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第803話

Auteur: 結奈々
監督がドアを閉めると、入口に立っていた千尋の視線がまっすぐ柚香へ向いた。「柚香さん……?」

「こっちに来て座って」柚香は千尋の手を取ると、自分のそばへ連れてきた。

千尋はまるで夢を見ているような気分だった。

監督に呼ばれたときは、撮影について何か話があるのだと思っていた。まさか、柚香に会わせるためだったとは思わなかった。

「挨拶はいいから」柚香は千尋の姿を上から下まで見て、ひとまず元気そうだと確認してから本題に入った。「今朝、私に送ってきたメッセージ、どういう意味?」

千尋の動きが止まった。

二、三秒ほど黙ったあと、複雑な表情で尋ねる。「そのためだけに、わざわざ来てくれたの?」

柚香は頷いた。「うん」

千尋は外の様子をちらりと確認した。

監督に呼ばれて入ってきた以上、ボディーガードやアシスタントが中の会話を盗み聞きすることはないだろう。

それでも、四六時中監視されている生活が長く続けば、どうしても無意識に警戒してしまう。

「二人で話してください」康平は千尋の気持ちをすぐに察し、自分から声をかけた。「俺と慎吾は外に出て、見張ってますから」

二人が出ていくと、千尋も
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  • 手遅れの愛、妻と子を失った社長   第804話

    「ありがとう」千尋は頷いた。柚香は千尋を見つめた。「今回ここを離れたら、しばらく京原市には来ないと思う」「分かってる」本当に話したくないのだと分かり、柚香もそれ以上は聞かなかった。帰る前に、紗季の電話番号を千尋に渡した。紗季は母の友人だ。遥真すら恐れない人なら、修司を怖がるはずもない。「もし周りのボディーガードが修司さんに何か報告したとしても、適当にそれらしい理由をつけてごまかせばいいから」柚香はふと足を止め、最後に残っていた不安も取り除いた。千尋は「分かった」と答えた。そしてこの瞬間、千尋はさっき真実を話さなくて本当によかったと思った。柚香は優しくて思いやりのある性格だ。もし修司が妹を人質にして自分を脅していると知ったら、きっと何とかして助けようとするだろう。けれど、柚香自身も神崎家や黒崎家、それに遥真のことで抱えている問題が山ほどある。これ以上、自分のことで柚香に心配や不安を抱えさせたくない。弁護士を探してくれるだけでも、十分すぎるほどありがたいことだ。気持ちを落ち着かせて外へ出ると、まだ二歩ほど歩いただけなのに、アシスタントが小走りで追いついてきた。「千尋さん、さっき中で会ってたのって、柚香さんだよね?」「食事は持ってきた?」千尋は答えず、逆に尋ねた。美咲は頷いた。「持ってきた」千尋が短く返事をすると、美咲はまだ何か聞きたそうにしていた。けれど、千尋の沈黙した様子を見て、それ以上は聞かなかった。一方、柚香のほうでは。康平は車を空港へ向けて走らせながら、興味津々といった様子で尋ねた。「その顔を見る限り、あんまりうまく話せなかったみたいですね」「うまくいかなかったわけじゃないよ」柚香はもう考えないことにした。千尋の決断を尊重すると決めた以上、最後までその意思を尊重するつもりだった。「ただ、世の中には人間とは呼べないような人もいるんだなって、急に思っただけ」修司が千尋をそばに置いておくために、表には出せないような手段を使っていることは想像していた。それでも、千尋の生活まで監視しているとは思わなかった。そんな環境の中で、千尋はどうやって過ごしてきたのだろう。「それは、まだ世の中を知らなさすぎるんですよ」康平はむしろ淡々としていた。前を見ながら、左手をハンドルに置いている。「目の

  • 手遅れの愛、妻と子を失った社長   第803話

    監督がドアを閉めると、入口に立っていた千尋の視線がまっすぐ柚香へ向いた。「柚香さん……?」「こっちに来て座って」柚香は千尋の手を取ると、自分のそばへ連れてきた。千尋はまるで夢を見ているような気分だった。監督に呼ばれたときは、撮影について何か話があるのだと思っていた。まさか、柚香に会わせるためだったとは思わなかった。「挨拶はいいから」柚香は千尋の姿を上から下まで見て、ひとまず元気そうだと確認してから本題に入った。「今朝、私に送ってきたメッセージ、どういう意味?」千尋の動きが止まった。二、三秒ほど黙ったあと、複雑な表情で尋ねる。「そのためだけに、わざわざ来てくれたの?」柚香は頷いた。「うん」千尋は外の様子をちらりと確認した。監督に呼ばれて入ってきた以上、ボディーガードやアシスタントが中の会話を盗み聞きすることはないだろう。それでも、四六時中監視されている生活が長く続けば、どうしても無意識に警戒してしまう。「二人で話してください」康平は千尋の気持ちをすぐに察し、自分から声をかけた。「俺と慎吾は外に出て、見張ってますから」二人が出ていくと、千尋も少しだけ肩の力を抜いた。「修司を怖がらずに立ち向かえる弁護士を探してほしいの」千尋は自分の考えを柚香に話した。「証拠が全部揃ったら、あの人を訴えるつもり」柚香はすぐに頷いた。「分かった」千尋は胸につかえていたものが少しだけ軽くなった。「ありがとう」「どうして直接電話してこなかったの?」柚香はしばらく考えた末、やはり聞くことにした。「それと、LINEじゃなくてSMSで連絡してって言ったのはどうして?」千尋はしばらく黙っていた。「修司に、あなたとは連絡を取るなって言われてるの。私のそばにいるアシスタントもボディーガードも、みんな彼の人間だから」迷った末に、千尋は打ち明けた。「それとLINEだけど、彼が使ってるタブレットに私のアカウントがログインされたままなの」たったそれだけの話だった。それでも、柚香にはすべて分かった。修司は千尋の自由を制限しているだけではない。普段の生活まで監視しているのだ。「私に何か手伝えることはない?」「大丈夫」千尋はきっぱり断った。これ以上、柚香をこの問題に巻き込みたくなかった。「私に合う弁護士を探してくれるだけで、十分あ

  • 手遅れの愛、妻と子を失った社長   第802話

    「お嬢様、少し休んでいてください」康平は淡い色のラフな服を着ていて、短く整えた髪も爽やかでよく似合っていた。「俺が話して来ます」「お、おい……何するつもりですか?」康平が袖をまくるのを見て、スタッフは思わず唾を飲み込んだ。「ここは撮影現場です。騒ぎを起こしたら、警察を呼んで捕まえてもらいますからね」「なんで警察なんか呼ぶんだよ」康平は相手の肩に腕を回して、少し離れたところへ連れていった。そのついでに、何枚かの札を相手の手に握らせる。「ただちょっと、話をするだけだって」二人がどんどん離れていくのを見ながら、柚香は不思議そうに慎吾へ尋ねた。「何を話すつもりなんだろう」慎吾は無表情のまま答えた。「たぶん、金で買収します」柚香「……?」二人の視線の先で。康平がスタッフと五分ほど話すと、そのスタッフは小走りで中へ入っていった。「話がつきました」康平は口元に笑みを浮かべながら戻ってきた。「あいつが戻ってきたら、俺たちも中に入れますよ」その言葉は嘘ではなかった。ほどなくして、さっきのスタッフが再び走って戻ってきた。態度はさっきとは打って変わっている。「どうぞ、お三方ともお入りください。千尋さんは今撮影中なので、少しお待ちいただくことになると思います」「ありがとうございます」柚香は礼儀正しく頭を下げた。スタッフに案内され、三人は中へ入った。柚香が撮影現場に来るのはこれが初めてだった。周囲のセットや何台ものカメラを見て、少し新鮮な気持ちになる。さらに奥へ進むと、誰かと一緒に芝居をしている千尋の姿が見えた。「こちらへどうぞ」スタッフがすぐに声をかけ、三人を急ごしらえの控え室へ案内した。「千尋さんの撮影が終わったら、監督からこちらに来るよう声をかけてもらいますね」「……?」柚香は思わず首を傾げた。監督まで出てくるの?スタッフはそれ以上ここに留まらなかった。「私は外にいますので、何かあればいつでも呼んでください」柚香は頷いた。スタッフが出ていくと、今回の騒ぎの「元凶」である康平に視線を向ける。「何を言ったの?急にあんなに丁寧になったけど」「お嬢様の身元を教えました」康平は、この手の事情がどういうものかよく分かっていた。「大勢の人に注目されるのが嫌なのは知ってますから、騒がないこと

  • 手遅れの愛、妻と子を失った社長   第801話

    千尋はそれ以上何も言わず、撮影現場へ向かった。それから三十分ほどして、ようやく隙を見つけて柚香にメッセージを送った。京原市に来ているのかと尋ねる内容だった。柚香がそのメッセージを見たとき、ちょうど食事をしていた。メッセージの最後に添えられた一文を見て、思わず眉を寄せる。――LINEは使わず、SMSで連絡して。理由は分からなかったが、それでも返信した。【うん。でも、もう帰ろうと思ってるよ。何か用?】千尋が返信しようとしたところ、視界の端にアシスタントがこちらへ歩いてくるのが見えた。結局、慌てて数文字だけ打ち込む。【何でもないよ。今度京原市に来たとき、ご飯ごちそうするね】送信すると、千尋はすぐにすべてのメッセージを削除した。ちょうどそのとき、アシスタントが彼女の前までやって来た。「千尋さん」美咲が何気ない様子で声をかける。「あと三十分くらいしたら、メイクに行けるよ」千尋は「分かった」と答えた。けれど、視線はどうしてもスマホの画面へ向いてしまう。柚香から返信が来ませんようにと、心の中で祈った。さっき車の中で、美咲が目でカメラの存在を知らせてくれたとはいえ、彼女は結局のところ修司が自分のそばにつけた人間だ。まだ何も分からない今、美咲が細かいことまで修司に報告するのかどうか、判断できない。一方、柚香は千尋からのメッセージを見て、釈然としない気持ちになっていた。「どうしましたか?」食事の合間に、康平が柚香の様子がおかしいことに気づき、声をかけた。「何かありました?」「どういうときに、LINEじゃなくてSMSで連絡するの?」柚香はどうしても千尋のメッセージが引っかかっていた。会って食事をしたいだけなら、電話でもLINEでもいいはずだ。康平が答える。「携帯会社を乗り換えるときの確認じゃないですか?」慎吾は無表情のまま言った。「ブロックされたときです」柚香は一瞬、固まった。すぐに千尋との連絡先を確認する。特に変わったところはなく、友達登録もそのままだった。「気になるなら、メッセージを送ってきた本人に聞けばいいでしょう」康平はさっぱりした性格で、こういうことをいつまでも考え込むタイプではない。柚香はどうするか迷った。すると、何かありそうだと察した執事がすぐに近寄ってきた。この数か月、

  • 手遅れの愛、妻と子を失った社長   第800話

    「帰ってきた?」修司は二階から降りてくると、冷えて少し赤くなった千尋の顔を見て、気遣うように尋ねた。「今日はずいぶん遅かったな。何かあったのか?」「主演二人の調子が悪くて、何度かNGが出ちゃって」千尋はバッグを置きながら、首に巻いていた白いマフラーを外した。「気づいたら二時間以上も遅くなってた」修司は彼女の耳元にかかった髪をそっと整えた。「一つ、君が知りたいと思っていることがある」千尋はいつものように大人しく振る舞った。「何?」「柚香が京原市に来ている」修司の温かな指先が耳元から頬へと滑り、その視線は白い肌にほんのり赤みが差した彼女の頬から離れなかった。「弟に会いに来たの?」千尋はごく自然に尋ねた。修司は彼女の表情を少しも見逃さない。「ああ」千尋は頷いた。それ以上は何も聞かなかった。「君、ずっと柚香に会いたがっていただろ?」修司はさらに彼女との距離を縮めた。「こんなに近くにいるのに、話してみたいとは思わないのか?」「私、柚香とはそんなに親しくないから」千尋はあくまで自然に答え、少しもボロを出さなかった。「いきなり会いに行ったら、失礼かなって」「そうか?」修司は言った。千尋は「うん」と頷いた。「それならいい」修司は彼女の顔から手を離した。口調は穏やかだったが、そこには釘を刺すような響きがあった。「前に言っておいたことを、忘れたのかと思ったよ」「そんなことないよ」千尋は彼の機嫌を損ねないよう、聞こえのいい言葉を返した。「あなたの言ったことは、全部ちゃんと覚えてるよ」修司はそれ以上何も言わなかった。千尋が演技をしていることくらい、彼には分かっている。それでも、彼女が大人しく自分のそばにいるつもりなら、一生演じ続けてくれても構わなかった。「来週から撮影で別の街に行くの」千尋は正面からぶつかりたくなかったので、どうでもいい話を修司に伝えた。「たぶん、毎日は帰ってこられないと思う」「いいよ」修司はまったく気にしていなかった。「君の心がここにあるなら、それでいい」来週には、父親の件もほぼ片がつく。そうすれば、この後始末もきれいに済ませられる。それに、千尋についても。彼女の身の回りにいるボディーガードもアシスタントも、すべて自分の人間だ。だから、彼女が裏で何か企んでいるはずもない。彼女の命綱は自分の

  • 手遅れの愛、妻と子を失った社長   第799話

    柚香は部屋に戻ると、簡単にシャワーを浴びた。浴室から出ると、スマホに時也からの着信履歴が一件残っていることに気づいた。髪を乾かしてから、折り返し電話をかける。すぐに相手が出た。「休んでた?邪魔しちゃったかな」「まだ寝るには早いよ」柚香はガラスの引き戸を開け、床から天井まである大きな窓の前に立った。「どうしたの?」「いや、たいした用じゃないんだけど。遥真の居場所、何か分かった?」時也は一日中探し回っていたせいで、かなり焦っていた。「いろんなところを探したけど、全然見つからないんだ」「会ったよ」「!!!」時也は驚いた。慌てて尋ねる。「どこにいる?話はどうだった?」「久瀬家の本宅から南東へ三キロくらいのところ」柚香は淡々と答えた。「あとで住所を送るね」時也は数秒、黙り込んだ。もし柚香と遥真が話し合ってうまくいっていたのなら、わざわざ自分に住所を教える必要なんてない。「遥真が、君の言うことを聞かなかった?」「誰の言うことも聞く気がないみたい」柚香は事実をそのまま伝えた。「雅人さんのことは、もう何があっても自分のやり方でやるつもりだよ。時也も説得しに行かないほうがいい」「でも……」時也は言葉を濁した。「行ったら、修司さんの人間に見つかるよ」柚香は事情を隠さず、すべて時也に話した。あとは時也自身がどうするか決めればいい。「遥真が意地を張って突っ走るなら、もう好きにさせるしかないよ」時也はまだ何か言いたそうだった。けれど、柚香が遥真を見つけ出したうえ、説得までしに行ったのだ。そこまでしてくれた彼女に、これ以上何かを求める資格はない。「じゃあ、これからどうするつもり?」「蒼海市に帰る」柚香はもう決めていた。言うべきことは、すべて伝えた。そのために、今までなら絶対にしなかったほど大きな譲歩までした。それでも遥真は聞き入れなかった。なら、もうこれ以上は関わらない。凛音が言っていたように、本人が感情に任せて突っ走りたいのなら、好きにさせればいい。何か起きたとしても、自分で責任を負えばいい。人は誰だって、自分の意地やわがままの代償を、自分で背負わなければならない。それに。修司が欲しいのは、ただ権力だけだ。「それもいいと思う」今回は時也も、柚香の決断に口を挟まなかった。「帰った

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