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愛されたのは、私じゃなく顔だった​

愛されたのは、私じゃなく顔だった​

By:  霧雨予報​Completed
Language: Japanese
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岡北隼輝(おかきた しゅんき)の不倫現場を目にした夜、それでも私・岡北奈々花(おかきた ななか)は、自分こそが彼に一番愛されている女だと信じている。 なぜなら、彼の腕の中にいる女は、私によく似た顔をしているから。 隼輝がその女の腰にそっと腕を回すのが見えた。まるで、この世でたったひとつの宝物を慈しむかのように。 以前、私がうっかり足をくじいて、彼の腕につかまろうとしたときのことが、頭をよぎる。 あのとき彼は、冷淡に言い放った。 「面倒くさい」 その女、上窪絵梨(うえくぼ えり)が、か細い声で言った。 「隼輝……私たち、こんなことしちゃだめよ。隼輝にはもう、奥さんがいるの!」 けれど隼輝はなりふり構わず、まるで取りつかれたように絵梨を抱きしめた。 「そんなの、どうでもいい!」 絵梨の頬をやさしく両手で包んだ。 「8年前、絵梨は俺に怒って、何も言わずに海外へ行っちまった。 俺は8年間、ずっと絵梨を探し続けてたんだ。今やっと、こうして絵梨をこの腕に抱きしめることができた。 手放すはずがないだろ?」 私は石柱の陰に身を隠したまま、聞けば聞くほど心が冷えていくのを感じている。 私と隼輝は、結婚して7年になる。 この7年間、彼が一番口にしていたのは、「奈々花の顔が何より好きだ」という言葉だった。 私は、それがネットでよく言われている「本能的に惹かれる」ということなのだと信じ込んでいた。 けれど違った。 私が特別扱いされてきたのは、ただ別の女の面影があったからに過ぎなかったのだ。 跳ね返った泥水で汚れないよう、隼輝が絵梨のワンピースの裾をそっと持ち上げるのを目にしたとき――私は暗がりに佇んだまま、ようやく自分との「違い」を思い知らされた。 泣きもしなかった。取り乱すこともしなかった。ただ、ふと、もう「物分りのいい妻」でいるのが嫌になった。

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Chapter 1

第1話 ​

家に戻ると、私は7年間しまい込んだままのカメラを探し始めた。

​

隼輝と出会う前、私はH新聞社経済部の記者だった。

​

隼輝を取材したあの日、彼は私の顔をじっと見つめたまま、何も言わなかった。

​

取材どころではなくなり、私は思わず口を開いた。

​

「岡北さん、私の顔に何かついていますか?」

​

彼は慌てて首を横に振り、小声でぽつりとつぶやいた。

​

「やっと見つけた……」

​

そのときの私は何がなんだかわからず、成功者には妙な癖があるのだろうくらいに思っていた。

​

今になって、ようやくわかった。

​

彼が見つけたのは、忘れられない女の身代わりだったのだ。

​

付き合い始めてからというもの、隼輝は私に記者をやめさせようとした。

​

私を抱き寄せながら、やさしいのに逆らえない口調で言った。

​

「奈々花、記者なんて大変すぎる。疲れるだろ?奈々花が心配なんだ。

​

絵画教室に申し込んでおいたから、通ってみるといい。美意識も磨けるし」

​

あの頃の私は、隼輝が本当に私をいたわり、私のためを思ってくれているのだと、何の疑いもなく信じていた。

​

その日から、カメラはクローゼットの一番奥に押し込んだ。

​

そうして絵を習い始めたものの、講師には「絵の才能がまるで無い」と言われてしまった。

​

それでも隼輝をがっかりさせたくなくて、歯を食いしばって続けた。

​

長いこと探して、ようやく見つけたカメラを見つめているうちに、涙がこぼれた。

​

男に愛されようとするあまり、私は一番大切にしていた仕事を手放してしまったのだ。

​

隼輝の腕の中にいた絵梨の姿を思い返す。

​

彼女は若くして名を上げ、今もっとも注目を集めている女性画家。

​

棚の上に置かれている、私の描いた練習作品が、今では醜く歪んで見えた。

​

まるで、バカみたいな私を笑っているようだ。

​

玄関の開く音がして、隼輝が帰ってきた。

​

床にへたり込んでいる私を目にすると、彼は眉をひそめた。

​

「何してるんだ?」

​

私は絞り出すような声で答えた。

​

「また、記者に戻るわ」

​

隼輝の声に、苛立ちが滲んだ。

​

「前にも言っただろ。もう記者はやるなって」

​

「でも、私はこの仕事が好きなの」

​

私は初めて、彼に言い返した。

​

「絵なんて最初から好きじゃなかった。明日からもう、絵画教室には行かない」

​

「奈々花」

​

私を見つめる彼の瞳に、有無を言わせぬ威圧感が宿っている。

​

「今日はどうしたんだ?誰かに何かされたのか?」

​

私は首を横に振った。

​

自分が単なる身代わりだったと気づいたなんて、口が裂けても言えない。

​

そんなことを認めれば、プライドがズタズタになってしまう。

​

しばらくして、彼はため息をつき、私の隣に腰を下ろした。そして手を伸ばし、私を抱こうとした。

​

私は身をかわして、その腕から逃れた。

​

彼の体には、まだ絵梨の香水の匂いが漂っている。

​

隼輝は一瞬きょとんとしたものの、気に留めなかった。

​

「最近、会社が忙しすぎるんだ。ずっと残業して、奈々花と過ごす時間がなかった。俺が悪かった」

​

私の頬を軽くつまんだ。

​

「落ち着いたら、ちゃんと奈々花との時間を作るから」

​

私は彼の目を見つめた。

​

「本当に?」

​

彼はふいに視線を逸らした。

​

「本当」

​

私が何か言うより先に、彼は立ち上がって出ていった。

​

深夜、隼輝は私の隣に横たわったが、いつものように私を見つめようとはしなかった。

​

そのまま、そっけなく明かりを消した。

​

以前は、いつも私の顔を飽きるほどじっと眺めていた。

​

その目には、うっとりするような熱が満ちていた。

​

私は、それがネットで言われている「本能的に惹かれる」ということなのだと思っていた。

​

けれど実際は、彼が見ていたのは私じゃなかった。

​

私の顔を通して、別の誰かを見ていたのだ。

​

翌朝、隼輝は昨夜のことなど忘れたような顔をしている。

​

後ろから私を抱きしめて言った。

​

「友人から、明後日に絵梨の帰国祝いパーティーがあるって聞いた。奈々花も一緒に来てくれ」

​

私は返事をしなかった。パーティーの本当の主催者が隼輝であることを知っている。

​

「行かなくてもいい?」

​

彼は抱きしめる腕に力を込めた。

​

「みんな来るんだ。そんな聞き分けのないことを言うな。いい子だからさ」

​

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第1話 ​
家に戻ると、私は7年間しまい込んだままのカメラを探し始めた。​隼輝と出会う前、私はH新聞社経済部の記者だった。​隼輝を取材したあの日、彼は私の顔をじっと見つめたまま、何も言わなかった。​取材どころではなくなり、私は思わず口を開いた。​「岡北さん、私の顔に何かついていますか?」​彼は慌てて首を横に振り、小声でぽつりとつぶやいた。​「やっと見つけた……」​そのときの私は何がなんだかわからず、成功者には妙な癖があるのだろうくらいに思っていた。​今になって、ようやくわかった。​彼が見つけたのは、忘れられない女の身代わりだったのだ。​付き合い始めてからというもの、隼輝は私に記者をやめさせようとした。​私を抱き寄せながら、やさしいのに逆らえない口調で言った。​「奈々花、記者なんて大変すぎる。疲れるだろ?奈々花が心配なんだ。​絵画教室に申し込んでおいたから、通ってみるといい。美意識も磨けるし」​あの頃の私は、隼輝が本当に私をいたわり、私のためを思ってくれているのだと、何の疑いもなく信じていた。​その日から、カメラはクローゼットの一番奥に押し込んだ。​そうして絵を習い始めたものの、講師には「絵の才能がまるで無い」と言われてしまった。​それでも隼輝をがっかりさせたくなくて、歯を食いしばって続けた。​長いこと探して、ようやく見つけたカメラを見つめているうちに、涙がこぼれた。​男に愛されようとするあまり、私は一番大切にしていた仕事を手放してしまったのだ。​隼輝の腕の中にいた絵梨の姿を思い返す。​彼女は若くして名を上げ、今もっとも注目を集めている女性画家。​棚の上に置かれている、私の描いた練習作品が、今では醜く歪んで見えた。​まるで、バカみたいな私を笑っているようだ。​玄関の開く音がして、隼輝が帰ってきた。​床にへたり込んでいる私を目にすると、彼は眉をひそめた。​「何してるんだ?」​私は絞り出すような声で答えた。​「また、記者に戻るわ」​隼輝の声に、苛立ちが滲んだ。​「前にも言っただろ。もう記者はやるなって」​「でも、私はこの仕事が好きなの」​私は初めて、彼に言い返した。​「絵なんて最初から好きじゃなかった。明日からもう、絵画教室には行かない」​「奈々花」
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第2話 ​
夕方、ホテルに着いた頃には、もうパーティーは始まっていた。​会場へ足を踏み入れると、隼輝と絵梨が並んで立ち、周りの人たちと楽しそうに話している姿を目にした。​まるで夫婦のようだ。​隼輝の親友たちも、みんな集まっている。​私はゆっくりと近づき、彼らの話し声に耳を澄ませた。​「隼輝のやつ、絵梨ちゃんを8年も探し続けて、やっと見つけたんだな!」​「学生の時からずっと絵梨ちゃん一筋だったもんな。これでやっと想いが報われたな!」​「でも、奈々花さんはどうするんだ?」​誰かが疑問を口にした瞬間、全員が黙り込んだ。​しばらくして、誰かがため息をついた。けれど、それきり誰も何も言わなかった。​私は会場の隅に立ち尽くしたまま、胸を強く締めつけられるような痛みに耐えている。​そういうことだったのだ。​みんな、隼輝は忘れられない女がいることを知っていた。​なのに隼輝は、自分の過去を一度も話してくれたことがなかった。​お互いが初恋相手なのだと、私はずっと思っていた。​けれど、彼はずっと前から、別の女をあんなにもひたむきに愛していたのだ。​絵梨が壇上に上がり、挨拶を始めた。​私は隅に立ったまま、隼輝が彼女をうっとりと見つめ、熱のこもった拍手を送る姿を眺めている。​パーティーが終わるまで、隼輝は私の存在に気づかなかった。​ただひたすら絵梨を見つめ、二度と消えてしまわないようにとでも思っているかのようだ。​パーティーが終わり、疲れ切った私は帰ろうとした。そのとき、入口で隼輝と絵梨に出くわした。​私を目にとめた隼輝は、苛立ったように口を開いた。​「どこにいたんだ?パーティーの間、一度も見かけなかったぞ」​私は苦々しく言った。​「隼輝の目には、もう他の人なんて映らないんじゃないの?」​彼は一瞬、言葉を失い、眉を寄せた。​「どういう意味だ?」​すると隣にいる絵梨が、場を取りなすように言った。​「奈々花さんですよね?私は隼輝の友達、上窪絵梨と言います」​「絵梨!」​隼輝はたしなめるように彼女を見た。​私は絵梨の美しい顔を見つめ、しばし呆然とした。​世の中には、こんなにも私によく似た人がいるのか。​私が頷くと、彼女は笑いながら言った。​「私たち、本当によく似ていますね。奈
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第3話 ​
そう言い残すと、隼輝は書斎へ入り、仕事の書類を手に取ると、一度も振り返ることなく出ていった。​広い部屋に残されたのは、私ひとりだ。胸の奥が、切なく苦しく疼いた。​7年間の歳月も、積み重ねてきた想いも、彼の忘れられない女にはどうしても敵わないのだ。​テーブルの上のカメラを見つめた。​少なくとも、私にはまだ、自分が心から好きだった仕事がある。​もう一度、記者として働き始めた。​履歴書を送り、面接を受けるうちに、気づけば何日も隼輝に会っていないことさえ忘れていた。​そんなある日、ようやく手に入れたA市経済サミットの取材許可証を手に、疲れ果てて家へ戻った。​すると、隼輝がソファで私を待っている。​顔は険しい。​「どこへ行ってた?」​私はうつむいたまま靴を脱いだ。​「隼輝に関係ないでしょ」​彼は低い声で言った。​「また記者に戻って、あちこち飛び回ってるのか?​どうして一言も言わなかった?家で5時間も待ってたんだぞ!」​私はようやく彼を見た。​「何か用?」​私の冷ややかな視線を目にして、隼輝はふと胸騒ぎを覚えたようだ。​「何でもない。ただ、もう何日も奈々花を見てなかったから」​私は彼を見つめた。​「絵梨、帰ったの?」​彼は少し咳払いした。​「まだ手続きが残ってる。何日か海外へ行ってるんだ」​私はうなずいた。​なるほど。だからまた私のところへ戻ってきたのか。​「それで、何の用?」​彼は苛立ったように言った。​「用がなきゃ会いに来ちゃいけないのか?」​私は彼を見ようともせず、静かに言った。​「近いうちに離婚届を用意しておくから、その時はサインをお願いね」​彼は信じられないという顔をした。​「俺と離婚するのか?」​「当たり前でしょ」​私は淡々と言い返した。​「隼輝の一番好きな女、もう戻ってきたんだから。​私が身を引くよ」​「離婚しない!」​隼輝は眉を寄せ、私の言葉を遮った。​「奈々花がわがままを言わないなら、ずっと囲ってやるって言っただろ」​私は淡々と答えた。​「隼輝に囲われるつもりなんて、最初からないわ」​しばらくして、彼は嘲るように口を開いた。​「じゃあ、どうする?記者の仕事だけで食っていくのか?」​「そう
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第4話 ​
私は家へ駆け戻り、震える手で荷物をまとめ始めた。​するとクローゼットの中から、一つのファイルが落ちてきた。​ファイルを開き、しばらく中を見つめていた私は、泣きながら、なぜか笑ってしまった。​中に入っているのは、離婚届だ。​隼輝のほうが、私より先に動いていたのだ。​きっと前に帰ってきたとき、私にサインさせようとしていたのだろう。​けれど、私のほうから先に離婚を切り出したせいで、意地を張って言い出せなかったのだ。​だから、このファイルをクローゼットに押し込んだのだろう。​私はそこに迷いなく書かれた名前を見つめた。​少し黙ってから、隣に自分の名前を書き込んだ。​隼輝の望みを叶えてあげるわ。これからは、お互い別々の道を歩めばいい。​スーツケースを引いて、7年間愛を注いできたこの家を、一度も振り返ることなく後にした。​さようなら。​……​プロポーズの会場では、絵梨が眉をひそめながら隼輝を見ている。​「隼輝、まず立ち上がって」​隼輝は笑いながら駄々をこねた。​「絵梨がうなずいてくれないなら、立ち上がらない」​絵梨は、周りでまだ写真を撮っている記者たちを見回すと、力ずくで隼輝を立ち上がらせた。​そして声を落として尋ねた。​「今日は大事な話があるからって、私を呼んだんじゃなかったの?」​隼輝はうなずいた。​「これが、その大事な話だ」​そう言うと、彼は手を高く掲げた。すぐにスタッフが風船を放ち、花を撒き始めた。​周囲からは、冷やかす声が飛び交った。​「いい加減にして!」​絵梨の声に怒りが混じった。​「私、隼輝と一緒になるために帰国したなんて、一度も言ってないわよ!​こんなことして、奈々花さんの気持ちはどうなるの?」​隼輝は首を横に振った。​「もう、そんなこと考えてる余裕はないんだ!​奈々花には俺からちゃんと話す。誤解なんて絶対にさせない。​8年間も絵梨を待ったんだぞ。これ以上なんて待てるわけないだろ!」​「最低!」​絵梨は怒鳴った。​「8年前にも、私が断ったでしょ!​あのときも言ったはずよ。私たちは合わない。一緒になるなんてありえないって!​隼輝はもう何年も結婚してるんだから、とっくに諦めたと思ってた。​こんなにしつこくて人の話を聞か
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第5話 ​
部屋には誰もいない。​きれいに整えられたベッドの上には、すでに二人のサインが入った離婚届が置かれている。​「奈々花?」​信じられない思いで、隼輝は離婚届を手に取った。​サイン欄には、二人の名前が並んでいる。​奈々花と、彼自身の。​彼女は本当に、自分のもとを去っていったのだ。​「どうして……?」​隼輝は苦しそうにつぶやいた。​この離婚届は、自分が隠していたはずではなかったのか。​クローゼットを開けると、そこには青い服が一着残らずそのまま掛けられている。​その代わり、数少なかったピンク色の服はきれいに姿を消した。​奈々花は、もう出ていったのだ。​彼は苛立たしげにネクタイを引っ張り、奈々花へ電話をかけた。​何度かけたかわからない。ようやく電話がつながった。​……​「もしもし?」​「奈々花!」​隼輝は焦ったように声を上げた。​「どこにいる?​ベッドの上の離婚届は、どういうことだ?」​私は、隼輝が電話の向こうで取り乱しているのを聞いている。​そして、静かに口を開いた。​「これが隼輝の望んでたことじゃないの?​先にサインしてたでしょ。私がただ残りを書き足しただけよ」​「そうじゃない!奈々花!話を聞いてくれ!」​私は、思わず彼の言葉を遮った。​「もう絵梨にプロポーズしたんでしょ。それなのに、どうしてまだ私にこだわるの?​離婚届も書いたし、引っ越しもした。何が不満なの?」​「そんな……」​隼輝は呆然とつぶやいた。​「知ってたのか?」​私は苛立った声で答えた。​「この目で見届けたわ」​隼輝は慌てたように私の言葉を遮った。​「今どこにいる?会いに行く。ちゃんと説明させてくれ!」​私は空港の搭乗ゲートの前に立ち、冷たく拒んだ。​「結構よ。​私たちはもう何の関係もない。探さないで」​そう言って電話を切り、そのまま電源を落とした。​飛行機がゆっくりと空へ上がり、目の前を雲が瞬く間に流れていく。​何日も胸に押し込めていた重苦しさが、ほんの少し晴れていくのを感じた。​経済記者としては、もうやっていけない。​どの経営者も隼輝に気を使って、私の取材を受けようとはしなかった。​私は上司に海外特派員を志願し、外国ならではの景色や暮
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第6話 ​
T国の地に降り立つと、そこは何もかもが新しく、見慣れないものばかりだ。​宿舎に荷物を置いて落ち着くと、他の特派員と一緒に、動物たちの大移動を見に出かけた。​野生の命が持つ力強さを、全身で感じた。​何日か気ままに過ごしていると、上司が私のもとへやってきて、厳しい顔で私を見つめた。​「信頼できる筋の情報によると、ここで紛争が起こる恐れがある。新出さんにとっては非常に危険な挑戦になるが、ここに残って戦場取材を担当する覚悟はあるか?」​私は一瞬、言葉を失ったが、歯を食いしばって答えた。​「やります」​翌日、駐在先のすぐそばで小規模な衝突が起きた。​私も同僚と一緒に軍の基地へ移動し、起こりうる最悪の事態に備えて、張り詰めた時間を過ごした。​……​隼輝は、奈々花の両親の家を訪れた。​ネクタイをきゅっと締め直し、緊張した面持ちでチャイムを鳴らした。​すると扉が開き、奈々花の母親・新出綾(あらで あや)が不思議そうに彼を見た。​「お義母さん、奈々花は家にいますか?」​綾は体をずらして、隼輝を中へ招き入れた。​「いないわよ。隼輝くん、聞いてなかったの?奈々花なら海外特派員として旅立ったわよ。​昔からあの子は一度言い出したら聞かないところがあってね……隼輝くん、これからもあの子をよろしく頼むわ」​――奈々花が海外へ行っただと!​隼輝は平静を装いながら尋ねた。​「奈々花は、どこの国へ行ったんですか?」​「結構遠い国よ。たしか、T国だったかしら」​綾は探るように尋ねた。​「あなたたち、喧嘩でもしたの?」​隼輝はなんとか笑みを浮かべた。​「少し、行き違いがあっただけです」​「若い二人なんだから、腹が立って喧嘩することくらいあるわよ。​お互いに少しずつ譲れば、乗り越えられないことなんてないわ」​「はい」​彼は低い声で答えた。​「お義母さん、それじゃあ俺は帰ります。何かあったら、いつでも連絡してください」​隼輝は、魂が抜け落ちたような足取りで新出家をあとにした。​スマホを取り出し、T国行きの一番早い便を取ろうとする。​だが、画面に表示された案内を見て、心臓をわしづかみにされたような衝撃を受けた。​【現地での紛争発生に伴い、該当地域への航空券の販売を一時停止しておりま
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第7話 ​
私はある建物の屋根裏部屋に身を潜めている。​メディア関係者である私たちに対し、敵対勢力もそこまで無闇に手出しはしてこなかった。​窓の外に広がる惨状を見つめながら、私はパンをかじってみたが、味などまるでしない。​浩次が隣に腰を下ろし、感慨深げに口を開いた。​「新出さんって、正直、見た目よりずっと強いです」​私は口元を少し緩めた。​「人の底力って、きっと限りがないんですよ。逃げるだけでも命がけですから」​大使館の職員が私たちを迎えに来て、そのまま大使館へ連れ帰ってくれた。​私は大使館の中で、疲れ果てた姿の隼輝を見つけた。​ずいぶんやつれていて、髭を剃る暇もなかったようだ。​私を見るなり、彼はうれしそうに両腕を広げ、駆け寄ってきた。​「よかった!無事で本当によかった!」​私は一歩、後ろへ下がった。​傷ついたような彼の視線など気に留めず、尋ねた。​「どうして来たの?」​隼輝は答えた。​「ニュースを見て、大使館と連絡した。​大使館が夫婦関係を確認して、ここへ来ることを許可してくれたんだ」​私は眉をひそめた。​「私たち、もう夫婦じゃないわ」​「わかってる!」​彼はすぐに言葉を重ねた。​「でも、お父さんやお母さん、それに友達がどれだけ心配したかわかるか?​もし本当に奈々花に何かあったら、俺たちはどうすればいいんだ?」​心配そうな彼の目を見つめ、私はため息をついた。​「もう会えたでしょ。私は無事だから、帰って」​それでも彼は頑なに私の腕をつかんだ。​「俺と一緒に帰ろう」​思わず私は、その手を振りほどいた。​「何を言ってるの?​取材をしなきゃいけないの。終わるまでは帰国しないわ」​「じゃあ、俺も一緒にいる」​隼輝は私を見つめた。​「奈々花が帰るまで、俺も帰らない」​私は冷たく言った。​「わかってほしいの。​隼輝が絵梨にプロポーズした瞬間、私たちは完全に終わったの!」​「そんなの、信じるわけない!」​彼は大声で私の言葉を遮った。​「7年も一緒にいたんだぞ。この7年間が奈々花にとってどうでもよかったなんて、信じられない!​そんな簡単に手放せるのか?」​彼は私に身を寄せ、手を握った。​「後悔してる。たしかに、最初に奈々花と一
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第8話 ​
「何ですって?」​私は戸惑いながら尋ねた。​「彼を置き去りにして帰ってしまったって、どういうことですか?」​「知らなかったんですか?」​彼は意味ありげに眉を動かした。​「あの日、彼は記者を大勢呼んで、プロポーズの瞬間を記録させようとしていました。​ところが、プロポーズした途端、相手の女性は驚きと怒りが入り混じった顔をしました。​二人で何か小声で話したあと、女性のほうが彼を突き飛ばして立ち去ったんです。​結局、プロポーズは散々な結果に終わり、彼は記者たちにタクシー代を渡して解散させました」​私はその場で呆然と立ち尽くした。​あの日、会場で彼がプロポーズの言葉を口にしたところまでしか聞かず、去ってしまった。​まさか、絵梨が断っていたなんて。​胃の底から不快感がこみ上げてきて、激しい吐き気を覚えた。​――隼輝。つまり、忘れられない女に断られたから、また私を思い出したの?​私は、絶え間なく届くメッセージを冷たい目で見つめた。​隼輝は、相変わらず私を気づかうような言葉を送り続けている。​迷わず彼をブロックした。​それから数日間、私は戦場と大使館の間を行き来する毎日を送った。​忙しさに追われるうち、隼輝がまだこの国にいることさえ忘れている。​夕方、大使館へ戻る途中で、大使館から電話がかかってきた。​「もしもし?岡北隼輝さんのご家族の方ですか?」​私は訝しみながら答えた。​「友人ですが、何かありましたか?」​電話の向こうの声は切羽詰まっている。​「お友達がウイルスに感染しました!今、集中治療室にいます!​意識を失う前、ずっとあなたの名前を呼んでいたんです!」​私は眉を寄せて答えた。​「すぐに向かいます」​病院へ着くと、看護師が深刻な顔で言った。​「我が国へ渡航の際は、事前に予防接種を受けるのが鉄則なんです。なのに、彼の症状を見る限り、恐らくワクチンを打っていなかったようです!あまりにも危険です!」​私は複雑な気持ちで、病床に横たわる隼輝を見つめた。​しばらくして、彼はようやく目を覚ました。​「目が覚めたの?」​私はベッドの脇に立ったまま言った。​「ここの医療設備はあまり整ってないの。今すぐ帰国して治療しないと」​隼輝は弱々しく口を開いた。​
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第9話 ​
帰国したのは、もう初冬の頃だ。​私は入国審査を抜け、到着ロビーへ出ると、両親と親友が必死に私の姿を探しているのが見えた。​口元を緩め、そのまま彼らのもとへ歩いていく。​最初に私を見つけたのは母だ。​「奈々花!」​母は早足で駆け寄り、私の肩を力いっぱい叩いた。​「ほんとに、よくやったわね!​一人で戦場へ行って取材をするなんて!お母さんとお父さんをどこまで怒らせる気なの?」​そう言いながら、母は私を抱きしめて泣き出した。​父も目を赤くして言った。​「無事に帰ってきてよかった。おかえり」​私は笑って答えた。​「うん、ただいま」​A市に再び足を踏み入れ、確信した。私はもう、あのくだらない悲しみに囚われてはいないのだと。​ここを離れたときとは、心持ちがすっかり変わっている。​親友が私のスーツケースを受け取り、むすっとした顔で口をきこうとしない。​私は笑いながらからかった。​「どうしたの?そんな怖い顔をして」​彼女は私を思いきり睨みつけた。​けれど、その目が赤くなっているのが見えた。​「奈々花!次また何も言わずにいなくなったら、絶対友達やめるから!」​私は慌てて謝った。​「ごめん!もう二度としないから」​家に戻り、まだ荷物も片づけていないうちに、絵梨から電話がかかってきた。​「もしもし?奈々花さんですか?」​「はい。何かご用ですか?」​電話の向こうから、やわらかな声が返ってきた。​「一度会いたいです。伝えたいことがありますので、ちゃんと顔を見て話したいんです」​少し迷ったものの、私は会うことにした。​喫茶店へ行くと、絵梨はすでに席で私を待っている。​私を見るなり立ち上がり、笑顔で私の手を引いて席へ座らせた。​「奈々花さん、本当にすごいですね。一人であんな危険な場所へ行って、取材をしていたなんて。​テレビで見たときは、本当に自分の目を疑いましたわ」​私は小さく笑った。​「今日は何を話したいんですか?」​彼女はふいにため息をついた。​「奈々花さんと隼輝のこと、もう聞いています」​「もう離婚しました」​私は感情のこもっていない声で答えた。​「知っています!」​彼女は声を強めた。​「だからこそ、すごく申し訳ないと思っているん
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