「あなたは由美を信じてるかもしれないけど、私は憲一を信じてないのよ……」香織は、今回ばかりは本当に憲一の行動に度肝を抜かれていた。「俺が彼と話すよ」明雄は静かに言った。香織は少し考えた。――確かに、明雄という人は、誠実で冷静な人だ。おそらく、大きな揉め事にはならないだろう。そして何より、彼は由美を心から愛している。きっと、彼女を守ってくれるはずだ――憲一が悪い人間だというわけじゃない。でも、もし憲一と明雄のどちらかが危険な状況に陥って、どちらか一人しか助けられないとしたら――自分は迷わず憲一を選ぶ。長年知り合いで、絆も深いからだ。人は誰しも、自分と親しい人を優先してしまうものだ。明雄に対しての思いやりは、あくまで「由美の伴侶だから」という理由にすぎない。これは否定できない事実だ。憲一のことをここまで警戒しているのは、彼が由美に無理を強いたり、子どもを取り戻そうとするのではないかと恐れているからだ。子どもは確かに憲一の血を引いている。彼には「父」としての権利があるのも事実だった。だが、今由美は明雄と幸せに暮らしている。誰もが、あの子どもは二人の子だと信じて疑っていない。そんな中で憲一が「自分の子どもだ」と主張し、子を連れて行こうものなら……世間はどう見るだろうか?明雄を、由美を、どんな目で見るだろうか?人の心は、測りがたい。「……由美は、元気にしてる?」ふと、彼女は優しく問いかけた。「元気だよ」明雄は穏やかに返した。通話が終わり、明雄はふと身を翻そうとした。「誰と話してたの?」背後から、由美の声がした。明雄は、ためらわず携帯を差し出した。「香織からだったよ」「なんて言ってたの?」携帯を受け取りながら、由美が訊いた。「憲一がこっちに来るってさ」彼は淡々と答えた。由美の表情が一瞬固まり、目を伏せた。「……何しに来たの?」「さあ、わからない」由美が続けた。「何時に来るの?」明雄は答えず、逆に問いかけた。「俺を信じてるか?」由美は顔を上げた。何も言わなかった。だが、答えは明白だった。――信じている。信じていなければ、全てを彼に委ねたりしない。「どうして、そんなこと聞くの?」由美は尋ね
由美は、携帯をバイブレーションに設定していた。前回、不意に着信音が鳴り、やっと寝かしつけたばかりの珠ちゃんを起こしてしまったからだ。あの時の泣き声は、なかなか収まらず、本当に大変だった。同じことが起こらないよう、彼女はあらかじめ音を消していた。少なくとも、突然の着信音で子どもを驚かせることはない。その携帯も、洗濯をしているときにソファに適当に置いたままだった。今、彼女は寝室で珠ちゃんに授乳していたため、まったく気づいていなかった。携帯は何度も何度も震え続けた。由美は珠ちゃんへの授乳が終えると、乾いた洗濯物を畳んでクローゼットにしまった。昨夜は、あまり眠れなかった。家事を片づけ終えた彼女は、娘を抱いたまま、ベッドで少し仮眠をとることにした。明雄と正式に夫婦になってからというもの、彼は毎晩のように彼女を求めてきた。そのせいで、由美の睡眠時間はずっと不足気味だった。昼間の短い仮眠だけが、身体を保つ唯一の手段になっていた。そのころ――明雄がドアを開けて帰宅した。手には買ってきたばかりの魚を提げていた。最近、由美の母乳はどんどん減ってきており、今では珠ちゃんもほとんど粉ミルク頼りだった。少しでも母乳の出をよくしようと、魚やスペアリブを買って、彼女のために滋養のあるスープを作ることにしたのだ。魚はすでに内臓処理されており、手入れが簡単だった。彼は黙々とキッチンで準備を進め、全てを鍋に入れるまでにかなりの時間を費やした。さらに、スープのレシピが載った本まで買ってきた。そこには、体に優しいスープの作り方がたくさん紹介されていた。子育てに追われている由美を見ていると、少しでも楽をさせてやりたかった。休日のうちに、少しでも妻を支えたい――それが、彼なりの思いやりだった。料理を一段落させた彼は、キッチンから出て、ふと、ソファの上で小刻みに震えている携帯に目が留まった。近づいて画面を確認すると――着信相手は、香織だった。彼は携帯を手に取り、寝室の由美を起こしに行こうとした。しかし、扉の向こうには、娘を抱いて静かに眠っている由美の姿があった。あまりにも穏やかな寝顔に、声をかけるのをやめてしまった。その間にも――携帯はまた震え始めた。その頃、遠く離れた場所で、香織は今にも
憲一の視線は鋭く刺さるように香織を見つめていた。しかし香織は相変わらず冷静で、ふっと笑みを浮かべた。「……ただ、あなたに由美のことを放っておいてほしかっただけよ」「じゃあ、その一言の本当の意味はなんなんだ?」憲一は尋ねた。「あなたはどう思うの?」香織は逆に尋ねた。「意味なんて、ないと思うね」憲一は淡々と答えた。香織は深く息を吸い込んでから言った。「私は、好きってことは、つまり愛してるってことだと思ってるのよ。だって、好きでもない人を愛するなんて、そんなの変じゃない?」だからこそ、憲一が圭介は「好きだった」と言ったとき、彼女は淡々と受け入れた。彼女にとって、「好き」も「愛」も、結局は同じことだった。憲一は口元を歪め、呆れたように言った。「……なのに、その『言葉遊び』で、俺を縛ろうとしてたんだろ?」「……」香織は言葉を失った。「そ、そんなつもりじゃなくて……」彼女は弁明しようとした。だが、憲一は彼女の肩を押してドアの外へ出した。「もう分かった、分かったよ。由美に会いに行くなって言いたいんだろ?行かないってば」香織は軽く頷いた。「それでいいわ」ドアがバタンと閉じられると同時に、憲一は思いきり目をひっくり返した。……何で俺、こんなに素直なんだろうな。別に、「奔放」になりたくてなったわけじゃない。ただ、自分の人生は、自分で決めたいだけだ。他人の言葉で生きるつもりなんて、ない。窓の外を見つめながら、憲一の視線はどこか遠くを彷徨っていた。翌朝。香織は朝食の席で憲一の姿が見えないことに気づいた。「憲一、まだ起きてないの?」彼女は尋ねた。佐藤が答えた。「私が起きた時には、もう起きていましたよ」「何時に起きたの?」香織は佐藤がいつも早く起きることを知っていた。国内にいようと、F国にいようと、それは変わらなかった。「五時過ぎだったかしら……」はっきりとは覚えていないようだ。香織は眉をひそめた。――やっぱり、おかしい。憲一の行動が、いつもと違う。そんな直感が、彼女の胸をざわつかせた。彼女はすぐに携帯を手に取り、憲一に電話をかけた。幸い、すぐに繋がった。「どこにいるの?」香織は少し焦った声で尋ねた。憲一
憲一はまたしても何も答えなかった。「……」香織は言葉を失った。今や彼女は、どんどん落ち着きを失っていた。憲一は圭介のことを、自分よりずっと前から知っている。圭介の過去について、自分は本当に何も知らない。あの含みのある態度、言いかけて飲み込んだ言葉――一体何を知っていて、何を黙っているの……?「憲一、はっきり言いなさいよ。何が言いたいの?」憲一はベッドに寝転がり、通知音が鳴るたびに眉をひそめるだけで、内容は見ようとしなかった。彼にはわかっていた。――香織は、焦ってる。──彼女も、こんなふうに焦ることがあるんだな。やっぱり人って、実際に自分の身に起こらなければ、痛みなんて分からない。共感なんて、綺麗事だ。同じような痛みを経験した者だけが、その重さを知っている。経験のない者には、それは永遠に理解できないのだ。携帯が鳴り続けた。憲一はちらりと画面を見た。「憲一!」「松原憲一!!」彼自身の名前で画面が埋め尽くされていた。彼は小さく笑って、ゆっくりと起き上がり、ドアを開けた。突然の登場に香織は一瞬呆然としたが、すぐに激しい視線を向けた。憲一はにこやかに笑いながら聞いた。「中に入るか?」香織は単刀直入に切り込んだ。「さっき言いかけたことは何?」「別に、大したことじゃないよ」憲一は肩をすくめ、そっけなく答えた。「……っ!」香織は言葉を失った。憲一は、ゆっくりと水を汲みに行き、彼女に差し出した。「まあまあ、怒らないで。まだ怪我してるんだろ?」香織は水を受け取り、そのまま彼の部屋へ入って窓際のソファにどっかりと腰を下ろした。「話しなさいよ」憲一はドアのそばに寄りかかった。「さっき、君が言ったろ。『好きは奔放で、愛は抑えるもの』って。それが正しいと思うんだよな?」香織はしっかりとうなずいた。「うん、そう思うわ」「じゃあ聞くけど──圭介は、君にとってどっちだ?」憲一は、じっと彼女を見つめた。香織はぱっと顔を上げた。視線がぶつかり合い、彼女の眉間に皺が寄った。「……それが、さっき言いたかったこと?」憲一は静かに頷いた。――香織と圭介の始まり。誰よりもよく知っているのは、自分だ。あの頃、圭介は彼女に対して「抑
香織はソファに腰を下ろし、まっすぐ彼を見つめて言った。「先輩、真面目に話しましょう」憲一も彼女の正面に座った。その視線は、ずっと彼女の顔を捉えたままだった。「……俺は、真面目に話してるよ」「じゃあ、由美に会いに行ったのって――ただ『子どもを見たかっただけ』って言ったのは嘘?それとも、本気でそう思ってたの?」憲一は、ふと動きを止めた。正直なところ、少しばかり――いや、ほんの少しだけ、自分の中に葛藤があったことを否定できなかった。自分の子どもに会うこともできず、名乗ることも許されない。それがどれほど苦しく、悔しいことか。彼女が自分を止めた理由は分かっていた。――由美の幸せを守るためだ。けれど、自分だって父親だ。知る権利も、育てる権利もあるはずだろう?「……少しだけ、君を騙したかもしれない」納得はいっていなかった。悔しかった。でも、由美の今の生活を壊すつもりは、本当に、なかった。「正直なところ――あの警官さんは、いい男だと思ったよ。俺より、ずっとマシだ」由美との関係が壊れてしまったのは、自分のせいだ。もしあの頃、彼女を守るだけの力があったなら――あれほど深く傷つけずに済んだなら――彼女は、今も自分の隣にいたかもしれない。でももう、全部遅い。もし子どもがいなければ、きっと二度と由美の世界に足を踏み入れなかっただろう。でも、子どもという絆が、まだそこにある。「……はあ」憲一は大きくため息をついた。そして香織を見つめながら言った。「で……何が言いたいんだ?」香織はゆっくりと口を開いた。「『好き』っていうのは、自由奔放な気持ちよ。でも『愛』は、抑えるものって、どこかで読んだことがあるの。由美に対する気持ち、あなたは……どっちなの?」「……」憲一は眉をひそめた。すぐに答えられなかった。なぜ「愛」は抑えるものなんだ?愛してるなら、思いのままにしてはいけないのか?「……君は、どう思う?」そう問い返すと、香織は迷いなく答えた。「その言葉、正しいと思うわ」憲一は首を振った。「……俺は、そうは思わない」たとえ今は、彼女の生活を邪魔するつもりはないとしても――それでも、「愛」が抑えるだけのものだなんて、納得できない。香織は警
「……まさか、逃げたんじゃねぇだろうな」憲一は思わず悪態をつきそうになった。彼は慌てて携帯を取り出し、電話をかけようとしたそのとき——その少年が目に入った。彼はすでに憲一が用意した服に着替えていた。洗い立ての深い金髪はつややかで、少し長めに伸びて耳を覆っている。顔は白く、所々に小さなシミがあり、額のあたりにかかる前髪がその目元を少し隠している。その瞳は深く澄んだ青。手には、食べ物の載ったトレイを提げていた。「お腹が空いて……」風呂から出て誰もいないのを見つけ、自分でホテルの食事をとりに行ったらしい。このホテルは軽食サービスがある。彼はそこから適当に持ってきたのだ。憲一は黙って携帯を下ろした。「食べる?」少年が聞いた。憲一は首を振り、ソファに腰を下ろした。少年も気にせず、食べ物をテーブルに広げて食べ始めた。「名前は?」憲一は尋ねた。「バゼル(Barzel)」少年は食べながら答えた。憲一はうなずいた。「バゼル、でいいか?」少年は頷いた。「何か聞きたいことがあれば、どうぞ」バゼルは俯きながら食べ続けていた。憲一は少し驚いた。年齢の割に、ずいぶんと物分かりがいい。憲一が返す前に、彼は続けた。「お前、俺を家には入れず、ホテルに連れてきた。つまり、俺を信用してないってことだろ?別に構わないよ。俺だって、お前を信用してるわけじゃない」憲一はしばらく、少年の顔をじっと見つめた。「信用してないなら、どうして俺を探して来たんだ?」その問いに、バゼルは一瞬動きを止めた。だが、すぐにまた黙って食事を続けた。憲一は続けて尋ねた。「どうして黙ってる?」少年は低い声で言った。「両親はもういない。行く場所がないんだ」憲一は鼻をさすった。――自分、余計なことを聞いたか。だが、バゼルは顔を上げずに、さらりと続けた。「気にしなくていいよ。そういうの、慣れてるから」「……」憲一はしばらく黙ったあと、ふっと息を吐いた。「これからは、ここに住めばいい」バゼルは、わずかに頷いた。憲一は立ち上がった。「……ちょっと待って」憲一が立ち上がろうとしたとき、少年が呼び止めた。「どう呼べばいい?」「松原憲一だ」「その……」少年は彼を見つめた。「お金、少し借りてもい