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十二年目の夏、願いごとはもういらない

十二年目の夏、願いごとはもういらない

作者:  葉山みぎわ已完成
語言: Japanese
goodnovel4goodnovel
10章節
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故事簡介

親友

ひいき/自己中

愛人

切ない恋

妻を取り戻す修羅場

ドロドロ展開

不倫

親友と共に嫁ぐ

七夕の当日、入籍を約束していた彼氏は突然、連絡がつかなくなった。 夜になって、偶然、彼の投稿が目に入った。私にだけ見えないように設定するのを忘れたらしい。 「20歳から28歳まで。俺たちの青春は、今日、ひとつの答えにたどり着いた」 添えられていたのは、ウェディングフォトと、婚姻届受理証明書の写真。 ウェディングフォトの中で、見知らぬ女の子が彼の肩に寄り添い、やわらかく笑っていた。 怒りに任せてコメント欄を開いた。問い詰める言葉を打ち込もうとして、指が止まる。親友の書き込みが目に入ったから。 「いろいろあったけど、やっとまた一緒になれたね。二人ともおめでとう!」 胸が締めつけられて、震える指で親友に電話をかけた。 長い沈黙のあと、彼女はようやく口を開いた。 「うん。あの二人、付き合ってもう8年になる。みんな知ってたよ。 わざと隠してたわけじゃないの。詩織って心が狭いから、知ったら騒ぎ立てるでしょ。そんなの、みっともないじゃん。 柚希ちゃんと旭のほうが、もともとお似合いだったの。ここまで来るの、大変だったんだから。同じ女なんだし、二人の邪魔なんてしないでよ。少しくらい優しくしてあげなって」 涙が頬を伝った。冷たい雫が落ちるたび、胸の奥が焼けるように痛み、ぽっかりと穴が開いていく。 ーー私と桐谷旭(きりや あさひ)が一緒にいた12年のうち8年間、彼はほかの女の子を愛していた。 みんな知っていた。口裏まで合わせて、私にだけ隠し続けていた。

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第 1 章

第1話

七夕の当日、入籍を約束していた彼氏は突然、連絡がつかなくなった。

夜になって、偶然、彼の投稿が目に入った。私にだけ見えないように設定するのを忘れたらしい。

「20歳から28歳まで。俺たちの青春は、今日、ひとつの答えにたどり着いた」

添えられていたのは、ウェディングフォトと、婚姻届受理証明書の写真。

ウェディングフォトの中で、見知らぬ女の子が彼の肩に寄り添い、やわらかく笑っていた。

怒りに任せてコメント欄を開いた。問い詰める言葉を打ち込もうとして、指が止まる。親友の書き込みが目に入ったから。

「いろいろあったけど、やっとまた一緒になれたね。二人ともおめでとう!」

胸が締めつけられて、震える指で親友に電話をかけた。

長い沈黙のあと、彼女はようやく口を開いた。

「うん。あの二人、付き合ってもう8年になる。みんな知ってたよ。

わざと隠してたわけじゃないの。詩織って心が狭いから、知ったら騒ぎ立てるでしょ。そんなの、みっともないじゃん。

柚希ちゃんと旭のほうが、もともとお似合いだったの。ここまで来るの、大変だったんだから。同じ女なんだし、二人の邪魔なんてしないでよ。少しくらい優しくしてあげなって」

涙が頬を伝った。冷たい雫が落ちるたび、胸の奥が焼けるように痛み、ぽっかりと穴が開いていく。

ーー私と桐谷旭(きりや あさひ)が一緒にいた12年のうち8年間、彼はほかの女の子を愛していた。

みんな知っていた。口裏まで合わせて、私にだけ隠し続けていた。

傷つくとわかっていながら、コメント欄をスクロールし続けた。

親友だけではなかった。見覚えのある名前が、次々と祝福のコメントを残している。

「柚希ちゃんはいい子だからな。お前が泣かせたりしたら、俺が真っ先にぶっ飛ばすぞ!」

旭の親友・野口健太(のぐち けんた)だ。先週会った時は、私のことを親しげに「姉さん」と呼んでいた。

「旭さん、いちばん好きな人と結婚できて、本当によかったね!今夜は朝まで飲もう!」

大学時代、同じ店でアルバイトをしていた西野七海(にしの ななみ)だ。

「お祝いするのはいいけど、弟と柚希ちゃんの幸せのためにも、みんなちゃんと黙っててね。例の人には絶対知られないように」

旭の姉・桐谷麻里子(きりや まりこ)だ。数年前、事業資金が必要だと言って、私から160万円を借りた。その時は、弟のお嫁さんになるのは私しかいないとまで言っていた。

「お任せください!王子様とお姫様の幸せのためにも、魔女には絶対バレないようにします!」

旭の会社に入ったばかりのアシスタント、本田千尋(ほんだ ちひろ)だ。仕事を覚えるのが遅く、何度もクビになりかけていた。

そのたびに私が上司に掛け合い、仕事も一つずつ教えた。そうしてようやく、彼女は試用期間を乗り切った。

意地でもこぼすまいと顔を上げ、涙を必死にこらえた。

旭が別の女と8年も付き合っていたことを、誰もが知っていた。それなのに、示し合わせたように私にだけ黙っていた。

彼らの会話に、私の名前はなかった。王子様とお姫様の幸せを壊す魔女。ただの笑いもの。

画面を更新すると、旭の投稿が消えていた。

次の瞬間、着信音が鳴る。まる一日連絡のつかなかった旭からだ。

「ごめん、詩織。今日、会社のシステムに大きなバグが見つかって、今までずっとスマホを見られなかったんだ。

最近仕事が立て込んでてさ。入籍の話は、少し先にしよう。

そういえば、詩織。今日、インスタで何か面白いもの見なかった?」

声がわずかに上ずっている。探るような響きを隠しきれていない。

どうにか、普段どおりの声で答えた。

「今日は何度かけてもつながらなかったし、病院でお母さんに付き添ってたの。インスタなんて見てる暇なかったよ。

忙しいなら仕方ないね。入籍の話は……また時間ができた時でいいよ」

去年、母は胃がんと診断された。末期だった。

先生は、よくもってあと3年だと言った。

母の願いは、ただ一つ。私が30歳になる前に、旭との入籍を見届けることだった。

今日は七夕。そして、私の30歳の誕生日。

母は今も病室で、私と旭の婚姻届受理証明書を心待ちにしている。

けれど、その最後の願いはもう叶えられない。

旭は、ほかの誰かの夫になってしまったから。

壁際にしゃがみ込み、体をきつく丸めた。

涙が画面を打った。黒い文字が滲み、ぼやけていく。

画面を拭い、彼らが集まる店と部屋番号を黙ってメモした。

「レストランルミエール、302号室」

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第1話
七夕の当日、入籍を約束していた彼氏は突然、連絡がつかなくなった。夜になって、偶然、彼の投稿が目に入った。私にだけ見えないように設定するのを忘れたらしい。「20歳から28歳まで。俺たちの青春は、今日、ひとつの答えにたどり着いた」添えられていたのは、ウェディングフォトと、婚姻届受理証明書の写真。ウェディングフォトの中で、見知らぬ女の子が彼の肩に寄り添い、やわらかく笑っていた。怒りに任せてコメント欄を開いた。問い詰める言葉を打ち込もうとして、指が止まる。親友の書き込みが目に入ったから。「いろいろあったけど、やっとまた一緒になれたね。二人ともおめでとう!」胸が締めつけられて、震える指で親友に電話をかけた。長い沈黙のあと、彼女はようやく口を開いた。「うん。あの二人、付き合ってもう8年になる。みんな知ってたよ。わざと隠してたわけじゃないの。詩織って心が狭いから、知ったら騒ぎ立てるでしょ。そんなの、みっともないじゃん。柚希ちゃんと旭のほうが、もともとお似合いだったの。ここまで来るの、大変だったんだから。同じ女なんだし、二人の邪魔なんてしないでよ。少しくらい優しくしてあげなって」涙が頬を伝った。冷たい雫が落ちるたび、胸の奥が焼けるように痛み、ぽっかりと穴が開いていく。ーー私と桐谷旭(きりや あさひ)が一緒にいた12年のうち8年間、彼はほかの女の子を愛していた。みんな知っていた。口裏まで合わせて、私にだけ隠し続けていた。傷つくとわかっていながら、コメント欄をスクロールし続けた。親友だけではなかった。見覚えのある名前が、次々と祝福のコメントを残している。「柚希ちゃんはいい子だからな。お前が泣かせたりしたら、俺が真っ先にぶっ飛ばすぞ!」旭の親友・野口健太(のぐち けんた)だ。先週会った時は、私のことを親しげに「姉さん」と呼んでいた。「旭さん、いちばん好きな人と結婚できて、本当によかったね!今夜は朝まで飲もう!」大学時代、同じ店でアルバイトをしていた西野七海(にしの ななみ)だ。「お祝いするのはいいけど、弟と柚希ちゃんの幸せのためにも、みんなちゃんと黙っててね。例の人には絶対知られないように」旭の姉・桐谷麻里子(きりや まりこ)だ。数年前、事業資金が必要だと言って、私から160万円を借りた。その時は、弟
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第2話
個室のドアを押し開けた瞬間、きらきら光る紙吹雪が顔いっぱいに降りかかってきた。色とりどりの紙片の隙間から、旭があの女の子を抱き寄せ、夢中で唇を重ねているのが見えた。見慣れた友人たちは一斉にスマホを向け、キスを交わす二人を撮っている。幸せそうな空気は、私が現れた瞬間に砕け散った。私を見て、その場の全員が息を呑んだ。みんな慌てて視線を逸らす。誰一人、私と目を合わせようとしない。女の子が旭を見上げて、不思議そうに聞いた。「旭くん、この人もお友達なの?どうしてこの人が来たら、みんな黙っちゃったの?」「柚希ちゃん、この人はーー」旭の言葉を遮り、早瀬柚希(はやせ ゆずき)をまっすぐ見据えた。「私は、旭の恋人です。二人が付き合って8年になることは知っています。でも、私と旭は12年です。信じられないなら、アルバムに残っている動画をお見せします」アルバムを開く。12年分の思い出が、そのまま全員の前にさらされた。共通テスト前の壮行会。生徒代表としてスピーチを終えた旭が、その場で私に告白した。「俺の夢は帝都大(ていとだい)だけじゃない。もう一つは、藤井詩織(ふじい しおり)だ」大学の芝生の上。手を繋いで歩いていた旭が突然片膝をつき、小さなダイヤの指輪を私の薬指にはめた。40万円の指輪は、婚約指輪として特別高価なものではない。けれど、お金に余裕のない学生だった旭が、子どもの頃から貯めてきた全財産だった。「いつか、もっと大きなダイヤの指輪を買ってやるからな」狭いアパートの一室。酔った旭が私を抱きしめ、子どもみたいに泣きじゃくっていた。無理やり私にカメラを回させて、レンズの前で誓う。「俺が一生、詩織を幸せにする。何があっても、愛するのは詩織だけだ」会社の上場記念パーティー。集まった友人たちが私と旭を取り囲み、次々とはやし立てた。「なあ、バカ旭。そろそろ俺たちの詩織姫を、ちゃんと嫁にもらえよ!」旭はカメラを見ていなかった。その目には、私しか映っていなかった。「ああ。新居はもう買ってある。今、内装をやってるところだ。詩織の30歳の誕生日に、俺たちは籍を入れる」今日が、その30歳の誕生日だった。私の誕生日。籍を入れるはずだったその日に、彼はまる一日姿を消した。ほかの女の子と、婚姻届を出しに
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第3話
「詩織!」旭が切羽詰まった声で私を呼んだ。足を止めなかった。振り返りもしなかった。タクシーで病院へ向かう。今日の母は、いつもよりずっと血色がよく見えた。皮をむいたりんごを差し出し、母は目を輝かせて聞いた。「詩織ちゃん、婚姻届はもう出した?受理証明書、早くお母さんにも見せて」喉が詰まって、鼻の奥がつんとした。どう説明すればいいのか、わからなかった。それ以上に、母にだけは本当のことを知られたくなかった。勇気を振り絞り、打ち明けようとしたその時、旭が突然ドアを開けた。彼はベッドの脇に腰を下ろし、10年間変わらず、母の肩を丁寧に揉みながら、やわらかく笑った。「それが、書類に少し不備が見つかったんですよ。今、書き直してるところです。入籍は二、三日延びますけど、受理されたら必ず、お義母さんにも証明書をお見せしますから」旭が急に「おばさん」から「お義母さん」に呼び方を変えると、母の目にみるみる涙が浮かんだ。私たち二人の様子がおかしいことには、気づかないままだった。私は顔をこわばらせたまま、旭を部屋の外へ引っ張り出した。「もう終わったでしょう。まだ私に何をさせたいの」旭は慣れた手つきで、優しく私の後れ毛を耳にかけた。それから私を見て、ため息をつく。「詩織。俺たち12年一緒にいたんだぞ。今さら別れて、平気でいられるのか」平気なわけがない。それでも、どうにもならない。旭はもう、あの女の夫なのだ。目を赤くしたまま旭を睨みつけて、冷ややかに笑った。「平気かどうかなんて関係ない。別れるしかないでしょう」背を向けて歩き出そうとした私の前に、旭が立ちふさがる。私の肩を掴むと、突然、力任せに抱きすくめた。「でも俺は、嫌だ」腕の力が強すぎて、どれだけ押しても、どうしても振りほどけなかった。「大学の時、お前に指輪を買うために働いてたカフェで、柚希ちゃんと知り合ったんだ。大人しくて、話すとすぐ顔が赤くなるような子でさ。しつこい客に絡まれるたび、助けてやってた。そうしてるうちに、いつの間にか親しくなったんだ。一度、たちの悪い客に妙な薬を盛られたことがあって、ホテルまで助けに駆けつけた。そこでいきなりキスされて……俺も、拒めなかった。別れようと思ったことはある。でも柚希ちゃんには何の落ち度もないだろう。傷
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第4話
日々は、また元通りになったように見えた。相変わらず旭が買った新居に住み、昼は仕事に行き、夜は病院で母に付き添った。彼は新婚の妻に付きっきりで、めったに連絡してこなかった。連絡が来ないほうが、むしろ息がつけた。仕事帰りに、母がいちばん好きないなり寿司を買い、病院へ向かった。病室に入ると、ベッドのそばに、若い女が二人腰かけていた。思わず駆け寄る。振り返ったのは、美月と、柚希だった。声が震えるのを、抑えられなかった。「美月ちゃん、どうしてこの人を連れてきたの」母は笑って私を見上げ、説明するように言った。「美月ちゃんがね、お母さんが退屈だろうからって、お友達を連れてきてくれたのよ。柚希さんとは初めて会ったけど、お母さん、心からいい子だと思ったの。ねえ、こんなに優しくてきれいな子なのに、旦那さんが外で愛人を作ってるんですって。本当にひどい話でしょう。柚希さん、よく聞いて。人の旦那さんに手を出すような人にはね、いつか必ず罰が当たるものよ」柚希がゆっくりと立ち上がり、私の前まで歩いてきた。私を一瞥した。その目は少しも笑っていなかった。それでも母へ向き直ると、口元にはやわらかな笑みを浮かべた。「おっしゃるとおりです。泥棒猫には、いつか必ず罰が当たります。では、娘さんにはいつ罰が当たるんでしょうね?あ、もう当たっていましたね。ただ、罰が当たったのは娘さんではなく、あなたのほうでした。末期の胃がん。これなら、まあ、ぎりぎり満足してあげてもいいです」母の顔から血の気が引いた。弱った体を必死に起こして、柚希を睨みつける。「あなた、何を言っているの!」美月は眉をつり上げ、婚姻届受理証明書を母の顔に投げつけた。「柚希ちゃんは嘘なんかついてない。詩織のほうが、本物の泥棒猫なんだから!ほら、見て。柚希ちゃんはもう旭と入籍して、れっきとした夫婦なの。詩織は旭に妻がいると知ってて、それでも図々しく旭の家に住んで、旭のお金で治療費まで払ってる。それって全部、夫婦の共有財産でしょ?柚希ちゃんには取り返す権利があるんだから!」7月7日、七夕、愛娘の誕生日。母は証明書の日付を食い入るように見つめた。次の瞬間、口から血を吐いた。「お母さん!」泣きながらナースコールに手を伸ばした私を、親友と柚希が左右から押さえつけ
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第5話
目を覚ますと、胸がひどく痛んだ。少し動くだけで、傷口が裂けそうだった。無理に起き上がろうとした私を、ベッドの脇で付き添っていた旭が慌てて支えた。「詩織、やりたいことがあるなら全部俺に言え。傷はまだふさがってない。動いたら痛むぞ」旭は私が楽に寄りかかれるよう、ベッドの背をゆっくり起こした。体勢を整えると、会社に電話をかけた。「詩織が怪我をしたんだ。付き添いを頼んでも、やっぱり心配でな。俺がそばにいる。田村(たむら)くん、二、三日会社には出られない。悪いが、ほかの管理職と一緒に会社を回しておいてくれ」旭が何を話しているのかなんて、聞く気にもなれなかった。母がどうなったのか。それだけが知りたかった。助かったのだろうか。胸の激痛をこらえ、もう一度身を起こそうともがいていると、母の主治医の安藤(あんどう)先生が、険しい顔で病室に入ってきた。「何度も申し上げましたよね。お母さんの容態は重く、いつ急変してもおかしくない。常に誰かがそばについていなければいけないと。ご家族として、あまりに無責任ではありませんか。患者さんを一人きりで病室に置いて。私たちが発見した時には、すでに心肺停止の状態で、死後硬直も始まっていました」旭は医師を見つめたまま、言葉を失った。あの時は状況が切迫していて、詩織を助けることしか頭になく、お義母さんのことを完全に忘れていた。まさか、こんなに突然に逝ってしまうとは。旭は震えの止まらない私をきつく抱きしめ、背中をさすりながら、繰り返しなだめた。「詩織、自分を責めるな。お義母さんは急だったんだ。お前のせいじゃない。泣きたいなら、俺の胸で泣けばいい」それでも旭はまだ、母の死を、付き添いがいなかったために起きた事故だと思っていた。頭に血が上って、全身の力を振り絞り、旭の頬を打った。胸の傷口が開き、目の前が真っ暗になった。危うく意識を失うところだった。旭を睨みつけたまま、唇の端をかすかに歪めた。「旭。私がどうして柚希にナイフを向けたか、わかる?あの女が、お母さんの前で私を泥棒猫呼ばわりして、お母さんを怒らせ、発作を起こさせた。あの女が、助けを呼ぼうとした私を押さえつけて、お母さんが助かる機会まで奪った。お母さんは、私の目の前で息を引き取ったの!あの女がお母さんを殺した。私があ
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第6話
ノックの音がした。旭が立ち上がってドアを開けると、泣きそうな顔をした柚希が立っていた。柚希の目は赤く、今にも涙がこぼれそうに潤んでいる。傷ついた子うさぎのようだった。旭の表情がたちまち緩み、声も無意識にやわらかくなった。「柚希ちゃん、どうして来たんだ」柚希は旭の胸に飛び込んだ。「来なかったら、詩織さんに何を言われるかわからないもの!私が詩織さんのお母さんを殺したって、そう言われたんでしょう?うぅ、私じゃないもん!具合がよくないって聞いて、美月ちゃんにお願いして、お見舞いに連れていってもらったの。病室の前まで来た時、詩織さんとお母さんの話がたまたま聞こえたの。お母さんに死んだふりをさせて、それを私のせいにするって相談してた。そうすれば旭くんが私に愛想を尽かすから、あの親子はこれまでどおり旭くんのお金を好きに使えるって……旭くんがあんなによくしてあげてたのに、二人は旭くんを利用してた。旭くんのことを思ったら腹が立って、病室に飛び込んで詩織さんを問い詰めたの。そしたら計画がばれたと思ったのか、いきなり本気で私を殺そうとしてきて!旭くん、怖い。本当に怖かった。私、もう少しで死ぬところだった。もう少しで、旭くんに二度と会えなくなるところだったの!」柚希は旭の肩に顔を伏せて、しゃくり上げて泣いた。旭は一瞬ためらったが、柚希をそっと抱き返し、静かになだめた。「もう大丈夫だ。俺がいる。ちゃんと調べる。だから、安心しろ」旭が振り返って私を見た。その視線がわずかに揺れた。二人の女。一人は12年付き合ってきた恋人。もう一人は8年間甘やかしてきた愛人。どちらを信じるべきか、決めかねているようだった。柚希の後ろについてきた美月が、突然口を開いた。「旭。私、柚希ちゃんの話が本当だって証言できるよ。病室の前で、詩織とおばさんが、死んだふりをして柚希ちゃんに罪をかぶせる相談をしてるの、確かに聞いた。さっき死亡を告げに来たお医者さんも、詩織が前もって買収してたんだよ。おばさんは本当は死んでない。詩織がどこかに連れ出して、隠してるの。信じられないなら、病院に頼んで、おばさんの遺体を見せてもらえばいい。絶対に見つからないから!」旭はしばらく黙り込んだあと、もう一度私を見た。「美月の言うとおりだ。お義母さんが死
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第7話
病院長に謝り、旭は硬い表情のまま電話を切った。彼はまだしゃくり上げている柚希を胸に抱き、失望をあらわにした目で私を見た。「詩織。お前が、こんな人間だったなんてな。どうしてそこまで卑怯になれるんだ。お義母さんに死んだふりをさせて、柚希ちゃんに罪をなすりつけるなんて!死んだふりなんてやらせて、本当にバチが当たってお義母さんが死んだらどうする!」柚希が横目で私を見て、勝ち誇った笑みを口の端に浮かべた。親友だった美月も腕を組んで、得意げな顔をしている。この瞬間、柚希と言い争うことも、旭に信じてもらうことも、どうでもよくなっていた。母の遺体はどこへ消えたのか。知りたいのは、それだけだった。母の主治医の安藤先生は、医者として誠実で、人柄も信頼できる。柚希や美月に買収されるはずがない。その安藤先生が母の死を断言した以上、母は本当に逝ったのだ。なのに、病院に遺体がない。憎しみを込めて、美月と柚希を睨みつけた。立ち上がる力さえ残っていたなら、今すぐ二人を道連れにしていた。亡くなった人まで、この女たちは利用する。母の遺体を盗んだのは、絶対にこの二人だ。お母さんを返して。枕元の木製のティッシュケースを掴み、低く唸りながら柚希に投げつけた。「このクソ女!お母さんはもう死んでるのよ。私に罪を着せるために、遺体まで踏みにじるの?あんたこそバチが当たればいい!お母さんを返してよ!」ケースが柚希の額に当たる寸前、旭はとっさに手を伸ばし、手の甲で受け止めた。木製のケースは硬く、角も鋭かった。旭の手の甲が、みるみる腫れ上がった。彼は柚希の前に立ちはだかり、私を見据えた。その目から、かつてのやさしさは消えていた。「もういい!詩織、ここまで来てまだ柚希ちゃんを陥れるのか。俺がお前を信じるとでも思ってるのか。長い付き合いだったから、柚希ちゃんを傷つけたことは今回は警察に通報しない。次に同じことをしたら、必ず刑務所に入れる。お義母さんの治療費は、これからも毎月きちんと振り込む。もう二度と会わない。俺の妻を悲しませたくないからな」柚希が少し不満そうに、ぼそりと言った。「旭くん、お仕事すごく大変なのに。私、知らない人の治療費まで負担してほしくないなあ」美月も横から言い添える。「旭、柚希ちゃん
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第8話
あの日以来、旭は一度も私を見に来なかった。旭が送ってくるはずだった治療費も、柚希に止められた。お金がなくなって、私は特別室から個室へ、さらに大部屋へと移された。大部屋は騒がしく、ろくに体を休められなかった。治療の選択肢も限られ、体はなかなか回復しなかった。1か月後、手元の最後のお金も尽きて、退院するしかなかった。胸に残った、蛇のようにうねる赤黒い傷跡を撫でると、抑えきれない憎しみに飲み込まれそうになった。退院して最初にしたことは、警察署へ行って被害届を出すことだった。「母の遺体が盗まれました。被害届を出したいです」警察の動きは速かった。一日もかからずに、病院の防犯カメラ映像から、遺体が運び出された経路を割り出した。少し調べれば、すぐにわかる真実だった。それなのに旭は、柚希の言葉を鵜呑みにした。笑ってしまう。防犯カメラの映像をたどった結果、母の遺体は柚希と美月が運び出したとわかった。警察はさらに、二人の購入履歴を洗った。柚希はメルカリで、中古の冷凍庫を一台買っていた。母の遺体は、その冷凍庫に入れられている可能性が高い。警察はそう見ていた。「藤井さん、ただちに現場へ向かいます。必ず被疑者を検挙して、お母様のご遺体をお返しします」私は拳を固く握りしめた。爪が肉に食い込んだ。刑務所に入るだけでは、柚希には生ぬるすぎる。柚希がインスタで自慢していた最高級の結婚式場の写真を見て、口元に冷たい笑みを浮かべた。人生でいちばん輝くはずの瞬間に、どん底へ叩き落としてやる。「刑事さん。今すぐ動くと、かえって勘づかれてしまうと思います。柚希の結婚式は3日後です。当日は美月も出席します。二人とも必ず会場に現れます。同時に逮捕するなら、その日がいちばん確実だと思います」しばらく話し合った末、警察も私の提案を受け入れた。「わかりました。3日後、逮捕に踏み切ります」3日後。会場は、錦城市屈指の結婚式場、ホテルシエル。旭が全館を貸し切っていた。会場は花で埋め尽くされ、シャンデリアの光までかすんでいた。旭は和牛や伊勢海老をふんだんに使った豪華なフルコースを、何百人もの招待客に振る舞っていた。誰もが、旭は若い妻に夢中なのだと言った。私はインカムの位置を直し、警察に現在地を伝えてから、ゆっくりと
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第9話
それは、柚希が数人の女友達と集まって話している動画だった。ソファに沈み込み、缶ビールを飲みながら、柚希は何度も白目をむいていた。「美月ってほんとバカ。私に誕生日プレゼントをねだってきたんだけど、何様のつもり?あの子とつるんでるのは、藤井詩織の秘密を聞き出すためだけだもん。それに、あの子ってブスでスタイルも悪いから、隣にいると私が引き立つし。あんな子、友達でもなんでもないっての。旭くんの親友の野口って、貧乏でダサいよね。一生、人の後ろをついて回るだけのタイプ。旭くんのお姉さんも、本当に図々しいよね。もうすぐ35歳なのに結婚もしないで、実家に居座って弟にたかるなんて、完全に寄生虫じゃん!旭くんのお金は私のお金なのに、なんであの人に使われなきゃいけないの?結婚したら、すぐに追い出してやる!」……柚希は周囲の人間を、ひとり残らず陰でボロクソに言っていた。柚希の甲高い叫び声を最後に、動画は途切れた。さっきまで柚希の肩を持っていた人たちが、一人、また一人と表情を凍らせた。普段は優しくてかわいらしい柚希が、裏ではここまで違う顔を見せるとは、誰も想像していなかった。とんだ腹黒女だ。旭でさえ、信じられないとばかりに何歩も後ずさった。手にしていた花束が床に落ちる。柚希を見る目には、見知らぬ人間を前にしたような戸惑いと恐れが浮かんでいた。「柚希ちゃん……みんな、俺の親友や仲間、家族なんだぞ。どうしてあんなことが言えるんだ。お前、どうかしてる」柚希は目に涙をため、必死に首を振った。口を開きかけた瞬間、美月に床へ押し倒された。美月は柚希に馬乗りになり、怒りに任せて何度も頬を打った。ウェディングドレスまで掴んで引っ張った。「あんたを友達だと思ってたのに、よくもそんなこと!このクソ女!誰がブスでスタイルも悪いって?この猫かぶり、殺してやる!」麻里子も友人たちも、せいせいした顔で眺めていた。やがて次々に袖をまくり、加勢しようとする。このままでは死人が出る。すぐに、外で待機している警察へ合図を送った。「会場が混乱しています。容疑者二人が取っ組み合いになっています。すぐに来てください」ほどなくして、警察官たちがドアを蹴破って入り、この茶番を止めた。柚希と美月は、そろって手錠をかけられた。旭が怪訝そうに尋
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第10話
警察は旭に一連の証拠を示し、二人には逮捕状が出ていると告げた。旭は、髪もドレスも乱れきった柚希を怒りに満ちた目で見つめ、全身を震わせていた。騙されていた。嘘をついていたのは詩織じゃない。柚希だ。お義母さんは本当に逝っていた。柚希と美月の二人に、追い詰められて。そのうえ二人はお義母さんの遺体まで盗み出し、自分たちが犯人のくせに、罪をすべて詩織になすりつけた。疑われていたあいだ、詩織はどれほど絶望していただろう。俺は最低な男だ。詩織には償いようがない。柚希と美月が警察に連行されていく。私の前を通り過ぎる時、誰よりも見た目にこだわっていた美月は泣きじゃくり、化粧もすっかり崩れていた。「詩織……ごめん。本気で私を友達だと思ってくれてたのに、くだらないプライドで、ずっと詩織に張り合ってた。柚希ちゃんに手を貸して詩織を傷つけて、私をかわいがってくれたおばさんまで死なせた。ごめん……」二人が連れていかれるのを、冷ややかに見送った。今さら謝られたって、何も戻ってこない。お母さんは、もういないのに。後悔だって、自分が刑務所に入るとわかったからにすぎない。美月。あなたなんか、もう友達でもなんでもない。サイレンの音が、少しずつ遠ざかっていく。めちゃくちゃになった式場をひと目だけ見て、帰ろうとした。警察が、母の遺体を見つけたところだった。迎えに行って、家へ連れて帰るのだ。なのに、集まった人たちが示し合わせたように、私の行く手をふさいだ。先頭に立っているのは、当然のように旭だった。後悔をにじませた目で私を見つめ、その場に片膝をついた。「ごめん、詩織。俺に人を見る目がなくて、お前を傷つけた。お義母さんを迎えに行くんだろう?俺も一緒に行く。これだけ長く一緒にいたんだ。俺はとっくに、お義母さんを自分の母親だと思ってた。行こう、お義母さんを迎えに行こう」麻里子も涙をぬぐい、諭すように言った。「旭は悪くないの。あの女がずる賢すぎて、みんな騙されたのよ。ねえ詩織ちゃん、人は心から反省すれば変われるものよ。お姉さんの言うことを聞いて、今回だけは旭を許してあげて。これからは今まで以上に、詩織ちゃんを大切にしてくれるから」ほかの友人たちも、口々に引き止めてくる。「詩織、ごめん」「詩織、柚希ち
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