憲一は愛美の考えを察したようで言った。「うちの子は、ちゃんとした関係の中で生まれたんだから。変な想像はやめてくれよ」「じゃあ、その子のお母さんはどこなの?」愛美はぱちぱちと大きな目を瞬かせて尋ねた。一同は微妙な空気に包まれた。ほとんどの者が、憲一と由美のことを知っていたからだ。「……」憲一は呆れた表情を浮かべた。「この子は、俺と……俺が愛した人との愛の結晶だ。これは、疑いようのない事実だ」憲一は強く言い放った。嘘をついているわけではない。自分と由美は確かに愛し合っていた。今は別れたとしても、心を通わせた事実は消せない。しかし愛美は信じていない様子だった。彼女の目には憲一は遊び人のダメ男に映っていた。香織はわざと話題を変えた。「愛美、私たちはどこに泊まるの?」「宿泊先は全部手配済みよ」愛美は笑顔で答えた。「それはありがとう。大変だったでしょ?」香織も微笑み返した。愛美は香織の腕を引いて、そっと耳打ちした。「実はね……越人、こっちにいても全然落ち着かなくて、ずっと『仕事に戻りたい』って言ってるの。私も分かってはいるの、あの人、あっちのことが気になって仕方ないのよね。でも父さんが、『もう歳なんだから、そろそろちゃんと結婚しなさい』って言ってくれてね。それで、私が越人と一緒にあなたたちの住んでるところに移り住む話が出て……だからこの結婚式、ちょっと急いでやることになったの」香織はふんわりと笑って答えた。「でも、それでいいと思うよ。本来なら、もうずっと前に挙げてるはずの式だったんだし……いろんなことがあったけど、愛があったからこそ乗り越えられたんだもの。本当に、私たちも嬉しい。——仕事のことは気にしなくていいって、越人にも言ってあげて。今はまず体をしっかり治すのが先決よ。圭介のことなら、誠がちゃんと支えてくれてるし」愛美はため息をついた。「もう、どうしようもないよ。あの人、本当に仕事中毒なんだから……何もさせないと、全身がムズムズするって顔するのよ」香織は思わず笑ってしまった。「もう癖になってるのね。長年の習慣はそう簡単には変えられないわ」迎えの車が何台か待っており、一行は宿泊先へ向かった。宿泊先は一軒家に手配されていた。晋也の所有する別荘だった
圭介には、はっきりとは分からなかった。なにせ、これまでバゼルと直接関わったことがなかったから、彼の性格もよく知らないのだ。だが、誰かに利用されている可能性も否定できない。あの態度を見れば、なおさらだ。「彼の動きを監視しろ。誰と接触しているのかを調べる。もし裏に誰かがいないと確定できたら——金を渡す」圭介はこういうタイプとの関わりを好まなかった。「わかった」憲一が応じた。「すぐ手配する」まるでバゼルがそのまま逃げ去ってしまうのを警戒するかのように、彼は慌ただしくその場を後にした。圭介が家の中へ戻ると、香織が近づいてきた。「誰だったの?」圭介は、特に隠すこともなく答えた。「金をせびりに来た人だ」「……あげてもいいと思う。だって、彼のご両親はあなたを救った人たちでしょう?」香織は静かに言った。彼女は、バゼルの両親に対して、心から感謝していた。どんな理由であれ、圭介が無事だったのは、確かにあの夫婦の助けがあったからだ。恩義というものは忘れてはならない。「わかっているよ」圭介は言った。金を惜しんでいるわけではない。なくなればまた稼げばいい。ましてや要求額など、自分にとって大した金額ではない。だが——年若い彼が、もしも誰かに操られていたとしたら……香織も、それ以上多くは言わなかった。圭介には彼なりの判断があると信じていた。彼女は子どもたちの荷物を準備しにいった。子どもを連れての外出には、多くの準備が必要だ。大人なら多少のことは適当でも問題ない。だが、子どもは違う。細やかな配慮が求められるのだ。こうして2日が過ぎた。香織と圭介は、特に仕事を入れることもなく、丸3日間、家族4人で静かな時間を過ごした。——そうしてあっという間に5、6日が経った。出発の日も、すぐそこに迫っていた。その間、憲一はバゼルの行動を監視させ、彼が普段、誰と接触しているのか、裏に誰かがいるのかを徹底的に調べていた。憲一は越人とも親しいため、当然結婚式にも参列する。これで子供は三人に増える。しかも憲一の娘はまだ小さい。双は手がかからないが、次男と憲一の娘は常に誰かが付き添う必要がある。今度は佐藤だけを連れて行くことにした。恵子はこれまでずっと子供の
駆け込んできたのは、使用人だった。その様子はとても慌ただしく、落ち着きがなかった。香織は眉をひそめて立ち上がり、尋ねた。「どうしたの?」使用人は視線を下げて答えた。「玄関に、誰か来ています!」「玄関に?」香織も一瞬きょとんとした。「行ってみましょう」そう言って、香織は使用人の後ろについて行こうとした。「俺が行く」圭介が彼女を呼び止めた。香織は一瞬考えて確かに圭介が対応する方が良さそうだと頷いた。圭介が立ち上がり、外へ向かった。憲一も彼のあとに続いたが、口ではまだぼやいていた。「何かあったりしないよな……」心の中では、まだ前の出来事の影が残っている。もう二度と、あんな悪いことが起きてほしくなかった。圭介は彼を横目で見て言った。「お前が黙ってれば、何も起きないんだよ」「……」憲一は言葉に詰まった。二人が玄関まで来ると、そこに一人の少年が立っていた。圭介は面識がないようだったが、憲一はすぐに気づいた。「……バゼル?」圭介もその名を聞いて、内心で察しがついた。憲一が説明した。「あの時の、お前の命の恩人の息子だ。越人が救い出した」バゼルは黙って、憲一に一通の封筒を差し出した。憲一は不思議そうにそれを受け取った。「これは……?」バゼルは何も言わなかった。憲一は封筒を開け、中身を確認した。それは、一通の脅迫状だった。文面の雰囲気から察するに、あの誘拐犯グループのものに違いない。憲一は眉をひそめ、その手紙を圭介に手渡した。圭介は手紙を読み終えても表情は変わらず、ただバゼルに言った。「お前を保護してやれるが」バゼルは圭介をじっと見つめ、深い瞳で問いかけた。「俺の両親は……お前を助けたせいで死んだんだよな?」「……完全にそうとは言えない」圭介は静かに答えた。彼らは最初から誰かに脅されていた——そのことは、バゼル自身も知っているはずだ。だが、最終的に命を落としたのは、自分と関係がある。だからこそ、彼はこの少年を守ると言ったのだ。だが、バゼルは皮肉げに笑った。「たった二人の命で、保護だけか?」圭介は眉を上げた。その言葉からは、明らかな不満が滲み出ていた。「何が欲しい?」圭介は淡々と尋ねた。
憲一は感慨深げだった。まさか、圭介と香織に続いて幸せになるのが越人だとは。普段はあんなに忙しく働いているのに、恋愛面では自分を出し抜いているなんて。彼はまた深いため息をついた。「はあ……結婚するんだから、記念になるような結婚祝いを贈らないとな」「それぐらいの良心はあるのね」香織が言った。「……」憲一は言葉を失った。自分はそんなにダメな人間に見えるのか?「俺、そんなに悪いか?」香織はいたずらっぽく笑って言った。「悪くはないよ。ただ……あんまり良くもないかも?」「香織!圭介と一緒になって図に乗ってるんじゃないだろうな?」香織は慌てて手を振った。「今の言葉、聞かなかったことにして」憲一はふんと鼻を鳴らした。「もう遅いぞ。母の借りは子が返すってな。君の息子に武術を習わせて、俺の娘のボディーガードにさせてやる」「……」香織は言葉を失った。我が子もだって大切な子だというのにどうしてボディーガードなんて……「いい夢見てるわね」彼女はぷいと顔を背けた。そんな将来、絶対にさせない。鷹はそばで黙って聞いていたが、そのやり取りに思わず目を瞬かせた。ボディーガードってそんなに悪い職業か?まあ確かに、人に仕える立場って言われたら……ちょっと微妙かもしれない。香織が部屋に入ると、圭介が窓際で電話をしているところだった。誰と話しているのか、彼女が近づくとすぐに切ってしまった。「誰だったの?私が来たら切るなんて」彼女は何気なく聞いた。圭介が彼女を見上げた。香織は近寄って彼の腕を掴み、笑いながら言った。「どうしたの?何か言いにくいことでもあるの?」圭介は彼女の頬をつねった。「いつからそんなにやきもち焼きになったんだ?」香織は首を傾げ、考え込むふりをした。「あなたを愛し始めた時からじゃないかしら」彼女は真面目な顔で答えた。圭介は思わず笑みをこぼした。告白されて嫌な気分になる人なんて、そうそういない。彼だって例外ではなかった。彼はソファに腰を下ろしながら言った。「さっきの電話は越人だった。結婚式で何か手伝えることがないか、聞いてみた」式の準備には何かと物入りだろう。「で、どうだったの?」香織が尋ねた。「晋也が全部手
圭介は一目で憲一の企てを見抜いた。自分の息子をボディーガードにでもするつもりか?武術を習わせて娘を守らせるだって?何を考えてるんだ?夢でも見てるのか?香織が歩み寄り、クスッと笑ってから憲一に言った。「まだ赤ん坊の娘さんのことで、考えすぎよ」憲一は深ため息をついた。「娘を持つって、そういうもんだよ。他人に奪われるくらいなら、君たちの息子のほうがマシだと思ってさ。君と圭介なら、うちの娘に辛く当たることもないだろうし、ちゃんと守ってくれる。君が姑になるなら、由美のこともあるし、うちの娘に優しくしてくれるだろう?」「……」香織は言葉を失った。……まだまだ私、若いんだけど。姑になるのなんて、ずーっと先の話なのに。今から考えても仕方ない。「分かったわ」香織は言った。「圭介はやっと目が良くなったばかりなの。少しは休ませてあげて」憲一は不満そうに尋ねた。「つまり……俺がウザいってことか?」「……」香織は言葉を失った。別にわざとじゃなくても、小さな子どものことで圭介に付きまとい、まだよちよち歩きの子に縁談の話なんて――「どう思う?」彼女は逆に問いかけた。「……」憲一は言葉に詰まった。……まぁ、ちょっと舞い上がりすぎたかもな。娘が可愛すぎて、先走ったのかもしれない。彼はバツが悪そうに笑った。「……娘ができて、うれしくて舞い上がってただけさ」その言葉を聞いた香織は、ふと由美からのメッセージを思い出し、憲一に尋ねた。「由美から電話とか来た?」憲一は首を横に振った。香織は少し引っかかりを感じた。どれだけ忙しくても、自分の子供を恋しく思うものじゃないの?「時間があったら、彼女に連絡してみて」香織は言った。だが、憲一は特に気にした様子もなく、軽く受け流した。由美には新しい生活がある。たとえ明雄に何かあったとしても、人妻に近づくわけにはいかない。距離を保つ方がいい。「明雄が無事なら、二人でまた子供を作れるんだ。余計な心配はするな」憲一は言った。香織は黙ったまま、何も返さなかった。夜、執事はキッチンスタッフにたくさんの料理を準備させた。皆が食卓を囲み、ようやく平穏が訪れた。香織はほっと胸を撫で下ろした。双も、そろそろ
「そうだ、羨ましいだろ?俺には娘がいて、お前にはいないからな」憲一は言った。圭介は薄笑いを浮かべた。「今はお前の娘でも、大きくなったらどうなるか分からない。だが俺の息子は、大人になってもずっと俺の息子だ」「……」憲一は言葉を失った。……こ、これはどういう意味だ?娘が大きくなったら自分の娘じゃなくなるだと?バカバカしい。この子はいつだって俺の娘だ!大きくなったからって、誰のものになるもんか。ふと、彼は圭介の言葉の裏の意味に気がついた。「圭介っ!!」彼は小走りで追いかけた。「おい、お前の息子に言っとけ!うちの娘には近づくなってな!」圭介は腕の中の息子を見下ろしながら、にやりと笑った。「だから言っただろ。あんまり自慢しすぎると、いずれ俺のものになるかもしれないぞ」「……」憲一は言葉を失った。大事に育てた娘が、大きくなって他人の彼女や妻になるなんて――想像しただけで胸が痛い。ましてや、それが圭介の息子だったら、なおさら悔しい。「俺のものになる」って、何様のつもりだ?俺の娘が、あんなのに目を向けるわけがないだろ!「調子に乗るな」憲一は鼻を鳴らした。うちの娘を奪える者などいない!圭介は相手にする気もなかった。娘が生まれたばかりで、もうすでに親バカか?「だったら、娘を一生、七十でも八十でもそばに置いとけよ」「……」憲一は言葉を失った。……それは嫌だ。娘にはちゃんと結婚して、立派な相手と幸せになってほしい。自分の元で未婚のまま年を取らせるわけにはいかない。考えてみれば、圭介の息子と結婚するのも悪くないかも?圭介は大金持ちだ。見た目も悪くないし、香織も美人。子供は二人の良いところを受け継ぐはず。それに、子供の頃から二人を見比べられる。出来のいい方を選んで娘と結婚させればいい。圭介の息子たちは、こっちが選び放題じゃないか。もし娘が圭介の息子と結婚すれば、こっちの婿になるわけだ。つまり実質半分は自分のものだ。そう考えると、むしろ得した気分になってきた……憲一は圭介の後をついていきながら言った。「そろそろ双、学校に通わせてもいい頃じゃない?」婿は小さいうちから育てないと。圭介は彼をちらりと睨んだ。