Mag-log inリストラされた日、俺・中嶋一真(なかじま かずま)は恋人に電話をかけた。でも、彼女は一度も出なかった。 ずぶ濡れになりながらバイクを走らせ、段ボール箱を抱えて、俺は惨めな姿で家のドアを開けた。 中は異様なほど賑やかだった。家族も、親戚も、友人も、全員揃っている。 人の輪の中心では、恋人の長谷川彩夏(はせがわ あやか)と従弟の中嶋衡(なかじま ひとし)が、俺の両親に丁寧にお辞儀をしていた。 俺が姿を現した瞬間、家中を包んでいた祝いの空気が凍りついた。 手にしていた段ボール箱が床に落ち、中の荷物が一気に散らばった。 彩夏が俺の前まで歩いてきて、平然とした顔で俺を見つめた。 「……どうして来たの?」 俺は彼女を睨みつけた。声は震えていた。 「お前ら……何してるんだ?」 彼女の目に一瞬、複雑な色が浮かんだ。だが、最後には小さな声で告げた。 「私と衡は去年、もう入籍してるの。今日は改めて結婚式を挙げるのよ」 耳元で、轟音が鳴り響いたような気がした。 ほとんど反射的に手を振り上げ、彼女の頬を思いきりひっぱたいた。 「出ていけ!お前ら全員、出ていけ!ここは俺の家だ!今すぐ出ていけ!」 次の瞬間、俺は友人の1人に強く突き飛ばされた。 そいつらは新郎新婦の前に立ちはだかり、揃って不満そうな顔をする。 「女に手を上げるなんて、どういうつもりだ!」 「そうだよ。俺たちだって、お前が耐えられないと思ったからずっと黙ってたんだ。それがなきゃ、彩夏さんはとっくにお前と別れてた!」 怒号が飛び交う中、両親が俺の前までやってきた。その表情には、失望すら浮かんでいた。 「この家はお前のものじゃない。もう衡くんに結婚祝いとして譲ったんだ」 「今日は二人のめでたい日なんだから、ここで騒がないで。部屋に戻りなさいね」 全身の血が、一瞬にして凍りついたようだった。
view more彩夏は向かい側に座り、膝の上に手を置いたまま、微動だにしなかった。きっと、再会する場面を何度も想像していたのだろう。俺が泣くことも、彼女を罵ることも、あるいは、俺が飛びかかって彼女を殴ることも。けれど、俺がこんなにも平静でいるとは思っていなかったはずだ。静かに、かつて一番痛かった傷を、もう一度彼女の目の前に突きつけるように。彩夏は何度も喉を動かし、ようやく絞り出すように言った。「ごめんなさい」俺は彩夏を見つめ、静かな声で尋ねた。「俺があのとき、ずっと痛いって叫んでたの、知ってた?」彩夏の目が一気に赤くなった。「知ってた」「それでも、看護師と一緒に俺を押さえつけたんだ」彩夏は唇を動かしたが、一言も出てこなかった。それが事実だったからだ。俺はそれ以上、何も聞かなかった。もう泣きもしなかった。ここまで来た俺には、彼女の口から理由を聞く必要なんて、もうなかった。衡は、俺に向けられた刃だった。父と母は、その刃を振り下ろすために背中を押した人たちだった。そして彼女は、俺が泣いているのをはっきり見ていながら、それでも手を放した人だった。その日、彩夏と会ったあと、俺は今の住まいを出たいと申し出た。両親が用意し、様子を見に来る今の場所から離れたかった。医師の診断では、まだ長期的な心理療法は必要だったが、少しずつ1人で生活することを試してもいい段階まで回復しているとのことだった。父と母は、俺に償いたかった。もっとお金を渡したい、もっといろいろなものを与えたい、そう言ってきた。俺は賠償金を受け取ることだけは拒まなかった。でも、それ以外は何もいらなかった。もう両親と争うこともしなかった。どうしてあんなことをしたのかと、問いただすこともしなかった。そんな答えに、もう意味なんてなかったからだ。俺はただ、前に進みたかった。その後、専門機関の支援を受けながら、数か月かけて社会復帰に向けた段階的な訓練を受けた。そしてしばらくして、1つの新しい会社が俺にチャンスをくれた。決して高い役職ではなかった。それでも、俺がもう一度人生を始めるには十分だった。俺は南向きの小さなマンションへ引っ越した。部屋は広くなかった。でも、きれいで静かだった。ベランダには、ちゃんと日が差した。昔の
あの日から、俺は頻繁に夢を見るようになった。夢の中に出てくるのは、すべて断片ばかりだった。いつも一番怖いところで、俺は飛び起きた。目を覚ますと全身汗だくで、指先まで震えていた。医師は、これは記憶が少しずつ戻り始めている兆候だと言った。良いことでもあり、同時に、一番つらい時期でもあるのだと。それから俺は、少しずついろいろなことを思い出していった。思い出すたびに、まるで心をもう一度引き裂かれるようだった。ある日、リハビリの先生が何気なく彩夏の名前を口にした。その瞬間、俺の手からコップが落ちた。俺は勢いよく後ずさり、呼吸が激しく乱れた。口から出てくるのは、ただ同じ言葉だけだった。「注射しないで……注射は……」その場にいた全員の顔から、一瞬で血の気が引いた。このときになって、ようやくみんなが理解したのだ。たとえ俺が何も覚えていなくても、身体のほうが先に覚えていた。俺にとって、彩夏は「痛み」そのものだった。一方、衡の裁判にも決着がついた。ブライダルチェックを行った病院と、あの精神科病院には賠償が命じられた。けれど、どれだけ賠償金を払ったところで、元気だった頃の俺を取り戻すことはできない。かつて衡の側についていた人たちも、ようやく事の重大さに気づき、口をつぐむようになった。「結婚式の日、本当に一真から彼女を奪ったんだな」「だから、あのとき一真が殴り込んだのか」そんな声も聞こえてきた。でも、そんな今さらの「そういうことだったのか」を、俺はもう聞きたくなかった。俺を完全に現実へ引き戻したのは、ある深夜のことだった。その夜も、俺は悪夢を見た。夢の中で、俺はずっと叫んでいた。けれど、誰一人として助けに来てくれなかった。泣きながら目を覚ました俺は、ベッドの上に座ったまま、ぼんやりしていた。そして、ふいに一言だけ口にした。「……母さん」夜勤の介護士は一瞬、固まった。すぐに母を呼びに行った。母が慌てて部屋へ駆け込んできた。顔には不安が浮かび、目からはすでに涙がこぼれていた。母はベッドのそばにしゃがみ込み、俺に手を伸ばそうとした。けれど、その手が俺に触れるより先に、俺はそっと手を引いた。その仕草だけで、母は完全に打ちのめされた。母には分かったのだ。俺が母の
「前の家には帰りたくない」と俺が言った瞬間、部屋の中がしんと静まり返った。医師は、これは心に残った傷による反応だと説明した。たとえ記憶が戻っていなくても、身体はあの場所が安全ではないことを覚えているのだという。結局、俺のために新しい住まいを探すことになった。かつて結婚後の新居として用意されたあの家は、売却された。聞けば、父が売ると言い張ったらしい。もう俺をあそこに住ませるわけにはいかないからだそうだ。家を売ったお金と、これまでの貯金から出せる分を合わせて、俺のために小さなマンションの一室を買った。登記名義は、俺一人だった。それが、あの人たちが初めて、本当の意味で俺に返してくれたものだった。けれど、俺の心はほとんど動かなかった。もう、遅すぎると分かっていたからだ。退院の日は、よく晴れていた。俺は淡い色のコートを着て、ぬいぐるみを抱えながら病院の入口に立ち、長いこと空を見上げていた。まるで、歩き方を覚えたばかりの子供が、もう一度この世界に立ち戻るみたいだった。新しいマンションに着くと、俺は玄関前で2秒ほど立ち止まってから、ゆっくり中へ入った。部屋はきれいに整えられていた。古い物もなく、以前の暮らしを思わせるものも何もなかった。ベランダには観葉植物が置かれ、その隣には空っぽの鳥かごがあった。俺はそこへ歩いていき、鳥かごをじっと見つめた。そして、そっと扉に触れた。それから、小さな声で呟いた。「閉じ込めないで」後ろに立っていた母の目から、また涙がこぼれ落ちた。それからの日々、俺は少しずつ新しい生活を覚えていった。リハビリの先生が家まで来て、簡単な訓練をしてくれた。介護士も一緒に外へ散歩に出て、少しずつ外の生活リズムに慣れるよう手伝ってくれた。俺はまだ、普通の大人とは程遠かった。むしろ、静かで、ちょっとしたことにも怯えてしまう子供のようだった。それでも、もう閉じ込められることはない。あの冷たい白い壁や、注射針と向き合う必要もない。彩夏は、俺の新しい生活から完全に切り離されていた。誰かが故意に彼女を近づけないようにしていたわけじゃない。医師がはっきりと、彩夏から受ける刺激が俺にとって大きすぎると判断したからだ。だから彼女は、遠くから見ていることしかできなかっ
医師は、俺の記憶が少しずつほぐれてきていると言った。このまま安定した治療を続ければ、少しずつ記憶が戻ってくる可能性があるらしい。俺の回復を助けるため、家族は昔の写真や思い出の品を見せるようになった。俺は手に取って眺め、「これ、俺の?」と聞くことはある。でも、ほとんどの場合は一度目を通すだけで、すぐに置いてしまった。そんな俺を見つめる母の目には、いつも一瞬だけ光が宿った。けれど、その光はすぐに消えていった。きっと母は、俺の顔の中から少しでも昔の俺の面影を探していたのだろう。でも、俺には何も返してあげられなかった。ある日、リハビリの先生が1本の動画を見せてくれた。そこには、1羽の小鳥が人の言葉を真似して、俺の幼い頃のあだ名をぴーちくぱーちく呼んでいる声が収められていた。俺は最初、ただ静かに画面を見つめていた。けれど、見ているうちに、突然涙がこぼれた。どうして泣いているのか、自分でも分からなかった。ただ、胸の奥がひどく痛かった。まるで、とても大切な何かを失ってしまったような痛みだった。病室の外でそれを見ていた母は、とうとう声を上げて泣き出した。そのとき、ようやく分かったのだ。忘れてしまえば消える痛みばかりじゃない。たとえ俺が何一つ思い出せなくても、身体のほうが先に「失ったもの」を覚えているのだ。その頃、衡のほうでは、すべてが完全に崩れ始めていた。病院が検査結果を誤って渡したことをわざと隠していたこと、家族を誘導して俺を精神科病院へ送り込んだこと。一つ一つの事実が、すべて明るみに出ていった。かつて衡の味方をしていた人たちも、次々と彼を避けるようになった。以前の会社の同僚たちも、陰で彼のことを噂していた。長い時間をかけて築き上げてきた自分のイメージは、一瞬にして笑い話になった。それでも、衡は諦めなかった。何度も病院へ来て俺に会おうとした。自分が間違っていたと分かっている。こんなことになるなんて思っていなかった。もし父と母、そして彩夏が先に心を揺らさなかったら、自分だってここまで来ることはできなかった。そんなことを繰り返し訴えた。けれど、もう誰も彼の言葉に耳を貸さなかった。ここまで来れば、誰だって分かっていたからだ。衡は、最初から俺を助けようとしていたわけじゃない
Rebyu