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第12話

Author: 楽恩
三度目だった。

三回も伝えようとしたのに、彼はそのすべてを拒んだ。

きっと、縁がなかったのだろう。

むしろ、伝えなくてよかった。そうすれば、離婚するときも綺麗に終われる。

鹿児島は広い。離婚したら、もう二度と顔を合わせることもないだろう。

彼は一生、私たちの間に子どもがいたことすら知らずに生きていくのかもしれない。

来依は私の考えを聞くと、すぐに賛成した。

「そんなクズみたいな父親、子どもだって望まないよ。言わないのが正解」

――病院を出たのは、午後二時過ぎだった。

来依は私の腕を取り、駐車場へ向かいながら言った。

「あんたの車、お店に修理に出したからね。結構ひどく壊れてたから、一週間はかかるってさ。直ったら、一緒に取りに行こう。それまでの間、どこへ行きたいか言ってくれたら、すぐにドライバーの河崎が来るよ」

「……」

私は思わず苦笑した。

「そんなに私に付きっきりで、大丈夫なの?仕事は?大丈夫よ、私はほかの車もってるから」

宏は、私に愛をくれたことはなかったかもしれない。けれど、家も、車も、お金も、何ひとつ不自由させられたことはなかった。

――でも、彼は知らない。

私が欲しかったのは、ただ「愛」だけだったことを。

「心配しなくていいわよ。医者も言ってたでしょ?帰宅後も二日間は様子をみるって。なのに運転?無理無理、夢でも見てる?」

来依は無意識に私の額を突こうとしたが、包帯を見て、忌々しそうに手を引っ込めた。

――そのまま車に乗り込み、駐車場を出た。

来依は煙草を取り出したが、私が妊娠中なのを思い出し、またポケットに戻した。

「本当は一緒に墓参りに行こうと思ってたんだけど……あんた、今はショックを受けたばかりだし、何よりお腹に赤ちゃんがいるんだから、やめておこう。まずは江川とのことを片付けな。全部終わってから、叔父さんと叔母さんに報告すればいいわ」

「……うん」

車は家へと向かって進む。

――もっとも、もうすぐここは私の家ではなくなる。

いずれ、新しい人が住み、私の痕跡はすべて消されていくのだろう。

宏も、きっとすぐに私の存在を忘れる。

……

家に戻ると、スマホの電源が切れていたことに気づいた。

充電すると、すぐに未読の通知がいくつも表示された。

――宏からの電話だ。

こんなに何度もかけてきたのは初めてだった。私が、すでに離婚を決めた今になって。

それとは別に、知らない番号からの写真が一枚。半月前に動画を送ってきたのと、同じ番号だ。

写真には、宏――江川グループの社長が、ポップコーンとソフトクリームを手に持っていた。

そのすぐそばには、アナが寄り添っている。

撮影時間は、私が病院で目を覚ます前だった。

なるほど、彼らはデートをしていたのか。

病院に行くはずだった妻を放り出してまで、想い人との約束を優先したわけだ。

なんて、愛に満ちた感動的な話だろう。

唇に、皮肉な笑みが浮かぶ。スマホを抱えたまま、窓辺に座り込んだ。

何時間経っても、彼は帰ってこなかった。

……

日が沈み、佐藤さんに夕食へ呼ばれた。

まるで砂を噛むような味気ない食事だった。

子どものために、無理やりお粥を一杯と、海老を数匹食べて、ナプキンで口元を拭った。

二階へ上がり、来依に電話をかけた後、荷物をまとめ始めた。

三年間――決して長くはない。なのに、私の持ち物は思いのほか多かった。

自分のものを他人に処分されるのは嫌だったし、余計な嫌がらせをするつもりもない。だから、一つ一つスーツケースに詰めていく。

「奥様?」

廊下を通りかかった佐藤さんが、部屋に積まれたスーツケースを見て、怪訝そうに尋ねた。

「海外旅行に行かれるんですか?」

「違うわ」

私は首を振り、静かに言った。

「引っ越すのよ。もし何か忘れ物があったら、取っておいてね。後日、宅配業者に取りに来させるから」

佐藤さんは驚き、慌てて言った。

「どうして突然?若様と喧嘩でもしたんですか?ちょっと待ってください、大旦那様に連絡して、若様を説得してもらいましょう!」

「やめて」

私は穏やかに言った。

「おじいさまは最近、血圧が不安定なの。刺激を与えてはいけないわ。それに……宏とは喧嘩をしたわけではない。ただ、私が彼との生活をやめるだけよ」

彼が私と喧嘩をするわけがない。

私は、その資格すら持っていないのだから。

佐藤さんは何か言いたげだったが、結局何も言えなかった。彼女はすべてを見ていたのだ。この三年間の、私と宏の「夫婦関係」を。

どれほど形式的で、どれほど他人行儀だったかを。

私は自分を誤魔化してきた。宏とは、もともとこういう性格なのだと。けれど佐藤さんは知っていたのだろう。彼がアナには、決してそんな態度ではないことを。

だから、彼女は私を引き止める言葉を持っていなかった。

最後のスーツケースを閉じると、外から車のエンジン音が聞こえた。

――宏が帰ってきた。

佐藤さんからの連絡を受けたのだろう。彼は階段を駆け上がると、部屋に並ぶスーツケースに目を止めた。視線が最後に向かったのは、私の額だった。

「……どうした、その傷」

声が少し掠れていた。

私は皮肉げに微笑んだ。「たいしたことないわ。あなたが彼女とデートしている間に、ちょっと事故に遭っただけ」

彼の漆黒の瞳が、わずかに揺れた。

私はベッドのそばで拳を握りしめた。

「宏、私たち……」

――離婚しましょう。

言ったと決めていた。もう、後戻りはしないと。

けれど、目の前に立つ彼を見た瞬間、喉が詰まった。七年も愛した人を前にして、言葉が出てこない。

彼を惜しんでいるのか。それとも、かつての自分の情熱を惜しんでいるのか――。

「南!」

宏の鋭い声が、私の言葉を遮った。彼は二歩で距離を詰めると、強引に私を抱きしめた。

「ここは君の家だ。スーツケースをこんなに並べて……どこへ行くつもりだ?」

「離して!」

鼻腔を満たすのは、彼のいつものウッド系の香りと、かすかに混ざった女性用の香水の匂い。

気持ち悪い。

嫌悪感に襲われ、全身の力で彼を振りほどこうとした。

「江川宏!放して!」

「放さない」

彼の腕は強く、私の抵抗など何の意味もなさない。まるで、蟻が大木を押すようなものだった。

――無力感が、胸の奥からじわじわと広がる。

私は深く息を吸い、力なく言った。

「……何の意味があるの?私は、あなたたちを祝福するわ。だから、私を解放してくれない?」

彼は顔を私の首元に埋めた。その声は、ほんのわずかに震えていた。

「南……俺は、君と離婚するつもりなんてない」

「そう?」

笑いたかった。なのに、笑えなかった。張り詰めていた感情が、一気に崩れ落ちる。

「でも私は、したいの」

声が震えるのを抑えきれず、叫ぶように言った。

「もう疲れたのよ!こんな結婚生活、続けたくない!ふたりの結婚に、もう一人の女がいるなんて、耐えられない!」

「もうしない!本当にもうしないから!」

彼はさらに強く私を抱きしめ、けれど、少し力を緩めた。

「……しない?」

私はその隙に彼を思い切り突き放し、冷え切った目で見つめた。「忘れたの?ちょうど一週間前、あなたもそう言ったわ。でも、私はその時、はっきり言ったのよ。『もう、次はない』って」

彼は、私がただの気まぐれで言ったと思っていたのだろうか?

彼は知らない。あの言葉は、誰よりも自分自身に向けて言ったものだったのだと。

次があれば、私は絶対に抜け出す。

宏は、ゆっくりと目を閉じた。

「……今朝、彼女がリストカットしたんだ。病院に運ばれたって聞いて、ただ……様子を見に行っただけだ」

「知ってるわ」

私は肩をすくめ、努めて何でもないように微笑んだ。「知ってるわよ。アナのお母さんが、あなたの命の恩人だったものね。彼女がそんなことをしたんだから、あなたが行くのは当然よ」

ただ――

「見に行って、どうだった?」

私はゆっくりと続けた。

「二分遅れてたら、傷はもう塞がってたんじゃない?少しは苛立ったでしょ。でも、結局また振り回されるのよね?彼女は言ったんでしょね。『今日一日だけそばにいてくれたら、もう二度と邪魔しない』って」

宏の表情が読み取れない。それでも私は構わず続けた。

「あなたが本当に信じてないことくらい、私にはわかるわ。でも、それでも彼女の言葉を受け入れたのよね?私には理解できないけど、その理由はあなた自身が一番よくわかってるはずよ」

「でも、理由は何であれ、私はもうこれ以上、あなたたちの間で板挟みになるのはごめんだわ」

一呼吸置いて、静かに、しかしはっきりと言った。

「宏、私たち、離婚しましょう」

言葉が落ちると同時に、空気が凍りついたような気がした。

宏の長身がわずかに硬直し、暗い瞳が鋭く私を射抜く。

しばらく沈黙が続いた後――

彼は、今までの穏やかな表情を捨て、冷笑を浮かべた。

「……あいつが、戻ってきたからか?」

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yas
あれ、山田先輩のこと知ってる? そして警戒してた? でも女の臭いさせて触らないで!妊娠中じゃなくても吐き気がする!
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