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愛を尽くした、その果てに
愛を尽くした、その果てに
Penulis: クルミ

第1話

Penulis: クルミ
「みのり……ずっと愛しているよ」

深夜の寝室、佐原景斗(さはら けいと)はベッドの上で抑えきれない呻き声を漏らしていた。

絶頂に達しかけたその刹那――

枕元に置いたスマホが不意に振動し始めた。

普段の彼なら無視するはずだった。

だが、画面が灯り、表示された名前を見た瞬間、景斗の動きは止まった。

橘みのり(たちばな みのり)は、荒い息を整えながら、その様子を黙って見つめていた。

「……もしもし?」

静まり返った夜気の中で、電話の向こうから男の声が響いた。

「景斗!詩織のこと、覚えてるか?!」

景斗は低く声を抑え、アラビア語で遮った。

「声を抑えろ、今は都合が悪い」

相手もすぐにアラビア語に切り替えたが、声は依然として大きいままだった。

「病院の診断が出た!詩織は末期がんだそうだ!余命一ヶ月だって!彼女は死ぬ前にお前と一緒にいたいと言っている。それが彼女の最後の願いなんだ!」

その瞬間、景斗の顔色が一変した。

「……何だと!?すぐ行く!」

電話を切ると、景斗は振り返りもせずに言った。

「みのり、急用ができた。家で待っててくれ。すぐ戻る」

彼女が答える間もなく、彼は身を起こし、シャワーを浴びて服を着替え、玄関のドアを閉めて去っていった。

部屋には再び静寂が落ちた。

振動音が響き、みのりのスマホ画面が明るく光った。

そこには沢木詩織(さわき しおり)からのメッセージが表示されていた。

【橘みのり、あなたの負けよ。言ったでしょ?景斗は私のものだって】

その上には、三日前に届いたメッセージがあった。

【もし私が癌になったら、彼はどうすると思う?あなたを捨てて、私のもとへ来るに違いないわ】

みのりはゆっくりとスマホを伏せ、開け放たれた寝室の扉を見つめた。

景斗は知らなかった。

彼女がとっくにアラビア語を習得し、さっきの通話内容をすべて理解していたことを。

静かな沈黙の中で、みのりはうっすらと苦笑を浮かべた。

「そうね……私の負けよ……」

その呟く声は、夜の静寂の中に消えていった。

彼と過ごした日々のひとつひとつが、囁きとともに脳裏に蘇る。

景斗は南城市随一の財閥、佐原家の御曹司にして、「天才」と謳われた青年だった。

一方の私、みのりは、山奥の桐ノ里育ちの田舎娘に過ぎなかった。

十七歳の夏、崖から転落した彼と出会った。

あれほど整った顔立ちの人を、私はそれまで見たことがなかった。

私は必死で彼を家まで背負い、懸命に看病した。

目を覚ましたとき、景斗は視力を失い、記憶すら失くしていた。

それから一年以上、彼は私の家で暮らした。

記憶を取り戻した彼は、ようやく私の助けで佐原家へ連絡を取ることができた。

その夜、景斗は私に告げた。

「一緒に南城市へ戻ってほしい。一生、君だけを愛している」

私は泣きながら頷き、迷いなく南城市へついて行った。

そして、後になって知った。

あの日、彼が崖から落ちたのは事故ではなかったことを。

当時、彼には詩織という恋人がいて、彼女と山道を散策していたとき、詩織を庇って転落したのだと。

だが、沢木詩織は何も語らず、そのまま海外へ去っていった。

南城市に戻った頃、景斗の視力はまだ回復してなかった。

佐原家は後継者の交代を検討し始めていた。

私は彼がその現実に耐えられるのか不安だったが、彼は私の手を握りしめ、微笑んで言ってくれた。

「俺にはみのりがいてくれれば、それで十分だ」

その言葉を信じて、私は大学で寝食を忘れて勉学に励み、人体実験に近い危険な治療法すら試した。

そして、ようやく――彼の目は光を取り戻した。

彼の視力が戻ったとき、「一生、君を裏切らない」と言って、私を抱きしめてくれた。

そして、彼は再び佐原家の後継者となった。

「佐原家の跡取りが、訛りの残る田舎娘なんかと一緒にいるはずがない」と陰で笑う人もいた。

それでも彼は私を宝物のように大切に扱い、誰かが私を侮辱すれば、その場で怒りをあらわにした。

佐原景斗の最愛の人は橘みのりであると、彼は態度で示し続けた。

周囲も次第に信じるようになり、私自身も信じて疑わなかった。

――三ヶ月前、沢木詩織が戻ってくるまでは。

彼女は帰国後、私にLINE登録をして、彼との思い出話を毎日のように送ってきた。

でも、私は気にしなかった。

過去のことだし、今の景斗は私一筋だと信じていたから。

でも――彼は一本の電話で、何の躊躇もなく私を置いて、彼女の元へ行った。

詩織が「癌で余命わずか」と告げてきた電話一本で。

三日前、沢木詩織から届いたメッセージを景斗に見せたとき、「気にするな、あれは君の気を引きたいだけだ」と彼は笑っていた。

その言葉を信じていたのに……。

私は部屋の片隅で身体を丸め、息を殺していた。

どれくらい時間が経ったのだろう。

スマホが震え、見知らぬ番号から動画が送られてきた。

震える指で再生ボタンを押すと、聞き慣れた景斗の声が耳に刺さった。

「詩織……」

沢木詩織が彼の胸に飛び込み、顔を上げてキスを求めていた。

「景斗、私はもうすぐ死んじゃうの……お願い、突き放さないで……」

景斗は目を閉じ、そのキスを受け入れた。

画面は途切れ、残されたのは二人の荒い呼吸だけだった。

その声は骨の髄まで染み付いていて、聞き間違えるはずもなかった。

頬に、音もなく涙がつたった。

私はスマホを握りしめ、一通のメッセージを打ち込んだ。

【教授、海外研修の件はお受けします】

景斗は私たちの誓いを裏切った。

だから私は――彼のもとを去る決心をした。
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