LOGIN岡北隼輝(おかきた しゅんき)の不倫現場を目にした夜、それでも私・岡北奈々花(おかきた ななか)は、自分こそが彼に一番愛されている女だと信じている。 なぜなら、彼の腕の中にいる女は、私によく似た顔をしているから。 隼輝がその女の腰にそっと腕を回すのが見えた。まるで、この世でたったひとつの宝物を慈しむかのように。 以前、私がうっかり足をくじいて、彼の腕につかまろうとしたときのことが、頭をよぎる。 あのとき彼は、冷淡に言い放った。 「面倒くさい」 その女、上窪絵梨(うえくぼ えり)が、か細い声で言った。 「隼輝……私たち、こんなことしちゃだめよ。隼輝にはもう、奥さんがいるの!」 けれど隼輝はなりふり構わず、まるで取りつかれたように絵梨を抱きしめた。 「そんなの、どうでもいい!」 絵梨の頬をやさしく両手で包んだ。 「8年前、絵梨は俺に怒って、何も言わずに海外へ行っちまった。 俺は8年間、ずっと絵梨を探し続けてたんだ。今やっと、こうして絵梨をこの腕に抱きしめることができた。 手放すはずがないだろ?」 私は石柱の陰に身を隠したまま、聞けば聞くほど心が冷えていくのを感じている。 私と隼輝は、結婚して7年になる。 この7年間、彼が一番口にしていたのは、「奈々花の顔が何より好きだ」という言葉だった。 私は、それがネットでよく言われている「本能的に惹かれる」ということなのだと信じ込んでいた。 けれど違った。 私が特別扱いされてきたのは、ただ別の女の面影があったからに過ぎなかったのだ。 跳ね返った泥水で汚れないよう、隼輝が絵梨のワンピースの裾をそっと持ち上げるのを目にしたとき――私は暗がりに佇んだまま、ようやく自分との「違い」を思い知らされた。 泣きもしなかった。取り乱すこともしなかった。ただ、ふと、もう「物分りのいい妻」でいるのが嫌になった。
View More帰国したのは、もう初冬の頃だ。私は入国審査を抜け、到着ロビーへ出ると、両親と親友が必死に私の姿を探しているのが見えた。口元を緩め、そのまま彼らのもとへ歩いていく。最初に私を見つけたのは母だ。「奈々花!」母は早足で駆け寄り、私の肩を力いっぱい叩いた。「ほんとに、よくやったわね!一人で戦場へ行って取材をするなんて!お母さんとお父さんをどこまで怒らせる気なの?」そう言いながら、母は私を抱きしめて泣き出した。父も目を赤くして言った。「無事に帰ってきてよかった。おかえり」私は笑って答えた。「うん、ただいま」A市に再び足を踏み入れ、確信した。私はもう、あのくだらない悲しみに囚われてはいないのだと。ここを離れたときとは、心持ちがすっかり変わっている。親友が私のスーツケースを受け取り、むすっとした顔で口をきこうとしない。私は笑いながらからかった。「どうしたの?そんな怖い顔をして」彼女は私を思いきり睨みつけた。けれど、その目が赤くなっているのが見えた。「奈々花!次また何も言わずにいなくなったら、絶対友達やめるから!」私は慌てて謝った。「ごめん!もう二度としないから」家に戻り、まだ荷物も片づけていないうちに、絵梨から電話がかかってきた。「もしもし?奈々花さんですか?」「はい。何かご用ですか?」電話の向こうから、やわらかな声が返ってきた。「一度会いたいです。伝えたいことがありますので、ちゃんと顔を見て話したいんです」少し迷ったものの、私は会うことにした。喫茶店へ行くと、絵梨はすでに席で私を待っている。私を見るなり立ち上がり、笑顔で私の手を引いて席へ座らせた。「奈々花さん、本当にすごいですね。一人であんな危険な場所へ行って、取材をしていたなんて。テレビで見たときは、本当に自分の目を疑いましたわ」私は小さく笑った。「今日は何を話したいんですか?」彼女はふいにため息をついた。「奈々花さんと隼輝のこと、もう聞いています」「もう離婚しました」私は感情のこもっていない声で答えた。「知っています!」彼女は声を強めた。「だからこそ、すごく申し訳ないと思っているん
「何ですって?」私は戸惑いながら尋ねた。「彼を置き去りにして帰ってしまったって、どういうことですか?」「知らなかったんですか?」彼は意味ありげに眉を動かした。「あの日、彼は記者を大勢呼んで、プロポーズの瞬間を記録させようとしていました。ところが、プロポーズした途端、相手の女性は驚きと怒りが入り混じった顔をしました。二人で何か小声で話したあと、女性のほうが彼を突き飛ばして立ち去ったんです。結局、プロポーズは散々な結果に終わり、彼は記者たちにタクシー代を渡して解散させました」私はその場で呆然と立ち尽くした。あの日、会場で彼がプロポーズの言葉を口にしたところまでしか聞かず、去ってしまった。まさか、絵梨が断っていたなんて。胃の底から不快感がこみ上げてきて、激しい吐き気を覚えた。――隼輝。つまり、忘れられない女に断られたから、また私を思い出したの?私は、絶え間なく届くメッセージを冷たい目で見つめた。隼輝は、相変わらず私を気づかうような言葉を送り続けている。迷わず彼をブロックした。それから数日間、私は戦場と大使館の間を行き来する毎日を送った。忙しさに追われるうち、隼輝がまだこの国にいることさえ忘れている。夕方、大使館へ戻る途中で、大使館から電話がかかってきた。「もしもし?岡北隼輝さんのご家族の方ですか?」私は訝しみながら答えた。「友人ですが、何かありましたか?」電話の向こうの声は切羽詰まっている。「お友達がウイルスに感染しました!今、集中治療室にいます!意識を失う前、ずっとあなたの名前を呼んでいたんです!」私は眉を寄せて答えた。「すぐに向かいます」病院へ着くと、看護師が深刻な顔で言った。「我が国へ渡航の際は、事前に予防接種を受けるのが鉄則なんです。なのに、彼の症状を見る限り、恐らくワクチンを打っていなかったようです!あまりにも危険です!」私は複雑な気持ちで、病床に横たわる隼輝を見つめた。しばらくして、彼はようやく目を覚ました。「目が覚めたの?」私はベッドの脇に立ったまま言った。「ここの医療設備はあまり整ってないの。今すぐ帰国して治療しないと」隼輝は弱々しく口を開いた。
私はある建物の屋根裏部屋に身を潜めている。メディア関係者である私たちに対し、敵対勢力もそこまで無闇に手出しはしてこなかった。窓の外に広がる惨状を見つめながら、私はパンをかじってみたが、味などまるでしない。浩次が隣に腰を下ろし、感慨深げに口を開いた。「新出さんって、正直、見た目よりずっと強いです」私は口元を少し緩めた。「人の底力って、きっと限りがないんですよ。逃げるだけでも命がけですから」大使館の職員が私たちを迎えに来て、そのまま大使館へ連れ帰ってくれた。私は大使館の中で、疲れ果てた姿の隼輝を見つけた。ずいぶんやつれていて、髭を剃る暇もなかったようだ。私を見るなり、彼はうれしそうに両腕を広げ、駆け寄ってきた。「よかった!無事で本当によかった!」私は一歩、後ろへ下がった。傷ついたような彼の視線など気に留めず、尋ねた。「どうして来たの?」隼輝は答えた。「ニュースを見て、大使館と連絡した。大使館が夫婦関係を確認して、ここへ来ることを許可してくれたんだ」私は眉をひそめた。「私たち、もう夫婦じゃないわ」「わかってる!」彼はすぐに言葉を重ねた。「でも、お父さんやお母さん、それに友達がどれだけ心配したかわかるか?もし本当に奈々花に何かあったら、俺たちはどうすればいいんだ?」心配そうな彼の目を見つめ、私はため息をついた。「もう会えたでしょ。私は無事だから、帰って」それでも彼は頑なに私の腕をつかんだ。「俺と一緒に帰ろう」思わず私は、その手を振りほどいた。「何を言ってるの?取材をしなきゃいけないの。終わるまでは帰国しないわ」「じゃあ、俺も一緒にいる」隼輝は私を見つめた。「奈々花が帰るまで、俺も帰らない」私は冷たく言った。「わかってほしいの。隼輝が絵梨にプロポーズした瞬間、私たちは完全に終わったの!」「そんなの、信じるわけない!」彼は大声で私の言葉を遮った。「7年も一緒にいたんだぞ。この7年間が奈々花にとってどうでもよかったなんて、信じられない!そんな簡単に手放せるのか?」彼は私に身を寄せ、手を握った。「後悔してる。たしかに、最初に奈々花と一
T国の地に降り立つと、そこは何もかもが新しく、見慣れないものばかりだ。宿舎に荷物を置いて落ち着くと、他の特派員と一緒に、動物たちの大移動を見に出かけた。野生の命が持つ力強さを、全身で感じた。何日か気ままに過ごしていると、上司が私のもとへやってきて、厳しい顔で私を見つめた。「信頼できる筋の情報によると、ここで紛争が起こる恐れがある。新出さんにとっては非常に危険な挑戦になるが、ここに残って戦場取材を担当する覚悟はあるか?」私は一瞬、言葉を失ったが、歯を食いしばって答えた。「やります」翌日、駐在先のすぐそばで小規模な衝突が起きた。私も同僚と一緒に軍の基地へ移動し、起こりうる最悪の事態に備えて、張り詰めた時間を過ごした。……隼輝は、奈々花の両親の家を訪れた。ネクタイをきゅっと締め直し、緊張した面持ちでチャイムを鳴らした。すると扉が開き、奈々花の母親・新出綾(あらで あや)が不思議そうに彼を見た。「お義母さん、奈々花は家にいますか?」綾は体をずらして、隼輝を中へ招き入れた。「いないわよ。隼輝くん、聞いてなかったの?奈々花なら海外特派員として旅立ったわよ。昔からあの子は一度言い出したら聞かないところがあってね……隼輝くん、これからもあの子をよろしく頼むわ」――奈々花が海外へ行っただと!隼輝は平静を装いながら尋ねた。「奈々花は、どこの国へ行ったんですか?」「結構遠い国よ。たしか、T国だったかしら」綾は探るように尋ねた。「あなたたち、喧嘩でもしたの?」隼輝はなんとか笑みを浮かべた。「少し、行き違いがあっただけです」「若い二人なんだから、腹が立って喧嘩することくらいあるわよ。お互いに少しずつ譲れば、乗り越えられないことなんてないわ」「はい」彼は低い声で答えた。「お義母さん、それじゃあ俺は帰ります。何かあったら、いつでも連絡してください」隼輝は、魂が抜け落ちたような足取りで新出家をあとにした。スマホを取り出し、T国行きの一番早い便を取ろうとする。だが、画面に表示された案内を見て、心臓をわしづかみにされたような衝撃を受けた。【現地での紛争発生に伴い、該当地域への航空券の販売を一時停止しておりま