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第10話

Author: ムギちゃん
冷たい刃先が頬に触れた瞬間、過去に受けた苛めの恐怖が和沙を一気に飲み込んだ。

「どいて!」

彼女は突然力を振り絞り、目の前の人物を突き飛ばして、必死に外へと走り出した。

ふらつきながら階段の方へと向かっていく。

ちょうど階段に足をかけようとした瞬間、後ろから追ってきた心美が彼女の腕をがっしりと掴んだ。

そのとき、近くの個室のドアが開き、宗太が姿を現した。

心美は素早くナイフを和沙の手に押し付け、その手を握ったまま、自分の腕を鋭く切りつけた。

「きゃっ!」

心美が苦痛に満ちた声を上げた。

和沙が反応する間もなく、心美は彼女を思いきり階段から突き落とした。

油断していた彼女は受け身も取れず、階段を転がり落ち、額を激しく打ちつけて、すぐに血が流れ出した。

「宗太!」

一方、心美は宗太の胸に飛び込み、泣きながらしがみついた。

「和沙がおかしくなっちゃって、私があなたと結婚するのが羨ましくて、殺そうとしたの!」

彼女は階段下で血まみれになっている和沙を指差した。

「あなたが出てきたのを見て、逃げようとして自分で転んだのよ」

階段下で、必死に起き上がろうとする和沙を見て、宗太の瞳が一瞬だけ揺れた。

彼女を助けに行こうとしたその時、そばにいた心美が弱々しく傷口を見せながら彼にしなだれかかった。

「宗太、痛いの……」

宗太は心美を支え、一瞬だけ虚ろな表情を浮かべた。そして彼女を抱き上げ、階段を下りていった。

和沙の傍を通るとき、その目には冷たい光が宿っていた。

「和沙、君はまだ若いのに、どうしてそんなに残酷なんだ?」

「残酷?」

和沙は顔を上げ、額から流れる血をぬぐいもせずに言った。

「じゃあ、どうして彼女が何をしたか聞こうともしないの?彼女が……」

「もういい!」

宗太は彼女の言葉を遮った。

「俺は自分の目で見たことしか信じない。どうであれ、人を刃物で傷つけるなんて許されない」

そう言い捨てると、彼は彼女に一瞥もくれず、心美を抱いてその場を去った。

和沙は顔を上げ、遠ざかる彼の背中を見つめながら、涙で視界が滲んだ。

そして突然、ふっと笑みを浮かべた。自分は何を期待していたのだろう?

もともと、自分なんて宗太にとっては復讐の道具に過ぎなかった。今回の件だって、きっと彼女と一緒に仕組んだ芝居に違いない。

和沙はふらつきながら立ち上がり、ひとりで近くの病院へ向かった。額の傷はすぐに縫合された。ちょうどその頃、彼女のスマホにメールが届いた。

それは、彼女が雇った私立探偵から、父親と宗太の兄の死に関係する証拠についての報告だった。

たとえ自分と宗太との関係がどうなろうとも、父は彼を心から大切にしていた。父が冤罪で傷つけられることだけは、どうしても避けたかった。

帰宅後、和沙は証拠を整理して宗太の書斎に置いた。

そして昼間片付けきれなかった荷物を再び詰め直した。

夜、和沙はうとうととした中で、誰かが自分の頬を撫でるのを感じた。

はっと目を覚ますと、目の前に宗太の顔があった。彼女は跳ねるように身を縮めた。

宗太の手が宙で止まった。

「和沙、怖がらないで。俺だよ。傷、大丈夫?痛くない?

今日のこと、ごめん。でもあのときは、ああするしかなかった。君が心美を傷つけたから」

和沙は無表情のままうなずいた。

「うん。他には?」

その冷たい態度に、彼の胸がきゅっと締めつけられた。

「もう怒るなよ。心美が戻ってきたことで、君に不安を与えたのは俺の責任だ。彼女との関係をきちんと処理できていなかった。

明日、一緒に心美の誕生日パーティーに行こう。そこで彼女との婚約を解消すると宣言する。そして君のお父さんにも正直に話して、俺たちの関係をはっきりさせよう」

和沙は血の滲んだ額の包帯に指先で触れたが、顔には何の感情も浮かばなかった。

つまり、自分を明日連れて行って、本妻が浮気相手を暴くという茶番を演じさせるつもりなんだ。

「もう芝居に付き合うつもりはない。あんたの兄の死は、父とは関係ない」と言おうとした時、宗太のスマホが鳴った。心美からだった。

電話が終わると、彼は少し困ったように彼女を見た。

「和沙、心美の傷が……」

「行けばいいじゃない」

彼女は目を伏せて、淡々と答えた。

一瞬、宗太は動揺した。彼女が怒ると思っていたのだ。実際、もう言い訳まで考えていた。

部屋を出ようとした時、彼はふと不安に駆られ、振り返った。和沙はすでにベッドに横たわっていた。

「和沙、明日の朝、朝ごはん作りに戻ってくるからね」

和沙は何も返さなかった。

もう彼女は泣かなかった。胸も痛まなかった。これが完全に心が死ぬということなのか。

彼女は彼との関係を、終わらせたのだった。

翌朝早く、和沙は荷物の入ったスーツケースを引いて空港へ向かった。

搭乗前、宗太からメッセージが届いた。

【和沙、起きた?今日何が食べたい?】

彼女は静かに長文のメッセージを返した。

【今までの数年間、あなたから受けた傷はもう十分。

今日の浮気現場の芝居は、もう結構だ。

あなたの兄の死は、父とは無関係。事故当時の資料は書斎に置いてある。

父は、あなたを弟のように大切にしてきた。罪悪感じゃなく、心からだった。

どうか彼を傷つけないで。

宗太、別れよう。今後はお互い、幸せに】

メッセージを送信すると、宗太の電話が狂ったように鳴り続けた。

彼女はすべての連絡手段をブロックし、スマホの電源を切って、スーツケースを引きながら搭乗ゲートへと向かった。

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