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ありがとう、デス・メモリアル

ありがとう、デス・メモリアル

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Idioma: Japanese
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「青森様、『デス・メモリアル』のお申し込みが完了いたしました」 スタッフは契約書を青森琴羽(あおもり ことは)の前へ差し出しながら、説明を続けた。 「本日以降、当社の記録スタッフが常時お客様を追跡し、映像を撮影いたします。行動や居場所を問わず、人生の最期を迎えるその瞬間まで、すべてを記録させていただきます」 琴羽は黙ってペンを手に取り、ためらうことなく署名欄に自分の名前を書き記した。 彼女がこの「デス・メモリアル」を申し込んだ理由は単純だ。末期の癌が見つかり、医師から告げられた余命はわずか一か月だからだ。

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Capítulo 1

第1話

「青森様、『デス・メモリアル』のお申し込みが完了いたしました」

スタッフは契約書を青森琴羽(あおもり ことは)の前へ差し出しながら、説明を続けた。

「本日以降、当社の記録スタッフが常時お客様を追跡し、映像を撮影いたします。行動や居場所を問わず、人生の最期を迎えるその瞬間まで、すべてを記録させていただきます」

琴羽は黙ってペンを手に取り、ためらうことなく署名欄に自分の名前を書き記した。

彼女がこの「デス・メモリアル」を申し込んだ理由は単純だ。末期の癌が見つかり、医師から告げられた余命はわずか一か月だからだ。

自分が亡くなった後、人生の最期を記録した映像を全世界公開してほしいと、琴羽は「デス・メモリアル」の運営側に依頼した。

実の両親である青森健志(あおもり たけし)と静子(しずこ)に。そして婚約者の西沢正樹(にしざわ まさき)と、幼なじみの藤井智則(ふじい とものり)に見て欲しかったのだ。

自分が人生の最後の一か月を、どんな思いで生きたのかを。

スタッフが帰った後、部屋の扉が勢いよく開かれた。飛び込んできた正樹と智則はこわばった表情のまま琴羽の腕を掴み、事情を説明する間もなく彼女を外へ連れ出そうとする。

「琴羽、急げ!薫がまた手首を切ったんだ。今病院に運ばれてる。すぐ来てくれ、輸血が必要なんだ!」

琴羽は抵抗しなかった――今月だけで七回目だからだ。

青森薫(あおもり かおる)。青森家の令嬢として育てられた彼女は、うつ病を理由に何度も自傷行為を繰り返していた。そして大量出血を起こすたびに輸血が必要になり、琴羽が呼び出される。

まるで予備の血液袋のように。

琴羽の両腕には数え切れないほどの注射痕が残っていたが、そのほとんどは薫のために刻まれたものだった。

病院へ到着し、病室の前までたどり着いた瞬間だった。

乾いた音とともに頬に激しい衝撃が走り、続けざまにもう一発叩かれた。

琴羽は顔をあげると、目の前には健志と静子が立っている。二人の目に怒りと非難が浮かんでいた。

「あんた、また薫に何を言ったの?薫はうつ病なのよ!刺激しちゃいけないって分かってるでしょう!」

正樹と智則は一応琴羽をかばうように前へ出たものの、それは彼女を守るためではなかった。

「静子さん、健志さん、もうやめてください。まずは薫に輸血してもらわないと」

直後、琴羽は採血前の検査室へ連れて行かれる。

誰一人帰ろうとせず、全員が琴羽の検査結果を待っていたのは、これが初めてだった。しかしそれは琴羽を気遣っているわけではない。

誰もが救命処置室の様子を気にしていた。彼らが心配しているのは薫だけだった。

琴羽は口元をわずかに歪め、悲しみに胸を締め付けられながら、俯いた。

しばらくして、検査結果を手にした医師が現れる。

「青森さん、癌なんですよね?こんな状態で献血なんてできません。無茶にもほどがあります」

全員が一斉に振り返ったものの、その驚きは長く続かなかった。

健志は真っ先に検査結果を奪い取ると、中身を確認することすらせず、その場で紙を引き裂く。

細かな紙片が床へ散らばった。

「琴羽、お前はどこまで性根が腐ってるんだ?今まで散々薫をいじめてきたくせに、今度は癌だと嘘をついて同情を買うつもりか?医者まで買収して偽の診断書を作らせるなんて、本当に呆れたやつだ!」

正樹の視線も氷のように冷たかった。「琴羽、献血したくないからって、その言い訳はさすがに無理がある。家では十分騒いだんだろ?まだ満足しないのか?」

智則も鼻で笑った。「子供の頃から君が一番丈夫だった。風邪だって滅多に引かなかったのに、嘘をつくならもう少しマシなのを考えてくれよ」

琴羽は黙ったまま全員を見つめた。本来なら誰よりも近しい存在のはずなのに、今の彼らは見知らぬ他人よりも遠い。

「……嘘じゃない。私は本当に癌なの」

だが、その言葉も今までと同じように、誰の心にも届かなかった。結局、琴羽は無理やり採血室へ連れて行かれ、看護師に血を抜かれることになる。

太い針が血管へ刺さった瞬間、何度も経験したはずの痛みが全身を駆け抜けた。もう慣れたと思っていたのに、胸の奥は強く締めつけられ、まるで誰かに心臓を握り潰されているようだった。

琴羽の脳裏に、時折こんな考えが浮かぶ。

薫がここまで大切な存在なら、最初から自分を引き取らなければよかったのに、と。

自分の出自が明かされないままだったら、一生使用人の娘として生き、薫は青森家の令嬢として何不自由なく暮らしていただろう。そのまま交わらない人生のほうが、きっと幸せだった。

琴羽の人生は、どこか歪だった。

二十年以上も母親だと思っていた女性は、死の間際になって突然ある秘密を打ち明けた。

――自分と静子は同じ日に娘を産んだ。そして自分の娘が裕福な暮らしができるよう、二人の赤ん坊を入れ替えたと。

つまり、本来青森家の娘として育つはずだったのは琴羽であり、薫は使用人の娘だったのだ。

その秘密を告白すると、彼女はほどなく息を引き取った。

だが、その時にはすでに薫は二十年以上にわたって青森家の娘として育てられ、両親の愛情を一身に受けながら暮らしていた。

だからこそ、自分たちの実の娘ではないと知っても、健志と静子は薫を手放そうとはしなかった。

一方で、実の娘として迎え入れられた琴羽は、皮肉にも彼らの間に割り込んできた異物のような存在になってしまった。

もっとも、最初からこうだったわけではない。取り違えの事実が明らかになった当初、健志も静子も本気で琴羽を不憫に思っていた。本来なら可愛がられて育つはずだった娘が、使用人の娘として苦労を重ねてきたのだ。

二人は失われた二十数年を埋めるように愛情を注ぎ、これからはすべてを琴羽に与えると約束した。西沢家との婚約もまた、本来あるべき形として琴羽へと引き継がれた。

けれど、その頃から薫は変わっていった。自分が「偽物の令嬢」である現実を受け入れられず、何度も琴羽にいじめられたと嘘をつくようになった。

最初は、頬を叩かれ、階段から突き落とされたと嘘をついた。

健志たちはそれを信じた。

やがて薫は、自分がうつ病になったのも、琴羽から長い間いじめを受けたせいだと言い出した。そして、その話もまた疑われることなく受け入れられた。

それ以来、琴羽は冷酷で陰険な人間だと決めつけられ、健志たちが彼女に抱いていたわずかな同情さえ消え失せてしまった。

正樹に至っては言うまでもない。婚約相手は琴羽に変わったが、彼は幼い頃から薫とともに育ってきた。彼の目に映るのはいつも薫であり、守りたいと思う相手もまた薫だった。

両親に愛されないことも、婚約者に想われないことも、琴羽はいつしか受け入れていた。けれど、どうしても理解できないことが一つだけあった。

智則のことだ。

幼い頃からずっと一緒に育ってきた幼なじみ。かつては誰よりも薫を嫌っていたはずの彼が、いつの間にか薫を守るナイトのようになっていた。

智則もまた使用人の息子だ。子供の頃、薫はお嬢様という立場を笠に着て、彼らを見下し、傷つけてきた。

そのたびに智則は悔しそうに唇を噛み、目を赤くしながら琴羽の傷に薬を塗ってくれたものだ。

「琴羽、待ってろよ。いつか絶対に成功して、君に一番いいものをやる。薫なんて見返してやればいい。琴羽こそ、一番幸せになるべきなんだから」

あの日の言葉を、琴羽は今でも覚えている。そして智則も本当に成功した。誰もが認める地位と名声を手に入れたのに、その約束だけはどこかへ置き去りにしてしまった。

彼の瞳はもう琴羽を見ていない。視線の先にいるのは薫だけだ。二十年以上も自分たちを見下し続けてきた少女を、いつしか彼は好きになっていた。

……

採血を終えた頃には、琴羽の身体から力が抜け切っていた。足元がおぼつかず、ふらつきながら廊下を歩いていると、前方の人影に気づかないままつまずきそうになる。

すると背後から静子の不満げな声が聞こえてきた。「あの子、またあんなふうにふらふらして。まるで私たちが虐待でもしているみたいじゃない。本当に大げさなんだから」

琴羽は振り返らなかった。何かを言い返す気力もなく、重たい足を引きずりながら一歩ずつ前へ進む。

その時、救命処置室の扉が開いた。

待ち構えていた健志たちは一斉に駆け寄り、ベッドの上の薫を取り囲む。

「薫、大丈夫か?少しは楽になったか?」智則が真っ先に声を掛ける。

正樹も安堵したように身を乗り出した。「薫、欲しいものがあるなら何でも用意する。だからもう自分を傷つけたりしないでくれ」

静子も涙ぐみながら娘の手を握る。「本当に心配したのよ。あんたに何かあったら、お母さんたちはどうすればいいの?もう二度とこんなことをしちゃ駄目よ」

薫へ優しい言葉をかけた後、健志たちは冷たい視線で琴羽を見た。

「いい加減そんな下手な芝居はやめろ」健志が冷たく言う。「今すぐ家に帰って、薫のために栄養のある食事でも作って持って来い。今回薫を追い詰めたことへの謝罪だと思いなさい。分かったな?」

琴羽は何も答えず、ただ静かに背を向ける。

その時、不意に廊下の向こうで小さな光が瞬いた。「デス・メモリアル」の記録用のカメラから発した光だった。

その赤いランプが琴羽の瞳に映り込み、彼女はかすかに唇を歪めた。

――その映像が公開される日が来れば。誰が嘘をつきで、誰が演技をしていたのか、きっと、すべて明らかになるだろう。

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第1話
「青森様、『デス・メモリアル』のお申し込みが完了いたしました」スタッフは契約書を青森琴羽(あおもり ことは)の前へ差し出しながら、説明を続けた。「本日以降、当社の記録スタッフが常時お客様を追跡し、映像を撮影いたします。行動や居場所を問わず、人生の最期を迎えるその瞬間まで、すべてを記録させていただきます」琴羽は黙ってペンを手に取り、ためらうことなく署名欄に自分の名前を書き記した。彼女がこの「デス・メモリアル」を申し込んだ理由は単純だ。末期の癌が見つかり、医師から告げられた余命はわずか一か月だからだ。自分が亡くなった後、人生の最期を記録した映像を全世界公開してほしいと、琴羽は「デス・メモリアル」の運営側に依頼した。実の両親である青森健志(あおもり たけし)と静子(しずこ)に。そして婚約者の西沢正樹(にしざわ まさき)と、幼なじみの藤井智則(ふじい とものり)に見て欲しかったのだ。自分が人生の最後の一か月を、どんな思いで生きたのかを。スタッフが帰った後、部屋の扉が勢いよく開かれた。飛び込んできた正樹と智則はこわばった表情のまま琴羽の腕を掴み、事情を説明する間もなく彼女を外へ連れ出そうとする。「琴羽、急げ!薫がまた手首を切ったんだ。今病院に運ばれてる。すぐ来てくれ、輸血が必要なんだ!」琴羽は抵抗しなかった――今月だけで七回目だからだ。青森薫(あおもり かおる)。青森家の令嬢として育てられた彼女は、うつ病を理由に何度も自傷行為を繰り返していた。そして大量出血を起こすたびに輸血が必要になり、琴羽が呼び出される。まるで予備の血液袋のように。琴羽の両腕には数え切れないほどの注射痕が残っていたが、そのほとんどは薫のために刻まれたものだった。病院へ到着し、病室の前までたどり着いた瞬間だった。乾いた音とともに頬に激しい衝撃が走り、続けざまにもう一発叩かれた。琴羽は顔をあげると、目の前には健志と静子が立っている。二人の目に怒りと非難が浮かんでいた。「あんた、また薫に何を言ったの?薫はうつ病なのよ!刺激しちゃいけないって分かってるでしょう!」正樹と智則は一応琴羽をかばうように前へ出たものの、それは彼女を守るためではなかった。「静子さん、健志さん、もうやめてください。まずは薫に輸血してもらわないと」直後、琴羽は採血
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第2話
家へ戻った頃には、琴羽はほとんど限界だった。ようやく玄関前の階段までたどり着き、鍵を取り出そうとしたその瞬間、喉の奥から甘ったるい鉄の味がせり上がってくる。慌てて口元を押さえたが遅かった。鮮血が指の隙間からこぼれ落ち、ぽたり、ぽたりと足元を赤く染めていく。――病状は確実に進行しているようだ。そう理解していても、今さらどうすることもできない。琴羽は残された力を振り絞って扉を開けようとしたが、震える指はうまく動かず、視界もぐらぐらと揺れる。次の瞬間、身体を支えきれなくなった彼女は、そのまま階段の上から地面へ崩れ落ちた。急速に意識が遠のいていく。目の前が真っ暗になり、琴羽はそのまま意識を失った。再び目を覚ました時には、すでに朝になっていた。どうやら一晩中、玄関先で倒れたままだったらしい。誰一人気づかなかった。琴羽は力の入らない体を支えながら、血の跡が広がる地面からゆっくりと立ち上がる。ふらつく足を無理やり動かし、扉を開けて家の中へ入っていった。薫のための料理を作っている最中、琴羽は何気なくスマホを手に取った。SNSを開くと、薫の投稿が立て続けに更新されている。そこに映っていたのは、健志と静子、そして正樹や智則から贈られた数々のプレゼント。写真の中央で微笑む薫はまるで本物のお姫様のようで、みんなに囲まれながら幸せそうに笑っている。琴羽の指先がわずかに震えた。だが何も言わず画面を閉じると、完成した料理やスープを弁当箱へ移し、玄関先に残っていた血の跡も丁寧に拭き取る。すべてを片づけ終えると、弁当箱を持って病院へ向かった。病室に着いた時、中にいたのは薫だけだった。琴羽の姿を見つけた彼女は、どこか勝ち誇ったような笑みを浮かべる。「来るタイミングが悪かったわね。お父さんとお母さんは私の好きなデザートを買いに行ってるし、正樹さんは私が病院の物音で眠れないって聞いて、院長に頼んで病棟を貸し切ろうとしてるの。智則くんなら、今はホットミルクを温めてくれてるわ」琴羽は静かに彼女を見つめた。「今月でもう七回目だよね。あなた、本当はうつ病なんかじゃないのに、自分を傷つけてまで私を陥れるのって、楽しいの?」すると薫は口元を吊り上げた。「楽しいわよ。だって私、あんたが苦しむ顔を見るのが好きなんだもの。琴羽、まさか自分がお父さんたちの実の娘
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第3話
琴羽の症状は日に日に重くなっていった。適切な治療を受けていないせいで、ほとんど毎日のように吐血している。洗面台に広がる暗い赤色の血を見つめるたび、自分にはあとどのくらい時間が残されているのだろうと計算した。そんな状態になっても、薫は彼女を追い詰めることをやめなかった。毎日のように大量のメッセージや写真を送りつけてくる。【琴羽、今どんな気分?すごく寂しいよね?でも私は違う。お父さんもお母さんも、正樹さんも智則くんも、みんな私のそばにいてくれるもの】【私はね、みんなにすごく大切にされてるよ。毎日の食事だって、みんな交代で食べさせてくれるのよ】【あんたみたいな人間は、一生誰にも愛されないまま、使用人の娘として生きていればよかったのに!】琴羽は送られてくるメッセージを一通ずつ読んだ。そして何も返信せず、静かに画面を閉じる。その頃には胃の痛みもかなりひどくなっていた。けど家に残っていた痛み止めはとっくに切れている。しかも先日の怪我の治療費で、わずかな貯金もほとんど使い果たしてしまった。これから、毎日こんな苦痛に耐えなければならないなんてさすがにこたえる。そう思った琴羽は、痛み止めを買うためのお金を稼ごうと仕事を探し始めた。知人の紹介で、「トワイライト」という高級クラブのホールスタッフとして働くことができた。決して楽な仕事ではないが、時給は良く、今の琴羽にはありがたい職場だった。その日も個室の片付けを終え、次の仕事へ向かおうとしていた時だった。廊下の向こうから聞き覚えのある声が響く。「薫、退院したばかりなのに、こんなところに遊びに来るなんて本当に大丈夫なのか?健志さんたちに知られたら怒られるぞ」正樹だった。すると甘えるような声が返ってくる。「大丈夫だもん」薫は正樹の腕にしがみつきながら笑う。「だって正樹さんがいるでしょ?昔から私に何をしても、全部守ってくれたじゃない。それに、お父さんたちだって正樹さんのことが大好きなんだから。絶対怒らないよ」正樹は苦笑しながら彼女の額を軽く指でつついた。その仕草には自然な親しさと甘さが滲んでいる。一方で智則は、自分のジャケットを脱いで薫の肩に掛けてやっていた。「治ったばかりなんだから無理しないでね。それより、喉乾いてない?君の好きなジュースも買ってきたぞ」三人はその
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第4話
今の琴羽の身体では、食事を摂るだけでも胃が悲鳴を上げる状態なのに、酒を飲むなど、本来なら考えられないことだ。それでも――お金が必要だった。痛み止めを買うために。琴羽はゆっくりとしゃがみ込み、床に置かれた酒瓶を手に取る。そして何も言わず、そのまま口をつけた。強烈なアルコールが喉を焼く。熱を帯びた液体は食道を通り抜け、そのまま胃の奥へ流れ込んでいった。痛い。苦しい。息ができない。胸の奥が激しく痙攣した次の瞬間、琴羽は耐え切れず身体を横へ向け、血を吐いた。視界が揺れる中、琴羽は一瞬だけ、正樹と智則の表情が揺らいだのを見た。だがその感情は、割り込む薫の声によってすぐに消されてしまった。「琴羽、もうやめなよ。昔家にいた時もそうだったよね?赤いジュースを飲んで、こんなふうに吐血したふりをしてた。お父さんたちを騙してた頃と何も変わらないわ」その言葉を聞いた途端、正樹の目から最後の心配と同情も消えた。「金を持って出て行け」智則が短く言う。琴羽は口元の血を拭い、静かに二人へ頭を下げた。札束を手に取ると、彼女はそのまま個室を後にする。扉が閉まる直前、背後から薫の声が聞こえてきた。「でも本当に困るよね。そんな大金を持って、何に使うつもりなんだろう。前だって夜遊びのために勝手にお金を使ったから、お父さんたちも毎日お小遣いを渡さなくなったのに……」その言葉を聞いた琴羽は、胸の奥に嫌な予感が広がった。お金をしまうと、急いで出口へ向かう。しかし数歩進んだところで、突然目の前を黒服の男たちが塞いだ。琴羽が反応するより早く、男たちは彼女から札束を奪い取った。「申し訳ありません。西沢様と藤井様からの命令です。このお金は、捨てることはあってもあなたには渡さない、と」次の瞬間、ビリッと乾いた音が響き、男は躊躇なくお札を引き裂いた。一枚一枚の紙幣は無残な紙切れへと変わり、無数の破片が宙を舞う。琴羽はその場へ崩れ落ちた。震える手でお札の破片を拾い集め、何とか元の形へ戻そうとする。けれど無理だった。どれだけ並べても繋がらない。視界が滲み、気づけば涙が頬を伝っていた。それでも目を擦りながら、琴羽は諦めずに拾い続ける。そんな彼女の頭上から、聞き慣れた笑い声が降ってきた。「あら、かわいそう」琴羽が顔を上げる。目の前に、薫が勝ち
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第5話
それからの数日、琴羽は誰とも関わろうとせず、ただ働くことだけに集中した。今日のシフトを終えれば、ようやく痛み止めを買うだけのお金が貯まる。そう思うだけで、重かった足取りも少しだけ軽くなる。琴羽はワインを載せたトレーを持ち、指定された個室へ向かった。注文の品を届け終え、そのまま退出しようとした時、突然、背後から腕を掴まれる。「どこへ行くんだ?せっかくだし、俺と飲もうぜ」強引に引き寄せられたせいで、手首に鋭い痛みが走る。琴羽は慌てて身を引こうとした。「申し訳ありません。お客様、私はお酒が飲めませんので……」だが男は手を離そうとしない。それどころか、さらに身体を引き寄せてくる。「飲めないなら仕方がない。代わりに今夜、俺に付き合えよ」そう言うなり、遠慮なく身体に触れてくる。琴羽は凍りついた。この店で働き始めてから、こんな目に遭うのは初めてだ。恐怖で頭が真っ白になる。「やめてください!」必死に腕を振りほどこうとする。「警察呼びますよ!」男は鼻で笑った。その目には露骨な欲望が浮かんでいる。「騒ぐなよ。助けを呼んでも誰も来ないさ。いいか?俺は青森家のお嬢様に頼まれてきたんだ。お前を犯してほしいってな。たっぷり報酬ももらってるんだ。だから今夜はしっかり楽しませてもらうぜ」琴羽の血の気が引いた。薫なら何をしてもおかしくない。そう思っていたはずなのに、ここまでやるとは想像していなかった。彼女は必死にもがきながら叫び続ける。その拍子に足が扉へ当たり、勢いよく開く。ちょうど近くを歩いていた二人が異変に気づき、足を止めた。まさかの正樹と智則だった。二人の姿を見た瞬間、琴羽はまるで溺れる人間が最後の浮き輪を見つけたかのように縋りついた。「正樹さん!智則くん、助けて……!中の人が私に乱暴しようとしてるの!」二人は目を見張った。だが、それもほんのわずかな時間だった。すぐに見慣れた冷たい表情へ戻る。「またか。芝居で同情を引こうとするのはもうやめろ、俺たちには通用しない」「そうだ。こんなことをやってる暇があるなら、もう少し薫に対する態度を改めてくれ。そうすれば僕たちだって優しくしてあげるさ」そう言って、二人はそのまま背を向けた。歩き去る二人は、薫にどんな差し入れを買えば喜んでもらえるのか、そんな話をしていた。琴羽は
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第6話
そうして琴羽は、一晩中雨の中に跪き続けた。夜が明ける頃には足の感覚はほとんどなくなっており、それでも彼女は何も言わず、重い身体を引きずるようにして自室へ戻った。ベッドに腰を下ろし、何気なくスマホを手に取る。すると、一通のメールが目に入った。ハクモクレンデザインコンテスト決勝進出の知らせだ。驚きのあまり、琴羽は思わず目を見張った。彼女は昔からデザインが好きだった。数か月前、ハクモクレンデザインコンテストが開催された時、心を込めて作った作品を提出した。まさか決勝まで残るとは思っていなかった。開催側からは最終作品の提出を求められており、その後は結果発表を待つだけだという。おそらくこれが、自分の人生最後の作品になる。そう思うと、どうしても手を抜きたくなかった。それからの三日間、彼女はほとんど眠らずに作品を仕上げ、提出した。やがて結果発表の日が訪れる。琴羽は結果を確認すると、まさか自分の作品が最優秀賞を受賞した。だが次の瞬間、琴羽の顔から血の気が引く。作品名の下に記載されている受賞者名。そこにあったのは――青森薫だった。理解が追いつかず、琴羽は画面を見つめたまま固まる。どうしてこんなことが起きたのか、見当がつかなかった。頭が真っ白になったその時。「わぁ、本当に受賞したんだ」耳元で楽しそうな声が響く。振り返ると、いつの間にか薫が立っていた。彼女はスマホの画面を覗き込みながら満足そうに笑う。「私、ちょっと欲しいなって言っただけだったのに、まさかお母さんが本当にあんたの原稿を持ち出してくれるなんてね。それだけじゃないよ。正樹さんも智則くんも協力してくれたの。あんたが審査から外されるよう、色々手を回してくれたんだから。琴羽、あんたって本当に可哀想ね」そう言いながらも、その整った顔には嘲笑しかなかった。自分は一度も薫を傷つけたことがない。それなのに彼女は、何度も執拗に自分を追い詰めていた。積み重なっていた感情が限界を迎える。怒りも悔しさも、そのすべてが一気に噴き出した。気づけば琴羽は手をあげ、薫の頬を思いっきり殴った。「薫、さすがにやり過ぎよ!」その瞬間、まるで最初から待ち構えていたかのように、部屋の扉が開く。健志と静子、そして正樹と智則、四人が同時に姿を現した。薫の赤くなった頬を見た瞬間、全員の表
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第7話
目を覚ました時、琴羽は自室のベッドに寝かされていた。薄く目を開けると、ベッドの傍らには正樹が座っており、ちょうど薬を飲ませようとしていたところだった。琴羽が目を覚ましたのを見るなり、彼はわずかに眉をひそめる。「琴羽、どうしていつも薫を目の敵にするんだ?確かに、薫がお前の人生を生きていたのは事実だ。でも、それは薫のせいじゃない。彼女は全てをお前に返しただろう。俺だってお前との結婚を受け入れた。なのに、まだ何が不満なんだ?」琴羽はしばらく黙って彼を見つめていた。正樹の瞳に映っているのは、自分ではない。ずっと昔から、その視線の先には薫しかいなかった。だからこそ、ずっと聞きたかったことを口にする。「正樹さんは、どうして私と結婚しようと思ったの?婚約だからなんて言わないで。あなたなら家の決定に逆らうことだってできるでしょう?」正樹はすぐには答えなかった。数秒の沈黙のあと、ようやく重い口を開く。「西沢家は三代続けて一人息子しかいない。母から言われているんだ。俺の妻になる女性には必ず跡継ぎを産んでもらわなければならないと。薫は小さい頃から大切に育てられてきた。だから、そんな負担を背負わせたくなかった」なんて身勝手で、残酷な理由なんだ。琴羽は思わず笑ってしまう。笑いながら涙が溢れ、しばらく言葉が出なかった。「そういうことだったのね……正樹さんはすごいね、そこまで薫を愛せるなんて」正樹は表情をさらに硬くした。「俺が好きなのは薫だが、お前と結婚すると決めた以上、夫としての責任は果たす。生活に不自由はさせない。ただ、俺の心はいつだって薫だけのものだ」琴羽は静かに彼を見つめた。しばらくして、彼女はぽつりと問いかける。「もし……好きになる相手を間違えていたとしたら?本当は薫じゃなくて、私だったとしたら?」正樹は一瞬だけ固まった。琴羽の言葉を理解できず、詳しく聞き返そうとしたその時、部屋の扉が開き、智則が入ってきた。正樹は立ち上がり、琴羽から視線を外した。「ちょうどいい。二人は幼馴染なんだろう?智則からも琴羽に言ってやってくれ」そう言い残して部屋を出て行く。入れ替わるように智則がベッド脇へ腰を下ろした。薬とマグカップを手に取った時、シャツの袖口から古い傷痕が覗く。その傷を見た瞬間、琴羽は遠い昔を思い出した。幼い頃、薫が捨てた人
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第8話
誕生日パーティーが始まってからというもの、会場に招かれた客たちは、ことあるごとに琴羽を話題にした。もっとも、その内容はいつも同じだった。使用人の娘として育った人間が、なぜ西沢家との婚約を引き継いだのか。身分が低いのに、いつも不機嫌そうな顔をしていて、まるで世界中が自分に借りでもあるかのようだ、と。そんな陰口が、琴羽の耳にも何度となく届いていた。けれど彼女は一度も言い返したことがない。そもそも説明する機会すら与えられていなかった。やがてパーティーも終盤に差しかかる。健志と静子は、満面の笑みを浮かべながら来賓へ向けて発表した――青森家の全財産および今後の継承権は、すべて薫に託すことを決めた、と。その瞬間、会場は大きな拍手に包まれた。一方で琴羽は、会場の片隅から静かにその光景を眺めていた。驚きも悔しさもなかった。今さら何も感じない。どうせ自分はもう長くない。財産を譲られようが譲られまいが、彼女には何の意味もなかった。そんな琴羽のもとへ、薫が人目を避けるように近づいてくる。そして勝ち誇った笑みを浮かべながら囁いた。「また私の勝ちね、琴羽。お父さんもお母さんも、正樹さんも智則くんも、本当に面白いくらい騙されてくれるね。本当はあんたの方がずっと尽くしてきたのに、結局私に振り回されてるんだもの」琴羽は思わず笑いそうになったが、結局何も答えず、その場を離れようとした。その時、突然、頭上から激しい金属音が響いた。見上げた瞬間、天井を支えていた装飾用のフレームが崩れ落ちてくるのが見えた。無数の装飾品が一斉に降り注ぐ。「薫!」誰かが叫んだ。その声を合図にしたかのように、会場中の人々が一斉に薫へ駆け寄る。正樹たちは彼女を庇うように囲み、身体を盾にする。その結果、薫はかすり傷ひとつ負わなかった。だが琴羽は違った。逃げる間もなく崩れ落ちた装飾の下敷きとなり、その場へ倒れ込む。頭がひどく重い。額を伝う生温かい感触に触れた瞬間、自分が出血していることを悟った。そんな中、ようやく正樹がこちらを振り返った。彼は琴羽の姿を見るなり眉をひそめ、急いで駆け寄ってくる。「琴羽!痛むのか?今病院へ連れて行く」だが、その言葉が終わるより早く、薫がふらりと正樹の胸へ倒れ込む。「正樹さん……頭が痛いの……」たったそれだけだったのに、正
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第9話
四人がその言葉の意味を理解する前に、琴羽は静かに自室へ戻った。そしてあらかじめ用意していた三つの箱を抱え、一つずつ彼らの前へ運んでいく。最初に立ったのは智則の前だった。箱を差し出しながら、琴羽は穏やかな声で言う。「智則くん、この中には私たちが今まで撮った写真を全部入れてある。私はずっと宝物みたいに大切にしてきた。苦しかった頃、何度も『智則くんがいてくれてよかった』って思った。あの頃のあなたは、間違いなく私にとっての光だった。あなたがいなかったら、私はきっとあの頃を乗り越えられなかったと思う。だから何度も写真を見返して、大事にしまっていた。でももういいの、これを返す。そして、それらの思い出も――今日で全部終わりにする」琴羽は次に健志と静子の前へ向かった。二人へ箱を差し出しす。「お父さん、お母さん。昔、まだ自分の出生を知らなかった頃、私は薫が羨ましくて仕方なかった。お父さんとお母さんに愛されて、大切にされて、守られている姿を見るたびに、私にもこんな家族がいたらいいのにって思ってた。それで、真実を知った時、本当に嬉しかったの。やっと願いが叶ったんだって思った。でも、青森家に戻ってから一度も幸せだと思えたことはなかった。本当にいるんだね。実の娘より、育てた娘を愛する人って。箱には今まで私にくれたプレゼントを全部入れてある。どれも使うのが勿体無くて、大切にしまっていたから。今日、ちゃんと返すね。私を産んでくれたことには感謝してる。育ててはもらえなかったけど、それももう気にしていない。この命は元々あなたたちからもらったものだから」そう言って小さく微笑む。「だから、返すね」最後に琴羽は正樹の前へ立つ。「正樹さん。もう、あなたに言うことは何もない。ただ――いつか私のことを思い出した時、後悔しないでね」言い終え、琴羽は背を向けていた。残された四人は、それぞれ手の中の箱を見つめながら、理由の分からない胸騒ぎを覚えていた。それでも結局は、薫のことで頭がいっぱいになり、また琴羽が拗ねているだけだろうと、そんなふうに結論づけてしまう。手術室へ向かう直前、琴羽は一通の電話をかけた。相手は「デス・メモリアル」の担当スタッフだった。「今日で、私の人生は終わります。私が死んだら、約束通り撮影した映像を公開してください。街中の
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第10話
琴羽が手術室へ入っていくのを見送りながら、健志たちは言いようのない胸騒ぎを覚えていた。とりわけ最後の別れを告げるような言葉と、渡された箱が頭から離れない。けれど、その不安の正体を深く考えようとする者はいなかった。薄暗い廊下に浮かぶ手術中のランプはやけに眩しく、重苦しい沈黙が流れる中、誰もが視線を交わしながら、その違和感を無理やり別の理由へと置き換えていく。――薫のことが心配だからだ。琴羽が青森家へ戻ってきてからというもの、薫は以前のように笑わなくなった。うつ病を患い、自傷行為を繰り返し、ついには事故で腎臓まで損傷してしまった。今も生死の境をさまよっている。そう考えれば不安になるのも当然だ。静子は眉をひそめ、小さくため息をついた。「やっぱり……あの子を引き取らなければよかった。なんだか、あの子が来てからろくなことがないもの」一番近くにいた健志は、その言葉を聞いても否定しなかった。血の繋がった娘だから、その情だけで琴羽を引き取った。だが接してみれば、薫は次第に苦しみ始め、家庭の空気も変わってしまった。しかもあの事故の時、琴羽は自分たちを気遣う一言さえなかった。健志の脳裏に、数年前の出来事が蘇る。あの事故で大量出血し、生死の境をさまよった時、薫が命懸けで献血してくれなかったら、自分も妻も死んでいたのだろう。健志は眉間に皺を寄せた。その時の琴羽の姿を思い出しても、冷たい印象しか浮かばない。だが今はそんなことより、手術室の中にいる薫の方が心配だった。どれだけ時間がすぎていったか、待ち続けた彼らの顔には疲労の色が浮かび始めていた。そしてようやく、手術室の扉が開いた。白衣姿の医師が姿を現す。マスクに隠れて表情は見えない。だが、その目にはどこか言いづらそうな戸惑いが浮かんでいた。しかし誰もそれに気づかない。一斉に医師へ詰め寄った。「先生、薫は大丈夫ですよね?術後に気をつけることはありますか?」「手術は成功したんですよね?薫の容体はどうなんですか?」「あの一番いい麻酔を使ってもらえましたよね?薫は痛みに弱いんです」「小さい頃から大事に育てられてきたから、こんな大手術は初めてなんです。かなり辛かったでしょう。病室へ移ったら、琴羽にすぐスープを作らせないと。薫、あの子の作るスープが一番好きだから」誰もが口々に
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