LOGIN帰国したのは、もう初冬の頃だ。私は入国審査を抜け、到着ロビーへ出ると、両親と親友が必死に私の姿を探しているのが見えた。口元を緩め、そのまま彼らのもとへ歩いていく。最初に私を見つけたのは母だ。「奈々花!」母は早足で駆け寄り、私の肩を力いっぱい叩いた。「ほんとに、よくやったわね!一人で戦場へ行って取材をするなんて!お母さんとお父さんをどこまで怒らせる気なの?」そう言いながら、母は私を抱きしめて泣き出した。父も目を赤くして言った。「無事に帰ってきてよかった。おかえり」私は笑って答えた。「うん、ただいま」A市に再び足を踏み入れ、確信した。私はもう、あのくだらない悲しみに囚われてはいないのだと。ここを離れたときとは、心持ちがすっかり変わっている。親友が私のスーツケースを受け取り、むすっとした顔で口をきこうとしない。私は笑いながらからかった。「どうしたの?そんな怖い顔をして」彼女は私を思いきり睨みつけた。けれど、その目が赤くなっているのが見えた。「奈々花!次また何も言わずにいなくなったら、絶対友達やめるから!」私は慌てて謝った。「ごめん!もう二度としないから」家に戻り、まだ荷物も片づけていないうちに、絵梨から電話がかかってきた。「もしもし?奈々花さんですか?」「はい。何かご用ですか?」電話の向こうから、やわらかな声が返ってきた。「一度会いたいです。伝えたいことがありますので、ちゃんと顔を見て話したいんです」少し迷ったものの、私は会うことにした。喫茶店へ行くと、絵梨はすでに席で私を待っている。私を見るなり立ち上がり、笑顔で私の手を引いて席へ座らせた。「奈々花さん、本当にすごいですね。一人であんな危険な場所へ行って、取材をしていたなんて。テレビで見たときは、本当に自分の目を疑いましたわ」私は小さく笑った。「今日は何を話したいんですか?」彼女はふいにため息をついた。「奈々花さんと隼輝のこと、もう聞いています」「もう離婚しました」私は感情のこもっていない声で答えた。「知っています!」彼女は声を強めた。「だからこそ、すごく申し訳ないと思っているん
「何ですって?」私は戸惑いながら尋ねた。「彼を置き去りにして帰ってしまったって、どういうことですか?」「知らなかったんですか?」彼は意味ありげに眉を動かした。「あの日、彼は記者を大勢呼んで、プロポーズの瞬間を記録させようとしていました。ところが、プロポーズした途端、相手の女性は驚きと怒りが入り混じった顔をしました。二人で何か小声で話したあと、女性のほうが彼を突き飛ばして立ち去ったんです。結局、プロポーズは散々な結果に終わり、彼は記者たちにタクシー代を渡して解散させました」私はその場で呆然と立ち尽くした。あの日、会場で彼がプロポーズの言葉を口にしたところまでしか聞かず、去ってしまった。まさか、絵梨が断っていたなんて。胃の底から不快感がこみ上げてきて、激しい吐き気を覚えた。――隼輝。つまり、忘れられない女に断られたから、また私を思い出したの?私は、絶え間なく届くメッセージを冷たい目で見つめた。隼輝は、相変わらず私を気づかうような言葉を送り続けている。迷わず彼をブロックした。それから数日間、私は戦場と大使館の間を行き来する毎日を送った。忙しさに追われるうち、隼輝がまだこの国にいることさえ忘れている。夕方、大使館へ戻る途中で、大使館から電話がかかってきた。「もしもし?岡北隼輝さんのご家族の方ですか?」私は訝しみながら答えた。「友人ですが、何かありましたか?」電話の向こうの声は切羽詰まっている。「お友達がウイルスに感染しました!今、集中治療室にいます!意識を失う前、ずっとあなたの名前を呼んでいたんです!」私は眉を寄せて答えた。「すぐに向かいます」病院へ着くと、看護師が深刻な顔で言った。「我が国へ渡航の際は、事前に予防接種を受けるのが鉄則なんです。なのに、彼の症状を見る限り、恐らくワクチンを打っていなかったようです!あまりにも危険です!」私は複雑な気持ちで、病床に横たわる隼輝を見つめた。しばらくして、彼はようやく目を覚ました。「目が覚めたの?」私はベッドの脇に立ったまま言った。「ここの医療設備はあまり整ってないの。今すぐ帰国して治療しないと」隼輝は弱々しく口を開いた。
私はある建物の屋根裏部屋に身を潜めている。メディア関係者である私たちに対し、敵対勢力もそこまで無闇に手出しはしてこなかった。窓の外に広がる惨状を見つめながら、私はパンをかじってみたが、味などまるでしない。浩次が隣に腰を下ろし、感慨深げに口を開いた。「新出さんって、正直、見た目よりずっと強いです」私は口元を少し緩めた。「人の底力って、きっと限りがないんですよ。逃げるだけでも命がけですから」大使館の職員が私たちを迎えに来て、そのまま大使館へ連れ帰ってくれた。私は大使館の中で、疲れ果てた姿の隼輝を見つけた。ずいぶんやつれていて、髭を剃る暇もなかったようだ。私を見るなり、彼はうれしそうに両腕を広げ、駆け寄ってきた。「よかった!無事で本当によかった!」私は一歩、後ろへ下がった。傷ついたような彼の視線など気に留めず、尋ねた。「どうして来たの?」隼輝は答えた。「ニュースを見て、大使館と連絡した。大使館が夫婦関係を確認して、ここへ来ることを許可してくれたんだ」私は眉をひそめた。「私たち、もう夫婦じゃないわ」「わかってる!」彼はすぐに言葉を重ねた。「でも、お父さんやお母さん、それに友達がどれだけ心配したかわかるか?もし本当に奈々花に何かあったら、俺たちはどうすればいいんだ?」心配そうな彼の目を見つめ、私はため息をついた。「もう会えたでしょ。私は無事だから、帰って」それでも彼は頑なに私の腕をつかんだ。「俺と一緒に帰ろう」思わず私は、その手を振りほどいた。「何を言ってるの?取材をしなきゃいけないの。終わるまでは帰国しないわ」「じゃあ、俺も一緒にいる」隼輝は私を見つめた。「奈々花が帰るまで、俺も帰らない」私は冷たく言った。「わかってほしいの。隼輝が絵梨にプロポーズした瞬間、私たちは完全に終わったの!」「そんなの、信じるわけない!」彼は大声で私の言葉を遮った。「7年も一緒にいたんだぞ。この7年間が奈々花にとってどうでもよかったなんて、信じられない!そんな簡単に手放せるのか?」彼は私に身を寄せ、手を握った。「後悔してる。たしかに、最初に奈々花と一
T国の地に降り立つと、そこは何もかもが新しく、見慣れないものばかりだ。宿舎に荷物を置いて落ち着くと、他の特派員と一緒に、動物たちの大移動を見に出かけた。野生の命が持つ力強さを、全身で感じた。何日か気ままに過ごしていると、上司が私のもとへやってきて、厳しい顔で私を見つめた。「信頼できる筋の情報によると、ここで紛争が起こる恐れがある。新出さんにとっては非常に危険な挑戦になるが、ここに残って戦場取材を担当する覚悟はあるか?」私は一瞬、言葉を失ったが、歯を食いしばって答えた。「やります」翌日、駐在先のすぐそばで小規模な衝突が起きた。私も同僚と一緒に軍の基地へ移動し、起こりうる最悪の事態に備えて、張り詰めた時間を過ごした。……隼輝は、奈々花の両親の家を訪れた。ネクタイをきゅっと締め直し、緊張した面持ちでチャイムを鳴らした。すると扉が開き、奈々花の母親・新出綾(あらで あや)が不思議そうに彼を見た。「お義母さん、奈々花は家にいますか?」綾は体をずらして、隼輝を中へ招き入れた。「いないわよ。隼輝くん、聞いてなかったの?奈々花なら海外特派員として旅立ったわよ。昔からあの子は一度言い出したら聞かないところがあってね……隼輝くん、これからもあの子をよろしく頼むわ」――奈々花が海外へ行っただと!隼輝は平静を装いながら尋ねた。「奈々花は、どこの国へ行ったんですか?」「結構遠い国よ。たしか、T国だったかしら」綾は探るように尋ねた。「あなたたち、喧嘩でもしたの?」隼輝はなんとか笑みを浮かべた。「少し、行き違いがあっただけです」「若い二人なんだから、腹が立って喧嘩することくらいあるわよ。お互いに少しずつ譲れば、乗り越えられないことなんてないわ」「はい」彼は低い声で答えた。「お義母さん、それじゃあ俺は帰ります。何かあったら、いつでも連絡してください」隼輝は、魂が抜け落ちたような足取りで新出家をあとにした。スマホを取り出し、T国行きの一番早い便を取ろうとする。だが、画面に表示された案内を見て、心臓をわしづかみにされたような衝撃を受けた。【現地での紛争発生に伴い、該当地域への航空券の販売を一時停止しておりま
部屋には誰もいない。きれいに整えられたベッドの上には、すでに二人のサインが入った離婚届が置かれている。「奈々花?」信じられない思いで、隼輝は離婚届を手に取った。サイン欄には、二人の名前が並んでいる。奈々花と、彼自身の。彼女は本当に、自分のもとを去っていったのだ。「どうして……?」隼輝は苦しそうにつぶやいた。この離婚届は、自分が隠していたはずではなかったのか。クローゼットを開けると、そこには青い服が一着残らずそのまま掛けられている。その代わり、数少なかったピンク色の服はきれいに姿を消した。奈々花は、もう出ていったのだ。彼は苛立たしげにネクタイを引っ張り、奈々花へ電話をかけた。何度かけたかわからない。ようやく電話がつながった。……「もしもし?」「奈々花!」隼輝は焦ったように声を上げた。「どこにいる?ベッドの上の離婚届は、どういうことだ?」私は、隼輝が電話の向こうで取り乱しているのを聞いている。そして、静かに口を開いた。「これが隼輝の望んでたことじゃないの?先にサインしてたでしょ。私がただ残りを書き足しただけよ」「そうじゃない!奈々花!話を聞いてくれ!」私は、思わず彼の言葉を遮った。「もう絵梨にプロポーズしたんでしょ。それなのに、どうしてまだ私にこだわるの?離婚届も書いたし、引っ越しもした。何が不満なの?」「そんな……」隼輝は呆然とつぶやいた。「知ってたのか?」私は苛立った声で答えた。「この目で見届けたわ」隼輝は慌てたように私の言葉を遮った。「今どこにいる?会いに行く。ちゃんと説明させてくれ!」私は空港の搭乗ゲートの前に立ち、冷たく拒んだ。「結構よ。私たちはもう何の関係もない。探さないで」そう言って電話を切り、そのまま電源を落とした。飛行機がゆっくりと空へ上がり、目の前を雲が瞬く間に流れていく。何日も胸に押し込めていた重苦しさが、ほんの少し晴れていくのを感じた。経済記者としては、もうやっていけない。どの経営者も隼輝に気を使って、私の取材を受けようとはしなかった。私は上司に海外特派員を志願し、外国ならではの景色や暮
私は家へ駆け戻り、震える手で荷物をまとめ始めた。するとクローゼットの中から、一つのファイルが落ちてきた。ファイルを開き、しばらく中を見つめていた私は、泣きながら、なぜか笑ってしまった。中に入っているのは、離婚届だ。隼輝のほうが、私より先に動いていたのだ。きっと前に帰ってきたとき、私にサインさせようとしていたのだろう。けれど、私のほうから先に離婚を切り出したせいで、意地を張って言い出せなかったのだ。だから、このファイルをクローゼットに押し込んだのだろう。私はそこに迷いなく書かれた名前を見つめた。少し黙ってから、隣に自分の名前を書き込んだ。隼輝の望みを叶えてあげるわ。これからは、お互い別々の道を歩めばいい。スーツケースを引いて、7年間愛を注いできたこの家を、一度も振り返ることなく後にした。さようなら。……プロポーズの会場では、絵梨が眉をひそめながら隼輝を見ている。「隼輝、まず立ち上がって」隼輝は笑いながら駄々をこねた。「絵梨がうなずいてくれないなら、立ち上がらない」絵梨は、周りでまだ写真を撮っている記者たちを見回すと、力ずくで隼輝を立ち上がらせた。そして声を落として尋ねた。「今日は大事な話があるからって、私を呼んだんじゃなかったの?」隼輝はうなずいた。「これが、その大事な話だ」そう言うと、彼は手を高く掲げた。すぐにスタッフが風船を放ち、花を撒き始めた。周囲からは、冷やかす声が飛び交った。「いい加減にして!」絵梨の声に怒りが混じった。「私、隼輝と一緒になるために帰国したなんて、一度も言ってないわよ!こんなことして、奈々花さんの気持ちはどうなるの?」隼輝は首を横に振った。「もう、そんなこと考えてる余裕はないんだ!奈々花には俺からちゃんと話す。誤解なんて絶対にさせない。8年間も絵梨を待ったんだぞ。これ以上なんて待てるわけないだろ!」「最低!」絵梨は怒鳴った。「8年前にも、私が断ったでしょ!あのときも言ったはずよ。私たちは合わない。一緒になるなんてありえないって!隼輝はもう何年も結婚してるんだから、とっくに諦めたと思ってた。こんなにしつこくて人の話を聞か