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第6話

Author: 金招き
 圭介は眉を上げ、怒っていなくても圧迫感が漂っていた。「なんだ?」

憲一は歯を食いしばり、「まあいい、お前の幸せのために、この悔しさは飲み込むよ」と言った。

圭介は彼をちらりと見た。彼の深い目は穏やかで暗かった。「行くぞ」

誠は車を発進させ、走り去った。憲一は香織に何かしなければならないと感じ、振り返って彼女を探しに行こうとしたが、彼女が歩き出しているのを見た。

「香織」憲一は歩み寄った。

「もう戻らないといけないんです」彼女は微笑みながら憲一を見た。

憲一は彼女の気分は何とも言えない気持ちであるのを感じ、「香織。君のお母さんの心臓の件だが、早く適合する心臓が見つかるように、全力を尽くすよ」

母親のことを思い出すと、彼女の心はきゅっと縮まった。必死に感情を隠そうとしたが、声が微かに震えてしまった。「本当ですか?」

心臓というものは他の臓器とは違い、そう簡単に手に入るものではない。

時には死ぬまで待っても手に入らないこともある。

「先輩、ありがとうございます」彼女は感謝の気持ちをどう表現していいかわからなかった。

彼女の目はわずかに温かさがあった。

「俺たちの関係で礼は不要だよ」憲一はすっかり照れてしまった。もし裏で手を回していたのが圭介でなければ、彼女は夢に一歩近づいたことになる。

「家に送るよ」

香織は慌てて断った。「大丈夫です」

彼女が帰るのは矢崎家ではないので、断ったのだ。

憲一は無理強いしなかった。

......

彼と別れた後、香織はタクシーで別荘に戻った。

圭介がここに足を踏み入れることはないだろうと思うと、彼女の気分はかなりほぐれた。佐藤も彼女がここに住み始めた頃ほど遠慮していない様子であるのを見て、「何か良い事でもあったんですか?嬉しそうに見えますよ」と笑顔で尋ねた。

彼女は玄関で頭を下げ、靴を履き変えながら言った。「ここに佐藤さんと二人で住めて嬉しいの。」

佐藤さん「…」

「じゃあ、俺は余計な存在か?」

この声は…

香織が顔を上げると、リビングに立っている男を見た。彼の雰囲気は冷たく、彼女を嫌悪の念を込めて見下ろしているようだった。

金融雑誌やテレビで彼を見かけなければ、この男が自分の「夫」だとは気づかなかっただろう。

まさか彼が現れるとは思ってもみなかったのだ。

「どうして…帰ってきたの?」

香織は彼が何のために来たのか分からず、全く対応できなかった。彼はこの結婚が嫌だったのではないか?

彼女に会いたくないはずなのに。

圭介の顔色は暗く、眉間に冷たさを浮かべていた。「なんだ、帰ってくるのにもお前の許可が必要か?」

香織は頭を下げた。確かに、彼の領域に「侵入」したのは自分だった。

「サインしてくれ」

圭介は離婚届をテーブルの上に置いた。

香織はテーブルの方をちらっと見たが、驚くようなことはなかった。彼が離婚を要求するのは当たり前のことだろう。ただ、彼女は今は離婚できない。母親の手術が終わるのを待たなくてはならない。

「圭…」彼女は口を開いたとたん、どう彼を呼んだらいいのかわからなくなった。「あの…その…」

「離婚したくないのか?」彼女が言葉を終える前に、圭介は遮った。彼は彼女の反応に驚いているようではなかった。もし彼女がすんなりと別れを決めていたなら、彼に結婚を要求するような卑劣なことをしなかっただろう。

「いいだろう、後悔しないようにな」そう言って、圭介は外に出た。

明らかに彼は誤解していた。香織ははっきりと説明しようとしたが、彼に追いつこうとする彼女の足取りはあまりに慌ただしく、誤って敷居につまずき、手に持っていたバッグは地面に落ちた。

中に入っていたものがあちこちに散らばった。

彼女は急いで拾い集めたが、何か一つ足りない気がした。探してみると、それは圭介の足元にあった。彼女は反射的にすぐに手を伸ばし、隠そうとした。

だが、手が触れた瞬間、それは彼の足に踏みつけられた。

彼女は顔を上げた。

圭介は無表情で、彼女の顔がこわばっているのを見ると、興味を持ったようで、屈んで、拾い上げた。

それは2粒入りのカプセル型の薬だった。

1粒はもう飲まれていた。

残りは1粒だった。

彼はそれを反転させた。ノルレボと書いてある。彼はこれがどんな薬なのかしばらくよくわからなかったが、次の行には72時間の緊急避妊と書いてある。

これを理解できない男は、よほどの馬鹿だろう。

彼は目を伏せ、パニック状態で床に倒れている女性を無表情で見つめた。「結婚初夜に、男に会ったのか?」と、彼の口調はかみしめるように、皮肉めいていた。

この瞬間、彼はこの女性に嫌悪感を抱いた。

香織の指は丸くなり、ゆっくりと握られ、彼女は震える気持ちを押し殺し、ゆっくりと立ち上がった。

彼の嘲笑に対して、彼女は一言も反論しなかった。

なぜなら、彼女には言い返す術がなかったからだ。

「あなたと結婚したくなかった」彼女は軽く震えながら話した。

その裏表のある態度は、彼をさらに苛立たせた。彼は手に持っていたものを直接彼女の顔に投げつけ、彼女の目尻から細い血の線が流れた。

香織は反射的に目を閉じたが、顔の痛みよりも、彼が薬を投げつけた行動による尊厳の侮辱が、彼女の心をより痛めた。彼女は唇を軽く噛み、投げつけられた薬を拾い上げ、それを力強く握りしめた。薄いプラスチック板が彼女の手の中で形を変え、掌に鋭い痛みを与えた

「男が好きなんだろ?なら俺がお前の望みを叶えてやるよ」そう言って圭介は去っていった。

しかし、たった一晩が過ぎた頃、香織は彼の言葉の意味を痛感することになった。

朝、彼女が仕事に行く準備をしていると、誠が別荘に現れた。

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