ログイン私は喘息を患っていた。 それでも母は、学長の娘を特別扱いしたと思われることを恐れ、私に大学一年生の新入生研修への参加を強いた。 この大学では、入学したばかりの学生全員に、独自の新入生研修への参加が義務づけられている。 4月だというのに、その日は季節外れの寒波に見舞われていた。 気温が5度を下回るなか、冷たい風にさらされながら姿勢を崩さず立ち続けているうちに、私の唇は青紫色に変わっていた。 耐えきれず、私は弱々しく手を挙げた。 「指導員……具合が悪いです……」 ところが、女性指導員の高瀬美佐子(たかせ みさこ)は、冷たく私の手を払いのけた。 「まだ30分しか経っていないのに、仮病を使って逃げようとするなんて。そのうえ私に嘘までつくの?親からどんな教育を受けてきたのよ」 そばにいた学長であり、私の母でもある黒川理恵(くろかわ りえ)は、たちまち顔を険しくして私をにらみつけた。 「みんな黙って立っているのに、どうしてあなただけ特別扱いを求めるの?それでも私の娘?罰として、あと1時間そのまま立っていなさい。いつまで仮病を続けられるか見てあげるわ!」 けれど、呼吸はすでにほとんどできなくなっていた。 脚が震え、その場に崩れ落ちた私は、喉元を押さえながら苦しげに息をあえいだ。 意識が途切れる直前、力を振り絞って母に向かって手を伸ばした。 「薬……助けて……」 母は顔を曇らせたものの、すぐに目をそらした。 私の手がゆっくりと地面へ落ちていくのを、黙って見過ごした。 「たった30分立っただけで、喘息の発作が出たっていうの?私が何年あなたを育ててきたと思っているの。そんな見え透いた嘘を信じるわけがないでしょう。早く立ちなさい。これ以上、恥をさらさないで!」 それでも私が動かないのを見ると、美佐子はたちまち激怒した。 後ろ襟をつかみ、無理やり引き起こそうとする。 けれど私は、すでに身体から離れ、ゆっくりと宙へ浮かび上がっていた。 冷え切った母の顔を見つめながら、私はトレーニングウェアの裾を申し訳なさそうに握りしめた。 お母さん、ごめんなさい。 もう二度と、お母さんの自慢の娘にはなれないね。
もっと見る美佐子はスマホを取り出すと、一枚の写真を表示し、周囲の人々へ突きつけた。「あの男は、私と結婚したら一生愛し続けると約束したのよ。だから私は、あの人に囲われたまま、離婚してくれる日を待ち続けた。ようやく決心して、あんたに離婚届を書かせ、私と遠くへ行くつもりだと聞いたときは、人生で一番幸せだったわ。でも、それが悪夢の始まりだった。あの人は研修会社を立ち上げて金を稼ぐようになると、次から次へと別の女に手を出した。十年以上、家庭を壊したくなくて、私は全部我慢してきた。やがて娘が生まれたときは、本当に嬉しかった。これであの人も少しは落ち着いてくれると思ったの。ところが、ある女の誕生日を祝うために、娘が重い病気になっても帰ってこなかった!大雨の夜、私は娘を抱いたまま道端で泣き続け、ようやくタクシーをつかまえた。でも病院へ着いたときには、重い肺炎で、もう助からなかった!憎かった。それでも私は、あの男を愛していて、離れることができなかった。その後、あの人は脳梗塞を起こし、今では寝たきりよ――」美佐子はスマホに映る、顔の片側が歪んだ孝之の写真を見つめた。その口元には、悲しげな笑みが浮かんでいた。「これでもう、外で好き勝手できないと思った。だから私は、身の回りの世話を全部引き受けたのよ。なのにあの人は突然、前の妻と娘のことを懐かしみ始めた。以前の家庭こそ、自分にとって本当に安らげる場所だったと言い出したの。私と一緒になったことを後悔している、あんたたち母娘のところへ戻りたいと、何度も口にした!私はあの人のために人生を捧げたのに、最後に返ってきたのがこれよ。だから憎かったの!」私は宙に浮かびながら、涙を流す美佐子を冷ややかに見つめていた。けれど、彼女を襲った悲劇はすべて、自分の行いが巡り巡って返ってきただけではないのか。母も激昂し、美佐子を指さして怒鳴った。「あの男を私から奪ったときに、女癖の悪い最低な人間だと分かっていたでしょう!あなたは、かつて私が味わったのと同じ苦しみを経験しただけよ。それなのに、どうして私たちへ復讐するの!」美佐子は冷たく鼻を鳴らした。「あの男への執着だけで、今日のためにここまで準備したと思っているの?私を甘く見ないで!私があの子を殺したのは、久我孝之が遺言書を作ろうとしていたからよ。昔、あんたたち母
その言葉を聞いた途端、美佐子の顔に明らかな動揺が走った。だがすぐに目を泳がせると、無理に涙を浮かべ、母へ訴えかけた。「黒川学長、今さら全部私のせいにするつもり?体面を気にして、喘息のある娘を研修に参加させたのは、あんたでしょう。私が周りに口を出させなかったのも、あんたの方針に合わせて厳しく指導するためだったのよ。あの子が弱すぎて、あっけなく死んだだけじゃない。どうして私のせいになるの?」母は怒りに顔をゆがめ、駆け寄るなり美佐子の頬を平手で打った。「私は学長という立場にとらわれて、まともな判断ができなくなっていた。でも、学生の心身の安全を守るのは、指導員であるあなたの責任でしょう!あなたが何度も、澄香には何の問題もない、ただ仮病を使っているだけだと言ったから、私は信じてしまったのよ!言いなさい。どうして私の娘を殺したの!」美佐子は勢いよく打たれ、よろめいた。やがてその目まで血走り、母をにらみ返した。「そんなふうに人前でわめき散らす母親の娘なんだから、あの子は死んで当然よ!生きて大人になったところで、あんたみたいな女になるだけでしょう。そんな人間が増えたら、周りが迷惑するだけよ!」警察官たちは、ただの事故ではないと察し、すぐに二人を引き離した。その後、何本か電話をかけて確認を取ると、母へ厳しい表情を向けた。「久我孝之(くが たかゆき)という人物をご存じですか?」母も私も、同時に身体をこわばらせた。長い間、耳にすることのなかった父の名前だった。母の顔から、みるみる血の気が引いていく。「私の元夫です。まさか今回のことに……あの人が関係しているんですか?」警察官は険しい顔で答えた。「調べたところ、大学が研修を委託していた会社は、登記上の代表者とは別に、久我孝之が実権を握っていたことが分かりました。そして、この高瀬美佐子は、久我孝之の現在の妻です」母がここまで歩んできた事情を知る人々から、一斉に驚きの声が上がった。男性指導員たちも、ようやくすべてがつながったという顔をした。「なるほどな。入社してすぐ異例の出世をしたのは、経営者の妻だったからか」母は大きく目を見開き、信じられないように美佐子を見た。「つまり私は……あの男が関わる会社に研修を依頼して、金まで払って……家庭を壊した女を
私は今すぐ母のもとへ飛び込み、抱きしめたかった。けれど、何度腕を伸ばしても、その手は母の身体をすり抜けてしまう。私は力なく腕を下ろすことしかできなかった。母は、固く閉じた私の唇へ何とかスプーンを差し込もうとした。けれど、ポタージュは一滴も口に入らない。震えが止まらないせいで、かえって服にいくつもこぼしてしまった。母は慌てて手で拭いながら、何度も謝り続けた。「澄香、ごめんね。お母さんが悪かったの。お母さん、こんなに駄目になっちゃって……スープさえ、ちゃんと飲ませてあげられない。小さい頃は、あんなに上手にお世話できたのに。どうして、どんどん何もできなくなってしまったんだろう……お母さんを許せないから、口を開けてくれないの?本当に悪かったと思ってるの。お願いだから……」どれほど母が懇願しても、私に残されていたのは青白い顔だけだった。もう二度と、母に笑いかけることはできない。その場にいた誰もが見ていられなくなり、次々と涙をこぼした。警察官たちも鼻をすすりながら、それでも職務に戻り、一斉に美佐子へ目を向けた。「学生が体調不良を訴えたとき、あなたには報告がなかったんですか?どうして異変を無視し、危険な状態になるまで放置したんです?」取り返しのつかない事態になったと悟った美佐子は、ようやく尊大な態度を引っ込めた。そして慌てて、何も知らなかった被害者のような顔を作った。「本当に、持病があるなんて知らなかったんです。仮病だと思っていました!研修前には、大学側へ健康状態をきちんと確認し、持病がある学生は事前申請によって参加を免除できると伝えてあります。黒川学長から澄香さんの事情について何の申告もなかった以上、私は通常どおり指導するしかなかったんです!」最初に二人を止められなかったことを悔やみ続けていた七海が、すぐに前へ出た。怒りに震えながら、美佐子を指さす。「嘘つかないで!澄香が最初に具合が悪いって言って、薬を求めたとき、あなたはちゃんと聞いてたでしょう!そのあと黒川学長から吸入薬を預かったのに、ゴミ箱に捨てたじゃない!最初から澄香に喘息があるって分かってたくせに、ずっと見て見ぬふりをした。澄香を殺したのは、あなたよ!」ほかの学生たちも一斉に美佐子を責め始めた。つい先ほど私を取り囲ん
その言葉を聞いた瞬間、母はもう現実を否定できなくなった。目の前が真っ暗になったように身体をぐらつかせ、その場に倒れかける。森下先生がとっさに支えなければ、地面に頭を打ちつけていただろう。美佐子はさらに激しく取り乱し、私を指さして叫んだ。「そんなはずない!私はこれまで何人もの学生を指導してきたけど、こんなに弱い子は一人もいなかった!あなたたちが見誤っているのよ!」警察医は美佐子を相手にせず、意識を取り戻した母へ目を向けた。「娘さんに喘息があることは、ご存じだったんですね?持病のある学生は、本来なら研修の免除や内容の変更を検討すべきです。まして今日は、季節外れの厳しい寒さでした。それなのに、どうして長時間、冷たい風雨のなかに立たせたんですか。あまりにも無謀です」母はすでに泣き崩れ、途切れ途切れに答えた。「私は……学長で……この子は、私の娘なんです……喘息を理由に研修を免除したら、娘だけを特別扱いしたと思われるじゃないですか……そんなことが広まったら、みんなに後ろ指をさされると思って……」警察官たちは、信じられないという顔で母を見た。「身内びいきだと思われたくないというだけで、娘さんの命まで危険にさらしたんですか?」訃報を聞いた大学の教職員たちも、次々と泣き崩れた。「黒川学長、どうしてそんな判断を……普段はあれほど澄香さんを大切にしていたのに、こんなときまで周囲の目を気にするなんて……」「喘息は、対応が少し遅れるだけでも命に関わるんですよ。どうして誰も、もっと早く助けなかったんですか?」「息もできないまま亡くなって、そのあとまでこんな目に遭わされて……澄香さんも、きっと浮かばれないでしょう」私は宙に浮かびながら、泣き崩れる人々を見つめていた。胸の奥まで締めつけられるようで、母が声を上げて泣く姿を、これ以上見ていられなかった。私は少しずつ、もっと高いところへ離れていった。そのとき、どこからか、かすかに甘い香りが漂ってきた。振り返ると、学長室で温められていたかぼちゃのポタージュが、ちょうどなめらかに煮上がったところだった。あの小さな電気鍋は、母と私の長い年月を、ずっとそばで見守ってきた。私が幼い頃、母は仕事で帰りが遅くなることが多く、私はよく母の職場の片隅で、仕事が終わるのを待っていた。そ