穂乃果はただその場に立ち尽くすしかなかった。
熱い視線に絡め取られ、身動きひとつ出来ない。息が詰まって喉が窄む、声を出すことも出来ない。一枚、また一枚と白い花びらが捥がれてゆく。白いキャミソールに彼女の輪郭が浮かび上がる。拓海はキャミソールの紐をその薄い唇で喰み、ゆっくりと滑らせた。触れた肌が熱を持ち、呼吸が浅くなる。衣擦れの音が床へと落ち、白桃の胸が露わになった。穂乃果はゴクリと息を飲み、ギュッと目を閉じた。
心臓の鼓動が耳元で響く。怖い。なのに、どこかでこの瞬間を求めていた自分もいる。拓海の吐息が首筋に触れ、穂乃果の身体は微かに震えた。こんな自分、知らない。いつもなら逃げ出していたはずなのに、今夜は違う。この非日常の熱が、彼女の凍てついた心を溶かし始めていた。拓海の手が彼女の肩にそっと触れる。穂乃果は目を開け、彼の瞳を見た。その中に、彼女が忘れていた何か……温もり、欲望、繋がり………が宿っている気がした。
「震えてる、やめておく?」
穂乃果は声にならない掠れた呟きで「やめないで」と首を横に振った。「わかった。いいんだね?」拓海の唇がゆっくりと近づき、頬に軽く触れた。それは突然、現実になった。しっとりとした唇の感触が穂乃果の唇に重なり、息継ぎが出来ないくらい何度も繰り返される。
「……んつ、ふ」
彼女は自分の声に頬を赤らめながら、拓海の口付けを受け入れ続けた。それはやがて首筋へと落ち、白い肌に赤い花びらが散る。二人はそのまま、シーツの海へと崩れ落ちた。穂乃果の瞳には煌めく夜景が広がり、重なりあう鼓動に耳を澄ませる。窓の外、ネオンの光が揺らめき、部屋の中を淡く照らす。拓海の指が彼女の髪をそっと梳き、穂乃果は自分の心臓の音が彼と共鳴していることに気づいた。
怖かった。こんなにも誰かと近くにいること、こんなにも自分をさらけ出すこと。なのに、穂乃果の心は不思議な安堵に包まれていた。拓海の吐息が彼女の耳元で囁く。「穂乃果、きれいだよ」。その言葉は、彼女の凍てついた心を溶かし、かつて忘れていた感情を呼び覚ました。恋。温もり。繋がり........この瞬間、彼女は確かに生きていると感じた。 シーツの柔らかな波に身を任せながら、穂乃果は思った。この夜がどんな結末を迎えるのか、明日にはまた色褪せた日常が待っているのかもしれない。でも、今この瞬間、彼女は非日常の輝きの中にいた。
穂乃果は「はじめまして」と声をかけると、「こんばんは、穂乃果さん?」と、拓海は口角を上げて微笑んだ。彼女は「はい、桔梗穂乃果です」と返す。彼はテーブルに身を乗り出し、「敬語はやめてくれないか」と照れ臭そうに眉を吊り上げ、小さく笑った。シダーウッドのフレグランスがふわりと香り立つ。穂乃果の胸は甘くざわめき、恥ずかしさで目を逸らした。「穂乃果さん、この店の名前の意味………知ってる?」「ランコーントル?ですか」穂乃果が首を傾げると、拓海は「出会いっていうんだよ」と、目を細めた。「出会い・・・」、あぁ、マッチングアプリを利用している男性らしい発言だな、と思った。きっと誰にでもこうやって呟くのだろう。穂乃果は少し興醒めしてしまった。「出会い、素敵ですね」精一杯の作り笑いの仮面を貼り付けた。そこへタイミング悪く、バーマンがオーダー品を運んで来る。拓海は肘をついて溜め息をついた。バーマンは自分の間の悪さに困り顔をした。「こちら、和牛のローストビーフになります」山椒の実が彩る一品を差し出した。穂乃果はピックでローストビーフを口に運び、赤ワインを傾けた。肉の旨味とワインの深い味わいが溶け合い、幸福感が広がる。「穂乃果さん、飲むピッチ早くない?」「大丈夫です。私、こう見えてもお酒、強いんです」穂乃果は髪を掻き上げ、頬を染めた。「それなら良いけど、飲み過ぎは禁物ですよ?」拓海が軽く笑う。バーマンは箸休めにと、フリルレタス、ブロッコリー、黄色いパプリカ、薄切りラディッシュのサラダを置き、ハニーマスタードのドレッシングと赤いイチゴを添えた。「写真、撮っても良いですか?」「どうぞ、ご自由に」とバーマンが応じる。穂乃果はあまりの彩りの美しさにスマホで数枚撮影したが、ふと気づいた。周囲は落ち着いた紳士淑女ばかりで、カメラを構える客は彼女だけだった。気恥ずかしさで頬が熱くなった。酔いも回っているのかもしれない。「女の人は……よくそうやって撮るよね?」拓海が何気なしに和かに微笑む。その言葉は穂乃果の胸にチクリと刺さった。彼はマッチングアプリで一夜の恋の相手を探しに来たパートナーだ。彼女は何を浮かれていたのかと、静かに我に返った。「あ、深い意味はないよ」拓海が穂乃果の気配を察し、ワイングラスをテーブルに置いた。「いえ、良いんです」と、彼女は動揺を隠せず震える声で答え
穂乃果は急いで代金を払い、タクシーから降りた。拓海という男が指定した店は、赤レンガ倉庫の一角に佇む洒落たワインバーだった。穂乃果は一人、店の前に立ち、ランコーントルと彫られた看板を見上げた。ウェスタンレッドシダーの重いドアを、ためらいながらもゆっくり開けると、バーチャイムが揺れ、アメイジンググレイスの柔らかな音色が来店を告げた。「いらっしゃいませ」と、落ち着いたバーマンの声が迎える。ワイン樽の芳醇な香りが鼻先をくすぐり、蓄音器から流れるジャズの「ブルームーン」が静かに空間を満たしていた。穂乃果は落ち着いた雰囲気に圧倒され、足がすくんだ。薄暗い店内では、カウンターのグラスがキャンドルの光にきらめき、客たちの穏やかな笑い声が響き合う。彼女は拓海を待つ間、緊張と期待が交錯する心を抑え、窓際の席に腰を下ろした。穂乃果はバッグからスマホを取り出し、拓海からの連絡を待ちながら、そっと深呼吸した。「ご注文はいかがいたしましょう?」 黒髪をオールバックに撫で付けたバーマンが、穏やかに会釈した。穂乃果は思わずペコリと頭を下げ、差し出されたメニューを受け取ったが、英語とカタカナが左から右へ流れるように並び、目が泳いだ。(ど、どれが良いのかわかんない!)と内心焦る彼女の気配を察したバーマンが、柔らかな声でさりげなく話しかけてきた。「お客さま、赤ワインと白ワイン、どちらがお好みですか?」「あ、赤ワインが好き…です」穂乃果は少し緊張しながら答えた。「かしこまりました」と、バーマンは落ち着いた笑みを浮かべた。「まずは、バリューボルドーはいかがでしょうか?」と提案され、穂乃果は「バリューなら手頃かな」と安心してオーダーした。ほどなく、可愛らしい器に盛られたバーフードが運ばれてきた。薄切りのトマトとモッツァレラチーズを生ハムで包み、バジルの鮮やかな緑が彩りを添えている。(美味しそう)と、穂乃果の心が弾んだ。ボルドー型のグラスに注がれた透き通る赤ワインは、キャンドルの光にきらめき、誘うように揺れた。穂乃果はグラスをそっと回し、芳醇な香りを楽しむと、一口含んで喉に流し込んだ。ピックでトマトを摘み、頬張ると、トマトの酸味、モッツァレラの滑らかな食感、上質な生ハムの塩味が絶妙に絡み合い、幸せな余韻を残した。「美味しい」と、思わず漏れた歓喜の声に、バーマンは口角を上げ、静かに頷いた。店内
穂乃果はポケットのチラシを広げて見た。怪しげな電話番号、詐欺の類かもしれない。けれど、今夜の穂乃果はいつもと違った。やるせない二十四歳の誕生日。誰からの祝福もなく、ただケーキの代わりにコンビニのプリンを食べ、SNSの通知すら鳴らない夜。彼女はスマートフォンの画面を何度もなぞりながら立ち止まる。「昨日と違う自分になりたい」。その思いは、胸の奥で小さな叫びとなって響いた。穂乃果は画面をタップした。 指が震え、鼓動が速くなる。電話番号を入力し、呼び出し音が鳴るまでの数秒が、永遠のように感じられた。もし、これが何かの間違いだったとしても、もし、失望だけが待っていたとしても、今の彼女には関係なかった。単調な毎日に抗うように、彼女は一歩を踏み出したかった。受話器の向こうから聞こえるかもしれない声に、彼女は自分でも気づかない希望を重ねていた。夜の街は、ネオンの光でざわめいている。穂乃果はスマホを握りしめ、雑踏の中を歩き出した。チラシの言葉が、頭の中で反響する。「夢のようなひととき」。それは、彼女にとって、ほんの一瞬でもいいから、生きている実感を取り戻すための鍵だった。たった一つの行動が、彼女の人生にどんな波紋を広げるのか。それは自動音声に切り替わった。本人確認のため、スマートフォンにショートメールが送られてきた。指先が震え、鼓動が早くなる。引き返すのならば今のうちだ。穂乃果は大きく息を吸って表示されたURLをクリックした。「ようこそいらっしゃいませ」マッチングアプリの扉がゆっくりと開き、彼女を非日常の世界へと誘う。 画面には、色とりどりのプロフィール写真と、知らない誰かの笑顔が並んでいる。穂乃果の胸は期待と不安で締め付けられた。こんな世界、彼女には似合わない。そう思うのに、指はスクロールを止められない。誰かとの繋がり、たった一夜の温もり。それが本物かどうかはわからない。でも、今の彼女には、その一瞬の可能性が必要だった。穂乃果は自分の名前と年齢、画像フォルダにあった顔写真を添付した。(ハンドルネームにすれば良かったかな)夜の街を歩きながら、穂乃果はスマホを握りしめた。ネオンの光が彼女の影を揺らし、雑踏の喧騒が遠く聞こえる。アプリの通知音が小さく鳴った。知らない名前からのメッセージ。「はじめまして、穂乃果さん。今夜、話してみませんか?」その一文に、彼女の心は再び波打った
桔梗穂乃果は二十四歳の誕生日にもかかわらず、眉間に皺を寄せていた。経理部の課長から受けるセクシャルハラスメントには足元から這い上がる怖気を感じ、さらに残業続きで疲弊し切っていた。デスクの上には山と積まれた手付かずの書類と栄養ドリンク。蛍光灯の薄白い光が、彼女の青ざめた顔を無情に照らし出す。オフィスの空気は澱み、キーボードを叩く音だけが虚しく響く。課長の不適切な視線や、わざとらしい笑みを伴う言葉が、頭の中で何度も反芻され、胃の奥が締め付けられるようだった。「穂乃果ちゃん、今日も遅くまで頑張ってるね」さっき投げかけられた言葉が、耳にこびりついて離れない。あのねっとりした声は、彼女の神経をさらに擦り減らす。今日は誕生日だというのに、祝う気力など欠片もない。かつては、二十四歳という年齢に、もっと輝く自分を想像していた。夢を追い、笑顔で過ごす日々を。でも現実は、終電間際のオフィスで書類と格闘し、上司の不快な言動に耐えるだけだ。デスクの隅に置かれたスマホが震え、友人の「誕生日おめでとう!」というメッセージが目に入る。だが、返信する気力すら湧かない。彼女はただ、書類の山を睨みつけ、ペンを握る手に力を込めた。栄養ドリンクの空き瓶が、ゴミ箱に転がる音がやけに大きく響いた。窓の外、夜の街はきらめいているのに、穂乃果の心は灰色に染まる。課長の言葉がまた脳裏をよぎり、寒気が走る。この職場で働き続ける意味を、彼女は何度も自問していた。だが、答えは見つからない。書類の数字が滲んで見えるのは、疲れのせいか、それとも涙のせいか。彼女は深く息を吐き、肩の力を抜こうとした。今日は誕生日。せめて自分に小さなご褒美を、と思っても、頭に浮かぶのはコンビニの安いケーキだけだった。その時、朝の混雑した駅で受け取ったポケットティッシュの広告が目に入った。穂乃果は何気なくそれを手に取って見る。雑踏の中、押し合う人波に揉まれながら、彼女の指は無意識にティッシュの包みを握りしめていた。中に折り込まれたチラシには、けばけばしいフォントで「あなたに夢のようなひとときを」という見出しが書かれていた。普段ならば、こんなものは一瞥しただけでゴミ箱行きだ。駅前の雑音や、電車の到着を告げるアナウンスに掻き消され、すぐに忘れ去られる類のもの。それなのに、今日の穂乃果は違った。色褪せた日常の中で、その言葉は妙に鮮やか
穂乃果はただその場に立ち尽くすしかなかった。熱い視線に絡め取られ、身動きひとつ出来ない。息が詰まって喉が窄む、声を出すことも出来ない。一枚、また一枚と白い花びらが捥がれてゆく。白いキャミソールに彼女の輪郭が浮かび上がる。拓海はキャミソールの紐をその薄い唇で喰み、ゆっくりと滑らせた。触れた肌が熱を持ち、呼吸が浅くなる。衣擦れの音が床へと落ち、白桃の胸が露わになった。穂乃果はゴクリと息を飲み、ギュッと目を閉じた。 心臓の鼓動が耳元で響く。怖い。なのに、どこかでこの瞬間を求めていた自分もいる。拓海の吐息が首筋に触れ、穂乃果の身体は微かに震えた。こんな自分、知らない。いつもなら逃げ出していたはずなのに、今夜は違う。この非日常の熱が、彼女の凍てついた心を溶かし始めていた。拓海の手が彼女の肩にそっと触れる。穂乃果は目を開け、彼の瞳を見た。その中に、彼女が忘れていた何か……温もり、欲望、繋がり………が宿っている気がした。「震えてる、やめておく?」穂乃果は声にならない掠れた呟きで「やめないで」と首を横に振った。「わかった。いいんだね?」拓海の唇がゆっくりと近づき、頬に軽く触れた。それは突然、現実になった。しっとりとした唇の感触が穂乃果の唇に重なり、息継ぎが出来ないくらい何度も繰り返される。「……んつ、ふ」 彼女は自分の声に頬を赤らめながら、拓海の口付けを受け入れ続けた。それはやがて首筋へと落ち、白い肌に赤い花びらが散る。二人はそのまま、シーツの海へと崩れ落ちた。穂乃果の瞳には煌めく夜景が広がり、重なりあう鼓動に耳を澄ませる。窓の外、ネオンの光が揺らめき、部屋の中を淡く照らす。拓海の指が彼女の髪をそっと梳き、穂乃果は自分の心臓の音が彼と共鳴していることに気づいた。 怖かった。こんなにも誰かと近くにいること、こんなにも自分をさらけ出すこと。なのに、穂乃果の心は不思議な安堵に包まれていた。拓海の吐息が彼女の耳元で囁く。「穂乃果、きれいだよ」。その言葉は、彼女の凍てついた心を溶かし、かつて忘れていた感情を呼び覚ました。恋。温もり。繋がり........この瞬間、彼女は確かに生きていると感じた。 シーツの柔らかな波に身を任せながら、穂乃果は思った。この夜がどんな結末を迎えるのか、明日にはまた色褪せた日常が待っているのかもしれない。でも、今この瞬間、彼女は非日常の輝きの中に