金沢駅のコンコースは、行き交う人の喧騒でざわめいていた。キャリーバッグを手に、北陸新幹線グランクラスの乗降口から降り立った女性、佐々木穂花。拓海の婚約者だ。彼女の優雅な足取りと、イタリアの香水が漂う姿は、駅の雑踏の中でひときわ目立っていた。
拓海とその叔父は、コンコースの端で彼女の到着を待っていたが、二人の間には険悪な空気が漂い、言葉を交わすことすらなかった。「あの、偽の婚約者とは切れたんだろうな?」叔父が鼻息荒く詰め寄ると、拓海は視線を逸らし、「……はい、大丈夫です」と渋々答えた。その声には、どこか力がなかった。拓海の心には重い石が沈み、通り過ぎる女性の後ろ姿に穂乃果の面影を重ねるたび、胸に細い針が刺さるような痛みが走った。
あれから拓海は、穂乃果の行方を追い続けた。彼女が立ち寄りそうな場所、かつての喫茶店、図書館、ワインバーを訪ね、調査会社にまで依頼して手がかりを探した。だが、穂乃果はまるで霧のように消えていた。ベッドルームのローチェストに残された母子手帳にはまだ気づかず、拓海の心は後悔と焦燥で軋んでいた。コンコースの喧騒の中、穂花が近づく足音が響く。彼女の微笑みが拓海に向けられた瞬間、彼の胸に新たな重圧がのしかかった。穂花の帰国は新たな始まりのはずなのに、なぜか穂乃果の不在が彼を縛りつけていた。
「拓海! 久しぶり!」穂花はひまわりのような大輪の笑顔でコンコースを横切り、拓海へと軽やかに歩み寄った。「穂花、久しぶり」拓海は穏やかに応じたが、声にはかすかな
穂花はメディカーネ(地中海性ハリケーン)のように金沢に現れ、鮮烈な笑顔と予期せぬ婚約解消の宣言を残して去って行った。その爪痕は、拓海の心に深い嵐を巻き起こした。「どうしてくれるんだ!」叔父は穂花との婚約が頓挫したことに激昂し、織田の本宅に乗り込んできた。畳の間には重い空気が漂い、叔父は抹茶碗を叩き割る勢いで座卓を拳で打ち、唾を飛ばしながらまくし立てた。「穂花との約束はどうなった!」彼の声が広間を震わせる。だが、拓海の両親は困惑の表情を浮かべた。彼らにとって、穂乃果こそが拓海の正式な婚約者だった。叔父の剣幕に意味が分からず、母は穏やかに微笑み、スーツケースを手に邸宅を出た穂乃果を思い、「穂乃果さんと些細な喧嘩でもしたの? 早く仲直りしなさい」と拓海に言った。拓海は言葉を失い、座卓の前に座ったまま視線を落とした。両親の誤解と、穂乃果が去った事実が胸を締め付ける。拓海は拳を握りしめた。障子の向こうで、朝の陽光が笹の葉を揺らし、まるで彼の揺れる心を映すようだった。穂乃果はどこにいるのか。両親の穏やかな笑顔と叔父の怒声が交錯する中、拓海の心は答えのない問いに囚われていた。その時、拓海はふと契約書のことを思い出した。穂乃果と交わした契約書には、住民票が添付されていた。彼女はアパートに住んでいたが、もしかしたら実
金沢駅のコンコースは、行き交う人の喧騒でざわめいていた。キャリーバッグを手に、北陸新幹線グランクラスの乗降口から降り立った女性、佐々木穂花。拓海の婚約者だ。彼女の優雅な足取りと、イタリアの香水が漂う姿は、駅の雑踏の中でひときわ目立っていた。拓海とその叔父は、コンコースの端で彼女の到着を待っていたが、二人の間には険悪な空気が漂い、言葉を交わすことすらなかった。「あの、偽の婚約者とは切れたんだろうな?」叔父が鼻息荒く詰め寄ると、拓海は視線を逸らし、「……はい、大丈夫です」と渋々答えた。その声には、どこか力がなかった。拓海の心には重い石が沈み、通り過ぎる女性の後ろ姿に穂乃果の面影を重ねるたび、胸に細い針が刺さるような痛みが走った。あれから拓海は、穂乃果の行方を追い続けた。彼女が立ち寄りそうな場所、かつての喫茶店、図書館、ワインバーを訪ね、調査会社にまで依頼して手がかりを探した。だが、穂乃果はまるで霧のように消えていた。ベッドルームのローチェストに残された母子手帳にはまだ気づかず、拓海の心は後悔と焦燥で軋んでいた。コンコースの喧騒の中、穂花が近づく足音が響く。彼女の微笑みが拓海に向けられた瞬間、彼の胸に新たな重圧がのしかかった。穂花の帰国は新たな始まりのはずなのに、なぜか穂乃果の不在が彼を縛りつけていた。「拓海! 久しぶり!」穂花はひまわりのような大輪の笑顔でコンコースを横切り、拓海へと軽やかに歩み寄った。「穂花、久しぶり」拓海は穏やかに応じたが、声にはかすかな
穂乃果が織田の邸宅から姿を消した翌朝、キッチンに降りてこない彼女を心配した芳子さんが、ベッドルームのドアをそっとノックした。「穂乃果さん、朝食の準備ができていますよ? 穂乃果さん?」だが、返事はなく、静寂が重く響く。不安に駆られた芳子さんは、拓海に相談を持ちかけた。拓海は昨夜の婚約解消の言葉があまりにも冷たく、早急だったかと胸に刺さる後悔を感じ、急いで階段を駆け上がった。マホガニーのドアを勢いよく開け、「穂乃果? 具合でも悪いのか?」と呼びかけたが、声は空しく部屋に響いた。障子から透ける朝の陽光がベッドルームを柔らかく照らし、舞う埃がキラキラと光る。ベッドのシーツはシワひとつなく、冷たく、誰も眠った痕跡はなかった。拓海は部屋の片隅にあった穂乃果のスーツケースが消えていることに気づいた。「穂乃果!?」クローゼットを開けると、彼女の質素なワンピースやバッグが跡形もなく消えていた。ドレッサーの引き出しからは、贈ったルビーのイヤリングもなくなっている。拓海の顔色が青ざめた。だが、ローチェストの引き出しの隙間に、淡い桜色の母子手帳がひっそりと覗いているのに、彼はまだ気づかない。拓海は拳を握り、部屋の空虚な静けさに立ち尽くした。彼女が去った事実に、胸の奥で何か重いものが軋んだ。拓海は「一週間以内に」と穂乃果に告げたが、その間に彼女が住む新しいマンションを契約し、織田コーポレーションへの入社の手続きを済ませるつもりだった。穂乃果の生活を整え、穂花との婚約を穏便に進める計画だ
軋むドアの閉じた音が、穂乃果の耳に刺さり、いつまでも離れなかった。畳の上に座り込み、身じろぎひとつせず、彼女はただ月光に照らされた障子の笹の影を見つめていた。胸の奥にポッカリと大きな穴が開き、冷たい風が吹き荒れるようだった。「…言えなかったな」穂乃果は小さく呟いた。拓海に妊娠の事実を告げられなかったことが、鉛のように心を重くした。この織田の邸宅を出た後、どう生きていけばいいのか。胎内で息づく子の未来は、どんな色をしているのか。穂乃果は下腹にそっと手を置き、かすかな温もりを感じながら、痛む心を抑えた。「でも、700万あればアパート、借りられるかな」彼女は現実を噛み締めるように呟いた。契約婚約で得た1,000万円のうち、残りの700万円。それがあれば、狭いながらも小さなアパートを借り、つつましく暮らすことはできるだろう。仕事も、どこかでアルバイトを見つければ何とかなるかもしれない。だが、頭をよぎるのはただひとつ、お腹の子の存在だった。頼れる身寄りもなく、穂乃果一人でこの子を産み、育てることができるのか。不安が波のように押し寄せ、彼女の呼吸を浅くした。障子の向こうで、夜風が笹を揺らし、まるで彼女の揺れる心を映すようだった。穂乃果は目を閉じ、胎内の子に語りかけるように手を握りしめた。この子のためなら、どんな試練も乗り越えよう。彼女はそう心に誓い、静かな闇の中で立ち上がった。穂乃果は重い足取りでスーツケースを取り出し、クローゼットの扉を開けた。整然と吊るされたワンピースやドレスが、月光に照らされて静かに輝く。執事の川口がかつて「拓海様の趣味だ」と笑顔で話していたそれらは、穂乃果にはどこか似合わないと感じていた。「佐々木さんの趣味だったんだ…」今思えば、それらは「佐々木穂花」のために用意されたものだった。彼女の目には涙が浮かび、滲む視界の中でドレスのシルエットが揺れ
鉛のように重い脚を引きずり、穂乃果は二階のベッドルームの前でしばらく佇んだ。廊下の窓から差し込む夕暮れの光が、彼女の影を細長く床に投げかける。マホガニーのドアの前で大きく息を吸い、穂乃果は震える手でドアを恐る恐るノックした。部屋の中から、いつもより低く、少し沈んだ拓海の声が「どうぞ」と届いた。その声に、彼女の胸は締め付けられる。ドアノブを握る指先が震え、冷や汗が背を伝う。軋む音とともにドアが開くと、そこには畳の上で胡座をかく拓海がいた。ローテーブルの上には、開封された薄青いエアメールと便箋が無造作に置かれている。拓海の表情は硬く、普段の穏やかな笑顔は影を潜め、穂乃果を凝視する瞳には複雑な感情が宿っていた。「入って」拓海の声は静かだが、どこか重い響きを帯びていた。穂乃果の足は躊躇し、まるで床に縫い付けられたように動かない。心臓は緊張で早鐘を打ち、冷ややかな拓海の視線に絡め取られ、彼女は息をすることさえ忘れそうだった。「佐々木穂花」の名前が、頭の中で反響する。彼女は一歩踏み出し、畳の感触を足裏に感じながら、拓海の向かいに膝をついた。部屋に漂う沈黙は、まるで二人の間に見えない壁を築いているようだった。穂乃果は唇を噛み、意を決して口を開こうとしたが、言葉は喉の奥で凍りついた。「穂乃果、これで契約は終わりだ」突然の言葉に、穂乃果は言葉を失った。部屋の空気が一瞬で凍りついた。「……ん…で」
織田の邸宅に、一通の国際スピード郵便が届いた。封筒は薄青く、角がわずかに擦り切れている。「珍しい………」穂乃果は呟き、宛名を見た。そこには「織田拓海様」と丁寧な筆跡で書かれていた。彼女は何気なく封筒を裏返した。差出人は、佐々木穂花。「佐々木穂花……ほの…か?」穂乃果は目を見開き、その名前を口にした。自分と一字違いの名前を持つ女性から、拓海に宛てたエアメール。これは一体、何を意味するのだろう。封筒を握る手が震え、穂乃果の顔色が変わった。胸の奥でざわめく不安が、冷たい波のように広がっていく。玄関のタイルは冷たく、彼女は立ち尽くしていた。穂乃果の心は、過去の記憶と現在の不安の間で揺れ動く。拓海と過ごした時間、彼の笑顔や言葉が頭をよぎるが、同時に、この「佐々木穂花」という存在がそのすべてを揺さぶる予感に苛まれた。そこへ、芳子さんが白い割烹着で手を拭きながら現れた。「あら、穂乃果さん。どうなさったんですか?」その穏やかな声に、穂乃果はハッと我に返る。「芳子さん……あの」と口を開きかけたが、言葉が喉に詰まった。長年この家に仕える芳子さんなら、「佐々木穂花」が誰か知っているかもしれない。彼女は一瞬、エアメールを手渡そうとしたが、指が動かない。その答えを聞くのが怖かった。契約婚約という不安定な立場にいる自分と、遠くから拓海に手紙を送る「穂花」。その親密度の差は、穂乃果の心に重くのしかかった。封筒の重さは、紙一枚とは思えないほどだった。穂乃果はそのエアメールをベッドルームのローテーブルにそっと置いた。薄青い封筒は、磨かれた木の表