女の口から理由を聞く必要なんて、もうなかった。衡は、俺に向けられた刃だった。父と母は、その刃を振り下ろすために背中を押した人たちだった。そして彼女は、俺が泣いているのをはっきり見ていながら、それでも手を放した人だった。その日、彩夏と会ったあと、俺は今の住まいを出たいと申し出た。両親が用意し、様子を見に来る今の場所から離れたかった。医師の診断では、まだ長期的な心理療法は必要だったが、少しずつ1人で生活することを試してもいい段階まで回復しているとのことだった。父と母は、俺に償いたかった。もっとお金を渡したい、もっといろいろなものを与えたい、そう言ってきた。俺は賠償金を受け取ることだけは拒まなかった。でも、それ以外は何もいらなかった。もう両親と争うこともしなかった。どうしてあんなことをしたのかと、問いただすこともしなかった。そんな答えに、もう意味なんてなかったからだ。俺はただ、前に進みたかった。その後、専門機関の支援を受けながら、数か月かけて社会復帰に向けた段階的な訓練を受けた。そしてしばらくして、1つの新しい会社が俺にチャンスをくれた。決して高い役職ではなかった。それでも、俺がもう一度人生を始めるには十分だった。俺は南向きの小さなマンションへ引っ越した。部屋は広くなかった。でも、きれいで静かだった。ベランダには、ちゃんと日が差した。昔の
あの日から、俺は頻繁に夢を見るようになった。夢の中に出てくるのは、すべて断片ばかりだった。いつも一番怖いところで、俺は飛び起きた。目を覚ますと全身汗だくで、指先まで震えていた。医師は、これは記憶が少しずつ戻り始めている兆候だと言った。良いことでもあり、同時に、一番つらい時期でもあるのだと。それから俺は、少しずついろいろなことを思い出していった。思い出すたびに、まるで心をもう一度引き裂かれるようだった。ある日、リハビリの先生が何気なく彩夏の名前を口にした。その瞬間、俺の手からコップが落ちた。俺は勢いよく後ずさり、呼吸が激しく乱れた。口から出てくるのは、ただ同じ言葉だけだった。「注射しないで……注射は……」その場にいた全員の顔から、一瞬で血の気が引いた。このときになって、ようやくみんなが理解したのだ。たとえ俺が何も覚えていなくても、身体のほうが先に覚えていた。俺にとって、彩夏は「痛み」そのものだった。一方、衡の裁判にも決着がついた。ブライダルチェックを行った病院と、あの精神科病院には賠償が命じられた。けれど、どれだけ賠償金を払ったところで、元気だった頃の俺を取り戻すことはできない。かつて衡の側についていた人たちも、ようやく事の重大さに気づき、口をつぐむようになった。「結婚式の日、本当に一真から彼女を奪ったんだな」「だから、あのとき一真が殴り込んだのか」そんな声も聞こえてきた。でも、そんな今さらの「そういうことだったのか」を、俺はもう聞きたくなかった。俺を完全に現実へ引き戻したのは、ある深夜のことだった。その夜も、俺は悪夢を見た。夢の中で、俺はずっと叫んでいた。けれど、誰一人として助けに来てくれなかった。泣きながら目を覚ました俺は、ベッドの上に座ったまま、ぼんやりしていた。そして、ふいに一言だけ口にした。「……母さん」夜勤の介護士は一瞬、固まった。すぐに母を呼びに行った。母が慌てて部屋へ駆け込んできた。顔には不安が浮かび、目からはすでに涙がこぼれていた。母はベッドのそばにしゃがみ込み、俺に手を伸ばそうとした。けれど、その手が俺に触れるより先に、俺はそっと手を引いた。その仕草だけで、母は完全に打ちのめされた。母には分かったのだ。俺が母の
「前の家には帰りたくない」と俺が言った瞬間、部屋の中がしんと静まり返った。医師は、これは心に残った傷による反応だと説明した。たとえ記憶が戻っていなくても、身体はあの場所が安全ではないことを覚えているのだという。結局、俺のために新しい住まいを探すことになった。かつて結婚後の新居として用意されたあの家は、売却された。聞けば、父が売ると言い張ったらしい。もう俺をあそこに住ませるわけにはいかないからだそうだ。家を売ったお金と、これまでの貯金から出せる分を合わせて、俺のために小さなマンションの一室を買った。登記名義は、俺一人だった。それが、あの人たちが初めて、本当の意味で俺に返してくれたものだった。けれど、俺の心はほとんど動かなかった。もう、遅すぎると分かっていたからだ。退院の日は、よく晴れていた。俺は淡い色のコートを着て、ぬいぐるみを抱えながら病院の入口に立ち、長いこと空を見上げていた。まるで、歩き方を覚えたばかりの子供が、もう一度この世界に立ち戻るみたいだった。新しいマンションに着くと、俺は玄関前で2秒ほど立ち止まってから、ゆっくり中へ入った。部屋はきれいに整えられていた。古い物もなく、以前の暮らしを思わせるものも何もなかった。ベランダには観葉植物が置かれ、その隣には空っぽの鳥かごがあった。俺はそこへ歩いていき、鳥かごをじっと見つめた。そして、そっと扉に触れた。それから、小さな声で呟いた。「閉じ込めないで」後ろに立っていた母の目から、また涙がこぼれ落ちた。それからの日々、俺は少しずつ新しい生活を覚えていった。リハビリの先生が家まで来て、簡単な訓練をしてくれた。介護士も一緒に外へ散歩に出て、少しずつ外の生活リズムに慣れるよう手伝ってくれた。俺はまだ、普通の大人とは程遠かった。むしろ、静かで、ちょっとしたことにも怯えてしまう子供のようだった。それでも、もう閉じ込められることはない。あの冷たい白い壁や、注射針と向き合う必要もない。彩夏は、俺の新しい生活から完全に切り離されていた。誰かが故意に彼女を近づけないようにしていたわけじゃない。医師がはっきりと、彩夏から受ける刺激が俺にとって大きすぎると判断したからだ。だから彼女は、遠くから見ていることしかできなかっ
医師は、俺の記憶が少しずつほぐれてきていると言った。このまま安定した治療を続ければ、少しずつ記憶が戻ってくる可能性があるらしい。俺の回復を助けるため、家族は昔の写真や思い出の品を見せるようになった。俺は手に取って眺め、「これ、俺の?」と聞くことはある。でも、ほとんどの場合は一度目を通すだけで、すぐに置いてしまった。そんな俺を見つめる母の目には、いつも一瞬だけ光が宿った。けれど、その光はすぐに消えていった。きっと母は、俺の顔の中から少しでも昔の俺の面影を探していたのだろう。でも、俺には何も返してあげられなかった。ある日、リハビリの先生が1本の動画を見せてくれた。そこには、1羽の小鳥が人の言葉を真似して、俺の幼い頃のあだ名をぴーちくぱーちく呼んでいる声が収められていた。俺は最初、ただ静かに画面を見つめていた。けれど、見ているうちに、突然涙がこぼれた。どうして泣いているのか、自分でも分からなかった。ただ、胸の奥がひどく痛かった。まるで、とても大切な何かを失ってしまったような痛みだった。病室の外でそれを見ていた母は、とうとう声を上げて泣き出した。そのとき、ようやく分かったのだ。忘れてしまえば消える痛みばかりじゃない。たとえ俺が何一つ思い出せなくても、身体のほうが先に「失ったもの」を覚えているのだ。その頃、衡のほうでは、すべてが完全に崩れ始めていた。病院が検査結果を誤って渡したことをわざと隠していたこと、家族を誘導して俺を精神科病院へ送り込んだこと。一つ一つの事実が、すべて明るみに出ていった。かつて衡の味方をしていた人たちも、次々と彼を避けるようになった。以前の会社の同僚たちも、陰で彼のことを噂していた。長い時間をかけて築き上げてきた自分のイメージは、一瞬にして笑い話になった。それでも、衡は諦めなかった。何度も病院へ来て俺に会おうとした。自分が間違っていたと分かっている。こんなことになるなんて思っていなかった。もし父と母、そして彩夏が先に心を揺らさなかったら、自分だってここまで来ることはできなかった。そんなことを繰り返し訴えた。けれど、もう誰も彼の言葉に耳を貸さなかった。ここまで来れば、誰だって分かっていたからだ。衡は、最初から俺を助けようとしていたわけじゃない
その精神科病院から別の病院へ移されることになったとき、俺はひどく痩せ細っていた。髪も少し短く切られ、顔色も悪く、着ている病衣もぶかぶかだった。看護師が荷物をまとめている間、俺はずっとぬいぐるみを抱え、ベッドの端に座っていた。自分がこれからどこへ行くのかも分からなかった。病室の入口には、父と母が立っていた。母は泣き腫らして目が真っ赤になっていた。何度も俺に近づこうとするのに、怖くて踏み出せない。母が一歩近づくたびに、俺は一歩後ろへ下がった。最後にはその場から動けなくなり、口元を手で覆って、ただ涙を流していた。父は何年も老け込んだように見えた。そこに立っているだけなのに、背中まで丸くなっていた。彩夏は一番遠くに立っていた。俺に近づこうとはしなかった。それは、突然自分の立場をわきまえるようになったからじゃない。俺が、彩夏を怖がっていたからだ。医師は言った。まずはきちんとした病院へ転院させ、そこで総合的な評価とリハビリを受けさせること。これ以上、刺激を与えてはいけない。以前関わっていた人間も、頻繁に近づけてはいけない、と。「特に、この女性の方です」医師は彩夏を一瞥した。「彼はあなたに対して、明らかなストレス反応が出ています」彩夏はその場に立ち尽くし、顔から少しずつ血の気を失っていった。それでも、何も言わなかった。それから長い間、俺はきちんとした病院でリハビリを受け続けた。相変わらず、たくさんのことを忘れていた。今日のことを昨日だと思ったり、看護師を「先生」と呼んだりした。それでも、もう突然ドアに鍵をかけられることに怯えなくていい。白い壁の向こうにある、あの機械を怖がる必要もない。父と母は、ほとんど毎日病院へ来た。けれど、病室の中には入れなかった。ただ、ドアの外に立って、俺の姿を見ているだけだった。母は、俺がご飯を食べる姿や、積み木で遊ぶ姿を眺めたり、飴ひとつでほんの少し笑みを浮かべる俺を見たりするたびに、いつもすぐに涙をこぼしてしまう。以前の母は、俺が聞き分けのいい子だから、本気で恨んだりしないと思っていた。本当に家に帰ってこなくなるなんて、思っていなかった。でも今になって、ようやく分かったのだ。俺が痛みを感じなかったわけじゃない。ただ、ずっと我慢していただけだっ
彩夏はようやく気づいた。これらすべては決して「一真のため」ではなかったのだと。子供を作れないわけではなかった。どうしても仕方なかったわけでもなかった。最初から最後まで、間違っていたのは俺ではなかった。そして彼らは、自分たちの手で一番何の罪もない人間を、とうとう自分が誰なのかすら分からない人間にしてしまった。その日、彩夏が病室に駆け込んできたとき、俺はぬいぐるみを抱え、ベッドの端に座ってクッキーを食べていた。俺は顔を上げて彩夏を見た。どこかで見たことがある気はする。でも、怖かった。彩夏はそこに立っていて、たちまち目が赤くなり、声はひどく震えていた。「一真……」俺は少し後ずさり、看護師のほうを振り向いた。「……あのおばさん、どうしていつも来るの?」その一言で、彩夏は完全に打ちのめされた。そして両親が病院へ駆けつけたとき、その顔にはひどい動揺が浮かんでいた。母は病室の入口に立ち、何度も口を開こうとした。だが、長いこと「一真」の一言すら呼べなかった。母はようやく分かったのだ。自分が病院へ送り込んだのは、ただ駄々をこねていた息子なんかじゃない。泣くこともできて、痛みも感じて、悔しがって、言いたいことを言って、それでもいつか一度くらいは母親に自分を選んでほしいと願っていた息子だった。なのに今、その息子は――彼らの手によって、どこかへ消えてしまった。一方、衡も次第に焦り始めていた。病院から「検査結果を誤って渡してしまった」という電話は、とっくに受けていた。だが、そのことを誰にも伝えていなかった。レストランでアレルギー反応が出たのも、すべて衡がわざとそれらを食べたからだった。衡にはよく分かっていた。彼らには子供が必要だった。そして、自分たちが間違っていなかったと証明するための理由も必要だった。だからこそ、衡はその芝居を最後まで演じ切った。だが、検査結果の取り違えが明らかになった瞬間、すべてが崩れ落ちた。俺のために自分を犠牲にしたという、あの一連の言い分も、すべて笑い話になった。彩夏が初めて衡を訪ねたとき、もう彼の泣き言に耳を貸すことはなかった。ただ一言、尋ねた。「あなた、最初から全部知ってたの?」衡の顔が一気に青ざめた。それでも彼は言い訳しようとした。