LOGIN「どうぞ」柚香の返事は、たった一言だった。修司は軽く頷いて、そのまま柚苑を後にした。最後まで余裕のある、穏やかで礼儀正しい態度を崩さなかった。時也は門のところに立ち、修司の車が柚苑を出ていくのを見送った。そして、どこか腑に落ちない表情で柚香に言った。「修司の性格からして、こんな大したことのない話をしに来ただけとは思えない」「じゃあ、目的は何だと思う?」柚香も同じように感じていた。修司は何をするにも計算して動くタイプだ。さっきの話では、修司にとって何の有益な情報も利益も得られない。普段の彼のやり方を考えれば、わざわざここまで足を運んでくる理由にはならない。「第一の目的は、遥真だろう」時也は柱にもたれながら、一つずつ考えを整理していく。「君のところに来て、情報を探る以外に残っているのは……」何かに思い当たったらしい。時也はすぐに眉をひそめ、真剣な顔で柚香を見た。「君についてる、あの二人の腕の立つボディーガードは?」「出かけてる。ちょっと用事があるの」柚香は何でもないことのように答え、それ以上詳しくは話さなかった。「修司の狙いは、君である可能性が高い」それが、時也が考えられる唯一の答えだった。「修司は遥真を見つけられなければ、雅人を助け出すことができない。だったら、君を使って遥真を脅すしかない」修司が久瀬グループの経営権を手に入れようとするなら、何としてでも雅人を守らなければならない。だが、自分の力だけで遥真を見つけ出すのは簡単なことではない。だからこそ、柚香を捕まえるのが一番手っ取り早い。柚香はさっきの修司とのやり取りを思い返した。どうしても、あれが修司の本当の目的だとは思えなかった。もし本当に自分が狙いなら、あまりにも分かりやすすぎる。それに、自分がいるのは柚苑だ。ここには至るところに監視カメラがある。修司が手を出せるような状況ではない。「君のボディーガード二人には、できるだけ早く戻ってくるように言った方がいい」時也はすぐに決断した。「僕は遥真を探してみる。何か分かったら連絡する」「もし違っていたら?」柚香が尋ねた。「君さえ無事なら、遥真は他のことには対処できる」時也はそう答えたが、その表情には重いものがあった。「その間、時々でいいから、遥真にも連絡してみてくれ」そう言い残して、時也は出ていった。
「わかった」大輔は頷いた。「ここでしっかり見張っててくれ」健太はそう言いながら上着を羽織った。「俺は上に行って、外を見てくる」健太が上へ上がると、恭介はちょうど遥真に状況を報告していた。「柚香さんは最近、特に問題ありません。二日前に隣の市で二期目の契約を結んで、今は柚苑に滞在しています」「本当に何もない?」遥真は聞いた。「はい、間違いありません」遥真は承輝と神崎家のことを考えながら聞いた。「慎吾と康平は、柚香のそばにいるか?」「いません。柚苑に着いたあと、二人とも離れました。今どこにいるのかは分かっていません」恭介は自分が調べたことをすべて報告した。「それと、30分ほど前に時也さんが柚香さんに会いに行っています」遥真はスマホの画面を点けた。柚香から電話がかかってきたのも、ちょうど30分ほど前だった。「二つのチームを動かして、気づかれないように彼女を守れ」遥真はどうしても安心できなかった。「修司や雅人の人間を、彼女に近づけるな」修司が雅人を見つけられなければ、何としてでも自分に雅人を引き渡させようとするはずだ。そして、一番手っ取り早くて効果的なのは、柚香を人質にして自分を脅すことだ。こんな状況で、絶対に柚香を巻き込ませるわけにはいかない……同じ頃。修司は柚苑にやって来ていた。突然訪ねてきた修司を見た時也は、警戒するような目を向けた。そのせいか、口から出る言葉にも棘があった。「情報が回るのは早いな。柚香がここに来たばかりなのに、もう知ってるのか」修司は眼鏡を押し上げた。「君も同じだろう?」時也「……」「私に何の用ですか?」柚香は世間話や無駄話をする気などなく、単刀直入に聞いた。「君に送ったメッセージは、もう届いているはずだ」修司はソファに腰を下ろした。物腰は相変わらず穏やかで、どこか上品な雰囲気を漂わせている。「遥真が今、少しばかり無茶なことをしている。君に協力してもらって、彼を見つけ出し、行動を止めてほしい」柚香は何も答えず、続きを待った。修司は柚香の目を見た。「君だって、彼に犯罪に手を染めてほしくないだろう?」柚香は落ち着いた声で言った。「修司さんは、自分の弟にありもしない罪を着せるのがお得意なんですね」「父親を連れ去ったのが、あの時の真相を聞き出すためだということは、君も分
雅人は一瞬呆気に取られ、困惑と疑問の入り混じった目で遥真を見た。「俺がいつ、お前にそんな親不孝なことを教えた!」「四歳の頃、他の家の子がピアノを上手に弾いているのを見て、帰ってきて、俺にもすぐに弾けるようになれって言った」遥真は過去のことを、何一つ忘れていなかった。「できないって言ったら、『できるようになるまで飯は食わせない』って言った」「そんなこと、言ってない!」雅人は認めなかった。遥真は言い争おうとはしなかった。人を傷つけた側は、過去のことなどあっさり忘れてしまう。その出来事をいつまでも覚えているのは、いつだって傷つけられた側だ。「ありもしないことを、俺のせいにするな」雅人は言った。「四歳の頃のことなんて、どれだけ覚えてるっていうんだ」「どうして、お父さんはここに連れてこられたのに、お母さんは来なかったのか分かる?」遥真の声は穏やかだった。雅人は言葉に詰まった。そんなことを考えたこともなかった。「今のお母さんは、過去に自分がしたことを後悔して、自分を責めているからだ」遥真は冷たく言った。「俺に謝って、自分の間違いを認めた。昔、自分が俺を傷つけたことも、どれだけ厳しく当たっていたかも、ちゃんと覚えている」雅人の顔色が変わった。遥真はそのまま部屋を出ていった。扉を閉める直前、振り返りもせずに言う。「思い出したら、いつでもドアを叩け。外に大輔がいる」そう言って扉が閉まると、部屋の中は真っ暗になった。遥真はあえて、部屋の照明を切らせていた。ドンドンドン――「遥真!この親不孝者!ここから出たら、絶対にご先祖様の前でお前のことを訴えてやる!お前なんか一族から追放してやる!ここから出せ!おい」ドンドン――「出してくれ!」雅人は何度も扉を叩いた。どうにかして遥真の決意を変えようとしていた。だが、遥真の心は、親友一家が雅人の企みによって殺されたあの日から、もう二度と雅人のことで揺れることはなかった。「社長」大輔が近づいてきた。「しっかり見張っておけ」遥真はわずかに目を上げた。声はいつもと変わらず、落ち着いている。「真相を話すまでは、何を言われても相手にするな。死にたいと言い出してもだ」「分かりました」大輔は命令をそのまま受け入れた。「遥真!」その言葉を聞いた雅人は、怒り
雅人は信じられないように遥真を見た。「お前、頭がおかしくなったのか!」遥真は口を結んだ。自分でも、狂っていると思う。もし柚香と陽翔のことを考えていなければ、この件を知った瞬間に、雅人を連れて千景が飛び降りたあのビルから自分も飛び降りていた。そうしなかったのは、残っていたわずかな理性が、かろうじて自分を繋ぎ止めていたからだ。「自分が久瀬家の人間で、水沢家の人間じゃないことを忘れるな!」雅人の顔は怒りで青ざめていた。「赤の他人のために、自分の父親にこんな仕打ちをするなんて、お前には良心ってものがないのか!」「父親?」遥真はその二文字を繰り返した。雅人が遥真を見る。なぜか胸の奥がざわついた。「子供を商品みたいに扱うような人間を、俺は父親だと思っていない」遥真は昔から、雅人を父親として認めていなかった。「ましてや、利益のためなら平気で人を殺すような人間を、父親だなんて認める気はない」子供の頃、周りの子ができることは、自分もできなければならなかった。一人で何十人、時には何百人もの子供たちと競わされていた。遥真は一つのことに集中して、一歩ずつ進みたかった。けれど両親は、人と比べるために「次はこれを習え」「今度はあれをやれ」と、次から次へと新しいことを押しつけてきた。それだけではない。自分たちの見栄のために、外では遥真のことを天才少年だと吹聴していた。「天才」なら、何でもできなければならない。勉強だけじゃない。スポーツも音楽も、何をやらせても人よりできて当たり前。そんなことまで求められた。遥真は、人と比べるための「商品」にされた。両親の虚栄心を満たすための道具にされた。一時間習ってもできないことが一つでもあれば、すぐに「役立たず」「馬鹿」と罵られた。当時はまだ幼く、頑固で、一度こうと決めたら譲らない性格だった。できないものは、できない。そのせいで、何度も殴られた。もし千景が現れてくれなかったら、あんな環境の中で本当に壊れていたか、心を病んでいただろう。何しろ、遥真の周りにいたのは、厳格な祖父、見栄っ張りな両親、そして存在感のない兄だけだった。それ以外にあったのは、両親の虚栄心を満たすために無理やり習わされた、山のような習い事だけだった。「親不孝者!恩知らずめ!」雅人は本気で怒った。まさか、これほど
「私は京原市にいる」柚香は意識を集中させ、向こうからほかに何か聞こえてこないか耳を澄ませた。「会って、少し話したいことがあるんだけど、時間を作れない?」「電話で話せ」遥真の口調は冷たかった。今の彼は、以前とはまるで別人だった。出会ってからこれまで、二人が離婚する頃にわざと柚香を困らせていた時期を除けば、遥真はいつだって優しくて紳士的だった。「電話じゃ話せないことなの」柚香は、遥真が感情のままに行動して、修司につけ込まれるような隙を作ってほしくなかった。「直接会って話せない?」遥真はきっぱりと断った。「無理だ」柚香がもう一度何か言おうとしたが、遥真はそのまま電話を切った。「今回は、本気で過去のことを全部明らかにするつもりみたいだな」時也は眉間にしわを寄せ、焦りを隠せない。「遥真がほかに持ってる、誰にも知られてない場所とか、知らないか?」柚香は首を横に振った。遥真は、そういうことを柚香に話したことがなかった。二人で一緒にいた頃は、別れるなんて考えもしなかった。だから、わざわざ自分たちの資産を一つひとつ表に出して確認することもなかった。柚香だけではない。遥真自身でさえ、調べなければ自分がどんな資産を持っているのか把握しきれていないほどだった。「恭介さんに電話してみる」柚香はそう言った。電話がかかってきた瞬間、恭介はスマホを手に遥真の前まで歩いていった。恭介は仕事モードのまま、淡々と告げた。「社長、柚香さんからお電話です」遥真の黒い瞳が、恭介のスマホの画面に落ちる。「出る?」恭介が尋ねた。遥真は少し黙ったあと、答えた。「切れ」恭介は言われた通り、電話を切った。柚香が社長に電話をかけてくること自体、めったにない。しかも、恭介にまで電話をかけてくるとなれば、よほどのことなのではないか。そう思った恭介は、つい余計なことを聞いてしまった。「もし柚香さんのほうで、本当に急ぎの用事だったらどうします?」「急ぎの用事じゃない」遥真は迷いなく答えた。「たぶん、時也か修司から何か聞いたんだろう」もし本当に急ぎの用事があるなら、電話が繋がった瞬間に伝えてくるはずだ。たとえ二人が離婚した今でも、電話では話せないようなことなどない。社長がそこまで言い切るのを見て、恭介はそれ以上何も言わなかった。この世で柚香
隊長は単刀直入に聞いた。「頼んでおいたことはどうなってる?もう全部分かった?」康平と慎吾は顔を見合わせた。二人とも息がぴったりで、どちらも口を開かなかった。同じ頃。柚香はすでに柚苑の中へ入っていた。昔と何も変わらない光景を目にして、胸の中にはさまざまな思いが込み上げてくる。「柚香さん、以前お好きだったジュースです。こちらは柚香さんのお好きなお菓子です。こちらは、私が新しくアップデートしたスマートシステムです」執事は宝物でも見せるようにタブレットを柚香の前に差し出した。目を輝かせながら、得意そうに説明する。「前よりもっと使いやすくて便利になっています。ちょっと見てみてください」柚香はタブレットを受け取り、ざっと確認すると執事に返した。「いい感じね」執事は柚香とそれほど年齢が変わらないのに、ずっと明るくて活発だった。「じゃあ、あとで実際に使えるように設定しておきますね」柚香は頷いた。執事はさっそく作業に取りかかった。柚香は立ち上がって二階へ行き、部屋をひと通り見て回った。部屋の間取りも家具や小物の配置も、以前とまったく同じだった。何一つ動かされた形跡がない。修司から届いたメッセージと、あの日空港で耳にした話を思い出し、柚香は階下へ戻ると執事に尋ねた。「最近、遥真が何をしてるか知ってる?」「分かりません」執事は首を横に振った。「もうかなり長いこと、遥真さんとは連絡を取っていません。もし遥真さんをお探しなら、恭介さんに連絡してみましょうか。きっと何か知っていると思います」柚香は断った。「いい。大丈夫」執事は興味津々といった様子で尋ねた。「今回、柚香さんが京原市に来たのって、もしかして遥真さんに会うためですか?」「違うわ。出張のついでに寄っただけ」柚香はそう答えた。「なるほど、そういうことですか」執事は何やら意味ありげな顔をした。柚香「……?」柚香が何か言う前に、執事はそれ以上聞くのをやめた。「じゃあ、私は下で仕事してきますね。何かあったら、いつでも呼んでください」柚香は何も言わなかった。頭の中では、どうすれば久瀬家の情報を手に入れられるかを考えていた。けれど、答えが出る前に、執事がまた戻ってきた。「柚香さん、時也さんがお見えです。大事な話があるそうです」柚香が顔を上げる。