「……は?」私は一瞬、何を言われたのか理解できなかった。宏は気だるげに肩をすくめ、何でもないような口調で言った。「山田時雄のことだ」「その夜、君を家まで送ったのは彼だったな?ちょうど帰国したばかりのタイミングで、すぐに会いに行ったってわけか」その声色は、皮肉とも自嘲ともつかない響きを帯びていた。私は思わず眉をひそめ、彼の目を真っ直ぐに見つめた。「……私が山田先輩を好きだって、そう言いたいの?」「違うのか?」彼は口元をわずかに歪めた。冷たくて、薄情で──私の目には、それがただただ嘲るように映った。ありえない。今までに感じたことのない怒りが、一気に込み上げた。「宏……あなた、最低だわ」パシンッ!! 思い切り、彼の頬を叩いた。たとえどれだけ抑えようとしても、私の目元はすでに濡れていた。涙が止まらず、次第に笑いさえこみ上げてくる。おかしくてたまらない。 私は、彼をこんなにも長く愛してきたのに――最後に返ってきた言葉が、「別の男のせいで離婚するのか」だなんて。馬鹿みたい。くだらない。心底、呆れた。 いつの間にか、来依が来ていた。その後ろには、伊賀も立っていた。来依は私の腕を取り、迷いなく出口へと向かった。大きな目で事の成り行きを見守っていた伊賀に、ピシャリと声を飛ばす。「伊賀、何ぼーっと突っ立ってんの?あんたを呼んだのは、引っ越しの荷物を運ばせるためなんだけど?」伊賀はスーツケースを見て、私を見て、宏を見て、そして再び来依を見る。「えっ?えっ?」完全に混乱した様子で、宏に助けを求めるように視線を向けた。「ひ、宏さん……」だが宏は、一瞬の沈黙の後、冷たく言い放った。「……運べ」…… 三年の結婚生活。七年の片思い。こんなにも醜く終わるなんて、想像もしなかった。人は後ろめたい時、先に相手の非を探そうとした。宏も、例外ではなかった。…… 黒のGクラスが、ゆっくりと車の流れに溶け込んでいく。車内では、伊賀が何度も迷った末に口を開いた。「……本当に、宏さんと離婚するのか?」「あんたに関係ないでしょ?運転に集中しなさい」来依が即座に睨みつけた。「急に引っ越すって言ったから、業者も手配できなくてね。だから、こいつに荷物運びを頼ん
まだ正式に離婚もしていないのに、もうそんなに必死なのね。アナにとって、この株はどうしても手に入れたいものなのだろう。確かに、市場価値の高い株だった。私も、手元に残しておくつもりはなかった。ただ――あまりにも簡単に彼女の思い通りにしてやるのも、面白くない。私はうっすらと眉をひそめ、静かに問いかけた。「あなた、どういう立場で私にそれを聞いてるの?」アナは優雅に笑い、相変わらず高飛車な態度で言った。「まさか、独り占めするつもり?あれは宏くんが『妻』に贈ったものよ。あなたたちが離婚するなら、もうあなたのものじゃないわ」「……まだ病院には行ってないの?」私は心底不思議そうな顔をしてみせた。「病気は早めに治療しないとね。薬が効かなくなったら、精神病院に送られることになるわよ?」アナの目が細まり、声を低くした。「南……私を頭のおかしい人扱いしてる?」私はそれ以上関わる気もなく、淡々と話を切り上げた。「退職届はもう届いてるはずよね。早めに処理して」「言われなくても、昨日のうちに人事部に出しておいたわ」まるで、今すぐにでも私を追い出したいとでも言わんばかりの口調だった。私はそれ以上何も言わず、デスクに座り、退職のための引き継ぎ資料を整理し始めた。宏も、きっと私が早くいなくなることを望んでいる。おそらく、退職の手続きは数日以内に終わるだろう。私がまるで意に介さない態度でいると、アナは次第に焦り出した。「どれだけごねたって、株は返してもらうからね。恥知らずにもほどがあるわ!」ちょうどその時、小林がコーヒーを持って部屋に入ってきた。私は顔を上げずに指示した。「江川部長をお見送りして」人の目がある場所では、アナも無理に騒ぎ立てることはできなかった。だが、数分後、彼女のオフィスから何かが割れる音が聞こえてきた――。……予想外だったのは、弁護士が離婚届を用意した時も、退職届が一向に承認されなかったことだ。離婚届をプリントアウトし、宏にサインをもらいに行こうとした矢先――小林が勢いよく部屋に飛び込んできた。「南さん、大事件だ!」彼女はドアを閉めると、興奮気味に声を潜める。「元社長が会社に来たんですよ!それも、社長室で江川社長をめちゃくちゃ怒鳴りつけてるらしいです!江川社長みた
その言葉を聞き、私は気づいた。お祖父様の視線だけではなく、もう一つの視線が、私に向けられていることに。この問いに、答えたのが難しかった。お祖父様を騙したくはない。けれど、本当のことを言えば、きっと離婚を認めてはくれない。私は何度も逡巡したが、言葉を発する前に、お祖父様はすでに察したように頷いた。「よし、もうわかった。これ以上聞かんよ。せめてお祖父様の顔を立ててくれんか。こいつはな、幼い頃に母親を亡くして、それでこんなひねくれた性格になったんだ。あまり真に受けるな」そう言ったあと、宏の耳をぐいっと引っ張った。「お前はわしが長生きしてるのが邪魔なのか?さっさと怒らせて死なせたいなら、そうしろ!わしが死んだら、勝手に離婚でも何でもするがいい!」「ついに命まで盾に取るのか?」宏は苦笑混じりに言った。「何だ、その口の利き方は!」お祖父様はさらに怒り、また拳を振り上げた。宏は今回は素早く避け、渋々折れるように言った。「わかったよ。俺はどうでもいいんで、南に聞いて」まただ。また、その何も気にしないような態度だ。そう言ったと、宏は腕時計をちらりと見て、当然のように言った。「会議があるんで、行ってくる」彼はあっさりと立ち去り、私だけがお祖父様と向き合う形になった。しばらくして、お祖父様は静かに口を開いた。「南、わしは無理に何かを押し付けるつもりはない。ただな――後悔だけはしてほしくない。お前の気持ちは、祖父にはわかる」そう言って、自分の胸を指差した。「ここで、全部見えているんだよ。あのアナはな、考えが複雑すぎる。宏には向いていない」「でも、彼が好きなのはアナです」「それはな――本人がまだ自分の心を理解していないだけだ」お祖父様はゆっくりと立ち上がった。「だが、お前は――いつか気づく日が来る。祖父の頼みだ。もう一度だけ、試してみてくれんか?」そこまで言われてしまえば、これ以上拒むことはできなかった。私はひとまず頷いた。お祖父様が去った後、私は手に持っていた離婚届を机の上に置いた。大きく書かれた「離婚届」の文字を見つめながら、思わずぼんやりしてしまう。「へぇ、駆け引きができるタイプだったとはな」不意に、気だるげな男性の声が響いた。宏が会議を終えて戻ってきたらしい。私は眉をひそめ
時間を見ると、すでに深夜2時を回っていた。彼はアナと一緒に退勤したはず。なのに、どうして伊賀たちと飲んでいるの?しかも、伊賀の話ではアナはその場にいなかった。もう一度電話をかけるが、電源が切れていた。バッテリーが切れたのだろう。仕方なく、私は着替えてタクシーを呼び、彼らがよく集まる馴染みのプライベートクラブへ向かった。到着すると、店内はすでにほとんどの客が帰っていた。個室には、伊賀と時雄の二人だけが残っていた。──それと、もう一人。高級オーダースーツに身を包み、長い脚を優雅に組んだまま、ソファに寝転んで、気持ちよさそうに眠っている宏も。私の姿を見るなり、伊賀は肩をすくめ、困ったように言った。「南さん、宏さんが今日どうしちゃったのか分かんないけど、時雄を巻き込んで無理やり飲ませまくってたんだよ。止めても聞きゃしない」「……」理由は、だいたい察しがついた。彼は今でも、私と時雄の間に何かあると疑っている。男って、結局みんなそうなのかもしれない。自分は好き勝手しても、妻がほんの少しでも裏切る可能性があるのは許せない。たとえ、それが根拠のない思い込みだったとしても。私は隣に座る時雄へ視線を向けた。彼は端正な顔立ちのまま、少しぼんやりとした瞳でこちらを見ている。「先輩、大丈夫?酔い覚ましの薬を持ってきたけど、飲みますか?」おそらく相当飲まされたのだろう。目がうるうるした。「……もらうよ」少し意識を取り戻したのか、彼は静かに頷いた。頬が赤く染まり、まるで飴を待つ子どものような表情だった。私は薬を手のひらに乗せ、グラスの水を差し出した。「すみません、こんなに飲まされてしまって」「いや、俺が言ったのもなんだけどさ……時雄も、なんでそんなに頑固なんだよ?宏さんが飲ませるたびに、俺たちが止めても、結局全部飲み干してさ!」伊賀がぼやきながら言った。伊賀は私に車のキーを差し出した。「運転、大丈夫?」「うん」宏の横にしゃがみ込み、酒の臭いを我慢しながら、手を伸ばして彼の頬を軽く叩いた。「宏、起きて。家に帰るよ」彼は眉をひそめ、しばらくすると、うっすら目を開いた。私を認識した途端、突然、バカみたいな笑顔を浮かべた。「……ハーニー」そう言いながら、大きな手で私の手を包み込んだ。
十数分後、車はゆっくりと屋敷の敷地内へと滑り込んだ。「着いたわよ、宏」ドアを開けながら声をかけた。すると、完全に酔い潰れていたはずの男が、ドアの開いた勢いと共に、私の方へ倒れ込んできた。思わず眉をひそめた。「自分で立てる?」返事はない。仕方なく、熟睡している佐藤さんを呼び出し、彼を部屋まで運ぶのを手伝ってもらうことにした。「若奥様、何かお手伝いしましょうか?」佐藤さんが心配そうに尋ねた。「いえ、大丈夫。もう休んでね」夜遅くに起こしてしまっただけでも申し訳ないのに、これ以上迷惑をかけたわけにはいかない。佐藤さんが去った後、私は酒臭さに耐えながら宏の革靴とネクタイを外す。そのまま背筋を伸ばし、部屋を出ようとした瞬間――手が、突然掴まれた。驚いて振り返ると、彼は目を閉じたまま、低く呟いた。「……ハーニー……」「……」私は、彼が自分を呼んでいるとは思わなかった。きっと、アナと互いに「ハーニー」と呼び合う仲になったのだろう。無言のまま、私は彼の瞼をこじ開けた。「宏、よく見て。私は誰?」「……ハーニー……」彼はまるで子どものように、私の手をさらに抱え込み、低く囁いた。「南……俺のハーニーは、南」心臓が、一瞬だけ揺れた。けれど、すぐに冷静な声が頭の中で響いた。――彼はただ、酔っているだけ。本気にするな。正気の時の彼が選ぶのは、いつだって私じゃない。唇を噛み、淡々と告げた。「そう。でも、あなたは彼女を愛してない。好きでもない女と結婚して、大変だったでしょ?」彼のオフィスで聞いた言葉が、鮮明に脳裏に刻まれている。南、もう惑わされるな。「……大変じゃない……」宏は私の手の甲に顔をすり寄せ、満足そうに呟いた。「俺の嫁は、最高の女なんだ」「……目だけは節穴じゃなかったみたいね」江川家に嫁いでから、宏にも江川家の人にも、私はずっと「完璧な妻」を演じてきた。どれだけ彼に愛されなくても、礼儀も、態度も、一つも落ち度はなかった。だからこそ、彼も私の非を見つけられなかったのだろう。宏は何かを呟いたが、言葉ははっきりしない。そのまま、静かに眠りについてしまった。私はそっと手を引き抜き、部屋を出て、キッチンへ向かった。――酔い覚めスープを作るため
布越しにもかかわらず、腰に触れる熱が耐えがたいほどだった。まるで金縛りにあったように、体が動かない。それでも、頭は冷静だった。「もう、はっきり話したはずよ。私は、結婚生活に第三者が入り込むのが嫌なの」「……ごめん」宏は額を私の背中に押し当て、くぐもった声で謝った。――心が揺らぐか?当然、揺らぐに決まっている。何年もの想いを、一朝一夕で消し去ることなんてできるはずがない。もう一度だけ、彼にチャンスを与えたい。けれど――この数ヶ月の出来事が、頭の中で繰り返し再生された。彼を選ぶか、自分を選ぶか。私は息を吐き出し、静かに言った。「宏、あなたはいつも、間違いに気づくけど、結局また同じことを繰り返す。そんなの、何の意味もないわ」今度こそ、自分を選ぶ。七年も彼を選び続けた。もう、十分でしょ。宏は、長い沈黙の後、何も言わなかった。「手を離して。私たちは、ここまでよ」かつての私は、こんな冷たい言葉を彼に投げかけたなんて、想像すらできなかった。一方的な恋とは、ただの自己犠牲の祭り。彼の何気ない視線一つ、ちょっと手招きされただけで、すぐに駆け寄ってしまう。その度に、幸せを感じて、数日間も浮かれ続けていた。――まさか、その私が、別れを決意する日が来るなんて。どうやって帰ってきたのか、自分でもよく覚えていない。海絵マンションに戻った時も、まだぼんやりとしていた。けれど、つわりのおかげで――ベッドに横になった瞬間、意識が落ちていった。余計なことを考える暇すら、与えてもらえなかった。翌朝、インターホンの音で目が覚めた。私の新しい住所を知っているのは、来依くらい。でも、彼女ならパスワードを知っているから、そのまま入ってくるはず。――きっと、誰かが部屋番号を間違えたんだろう。私は布団を頭までかぶり、週末くらい自由に寝かせてほしいと願いながら、再び目を閉じた。しかし、外の訪問者は異様に粘り強く、インターホンを鳴らし続けた。諦める気配がない。仕方なく、寝起きの不機嫌さを引きずりながら、ドアを開けに行く。すると――ドアの前には、宏が立っていた。長身の影が入口を塞ぎ、黒い瞳がじっと私を見つめた。「ここに住むつもりか?」「……他にどこがあるっていうの?」――昨夜
……この家は、彼から譲り受けた直後からすぐにリフォームに取り掛かった。私は毎日、朝早くから夜遅くまで出入りしながら、細かく施工をチェックした。それでも――彼は一度も、それを気にかけたことはなかった。私がどれだけ遅く帰ろうと、せいぜい「遅かったな」とか、「デザイン部は忙しそうだな」と、社交辞令のように言っただけだった。私がどこで何をしていたのか――それは、彼が関心を持つ範囲にはなかった。もうすぐ離婚するというのに、今さら何を取り繕うというのか。「たぶん、あなたがアナと一緒にいた時よ」案の定、彼の表情が一瞬、固まった。――ああ、スッキリした。「俺たちは、最近連絡を取っていない」「説明しなくていいわ」もはやどうでもいいことだ。「好きにすればいいわよ。離婚が成立したら、いつでも彼女を迎え入れれば?」「南、君ってこんなに嫌味っぽい言い方をするやつだったか?」彼は苛立ったように眉間に皺を寄せた。「じゃあ、どう言えばよかった?」「離婚しようがしまいが、アナが俺たちの関係に影響を与えることはない」「自己欺瞞ね」私はそう言い捨て、玄関へ向かい、靴を履いて先に外へ出た。運転手は車の中で待機していた。私が外に出たと、すぐに降りてドアを開けた。車に乗り込んだ瞬間、宏もそのまま続いて乗り込んできた。車が動き出したと、普段ほとんど私に話しかけたことのない彼が、またどうでもいい話題を持ちかけた。視線を伏せ、私の足元をちらりと見て、不思議そうに尋ねた。「最近、ヒールを履いてないな?」「フラットシューズの方が楽だから」妊娠してから、高いヒールは一切履いていない。万が一、子どもに影響があったら困るから。「……そうか」彼は淡々と相槌を打ち、少し黙った後、また口を開いた。「新年の限定シリーズは、いつ頃生産に入るんだ?」「?」私は彼を訝しげに見た。――どういう風の吹き回し?「F&A」は江川グループの中でも確かに高級ブランドだが、ここ数年はグループの主力事業ではなかった。宏も、経営の細かい部分はすでに現場に任せており、通常は会議の報告だけ受けていれば十分なはず。今さら、こんな細かいことを聞いてくるなんて――。今日は一体どうなってるんだ?さっきはハイヒール、今は
……まさかここまで根に持つタイプだったなんて、今まで気づかなかった。仕方なく、私は彼の後ろをついていく。言い訳を考える間もなく、祖父がすでに穏やかな笑顔で口を開いた。「佐藤さんの話では、南はもうここを出たらしいな?」「はい、お祖父様」私は素直に認めるしかなかった。もし怒られたら、その時にどうにか機嫌を取るしかない。しかし、お祖父様は怒るどころか、むしろ宏を睨みつけ、怒りをぶつけた。「役立たずめ!自分の嫁一人すら、繋ぎ止められんとは!」「お祖父ちゃん、俺に言われても困るよ。出て行くって決めたのは南だし、俺にどうしろって?」「逃げられたなら、追うのが筋ってもんだろうが!」お祖父様は忌々しげにため息をついた。「まったく、お前は本当に父親そっくりだな。まさに、親が親なら子も子だ」「お祖父ちゃんもその『親』にあたるんじゃ?」宏が皮肉げに笑った。「生意気なガキが!!」お祖父様は目の前の茶碗を掴みかけたが、結局は思いとどまった。しばらく言葉を探すように沈黙し、最後には短く言い捨てた。「……腹が減ったな。飯にしよう」食事は思いのほか和やかに進んだ。お祖父様はしきりに私の皿に料理を取り分け、気づけば目の前には小さな山ができていた。「いっぱい食え。最近痩せたんじゃないか?もっと肉をつけろ」「ありがとうございます、お祖父様」私は笑顔で応えたが、胸の奥はじんわりと温かくなった。両親が亡くなってからというもの、こんなふうに誰かに食事をよそってもらうことなんて、ほとんどなかった。伯母の家は裕福だったけれど、食卓では伯父や従弟の視線が、私の箸の動きを無意識に追っていた。私は食べることが好きだったが、8歳にもなれば、遠慮すべき場面は理解できる。だから、箸を伸ばすのはいつも野菜ばかり。――けれど今、目の前の器がたくさんの料理で満たされているのを見た瞬間、どうしようもなく涙が込み上げた。お祖父様は普段、威厳があって人を寄せつけない雰囲気を持っている。でも、私にはいつも優しかった。「……どうした、バカ娘。何を泣いてる?」「泣いてませんよ」私は首を振り、涙を堪えて笑った。「お祖父様が優しすぎるから、父と母を思い出しただけです」「そうか」「ずっと君のご両親に会ったことがないんだ。一
来依は彼の手をパシンと叩き落とした。「自分のテーブルに戻りなさいよ」そう言ってくるりと向き直り、女子チームに呼びかけた。春香は棒付きキャンディーを一本渡しながら、ひそひそ声で言った。「海人のこんな姿、初めて見たわ。前は誰のことも目に入ってなかったし、氷みたいに冷たかったのよ。それが今や、こんな感じだもん」紀香も小声で同意した。「昔、私を助けてくれたときなんて、上から見下ろして『バカ』って一言よ。それっきり、会話らしい会話もなかったし、私が何言っても『うん』しか返ってこなかった」来依も海人の冷淡だった時期を知っていたので、聞いて笑みを浮かべた。「それはちょっと大げさでしょ?さっき、ちゃんと話してたじゃない」「それは、来依さんの顔を立ててくれただけ」「だって清孝にだって、あそこまでしないよ。私のこと助けたときだって、私が清孝の妻だって知らなかったんだから。あとで知ってから、すぐ清孝に借りを作ったもん。あの目に浮かんだあの計算高さ、今でも忘れられない。でもね、それを清孝相手にやれる人なんて、そういないの。だから私は、逆にちょっと嬉しかった」彼女たちはすぐ隣で話していたが、いくら声を潜めたところで、大した意味はなかった。何より、あの二人の男の耳はとても良い。けれど、傍目にはただ笑みを浮かべているようにしか見えず、その目にあるのはどこか甘く柔らかい光だった。――なるほど。どうやら本物の「嫁」ってわけね。この日の来依は、やたらとツイていた。配牌からして、抜群に良かった。とはいえ、あまり勝ちすぎるのも気が引ける。紀香は自分より年下の「妹分」だ。だからいくつかの局では、あえて良い手を崩してまで打っていた。いつの間にか、海人が彼女の後ろに立っていた。それだけでなく、彼は来依の打とうとした牌を押さえ、自分で別の牌を選んで捨てた。来依は彼をにらんだ。「じゃあ代わりにあんたが打てば?」海人は彼女の頭をぽんぽんと叩いた。「お前がミスしそうでな」――このクソ野郎、絶対に気づいてるな。あの腹黒さは伊達じゃない。「いいからほっといて、打てるから!」今回は彼女の言葉にも従わず、来依が崩そうとしていた手をそのまま育てた。紀香が振り込んだ瞬間、彼は来依より早く口を開いた。「ロン」紀
海人はちらりと清孝を見やり、冷たい視線を投げた。――子どもを騙してばかり。それでいて、かつては何年も音沙汰なしで放浪していたくせに。今さら離婚されても、自業自得だ。紀香はもう、昔のあの素直な少女ではなかった。清孝の数言で操られるような存在ではない。「来依さん、海人と仲いいんだから。二人はカップルでしょ?私が付き合う必要ないじゃない」清孝の目に、一瞬、打算の光が走った。「今回のコラボも、宣伝用の撮影が必要だ。ふたりが仲いいなら、きっといい作品になる。ここでは彼女も慣れてないだろうし、手を貸してあげてくれ」来依が口を開こうとしたが、海人が手でそれを制した。来依は彼に向かって、目配せで訴えた。――ほんと仲いいわね、まるで悪だくみコンビって感じ。海人「……」「撮影なんて、あなたいくらでもできる人いるでしょ」紀香は少し揺れたが、清孝の提案に乗るのはどうしても気が進まなかった。「でも君ほど上手くはない」――ナイス、ヨイショにおだて。まるで教科書のような甘言。来依は思わず拍手したくなった。「でも、私も他の仕事があるし……」清孝はやんわりと説得を続けた。「親友のために、少しだけ調整することもできるんじゃないか?」紀香と来依は、実は知り合ってからそれほど時間は経っていない。けれど気が合って、すぐに友達になった。それでいて、来依に九割九分の割引をしてあげるほどだ。紀香がそんなことをするのは、本当に稀だった。しかも、来依がやろうとしている「無形文化財+和風スタイル」ファッションには、彼女自身も興味を持っていた。来依は口を挟んだ。「紀香、やりたいことをやればいい。自分の気持ちを大事にして」清孝の目に、不満の色が浮かんだ。海人が口を開いた。「ひと言、言ってもいいか?」紀香はうなずいた。「あなた、私の命の恩人だから」「じゃあ、うちの嫁さんにちょっと付き合ってくれない?」「……わかった」海人は清孝を見た。その表情には、誇らしげな勝ち誇りと軽蔑が入り混じっていた。清孝「……」来依は実は、裏でずっと「恋バナ」を聞きたくてたまらなかった。でも、女の子がつらい思いをしているのを見るのは気が引けた。だから立場的に何も言わなかったが、本人が残ると決めた以上、
来依はすぐに耳をそばだてた。さっき階下で海人が清孝を紹介したとき、自分が驚いたのは――そう、彼が錦川紀香の十歳年上の旦那だったからだ。まさかこんなに早く会えるとは思っていなかった。佐夜子の話は断片的で、真相は曖昧なままだったが、自分はこの「先に結婚、あとで恋に落ちる」長くて複雑な愛の物語に、強く好奇心を抱いていた。ちょうど何か聞こうとした瞬間、個室の扉が勢いよく開かれた。怒りに満ちた見覚えのある顔がこちらへと向かってきて、そのままテーブルの酒をつかんで清孝の顔にぶちまけた。「卑怯者!」三十代の清孝は、藤屋家のトップに立つ男。その手腕と策略の深さは、言うまでもなかった。その積み上げられた威圧感、所作ひとつにも堂々たる風格が滲み出ている。誰も彼と目を合わせようとせず、ましてや顔に酒をかけるなど、想像もつかないことだった。だが清孝は怒りの色を一切見せず、むしろその目には甘さが滲んでいた。顔を拭きながら、穏やかな声で言った。「来てくれて嬉しいよ」紀香はそのまま去ろうとしたが、清孝に手首を取られて止められた。「せっかく帰ってきたんだ。明日は一緒に本宅に帰ろう」紀香は拒んだ。だが清孝は相変わらず優しく、根気強く続けた。「家族の食事会だよ。君、両親に行くって約束してただろ」「……」紀香は清孝の手を振り払った。「明日、自分で戻るから」そう言って出ていこうとした時、ふと来依の存在に気づいた。「来依さん、なんでここにいるの?」来依は手を軽く振った。「ちょっとしたコラボの打ち合わせがあってね」「誰と?」紀香は目を丸くして清孝を指差した。「まさか……この男と?」来依はうなずいた。紀香はすぐに駆け寄り、来依の腕を取って引っ張った。「来依さん、藤屋清孝って男、あの人の話には罠しかないの。どうしてそんな人と組むの?いつの間にか足元すくわれて、後悔しても遅いよ!」「さあ、行こう!」来依の腕を引っ張るその瞬間、海人が来依の手を取って止めた。それを見て、紀香はようやく海人の存在に気づいた。「あなたもいたの?」海人は軽く頷いた。「来依は俺の婚約者だ」紀香は来依を見て、海人を見て、言いたげな顔をしたまま少し迷った末に口を開いた。「菊池様の人柄は問題ないと思う。
「あなた、前に根絶やしにするって言ってたじゃない。方法あるんでしょ?」海人の父はその言葉にため息をついた。「あれは、昔の話だ。藤屋清孝が新しい協力相手を見つけるなんて、一瞬のことだ。この世の中、河崎来依にしかできないって仕事でもない。たとえ俺たちが裏で何か仕掛けたとしても、藤屋清孝が正面から敵に回ってくるとは限らない。藤屋清孝なら、やる。俺の記憶が正しければ、彼は海人に借りがあるはず」海人の母は驚いた。「いつの話よ?私は聞いてない!」海人の父は彼女の肩をぽんと叩いた。「まずは落ち着け。俺も記憶が曖昧でな、確かじゃないんだが……どうやら、昔、藤屋清孝の妻が無人地帯で動物撮影をしてた時に、犯罪者に絡まれて、ちょうどその時、訓練中の海人が居合わせたらしい」海人の母は海人の訓練時期を思い返した。「その時って、彼女まだ学生だったでしょ?それに、当時はまだ奥さんじゃなかったはず」「今は妻だ」海人の父は海人の母をベッドの端に座らせながら言った。「それに、藤屋清孝は本気になってる」海人の母は枕を拳で何度も叩いた。「一体なんなのよ、これは……全部あなたのせいよ!「あなたが『高杉芹奈なら海人を繋ぎ止められる、河崎来依との関係を絶てる』なんて言うから、私も従ったのに……私、あの時……」「もういい」海人の父が遮った。「今さら何を言っても意味がない」本当に、何を言っても無駄だった。海人の母にできることといえば、二人が自ら衝突して別れるのを待つことだけだった。……海人はやはり、自分のジャケットを来依の肩にかけていた。その鋭い視線は周囲に飛び交い、来依を眺めていた者たちはバツが悪そうに視線を逸らした。今日の海人の働きはかなり大きかったので、来依も特に突っかかることはしなかった。清孝が一通りの挨拶を済ませて戻ってきた。「上に行くぞ」と海人を呼んだ。上の階にはまったく別の空間が広がっていた。下のフロアのように洗練された装飾とシャンパンが飛び交う宴会場とは異なり、そこは大型の娯楽スペースだった。ある個室には麻雀卓がいくつも並べられており、すでに対局が始まっていた。その脇ではポーカーが行われており、見たところ相当な金額が動いていた。来依がちらりと見ただけでも、その場の空気の重さを感じた。
来依は彼の相手をする気もなく、海人を押しのけて勇斗と一緒に食事をしながら話し始めた。海人も後を追おうとしたが、清孝に呼び止められた。清孝は秘書を来依のもとに向かわせ、いくつかの書類にサインさせた。そして、海人のグラスに軽く触れて乾杯の仕草をした。「頭の回転は早いな。俺を『婚約者の盾』に使おうとは。家族にバレたら怒りで倒れるんじゃないか?」海人は来依のいる方を見つめ、目に優しさと確固たる決意を宿していた。「今の俺の唯一の願いは、彼女と結婚することだ」清孝は海人とは長年の付き合いだったが、ここまで何かに執着し、手間を惜しまない彼の姿は初めてだった。その瞳にわずかに陰りが差した。「そうか。君にも弱点ができたわけだ」海人は淡々と返した。「彼女は俺の弱点じゃない」『弱点』とは、敵に利用され、脅され、自分を縛るものだ。彼はそんな状態を望んではいなかったし、来依をそんな危険にさらしたくもなかった。「彼女は、俺と肩を並べて歩ける愛しい人だ」清孝は若干引いたような顔をして、話題を変えた。「高杉家からは、娘の行方を探るために、何重にも人を通じて連絡が来てる君、高杉芹奈を石川に留めてるのは、『本命』のための盾にしてるのか?」海人は首を振った。「違う」「ただ、少し痛い目を見せてやってるだけだ」その目は冷たい光を放ち、鋭さを帯びていた。「全員に、だ」その頃、来依は書類にすべてサインを終え、藤屋家と暫定的にだが、がっちりと結びついた。菊池家がその情報を知ったときには、もう手遅れだった。「私、なんて言った?」海人の母は怒りで声を震わせ、普段の落ち着いた様子はどこにもなかった。「西園寺雪菜の一件があった以上、海人が高杉芹奈を受け入れるわけがない。タイプは違っても、手口は一緒。あんたでも騙されないのに、あんたの息子が騙されるわけがないでしょう!で、どうなったと思う?菊池家の掌握権まで渡しちゃって!河崎来依を藤屋清孝のビジネスパートナーに仕立てて、プロジェクトは藤屋家主導。私たちが手を出そうにも、もう動けない。「藤屋家を敵に回すわけにはいかないわ」海人の父の顔も、すっかり暗くなっていた。前回の雪菜の件では、道木家が介入し、菊池家にもそれなりのダメージが残った。だからこそ、
「君に必要だって分かってたよ。礼はいらない」「……」清孝は海人が酒を受け取らなかったことに特に気にする様子もなく、顔を来依の方に向けて言った。「この件は来依さんに一任するよ。きちんと進めてくれれば、特に注文はない。ただ、いくつか注意点があるから、それは後で秘書から送らせる」来依は軽く腰を折って礼をした。「信頼いただき、ありがとうございます」清孝は他の招待客へ挨拶に行く予定があり、海人に向かって言った。「まず来依さんに何か食べさせてあげて。その後、上の階で麻雀でもしよう。来依さんの先輩も一緒に残って参加してくれ。これから付き合いのある人たちとも顔を合わせる機会だ。ちょうどいい」勇斗は感激で言葉も出なかったので、来依が代わりに礼を言った。清孝が去った後、来依は勇斗の背中を軽く叩いた。「先輩、ビビらないでよ! 私は無形文化財とか和風とか全然分かんないんだから、ちゃんと説明して、あんたの強みを伝えて」勇斗は頭を掻きながら答えた。「来依の言う通りだ。ちょっと緊張しちゃっててさ」そう言われると、来依も納得した。彼女自身、清孝の存在を知ったときには、かなり緊張していたのだ。だから、それ以上は何も言わずに笑って声をかけた。「何か食べよう。あっちで座ろう」「うん」勇斗は食べ物を取りに行った。来依が歩き出そうとした瞬間、腰をそっと抱き寄せられた。振り返ると、海人の冷たくもどこか拗ねたような目がそこにあった。「感謝、いるんじゃないの?」確かに、礼は礼として言うべきだった。助けてもらったことは事実。「ありがとうございます、菊池社長。じゃあ、今度ご飯ご馳走するわ」海人は一歩近づき、声を抑えてささやいた。二人にしか聞こえないように。「ベッドでの『ごちそう』なら、受け取るよ」「……」ちょうどそのとき、勇斗が料理を持って戻ってきた。二人が今にもキスしそうな距離だったのを見て、ようやく気づいた。「この前の食事、お前もいたのか!来依の彼氏だったのか!」海人は来依の手を取り、眩い輝きを放つダイヤの指輪を見せた。「婚約者だ」勇斗は「うわー!」と声を上げた。「おめでとう、来依!そんな大事なこと、先に言ってくれよ。ご祝儀の準備もしてない。まあいいや、結婚式には招待してくれよ。
「……」結局、来依はジャケットを羽織らなかった。彼女が宴会場に足を踏み入れた瞬間、周囲の視線を一身に集めたのは言うまでもなかった。一つには、彼女が石川では見かけない顔だったこと。もう一つは、今日の彼女の装いが、主催者の風格を奪うようなものではないにせよ、彼女自身にとても似合っていて、見る人すべての目を惹きつける鮮やかさを放っていたからだった。誰かが声をかけようと歩み寄ろうとした。だが、その腰を軽く抱く男の存在を見た瞬間、ピタリと足を止めた。「菊池家の若様の女か?」「間違いない。あの独占欲、尋常じゃないからな。それに彼の側には長年誰一人女の影がなかったし。あんな堂々とした態度、正妻じゃなきゃ説明つかない」「高杉芹奈じゃないの?今回、彼女を連れてきたって聞いたけど。菊池家と高杉家、縁談の話があるとか」「違うよ。高杉芹奈なら見たことある」「聞いてない?菊池様にはすごく愛してる女性がいるらしいけど、後ろ盾がなくてさ。名前は確か河……」「河崎来依だ」「そう、それ!」そう答えた人物が興奮気味に振り返ると、相手の顔を見て、慌ててお辞儀した。「ふ、藤屋社長……」藤屋清孝は軽くうなずくと、そのまま海人の方へ大股で向かった。彼に酒を一杯手渡す。「今回は一人でうちに来たんじゃないんだな。めでたいことだ」海人は自分の酒を来依に渡し、その背中を半身で覆うようにして紹介した。「藤屋清孝だ」来依はちょうど口元に酒を運んだところだったが、その名前を聞いて、思わず酒が逆流しそうになった。「藤屋清孝?あの藤屋清孝?」清孝の唇にはうっすらと笑みが浮かんでいたが、その瞳には冷たさが残ったままだった。整った顔立ちに、年月を経て自然と備わった威厳がにじみ出ていた。来依は感嘆の声を漏らしてから、ようやく気がついた。目の前に立っているのは、自分の力では一生関わることすらできないような人物なのだ。たとえ彼が海人の親友だったとしても、自分の今の態度はあまりにも無遠慮で、失礼だったかもしれない。急いで頭を下げた。「藤屋社長、失礼しました。さっきは少し無礼でした」清孝の視線にはどこか意味ありげな光が宿り、海人を一瞥してから、口を開いた。「弟分の嫁なんだから、そんなに堅くならなくていい。俺と海人は古い友人
石川は大阪より少し暖かいとはいえ、年の瀬も近づき、また雪が降るかもしれなかった。どこが寒いのか?四郎は反論することもできず、おとなしくエアコンを入れた。設定温度は26度。来依は手で風をあおぎながら、わざとらしく言った。「この車、ダメね。なんかムシムシする」四郎も確かにそう思った。仕切り板すら付いていないのだ。海人が静かに笑った。「いいよ。お前の言うとおり、車を替えよう」「……」――来依はあるプライベートサロンに連れて行かれた。彼女は迷うことなく赤を選んだ。だが、海人は背中が大きく開いたデザインを見て、スタイリストに指示を出した。「ショールを足して。寒いから」スタイリストは少しためらった。「菊池さん、このドレスのポイントは背中の蝶モチーフのレースなんです。肩甲骨をあえて見せて、うっすらとウエストラインも……」海人の冷たい視線を浴びて、スタイリストはそれ以上言葉を続けられなかった。海人は石川の人間ではなかったが、石川のトップと繋がっている。このサロンは藤屋家の出資で運営されている。しかも、藤屋家からも海人とその奥様を丁重にもてなすよう指示が来ていた。とても粗末に扱える相手ではない。「ショールはいらないわ」来依は大きな姿見の前でくるりと一回転した。「すみません、アップスタイルでお願いします。この背中、しっかり見せたいの」海人の口元が、わずかに引き結ばれた。スタイリストはどちらを見ていいか分からず、動けなかった。来依が言った。「彼を見ないでください。着るのは私、決めるのも私ですよ」そう言って、回転式の椅子に腰を下ろした。「それと、メイクは少しレトロな感じにしてください。でも濃すぎないで。他人のパーティーですし、主役はあくまで他の人ですから」「かしこまりました!」スタイリストはすぐに準備に取りかかった。来依の要望どおりに仕上げた後、スタイリストの目が輝いた。「もしよければ、うちのモデルになってくれませんか?あるいはスタイリングのアドバイザーとして来ていただくとか……センスが抜群です!」来依は立ち上がってスカートの裾を整え、微笑んだ。「自分のことをよく分かってるだけですよ。アドバイザーなんて無理無理、そんな才能ありませんから」スタイ
来依は彼に白い目を向けた。海人の目には、深い笑みがじわじわと浮かんでいた。「ここで楽しんでて。俺は少し用事を済ませてくる。夜は一緒に宴会へ行こう」来依はむしろ、彼がいない方が気が楽だったので、手をひらひら振って追い払った。海人は彼女の頭を軽くぽんぽんと叩き、歩き出した。傍らにいた若い女性が笑いながら言った。「彼氏さんと、すごく仲が良さそうですね」「……」来依は一瞬、弁解しようか迷ったが、まあもうこの場所に来ることもないかもしれないと思い直した。仮にまた来るとしても、その時に言えばいい。彼女は笑って言った。「刺繍、教えてもらえますか?」相手は快く頷いた。刺繍は集中力と時間を要する作業だった。来依は、その日一日ほとんどを刺繍に費やした。食事とトイレの時間以外は、ずっと座って縫っていた。ひとつの刺し方を習得し、小さな作品を一枚仕上げた。立ち上がって、固まった背中と首をほぐしていると、海人がゆっくりと彼女の前に現れた。「楽しかった?」来依は手に持っていた刺繍布を彼に放り投げた。「あんたへの誕生日プレゼントよ。ここに連れてきてくれたお礼」それだけ言って、さっさと更衣室へ向かった。海人はその手の中のハンカチを見つめた。そこには竹と竹の葉が刺繍されており、対角に彼の名前が縫われていた。「お兄さん」近くの女の子が笑いながら言った。「ハンカチって、告白の意味があるんですよ」海人はそれをしまいながら、にこりと微笑んだ。「これ、彼女が自分で刺したの?」女の子は大きく頷いた。「すごく真剣でしたよ。きっと本気で好きなんですね」海人の全身が、喜びに染まっていた。来依が着替えて戻ってきた時、遠くからでも彼が妙に浮かれているのが分かった。近づくと、彼の視線はあまりにも熱っぽく、彼女は鳥肌が立った。ふと視線をそらすと、さっきの女の子がニコニコしていた。だいたい察しがついた。彼の腕を引っ張って車に乗せ、乗車後に言い訳を始めた。「私は初心者だから、ハンカチが一番簡単だったの。ただの練習用よ。名前を縫うのって、一番最初に習う基本なの」海人は意味深に「へえ」と返事した。「……」来依は説明するのが無意味だと感じ、顔をそむけて車窓の外を見た。だが海人は身を寄せ、半ば彼女を包み込むよ