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第2話

Author: クルミ
景斗は、一晩中帰ってこなかった。

翌日の早朝、白川和馬(しらかわ かずま)教授から電話がかかってきた。

「……橘君、本当に一緒に海外へ行く気になったのか?」

白川教授の声は、わずかに息が上がっていた。

「最初の滞在先は国境なき医師団だ。危険な現場にも入るし、国内とは長く連絡が取れなくなるかもしれないぞ」

私は小さく息を吐くも、はっきりと言った。

「はい。もう決めました」

しばらく沈黙が落ちた。

「……ついこの前まで、『婚約者と結婚するから』って断ってただろ?急にどうしたんだ?」

「別れるつもりです」

その一言で、察してくれたのだろう。

「……わかった。覚悟はできてるんだな?」

「はい、できてます」

「じゃあこの二日間で履歴書と必要書類をまとめて提出してくれ。俺が手続きを進める。出発は一か月後だ」

電話が切れると同時に、景斗からメッセージが届いていることに気づいた。

【みのり、急な仕事で出張になった。南城に戻ったら連絡するから、大人しく待っててくれ】

その文字を見つめ、私は苦笑いした。

スマホを伏せて机に置き、留学手続き用の書類を広げた。

私の実家は山間の小さな集落で、十数軒の家がぽつぽつと並ぶだけの場所だった。

祖母は村でただ一人、薬草を使える村医者だった。

私は三歳の頃から祖母の背中について山を歩き、薬草や鉱石の効能を学びながら育った。

私が医大への進学を決めたのは、ただ景斗の目を治したかったからだ。

景斗も、本気で私を支えてくれた。

佐原家の人脈を使って全国の医療ネットワークを動かし、トップ専門医に弟子入りできるよう、私を推薦してくれた。

私は医術の才に恵まれ、腕は飛躍的に向上していった。

彼の目を治したとき、私の恩師となったのが白川教授だった。

半年前、白川教授が数名の医学生を連れ、海外の医療支援活動を行う計画を立てたとき、私は結婚を理由に断った。

でも、今は違う。

私は国境なき医師団と行動をともにし、より多くの命を救うと決意した。

そうすれば――景斗は、もう私を見つけることはできない。

書類をまとめ終えた頃、また見知らぬ番号から動画が届いていた。

再生すると、沢木詩織が景斗の胸に寄りかかっていた。

「景斗……私、一ヶ月だけ、あなたの妻になりたいの。一か月後に私が死んだら、みのりさんのところへ戻ればいいわ。これが、私の最後の願いなの……」

景斗は目を伏せ、悲しげに彼女を見つめた。

「……わかった。約束するよ」

その瞬間、詩織の目が潤み、笑顔がこぼれ落ちた。

「ありがとう!やっぱり信じてたわ!」

そのそばで、誰かが小声で尋ねていた。

「景斗……もし、みのりさんにバレたらどうする?」

景斗はためらわず答えた。

「大丈夫だよ。詩織がいなくなったら、俺はまたみのりのもとに戻るから」

添付されていたのは、婚姻届の受理証明書の写真だった。

真っ赤な印影が、私の心臓から流れる血の色と重なった。

大学卒業後、私は衝動的に景斗にプロポーズしたことがある。

そのとき彼は笑って言った。

「そういうのは俺から言わせてくれ。結婚も入籍も、ちゃんと準備して記念日にしよう」

あのときは、本気だと思っていた。

でも、相手が私じゃなければ――彼はすぐに婚姻届を出せるのだと、今さら気づいた。

三日後、私は病院に退職届を出し、白川教授に書類を託した。

家に戻ると、また例の番号から動画が届いた。

再生すると、沢木詩織が景斗の胸に顔を埋めて泣いていた。

「景斗、お願い……私に、あなたの子どもを授けて……そうすれば、私があの世に逝っても、この子と一緒だから寂しくないわ……」

景斗は彼女の髪を撫で、優しく答えた。

「……わかったよ、詩織」

動画を閉じると、私はしばらくその場に呆然と立ち尽くした。

そして、思わず苦笑いが漏れた。

私は家の中にある景斗とのペアグッズをすべて集め、ゴミ袋に詰め、階下のゴミ箱へ捨てた。

「何してるんだ?」

振り返ると、景斗が立っていた。

「……不用品を処分しただけよ」

彼は部屋に入るなり、異変に気づいた。

「みのり……ペアの電動歯ブラシ、買ったばかりだったのに……もう捨てたのか?」

私は少し間を置いて答えた。

「メーカーが問題を起こしたって聞いたの。使いたくなくなっただけ」

景斗は呆れたように笑い、いつものように私の頭に手を伸ばした。

「みのりは、相変わらず真面目だな」

思わずその手を避け、私は景斗の目を見つめて言った。

「私はね、誤魔化しができない人間なの。知ってるでしょ?」

でも、彼はその言葉に秘められた意味に気づかず、私を抱きしめた。

「はいはい、俺は真面目なみのりが大好きだよ」

その瞬間、あの動画の光景が脳裏をよぎった。

吐き気が込み上げ、思わず口を覆って彼を押しのけた。

「みのり……お前、まさか妊娠したのか?」

私は顔を上げ、景斗を見つめた。

「もしそうだとしたら?」

景斗は一瞬の躊躇もなく言った。

「堕ろしてくれ。今はタイミングじゃない」

――沢木詩織とは、子どもを作る約束をしたくせに。

あの女が病気を装ってるということを、彼はまだ知らない。

私は笑った。

「冗談よ。最近ちゃんと食べてなかっただけ」

「なんだ、心配させるなよ」

景斗は安堵の笑みを浮かべ、胃薬を私に差し出した。

夕食は景斗が作った。

私の好物ばかりを並べ、優しい声で取り分けてくれた。

もし自分の目で真相を確かめていなければ、この優しさを信じていたかもしれない。

この男が、他の女と婚姻届を出し、その相手と子どもを作ろうとしているなんて。

その夜、同じベッドで横になったとき、景斗が私を抱き寄せ、服のボタンに手をかけた瞬間――全身の毛が逆立った。

私は思わず身を翻し、ベッドの端へ避けた。

「……今日は、無理」

彼は驚き、一瞬だけ黙ったが、すぐに笑顔を作って私の頭を撫でた。

「わかったわかった、無理しなくていい。おやすみ」

私は顔を彼の胸に埋めたまま、目を閉じて寝たふりをした。

そして、景斗はスマホを手に取り、小声で私に呼びかけた。

「みのり……?」

私は答えなかった。

やがて、ドアの鍵が閉まる音がした。

スマホのバイブ音が耳に残る。

どこへ行ったのかなんて、聞かなくても分かる。

ふと涙が止めどなく流れた。

朝になり、目を開けるとスマホの通知が並んでいた。

ひとつは知らない番号からの、景斗と詩織の深夜の写真。

そして、もうひとつは景斗からのメッセージだった。

【みのり、今日はおばあちゃんの命日だろ?夜中に仕事を片付けたから、九時に迎えに行く。一緒に墓参りに行こう】

あまりにも残酷で、滑稽だった。

私は黙って立ち上がり、冷やしたタオルを取り出して、そっと瞼に当てた。

腫れが、少しでも引くようにと。
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