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第13章

Author: 楽恩
「……は?」

私は一瞬、何を言われたのか理解できなかった。

宏は気だるげに肩をすくめ、何でもないような口調で言った。

「山田時雄のことだ」

「その夜、君を家まで送ったのは彼だったな?ちょうど帰国したばかりのタイミングで、すぐに会いに行ったってわけか」

その声色は、皮肉とも自嘲ともつかない響きを帯びていた。

私は思わず眉をひそめ、彼の目を真っ直ぐに見つめた。

「……私が山田先輩を好きだって、そう言いたいの?」

「違うのか?」

彼は口元をわずかに歪めた。冷たくて、薄情で──私の目には、それがただただ嘲るように映った。

ありえない。

今までに感じたことのない怒りが、一気に込み上げた。

「宏……あなた、最低だわ」

パシンッ!!

思い切り、彼の頬を叩いた。

たとえどれだけ抑えようとしても、私の目元はすでに濡れていた。

涙が止まらず、次第に笑いさえこみ上げてくる。

おかしくてたまらない。

私は、彼をこんなにも長く愛してきたのに――最後に返ってきた言葉が、「別の男のせいで離婚するのか」だなんて。

馬鹿みたい。くだらない。心底、呆れた。

いつの間にか、来依が来ていた。その後ろには、伊賀も立っていた。

来依は私の腕を取り、迷いなく出口へと向かった。大きな目で事の成り行きを見守っていた伊賀に、ピシャリと声を飛ばす。

「伊賀、何ぼーっと突っ立ってんの?あんたを呼んだのは、引っ越しの荷物を運ばせるためなんだけど?」

伊賀はスーツケースを見て、私を見て、宏を見て、そして再び来依を見る。

「えっ?えっ?」

完全に混乱した様子で、宏に助けを求めるように視線を向けた。

「ひ、宏さん……」

だが宏は、一瞬の沈黙の後、冷たく言い放った。

「……運べ」

……

三年の結婚生活。

七年の片思い。

こんなにも醜く終わるなんて、想像もしなかった。

人は後ろめたい時、先に相手の非を探そうとした。

宏も、例外ではなかった。

……

黒のGクラスが、ゆっくりと車の流れに溶け込んでいく。

車内では、伊賀が何度も迷った末に口を開いた。「……本当に、宏さんと離婚するのか?」

「あんたに関係ないでしょ?運転に集中しなさい」

来依が即座に睨みつけた。

「急に引っ越すって言ったから、業者も手配できなくてね。だから、こいつに荷物運びを頼んだのよ」

それを聞き、私はバックミラー越しに伊賀を見た。

「落ち着いたら、ご飯でもご馳走するわ」

「マジで?やった!」伊賀は嬉しそうに笑った。

しばらく車を走らせた後、来依がナビをちらりと見て、ため息をついた。

「本当に、うちに来なくていいの?」

「大丈夫」

私の引っ越し先は――宏がかつて私に与えた、あのマンションだった。

二年前の誕生日、本当なら彼とアイスランドへオーロラを見に行く予定だった。

でも、空港で彼に一本の電話がかかってきた。アナが家出した――。

それだけで、私は空港に置き去りにされた。

彼は三日間戻らず、帰ってきた時に「埋め合わせ」として、街の中心にある高級マンション――海絵マンションの一室を贈ってきた。

――男は、後ろめたい時ほど太っ腹になる。

まさに、その言葉通りだった。

当時の私は、彼がアナとどういう関係なのかも知らず、私を喜ばせようとしていると勘違いし、ただただ舞い上がっていた。

だから、そのマンションの内装もこだわって選び、毎週ハウスキーパーを入れていた。

まさか、今になって、自分の避難先になるとは――。

270度のパノラマで川の景色を見下ろせる部屋だ。扉を開けると、対岸にそびえ立つ高層ビル群と、瞬くネオンが一望できた。

伊賀は荷物を部屋まで運び入れると、すぐさま来依に追い出された。

彼は名残惜しそうに言った。

「本当に、車で待ってなくていい?」

「何を待つのよ?今夜はもう出かけないわよ」

来依は彼を容赦なく追い出し、玄関のドアを閉めた。

私は思わず笑った。

「ねえ、伊賀と、どこまで進んでるの?」

「ただの割り切った関係よ」

来依はソファにどかっと座り、スマホで出前を注文しながら、私に親指を立てて言った。

「てかさ、あんたが江川をぶん殴った瞬間、私、びっくりしすぎて固まったわよ?でも、あいつも殴られて当然よね。あんなに怒ってるあんた、初めて見た」

私は彼女の隣に身を預け、力なく呟いた。「……こんなみっともない別れ方になるなんて、思ってもなかった」

私が思い描いていたのは――

離婚を切り出せば、彼はあっさりと承諾するという展開だった。

それは、穏やかで、簡単なものになるはずだった。

「何か言われたの?」

「……私が、山田先輩を好きだって」その一言を思い出すたびに、胸が詰まるような息苦しさを感じた。

「はぁ?」

来依は一瞬、思考が止まったあと、呆れたように笑い出した。

「アイツ、頭どうかしてんの?大学時代、伊賀たちですらあんたが江川を好きなのを知ってたのに、まさか本人だけが勘違いしてたなんて?」

「だから、思わず殴ったのよ」

私は伏し目がちになりながら、小さく息を吐いた。

七年間、何の意味もなかったみたい。

いや――違う。

宏は、一度たりとも私に関心を向けたことがなかったのだ。だから私が誰を好きになったのか全然知らなかった。

やがて、出前が届いた。

来依は買い揃えた食材を、冷蔵庫に詰め込んだ。

手伝おうとしたと、彼女はすぐに手を払った。

「妊婦が何してんの?座りなさい」

「意外と、世話焼きな性格だったのね」

「妊婦に優しくするのは、当然でしょ」

片付けを終えると、彼女はビールを手に取り、私の肩に凭れかかる。

窓の外には、煌びやかな夜景が広がっていた。

長い沈黙の後、来依がぽつりと呟いた。

「ねえ、南ちゃん。この世に、本当に『いい男』っていると思う?」

「いるよ」

私は、父の顔を思い浮かべた。母は、とても幸せそうだった。

「夫がいい男かどうかは、妻を見れば分かる」――そう言う人がいる。

「そっか……」

来依は目を細め、ふっと微笑んだ。

「じゃあ、あんたがまた誰かを好きになる時は――今度こそ、いい男だといいわね」

「じゃあ、来依は?」

私が尋ねると、来依は唇をゆるく弧にし、どこか意味深に首を振った。

「私はどうでもいいの。だってね……私自身、いい女じゃないから」

そう言ったなり、彼女は独りで可笑しそうに笑い出した。

「そんなこと――」

言いかけた私を遮るように、来依は酒の匂いをまとわせながら肩にしがみついた。

「南ちゃん、そんなに落ち込まないでよ。離婚なんて大したことないって!地球は誰がいなくなったって回るし、江川がいなくなったくらいで、あんたの人生は終わらないんだから。むしろ、あいつと別れたら、絶対今より幸せになれる」

彼女の声は、どこか優しく、そして強かった。

「心配しないで、あんたはただ赤ちゃんを大事に育てることだけ考えな。生まれてきたら、私が一緒に育てるからさ。江川なんかいなくても、私がその分愛してやる。あのクズ親父より、絶対いっぱい愛してやるよ」

その言葉を聞いているうちに、私の涙が次々と頬を伝った。来依の言葉は、ただの慰めではなく、確かな支えだった。

翌朝、来依は帰ることなく、そのまま私と一緒に荷解きを手伝ってくれた。

無機質で冷たい部屋に、ようやく少しだけ温もりが宿る。

月曜日――。

私は来依とともに江川グループへ向かった。

彼女は出勤のため。

私は、退職するため。

「……本当に辞めるつもり?」この話をした時、来依はあまり賛成ではなかった。

「悪いことをしたのは向こうでしょ?なんであんたが辞めなきゃいけないのよ。堂々と居座って、アイツらが居づらくなるくらい見せつけてやればいいのに」

「……もう、見たくもないから」

「……まあ、それもそうか。お腹に子どももいるし、ストレスは避けたほうがいいわね」

……

オフィスのドアを開けると――そこには、アナが座っていた。どこから情報を仕入れたのかは知らないが、わざわざ待ち伏せしていたらしい。

彼女は私を見るなり、偽ることもせず、満足げな笑みを浮かべた。

「聞いたわよ、宏くんはあなたと離婚するんだって?ふふ、南、思ったより大したことなかったのね」

「私が彼を捨てたの」私は手のひらをぎゅっと握りしめ、静かに部屋へ足を踏み入れた。

「ゴミは、ゴミ同士がお似合いよ」

「……ッ!」

彼女の顔色が変わった。だが、すぐに何か思い直したようで、怒りを抑え込み、面倒くさそうに肩をすくめた。

「まあ、別にいいわ。口喧嘩してる暇もないしね。ところで、どうするの?離婚するなら、宏くんがあんたに持たせてた株、返してもらわないとね?」

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Comments (2)
goodnovel comment avatar
yas
ゴミ!離婚するなら財産の半分は南ちゃんのものだ! てかたぶんお爺さんは怒ってお前もクソ男も追放するよ!
goodnovel comment avatar
かほる
返す必要ないよ、 全ての元凶はアナ、お前じゃないか ほんとに何処までも 図々しい 負けるな、南!!
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    海人はちらりと清孝を見やり、冷たい視線を投げた。――子どもを騙してばかり。それでいて、かつては何年も音沙汰なしで放浪していたくせに。今さら離婚されても、自業自得だ。紀香はもう、昔のあの素直な少女ではなかった。清孝の数言で操られるような存在ではない。「来依さん、海人と仲いいんだから。二人はカップルでしょ?私が付き合う必要ないじゃない」清孝の目に、一瞬、打算の光が走った。「今回のコラボも、宣伝用の撮影が必要だ。ふたりが仲いいなら、きっといい作品になる。ここでは彼女も慣れてないだろうし、手を貸してあげてくれ」来依が口を開こうとしたが、海人が手でそれを制した。来依は彼に向かって、目配せで訴えた。――ほんと仲いいわね、まるで悪だくみコンビって感じ。海人「……」「撮影なんて、あなたいくらでもできる人いるでしょ」紀香は少し揺れたが、清孝の提案に乗るのはどうしても気が進まなかった。「でも君ほど上手くはない」――ナイス、ヨイショにおだて。まるで教科書のような甘言。来依は思わず拍手したくなった。「でも、私も他の仕事があるし……」清孝はやんわりと説得を続けた。「親友のために、少しだけ調整することもできるんじゃないか?」紀香と来依は、実は知り合ってからそれほど時間は経っていない。けれど気が合って、すぐに友達になった。それでいて、来依に九割九分の割引をしてあげるほどだ。紀香がそんなことをするのは、本当に稀だった。しかも、来依がやろうとしている「無形文化財+和風スタイル」ファッションには、彼女自身も興味を持っていた。来依は口を挟んだ。「紀香、やりたいことをやればいい。自分の気持ちを大事にして」清孝の目に、不満の色が浮かんだ。海人が口を開いた。「ひと言、言ってもいいか?」紀香はうなずいた。「あなた、私の命の恩人だから」「じゃあ、うちの嫁さんにちょっと付き合ってくれない?」「……わかった」海人は清孝を見た。その表情には、誇らしげな勝ち誇りと軽蔑が入り混じっていた。清孝「……」来依は実は、裏でずっと「恋バナ」を聞きたくてたまらなかった。でも、女の子がつらい思いをしているのを見るのは気が引けた。だから立場的に何も言わなかったが、本人が残ると決めた以上、

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    来依はすぐに耳をそばだてた。さっき階下で海人が清孝を紹介したとき、自分が驚いたのは――そう、彼が錦川紀香の十歳年上の旦那だったからだ。まさかこんなに早く会えるとは思っていなかった。佐夜子の話は断片的で、真相は曖昧なままだったが、自分はこの「先に結婚、あとで恋に落ちる」長くて複雑な愛の物語に、強く好奇心を抱いていた。ちょうど何か聞こうとした瞬間、個室の扉が勢いよく開かれた。怒りに満ちた見覚えのある顔がこちらへと向かってきて、そのままテーブルの酒をつかんで清孝の顔にぶちまけた。「卑怯者!」三十代の清孝は、藤屋家のトップに立つ男。その手腕と策略の深さは、言うまでもなかった。その積み上げられた威圧感、所作ひとつにも堂々たる風格が滲み出ている。誰も彼と目を合わせようとせず、ましてや顔に酒をかけるなど、想像もつかないことだった。だが清孝は怒りの色を一切見せず、むしろその目には甘さが滲んでいた。顔を拭きながら、穏やかな声で言った。「来てくれて嬉しいよ」紀香はそのまま去ろうとしたが、清孝に手首を取られて止められた。「せっかく帰ってきたんだ。明日は一緒に本宅に帰ろう」紀香は拒んだ。だが清孝は相変わらず優しく、根気強く続けた。「家族の食事会だよ。君、両親に行くって約束してただろ」「……」紀香は清孝の手を振り払った。「明日、自分で戻るから」そう言って出ていこうとした時、ふと来依の存在に気づいた。「来依さん、なんでここにいるの?」来依は手を軽く振った。「ちょっとしたコラボの打ち合わせがあってね」「誰と?」紀香は目を丸くして清孝を指差した。「まさか……この男と?」来依はうなずいた。紀香はすぐに駆け寄り、来依の腕を取って引っ張った。「来依さん、藤屋清孝って男、あの人の話には罠しかないの。どうしてそんな人と組むの?いつの間にか足元すくわれて、後悔しても遅いよ!」「さあ、行こう!」来依の腕を引っ張るその瞬間、海人が来依の手を取って止めた。それを見て、紀香はようやく海人の存在に気づいた。「あなたもいたの?」海人は軽く頷いた。「来依は俺の婚約者だ」紀香は来依を見て、海人を見て、言いたげな顔をしたまま少し迷った末に口を開いた。「菊池様の人柄は問題ないと思う。

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第891話

    「あなた、前に根絶やしにするって言ってたじゃない。方法あるんでしょ?」海人の父はその言葉にため息をついた。「あれは、昔の話だ。藤屋清孝が新しい協力相手を見つけるなんて、一瞬のことだ。この世の中、河崎来依にしかできないって仕事でもない。たとえ俺たちが裏で何か仕掛けたとしても、藤屋清孝が正面から敵に回ってくるとは限らない。藤屋清孝なら、やる。俺の記憶が正しければ、彼は海人に借りがあるはず」海人の母は驚いた。「いつの話よ?私は聞いてない!」海人の父は彼女の肩をぽんと叩いた。「まずは落ち着け。俺も記憶が曖昧でな、確かじゃないんだが……どうやら、昔、藤屋清孝の妻が無人地帯で動物撮影をしてた時に、犯罪者に絡まれて、ちょうどその時、訓練中の海人が居合わせたらしい」海人の母は海人の訓練時期を思い返した。「その時って、彼女まだ学生だったでしょ?それに、当時はまだ奥さんじゃなかったはず」「今は妻だ」海人の父は海人の母をベッドの端に座らせながら言った。「それに、藤屋清孝は本気になってる」海人の母は枕を拳で何度も叩いた。「一体なんなのよ、これは……全部あなたのせいよ!「あなたが『高杉芹奈なら海人を繋ぎ止められる、河崎来依との関係を絶てる』なんて言うから、私も従ったのに……私、あの時……」「もういい」海人の父が遮った。「今さら何を言っても意味がない」本当に、何を言っても無駄だった。海人の母にできることといえば、二人が自ら衝突して別れるのを待つことだけだった。……海人はやはり、自分のジャケットを来依の肩にかけていた。その鋭い視線は周囲に飛び交い、来依を眺めていた者たちはバツが悪そうに視線を逸らした。今日の海人の働きはかなり大きかったので、来依も特に突っかかることはしなかった。清孝が一通りの挨拶を済ませて戻ってきた。「上に行くぞ」と海人を呼んだ。上の階にはまったく別の空間が広がっていた。下のフロアのように洗練された装飾とシャンパンが飛び交う宴会場とは異なり、そこは大型の娯楽スペースだった。ある個室には麻雀卓がいくつも並べられており、すでに対局が始まっていた。その脇ではポーカーが行われており、見たところ相当な金額が動いていた。来依がちらりと見ただけでも、その場の空気の重さを感じた。

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第890話

    来依は彼の相手をする気もなく、海人を押しのけて勇斗と一緒に食事をしながら話し始めた。海人も後を追おうとしたが、清孝に呼び止められた。清孝は秘書を来依のもとに向かわせ、いくつかの書類にサインさせた。そして、海人のグラスに軽く触れて乾杯の仕草をした。「頭の回転は早いな。俺を『婚約者の盾』に使おうとは。家族にバレたら怒りで倒れるんじゃないか?」海人は来依のいる方を見つめ、目に優しさと確固たる決意を宿していた。「今の俺の唯一の願いは、彼女と結婚することだ」清孝は海人とは長年の付き合いだったが、ここまで何かに執着し、手間を惜しまない彼の姿は初めてだった。その瞳にわずかに陰りが差した。「そうか。君にも弱点ができたわけだ」海人は淡々と返した。「彼女は俺の弱点じゃない」『弱点』とは、敵に利用され、脅され、自分を縛るものだ。彼はそんな状態を望んではいなかったし、来依をそんな危険にさらしたくもなかった。「彼女は、俺と肩を並べて歩ける愛しい人だ」清孝は若干引いたような顔をして、話題を変えた。「高杉家からは、娘の行方を探るために、何重にも人を通じて連絡が来てる君、高杉芹奈を石川に留めてるのは、『本命』のための盾にしてるのか?」海人は首を振った。「違う」「ただ、少し痛い目を見せてやってるだけだ」その目は冷たい光を放ち、鋭さを帯びていた。「全員に、だ」その頃、来依は書類にすべてサインを終え、藤屋家と暫定的にだが、がっちりと結びついた。菊池家がその情報を知ったときには、もう手遅れだった。「私、なんて言った?」海人の母は怒りで声を震わせ、普段の落ち着いた様子はどこにもなかった。「西園寺雪菜の一件があった以上、海人が高杉芹奈を受け入れるわけがない。タイプは違っても、手口は一緒。あんたでも騙されないのに、あんたの息子が騙されるわけがないでしょう!で、どうなったと思う?菊池家の掌握権まで渡しちゃって!河崎来依を藤屋清孝のビジネスパートナーに仕立てて、プロジェクトは藤屋家主導。私たちが手を出そうにも、もう動けない。「藤屋家を敵に回すわけにはいかないわ」海人の父の顔も、すっかり暗くなっていた。前回の雪菜の件では、道木家が介入し、菊池家にもそれなりのダメージが残った。だからこそ、

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第889話

    「君に必要だって分かってたよ。礼はいらない」「……」清孝は海人が酒を受け取らなかったことに特に気にする様子もなく、顔を来依の方に向けて言った。「この件は来依さんに一任するよ。きちんと進めてくれれば、特に注文はない。ただ、いくつか注意点があるから、それは後で秘書から送らせる」来依は軽く腰を折って礼をした。「信頼いただき、ありがとうございます」清孝は他の招待客へ挨拶に行く予定があり、海人に向かって言った。「まず来依さんに何か食べさせてあげて。その後、上の階で麻雀でもしよう。来依さんの先輩も一緒に残って参加してくれ。これから付き合いのある人たちとも顔を合わせる機会だ。ちょうどいい」勇斗は感激で言葉も出なかったので、来依が代わりに礼を言った。清孝が去った後、来依は勇斗の背中を軽く叩いた。「先輩、ビビらないでよ! 私は無形文化財とか和風とか全然分かんないんだから、ちゃんと説明して、あんたの強みを伝えて」勇斗は頭を掻きながら答えた。「来依の言う通りだ。ちょっと緊張しちゃっててさ」そう言われると、来依も納得した。彼女自身、清孝の存在を知ったときには、かなり緊張していたのだ。だから、それ以上は何も言わずに笑って声をかけた。「何か食べよう。あっちで座ろう」「うん」勇斗は食べ物を取りに行った。来依が歩き出そうとした瞬間、腰をそっと抱き寄せられた。振り返ると、海人の冷たくもどこか拗ねたような目がそこにあった。「感謝、いるんじゃないの?」確かに、礼は礼として言うべきだった。助けてもらったことは事実。「ありがとうございます、菊池社長。じゃあ、今度ご飯ご馳走するわ」海人は一歩近づき、声を抑えてささやいた。二人にしか聞こえないように。「ベッドでの『ごちそう』なら、受け取るよ」「……」ちょうどそのとき、勇斗が料理を持って戻ってきた。二人が今にもキスしそうな距離だったのを見て、ようやく気づいた。「この前の食事、お前もいたのか!来依の彼氏だったのか!」海人は来依の手を取り、眩い輝きを放つダイヤの指輪を見せた。「婚約者だ」勇斗は「うわー!」と声を上げた。「おめでとう、来依!そんな大事なこと、先に言ってくれよ。ご祝儀の準備もしてない。まあいいや、結婚式には招待してくれよ。

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第888話

    「……」結局、来依はジャケットを羽織らなかった。彼女が宴会場に足を踏み入れた瞬間、周囲の視線を一身に集めたのは言うまでもなかった。一つには、彼女が石川では見かけない顔だったこと。もう一つは、今日の彼女の装いが、主催者の風格を奪うようなものではないにせよ、彼女自身にとても似合っていて、見る人すべての目を惹きつける鮮やかさを放っていたからだった。誰かが声をかけようと歩み寄ろうとした。だが、その腰を軽く抱く男の存在を見た瞬間、ピタリと足を止めた。「菊池家の若様の女か?」「間違いない。あの独占欲、尋常じゃないからな。それに彼の側には長年誰一人女の影がなかったし。あんな堂々とした態度、正妻じゃなきゃ説明つかない」「高杉芹奈じゃないの?今回、彼女を連れてきたって聞いたけど。菊池家と高杉家、縁談の話があるとか」「違うよ。高杉芹奈なら見たことある」「聞いてない?菊池様にはすごく愛してる女性がいるらしいけど、後ろ盾がなくてさ。名前は確か河……」「河崎来依だ」「そう、それ!」そう答えた人物が興奮気味に振り返ると、相手の顔を見て、慌ててお辞儀した。「ふ、藤屋社長……」藤屋清孝は軽くうなずくと、そのまま海人の方へ大股で向かった。彼に酒を一杯手渡す。「今回は一人でうちに来たんじゃないんだな。めでたいことだ」海人は自分の酒を来依に渡し、その背中を半身で覆うようにして紹介した。「藤屋清孝だ」来依はちょうど口元に酒を運んだところだったが、その名前を聞いて、思わず酒が逆流しそうになった。「藤屋清孝?あの藤屋清孝?」清孝の唇にはうっすらと笑みが浮かんでいたが、その瞳には冷たさが残ったままだった。整った顔立ちに、年月を経て自然と備わった威厳がにじみ出ていた。来依は感嘆の声を漏らしてから、ようやく気がついた。目の前に立っているのは、自分の力では一生関わることすらできないような人物なのだ。たとえ彼が海人の親友だったとしても、自分の今の態度はあまりにも無遠慮で、失礼だったかもしれない。急いで頭を下げた。「藤屋社長、失礼しました。さっきは少し無礼でした」清孝の視線にはどこか意味ありげな光が宿り、海人を一瞥してから、口を開いた。「弟分の嫁なんだから、そんなに堅くならなくていい。俺と海人は古い友人

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第887話

    石川は大阪より少し暖かいとはいえ、年の瀬も近づき、また雪が降るかもしれなかった。どこが寒いのか?四郎は反論することもできず、おとなしくエアコンを入れた。設定温度は26度。来依は手で風をあおぎながら、わざとらしく言った。「この車、ダメね。なんかムシムシする」四郎も確かにそう思った。仕切り板すら付いていないのだ。海人が静かに笑った。「いいよ。お前の言うとおり、車を替えよう」「……」――来依はあるプライベートサロンに連れて行かれた。彼女は迷うことなく赤を選んだ。だが、海人は背中が大きく開いたデザインを見て、スタイリストに指示を出した。「ショールを足して。寒いから」スタイリストは少しためらった。「菊池さん、このドレスのポイントは背中の蝶モチーフのレースなんです。肩甲骨をあえて見せて、うっすらとウエストラインも……」海人の冷たい視線を浴びて、スタイリストはそれ以上言葉を続けられなかった。海人は石川の人間ではなかったが、石川のトップと繋がっている。このサロンは藤屋家の出資で運営されている。しかも、藤屋家からも海人とその奥様を丁重にもてなすよう指示が来ていた。とても粗末に扱える相手ではない。「ショールはいらないわ」来依は大きな姿見の前でくるりと一回転した。「すみません、アップスタイルでお願いします。この背中、しっかり見せたいの」海人の口元が、わずかに引き結ばれた。スタイリストはどちらを見ていいか分からず、動けなかった。来依が言った。「彼を見ないでください。着るのは私、決めるのも私ですよ」そう言って、回転式の椅子に腰を下ろした。「それと、メイクは少しレトロな感じにしてください。でも濃すぎないで。他人のパーティーですし、主役はあくまで他の人ですから」「かしこまりました!」スタイリストはすぐに準備に取りかかった。来依の要望どおりに仕上げた後、スタイリストの目が輝いた。「もしよければ、うちのモデルになってくれませんか?あるいはスタイリングのアドバイザーとして来ていただくとか……センスが抜群です!」来依は立ち上がってスカートの裾を整え、微笑んだ。「自分のことをよく分かってるだけですよ。アドバイザーなんて無理無理、そんな才能ありませんから」スタイ

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第886話

    来依は彼に白い目を向けた。海人の目には、深い笑みがじわじわと浮かんでいた。「ここで楽しんでて。俺は少し用事を済ませてくる。夜は一緒に宴会へ行こう」来依はむしろ、彼がいない方が気が楽だったので、手をひらひら振って追い払った。海人は彼女の頭を軽くぽんぽんと叩き、歩き出した。傍らにいた若い女性が笑いながら言った。「彼氏さんと、すごく仲が良さそうですね」「……」来依は一瞬、弁解しようか迷ったが、まあもうこの場所に来ることもないかもしれないと思い直した。仮にまた来るとしても、その時に言えばいい。彼女は笑って言った。「刺繍、教えてもらえますか?」相手は快く頷いた。刺繍は集中力と時間を要する作業だった。来依は、その日一日ほとんどを刺繍に費やした。食事とトイレの時間以外は、ずっと座って縫っていた。ひとつの刺し方を習得し、小さな作品を一枚仕上げた。立ち上がって、固まった背中と首をほぐしていると、海人がゆっくりと彼女の前に現れた。「楽しかった?」来依は手に持っていた刺繍布を彼に放り投げた。「あんたへの誕生日プレゼントよ。ここに連れてきてくれたお礼」それだけ言って、さっさと更衣室へ向かった。海人はその手の中のハンカチを見つめた。そこには竹と竹の葉が刺繍されており、対角に彼の名前が縫われていた。「お兄さん」近くの女の子が笑いながら言った。「ハンカチって、告白の意味があるんですよ」海人はそれをしまいながら、にこりと微笑んだ。「これ、彼女が自分で刺したの?」女の子は大きく頷いた。「すごく真剣でしたよ。きっと本気で好きなんですね」海人の全身が、喜びに染まっていた。来依が着替えて戻ってきた時、遠くからでも彼が妙に浮かれているのが分かった。近づくと、彼の視線はあまりにも熱っぽく、彼女は鳥肌が立った。ふと視線をそらすと、さっきの女の子がニコニコしていた。だいたい察しがついた。彼の腕を引っ張って車に乗せ、乗車後に言い訳を始めた。「私は初心者だから、ハンカチが一番簡単だったの。ただの練習用よ。名前を縫うのって、一番最初に習う基本なの」海人は意味深に「へえ」と返事した。「……」来依は説明するのが無意味だと感じ、顔をそむけて車窓の外を見た。だが海人は身を寄せ、半ば彼女を包み込むよ

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