Share

第13章

Author: 楽恩
「……は?」

私は一瞬、何を言われたのか理解できなかった。

宏は気だるげに肩をすくめ、何でもないような口調で言った。

「山田時雄のことだ」

「その夜、君を家まで送ったのは彼だったな?ちょうど帰国したばかりのタイミングで、すぐに会いに行ったってわけか」

その声色は、皮肉とも自嘲ともつかない響きを帯びていた。

私は思わず眉をひそめ、彼の目を真っ直ぐに見つめた。

「……私が山田先輩を好きだって、そう言いたいの?」

「違うのか?」

彼は口元をわずかに歪めた。冷たくて、薄情で──私の目には、それがただただ嘲るように映った。

ありえない。

今までに感じたことのない怒りが、一気に込み上げた。

「宏……あなた、最低だわ」

パシンッ!!

思い切り、彼の頬を叩いた。

たとえどれだけ抑えようとしても、私の目元はすでに濡れていた。

涙が止まらず、次第に笑いさえこみ上げてくる。

おかしくてたまらない。

私は、彼をこんなにも長く愛してきたのに――最後に返ってきた言葉が、「別の男のせいで離婚するのか」だなんて。

馬鹿みたい。くだらない。心底、呆れた。

いつの間にか、来依が来ていた。その後ろには、伊賀も立っていた。

来依は私の腕を取り、迷いなく出口へと向かった。大きな目で事の成り行きを見守っていた伊賀に、ピシャリと声を飛ばす。

「伊賀、何ぼーっと突っ立ってんの?あんたを呼んだのは、引っ越しの荷物を運ばせるためなんだけど?」

伊賀はスーツケースを見て、私を見て、宏を見て、そして再び来依を見る。

「えっ?えっ?」

完全に混乱した様子で、宏に助けを求めるように視線を向けた。

「ひ、宏さん……」

だが宏は、一瞬の沈黙の後、冷たく言い放った。

「……運べ」

……

三年の結婚生活。

七年の片思い。

こんなにも醜く終わるなんて、想像もしなかった。

人は後ろめたい時、先に相手の非を探そうとした。

宏も、例外ではなかった。

……

黒のGクラスが、ゆっくりと車の流れに溶け込んでいく。

車内では、伊賀が何度も迷った末に口を開いた。「……本当に、宏さんと離婚するのか?」

「あんたに関係ないでしょ?運転に集中しなさい」

来依が即座に睨みつけた。

「急に引っ越すって言ったから、業者も手配できなくてね。だから、こいつに荷物運びを頼んだのよ」

それを聞き、私はバックミラー越しに伊賀を見た。

「落ち着いたら、ご飯でもご馳走するわ」

「マジで?やった!」伊賀は嬉しそうに笑った。

しばらく車を走らせた後、来依がナビをちらりと見て、ため息をついた。

「本当に、うちに来なくていいの?」

「大丈夫」

私の引っ越し先は――宏がかつて私に与えた、あのマンションだった。

二年前の誕生日、本当なら彼とアイスランドへオーロラを見に行く予定だった。

でも、空港で彼に一本の電話がかかってきた。アナが家出した――。

それだけで、私は空港に置き去りにされた。

彼は三日間戻らず、帰ってきた時に「埋め合わせ」として、街の中心にある高級マンション――海絵マンションの一室を贈ってきた。

――男は、後ろめたい時ほど太っ腹になる。

まさに、その言葉通りだった。

当時の私は、彼がアナとどういう関係なのかも知らず、私を喜ばせようとしていると勘違いし、ただただ舞い上がっていた。

だから、そのマンションの内装もこだわって選び、毎週ハウスキーパーを入れていた。

まさか、今になって、自分の避難先になるとは――。

270度のパノラマで川の景色を見下ろせる部屋だ。扉を開けると、対岸にそびえ立つ高層ビル群と、瞬くネオンが一望できた。

伊賀は荷物を部屋まで運び入れると、すぐさま来依に追い出された。

彼は名残惜しそうに言った。

「本当に、車で待ってなくていい?」

「何を待つのよ?今夜はもう出かけないわよ」

来依は彼を容赦なく追い出し、玄関のドアを閉めた。

私は思わず笑った。

「ねえ、伊賀と、どこまで進んでるの?」

「ただの割り切った関係よ」

来依はソファにどかっと座り、スマホで出前を注文しながら、私に親指を立てて言った。

「てかさ、あんたが江川をぶん殴った瞬間、私、びっくりしすぎて固まったわよ?でも、あいつも殴られて当然よね。あんなに怒ってるあんた、初めて見た」

私は彼女の隣に身を預け、力なく呟いた。「……こんなみっともない別れ方になるなんて、思ってもなかった」

私が思い描いていたのは――

離婚を切り出せば、彼はあっさりと承諾するという展開だった。

それは、穏やかで、簡単なものになるはずだった。

「何か言われたの?」

「……私が、山田先輩を好きだって」その一言を思い出すたびに、胸が詰まるような息苦しさを感じた。

「はぁ?」

来依は一瞬、思考が止まったあと、呆れたように笑い出した。

「アイツ、頭どうかしてんの?大学時代、伊賀たちですらあんたが江川を好きなのを知ってたのに、まさか本人だけが勘違いしてたなんて?」

「だから、思わず殴ったのよ」

私は伏し目がちになりながら、小さく息を吐いた。

七年間、何の意味もなかったみたい。

いや――違う。

宏は、一度たりとも私に関心を向けたことがなかったのだ。だから私が誰を好きになったのか全然知らなかった。

やがて、出前が届いた。

来依は買い揃えた食材を、冷蔵庫に詰め込んだ。

手伝おうとしたと、彼女はすぐに手を払った。

「妊婦が何してんの?座りなさい」

「意外と、世話焼きな性格だったのね」

「妊婦に優しくするのは、当然でしょ」

片付けを終えると、彼女はビールを手に取り、私の肩に凭れかかる。

窓の外には、煌びやかな夜景が広がっていた。

長い沈黙の後、来依がぽつりと呟いた。

「ねえ、南ちゃん。この世に、本当に『いい男』っていると思う?」

「いるよ」

私は、父の顔を思い浮かべた。母は、とても幸せそうだった。

「夫がいい男かどうかは、妻を見れば分かる」――そう言う人がいる。

「そっか……」

来依は目を細め、ふっと微笑んだ。

「じゃあ、あんたがまた誰かを好きになる時は――今度こそ、いい男だといいわね」

「じゃあ、来依は?」

私が尋ねると、来依は唇をゆるく弧にし、どこか意味深に首を振った。

「私はどうでもいいの。だってね……私自身、いい女じゃないから」

そう言ったなり、彼女は独りで可笑しそうに笑い出した。

「そんなこと――」

言いかけた私を遮るように、来依は酒の匂いをまとわせながら肩にしがみついた。

「南ちゃん、そんなに落ち込まないでよ。離婚なんて大したことないって!地球は誰がいなくなったって回るし、江川がいなくなったくらいで、あんたの人生は終わらないんだから。むしろ、あいつと別れたら、絶対今より幸せになれる」

彼女の声は、どこか優しく、そして強かった。

「心配しないで、あんたはただ赤ちゃんを大事に育てることだけ考えな。生まれてきたら、私が一緒に育てるからさ。江川なんかいなくても、私がその分愛してやる。あのクズ親父より、絶対いっぱい愛してやるよ」

その言葉を聞いているうちに、私の涙が次々と頬を伝った。来依の言葉は、ただの慰めではなく、確かな支えだった。

翌朝、来依は帰ることなく、そのまま私と一緒に荷解きを手伝ってくれた。

無機質で冷たい部屋に、ようやく少しだけ温もりが宿る。

月曜日――。

私は来依とともに江川グループへ向かった。

彼女は出勤のため。

私は、退職するため。

「……本当に辞めるつもり?」この話をした時、来依はあまり賛成ではなかった。

「悪いことをしたのは向こうでしょ?なんであんたが辞めなきゃいけないのよ。堂々と居座って、アイツらが居づらくなるくらい見せつけてやればいいのに」

「……もう、見たくもないから」

「……まあ、それもそうか。お腹に子どももいるし、ストレスは避けたほうがいいわね」

……

オフィスのドアを開けると――そこには、アナが座っていた。どこから情報を仕入れたのかは知らないが、わざわざ待ち伏せしていたらしい。

彼女は私を見るなり、偽ることもせず、満足げな笑みを浮かべた。

「聞いたわよ、宏くんはあなたと離婚するんだって?ふふ、南、思ったより大したことなかったのね」

「私が彼を捨てたの」私は手のひらをぎゅっと握りしめ、静かに部屋へ足を踏み入れた。

「ゴミは、ゴミ同士がお似合いよ」

「……ッ!」

彼女の顔色が変わった。だが、すぐに何か思い直したようで、怒りを抑え込み、面倒くさそうに肩をすくめた。

「まあ、別にいいわ。口喧嘩してる暇もないしね。ところで、どうするの?離婚するなら、宏くんがあんたに持たせてた株、返してもらわないとね?」

Continue to read this book for free
Scan code to download App
Comments (2)
goodnovel comment avatar
yas
ゴミ!離婚するなら財産の半分は南ちゃんのものだ! てかたぶんお爺さんは怒ってお前もクソ男も追放するよ!
goodnovel comment avatar
かほる
返す必要ないよ、 全ての元凶はアナ、お前じゃないか ほんとに何処までも 図々しい 負けるな、南!!
VIEW ALL COMMENTS

Latest chapter

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第1344話

    鷹は清孝をぐいと中へ押し込んだ。「お前と嫁さんが復縁できたのは、裏で海人がだいぶ助けてくれたからだろ。だからさ、親友を一人で戦わせるなんてできないよな?」「……」清孝は何も返さず、横の椅子を引いて紀香の隣に腰を下ろした。「悪いな、俺は花嫁側の人間だから」「お前と海人は一緒に育ったんだぞ。どうして黙って見ていられるんだ、親友が一人で戦ってるのに」来依が口を挟んで、鷹が続けて喋るのを止めた。「二人とも、クッキーでも食べて」彼女が南に合図を送り、南はポッキーを一本取り出して鷹に渡した。鷹は眉を上げて言った。「南、これは俺にとっちゃ難題だな。もし俺がこいつとキスでもしたら、俺のこと汚いって嫌うんじゃないか?」海人は冷たく返した。「俺の方が汚くないとでも?」「時間を無駄にしないでよ」南が促した。「ちっ」鷹は長い指でそのポッキーをつまみ、しばらく動かなかった。海人はそれを奪い取り、唇にくわえて含みながら言った。「さっさとやれ。時間を無駄にするな」「……」鷹は嫌そうに近寄り、先端をほんの少しかじった。「これでいいだろ」海人は残りを食べてから来依を見た。「来依、次は何だ?」来依は興味なさそうに言った。「こんなんじゃ面白くないわ。ほら、あっちで撮ってるんだよ。あとで見返しても退屈だし、これじゃ結婚式って感じがしない。最初からやるんじゃなかった、疲れるだけ」「……」海人は鷹を見た。鷹は呆れた。「ちょっと待て、結婚するのは俺じゃないだろ?俺たちがキスなんておかしいだろ」海人は言った。「キスさせるわけじゃない。ただゲームをちゃんとこなせってことだ。俺は一度きりの結婚なんだぞ。少しくらい協力してくれてもいいだろ」鷹は苛立ち、面倒くさそうに舌打ちした。だが南の顔を見るとすべての不満が消え、眉を緩めて笑いながら手を伸ばした。「南、もう一本頼むよ」南は一本渡し、その手のひらを彼にくすぐられた。彼女は睨んで言った。「時間がないの。時間を逃したらどうするの」「じゃあこのゲームを飛ばせばいいじゃないか」「結婚なんて、みんなで盛り上がれればそれでいいんでしょ」「……で、盛り上げ役は俺ってわけ?」南は彼をぐるりと海人の方へ向かせ、自分がポッキーを持って言った

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第1343話

    春香も結婚式に出席する予定で、針谷たちも一緒に来るから、どうにか互角にはなるはずだ。だが清孝が紀香を抱えて到着したとき、誰も止めに入らなかった。針谷が前に出て状況を報告した。「海人様は『予想通りだ』と。これは新婚の贈り物だそうです。ご自分の結婚式では気を付けろ、と」清孝は唇をつり上げて笑い、紀香を抱いたまま車に乗り込み、来依の家へ向かった。来依は紀香を見て、意外そうに言った。「来られないって聞いてたけど?」紀香はまだ眠たげに、「全部清孝のせい」と呟いた。来依はそれ以上は聞かず、「早く着替えて化粧して」と促した。紀香は顔を洗って少し覚醒し、ヘアメイクに顔を整えてもらった。清孝はグルームズマンにはならず、ここに留まっていたが、部屋には入らず玄関に立っていた。海人が上がってきたとき、最初に見たのは彼だった。鷹がからかうように言った。「藤屋社長もすっかり花嫁側の人間だな」清孝は笑うだけで何も言わなかった。海人は彼の肩を軽く叩き、何も言わずに通り過ぎた。だがそれで全てが伝わる。清孝は少しも気にしていなかった。自分たちの結婚式のときには、自分なりの対処法があると分かっていたからだ。……結婚式前のミニゲームが始まった。「来た来た」紀香は清孝からのメッセージを受け取り、急いで寝室のドアを閉めた。来依たちに合図を送る。海人はその様子を見ても慌てることなく、落ち着いて寝室のドアの前に立ち、ノックした。紀香はドアを塞いだまま聞いた。「誰?」海人は答えた。「お前の義兄さんだ」紀香が尋ねる。「何しに来たの?」海人は根気よく応じた。「お前の姉さんを迎えに来た」「ただ口で言っただけで連れて行けると思ってるの?」海人はドアを開けろと言った。「ドアを開けなきゃ、金一封を渡せないだろ」「お金なんて要らないわ。清孝が古城も全財産も、全部私にくれたの。今の私は千億の富豪よ」なるほど。海人は壁にもたれて見物している清孝をちらりと見た。彼は紀香に聞いた。「じゃあ、紀香さん。一体何が欲しいんだ?」紀香は来依を見た。来依は五郎に、ドアを少しだけ開けて隙間を作れと指示した。ただし、海人を入れてはならない。五郎は正直に言った。「奥様、私じゃ旦那様に勝て

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第1342話

    紀香は何度も舌打ちしながら、彼の肩を叩いた。「ほんと、こっそり意地が悪いんだから」清孝は彼女の腰を抱き寄せ、そのまま胸に押し込んだ。「俺はもっと君の口から甘い言葉を聞きたいな」「なに?」「たとえば……お兄ちゃん」「……」紀香は彼が何をしようとしているのか察して、慌てて逃げようとした。「絶対ダメ。親友のために私を地方まで連れ出したんだから、罰として一ヶ月禁欲よ」清孝はまるで気にもせず、軽々と彼女を捕まえ直した。「前は俺が駄目なんじゃないかって心配してただろ。今はもう元気そうだけど、実際に試さなきゃ疑いは晴れないんじゃないか?」「……」紀香は罵った。「やっぱりどうしてもあれをやめられないんだわ。もう騙さないって言ったくせに、また始まった」清孝は反論した。「じゃあ言ってみろよ。俺がどう騙した?」紀香はうまく言葉にできず、結局のところただの言い訳でごまかしていた。清孝は真顔になり、理屈を並べた。「俺に聞くけど、この前ずっと俺が駄目なんじゃないかって疑ってたよな?俺のある部分をちらちら見て、ネットで問題があるのか調べたりしてただろ」紀香は目を大きく見開いた。「なんでそれを知ってるの?まさか監視してたの?」「どうやって監視するんだよ、俺が君の目にでもなるのか?次からはパソコンで検索したら履歴を消しとけ」清孝は無表情で言った。「あの仕事用のパソコン、俺たち二人で使うんだぞ。分かってるか?」「……」「それと、何をするにも表情を少しは管理しろ。顔に全部書いてあるから、隠せやしない」「……」紀香は言葉に詰まり、結局ごまかすしかなかった。「とにかく嫌よ。私は怒ってるの。だって私を騙したんだから。だから絶対にああいうことはしない。今すぐ離して。さもないと、もう一ヶ月追加するから」清孝はもともと何かするつもりはなかった。それは帰って新居で、きちんとするつもりでいた。初めては不愉快に終わってしまったからだ。二人が愛し合ってからの本当の初めては、もちろんそんな場所では済ませられない。だが、彼女が自分を脅すように言う姿が可愛らしく、わざとからかった。「じゃあ俺が聞かないなら、何ができる?離婚か?それともまだ口を利かないのか?でも、どんな手を使っても俺に勝てない。俺が折れなきゃ、君

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第1341話

    彼女はここまで話していて違和感に気づいた。「あなた、わざとでしょ?お義兄さんを助けてる」彼女は慌てて南に電話をかけ、迎えの当日に予定があるかどうかを尋ねた。南は「ないよ」と答え、逆にどうしたのかと聞いてきた。紀香は少し考えてから正直に打ち明けた。「私、彼がわざとだと思うの。私が妹だからやりづらいけど、南さんが親友ならまだ簡単だって思ってるんじゃない?」南は笑った。「どうして私の手にかかれば、海人が楽にいけるなんて分かるの?」けれど一つだけ、彼女の結婚式のとき、海人は確かに鷹を助けた。あの時、来依がドアを塞いでいたが、海人が連れ出したのだ。鷹はあっさり彼女を連れ出すことができた。鷹は人のことを観るのは好きだが、いざ親友のこととなれば、手を貸さないわけではなかった。彼女の結婚式にはそれほど多くの付き添いはいなかった。来依は違う。実の妹である彼女を海人が連れていくのは、そう簡単なことではない。清孝が仕事を理由に紀香を引き留めれば、その時は彼女一人だけになる。そこに鷹が加われば、海人にとっては簡単になる。「この仕事、本当に断れないの?」紀香はため息をついた。「違約金が三倍よ、払えるわけないじゃない」南は理解して、「じゃあ仕事に集中して。こっちは大丈夫、私が見てるから」と答えた。紀香は礼を言って電話を切った。もともとこの数日、清孝とは仲良く過ごしていたのに、今はつい彼を睨んでしまう。彼女は急いで来依にこのことを訴えた。来依は聞いた瞬間に察した。ふざけるな、私を甘く見ないで。あの時南のドアを塞ぎきれなかったこと、海人にきっちり借りを作っている。彼がどうしても式を挙げたいというなら、簡単に自分を連れ出されるわけにはいかない。「大丈夫。間に合えばいいし、間に合わなくても私が自分でどうにかする。心配しないで、仕事をしっかりやって」紀香は電話を切り、荷物をまとめて出張へ向かった。だがその間ずっと清孝を無視し、差し出された水や食事も受け取らなかった。清孝は彼女を空腹のままにしておけず、理由を説明した。聞き終えた紀香はさらに腹を立てた。「借りを返すなんて言うけど、そのせいでどうしてうちの姉を困らせるの?あの人は私の実の姉よ!こんな大事なときに、私がそばにいないなんてあり得ないでしょ!

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第1340話

    「これって、自分を苦しめてるだけじゃない?」清孝は確かに辛かった。けれど、それは自分の過ちなのだから、自分が背負うべきだと思っていた。紀香の考えは違っていた。彼が我慢できているように見えても、表情は青ざめていて――。……もしかして。その言葉は口にできなかった。彼女が迷っている顔を見れば、清孝には大体想像がついた。彼は指先で彼女の額を軽く弾いた。「余計な妄想するな。俺は何の問題もない。健康そのものだ。こうしておこう。あと数日養生したら、証明してやる」「……」紀香は慌てて布団を引き寄せ、自分をすっぽり包んだ。「……黙れ」清孝は布団越しに軽く頭を叩いた。「ゲストルームは冷える。ベッドも硬いし、主寝室ほどじゃない」紀香は顔をのぞかせた。「リフォームしたのはあなただよね。インテリアだって関わったでしょ。そんなに金持ちなのに、まともなマットレスも買えないはずないじゃない」清孝は表情ひとつ変えずに言った。「俺も知らなかったよ。結婚用の新居なのに、俺がゲストルームに追いやられるとはな」「……」紀香は黙り込んだ。「それは自分のせいじゃないの」清孝は怒りで思わず笑いがこみ上げた。「そうだな、君の言うとおりだ」そう言って出て行こうとしたとき、後ろから抱きしめられた。清孝は淡々とした声で言った。「挑発するな。まだ回復したばかりだろう」「それじゃない方法だって……」声が小さすぎて、集中できない今の彼には届かなかった。「ん?なんて?」紀香は彼がわざと聞き返したのだと思い、もう言葉にはせず、直接手を伸ばした。「……っ」清孝は彼女の手をつかみ、苦笑まじりに言った。「それじゃ俺を殺す気か?」「……」紀香は焦って手を引き、頭を垂れて謝った。清孝は振り返り、彼女の額を軽くこついた。「もういい。何度も謝っただろ。飽きないのか?俺はもう聞き飽きた。気持ちは受け取った。だから休め」紀香は指をいじり、「でも、あなた……」と口にした。清孝はこめかみを押さえた。「まだ俺が無事だって信じないのか」紀香はこくりとうなずいた。「……」清孝はこんな不甲斐なさを感じたことはなかった。もう爆発しそうなのに、平然を装って「俺は大丈夫だ」と証明しなけ

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第1339話

    紀香は何を言えばいいのか分からず、「うん」とだけ返した。清孝は部屋を出て、ゲストルームでまた冷水を浴びた。それでも眠れず、最後にはタバコに火をつけた。専属秘書は、清孝が客間のベッド脇で一晩中煙草を吸っているのを見てしまった。——そして、思わず悟った。きっと今、人生そのものを疑っている。*紀香もあまり眠れず、翌朝は早くに起き出した。慌ただしくベッドを降りたとき、カーペットを踏んで鋭い痛みが走り、再びベッドに倒れ込んだ。「……」ちょうど清孝が入ってきて、その光景を目にした。早足で近づき、「まだ痛むのか?病院へ行くぞ」と言った。「違うの……」紀香は慌てて首を振った。「急に立ち上がったから」ゆっくり立ち上がって二歩ほど歩いてみせる。「昨日ほどは痛くないわ」「じゃあ薬だ」清孝は彼女を座らせ、「一日三回」と念を押した。「分かった」「横になれ」紀香はためらい、「やっぱり自分でやる。あなたに……」清孝は手を振った。「問題ない」紀香は布団を握りしめて横になり、彼は手際よく薬を塗った。その後洗面させ、朝食へ連れて行った。食卓に座ると、動いた拍子にまた痛みが走ったが、紀香は顔に出さなかった。「ごちそうね」彼女は餃子を彼に取り分け、「食べて」と言った。清孝は立ち上がり、柔らかいクッションを持ってきて彼女に敷いた。紀香の顔は熱くなった。「大したことないわ、小さな傷よ」清孝は淡々と答えた。「傷は傷だ。ちゃんと気をつけろ」紀香はおずおずと口を開いた。「……なんだか、あんまり機嫌よくなさそう」清孝は「ん」とだけ答えた。「俺は自分に腹を立ててる。男として当然の反応だ。君とは関係ない。余計な心配はするな」紀香は昨夜眠れず、ネットでいろいろ調べてしまった。そこに書かれていたことに怯え、清孝の身体が心配で仕方がなかった。「その……もし体調がおかしかったら、必ず病院に行って。病気を隠すのはだめよ」清孝は笑みを浮かべた。「飯を食え。俺は大丈夫だ。心配しすぎるな、藤屋夫人」「……」紀香は唇を噛み、笑みをこらえて小さく「うん」と答えた。……食事を終えると、二人で仕事場へ向かった。紀香は彼に尋ねた。「まさかずっと私の助手をするつもり?三十代で、老後でもないの

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status