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第354話

Auteur: 年緒
「時雄、毎朝こうして朝食を持ってこなくていいから」

時雄は平然と言った。

「君のためじゃない。赤ちゃんのためだよ」

そう言って、慣れた様子で部屋へ入ってくる。そこでリビングに置かれているスーツケースに気づいた。

「どこかへ行くのか?」

萌花は午後から京浜へ行くことになっている。今夜は向こうのホテルに泊まる予定なので、スーツケースには一泊分の着替えだけを詰めてある。

説明するのも面倒で、萌花は短く答えた。

「今日は出張よ」

「どこへ?」

「あなたに関係ある?」

時雄の目がわずかに暗くなった。

「そういえば、俺も今日から三日ほど京浜に行く。仕事でね。だから、しばらく顔を出せない」

萌花は少し驚いた。

時雄も京浜へ行くというのか。

けれど、彼女はそこであえて突き放すように言った。

「お願いだから、もうこういうことはやめて。正直、そういう気遣いをされても困るだけ。私たちは友達でいるくらいがちょうどいいの」

結局、二人の会話は気まずいまま終わった。

萌花があえてきつい言い方をしたのは、時雄の気持ちが見えているからだ。

だからこそ、これ以上近づかせたくない。短い
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  • 断ち切るのは我が意   第359話

    時雄の顔色が変わった。「でも、まだ八か月です」医師の表情は厳しかった。「胎盤早期剥離の可能性があります。このままでは母子ともに危険です」時雄の指先が震えて、次の瞬間、彼はその場に膝をついた。「お願いします。助けてください……どうか、二人とも助けてください」医師は短く答えた。「全力を尽くします」そう言い残し、手術室へ入っていった。手術が続いているあいだ、時雄はずっと手術室の前で膝をついたままだった。その姿を見て、誠司も思わず目頭が熱くなった。彼は時雄のそばへ行って、そっと肩に手を置いた。「二条さんも赤ちゃんも、きっと大丈夫です。必ず助かります」それは時雄を励ますための言葉で、誠司自身にも確信があるわけではない。むしろ今は、萌花を誕生日会に連れてきたことを誰よりも悔やんでいる。身重の彼女を、わざわざ遠くまで来させるべきではなかった。しかし今さらどれだけ後悔してももう取り返せない。三時間後、ようやく医師が手術室から出てきた。続いて、看護師が赤ちゃんを抱いて出てきた。時雄はすぐに駆け寄った。「どうなりましたか。妻は……妻は無事なんですか」医師は言った。「母子ともに命に別状はありません。ただ、赤ちゃんは早産ですので、しばらく保育器で経過を見ます」その言葉を聞いた瞬間、時雄はその場に崩れるように座り込んだ。誠司も壁に手をつき、ようやく息を吐いた。「よかった……本当に、よかった」時雄は顔を上げた。「妻はどこですか」「まず入院手続きをしてください。奥さんは手術を終えたばかりです。転落による負担もありますので、しばらくは安静にしてください」夜になって、萌花はようやく意識を取り戻した。まだ目を開ける前から、誰かが自分の手を強く握っているのが分かった。その手はひどく冷たく、かすかに震えている。萌花の指先が少し動いた瞬間、そばにいる時雄がはっとして立ち上がり、彼女の顔をのぞき込んだ。「どうだ、痛いか?」萌花が真っ先に聞いたのは、赤ちゃんのことだ。「赤ちゃんは……赤ちゃんはどうなったの?」時雄は慌てて声をやわらげた。「大丈夫。無事だよ。少し早く生まれたから小さいけど、今は保育器に入っていて、看護師さんがずっと見てくれてる」萌花はようやく息を吐いて、そっと目を閉じ

  • 断ち切るのは我が意   第358話

    しばらくすると、会場の照明がゆっくり落とされた。ケーキカットの時間になったらしい。大きなバースデーケーキが運ばれてくる。会場の中央には人が集まり始めていたが、萌花はその輪には入らなかった。誠司に声をかけて、宴会場の端にある螺旋階段を上がった。螺旋階段を上がった先には、休憩用の部屋がいくつか用意されている。萌花は少しひと息つくつもりで、そのうちの一室に入ろうとした。扉を開けた瞬間、足が止まった。ソファには時雄が座っている。腕を組み、暗い目をしたまま、まっすぐ萌花を見ている。その視線だけで、部屋の空気が一気に重くなった。萌花は眉をひそめ、別の部屋へ移ろうとしたとき、時雄が先に口を開いた。「そんなに俺に会うのが怖いのか。後ろめたいのか?」その言い方に萌花は足を止め、部屋の中へ入ると、できるだけ平静に言った。「後ろめたいことなんてない。説明する義務もない」時雄の顔から怒りが引いていく。代わりに浮かんだのは、悔しさとも痛みともつかない、ひどく苦しげな表情だ。「萌花。君がほかの男のそばにいるのを見るだけで、俺は耐えられないんだ」その言葉に、萌花の心は一瞬だけ揺れた。それでも、彼女はすぐに自分を抑えた。ここで流されるわけにはいかない。「時雄、先に手を離したのはあなたでしょう。あなたは私に本当のことを言わなかった。たとえそれが、誰かへの罪悪感からだったとしても、私が深く傷ついたことに変わりはない」萌花は静かに続けた。「見捨てられなかったから助けた。憎み続けたくなかったから許した。でも、だからといって、もう一度やり直すわけじゃない」彼女の表情は落ち着いている。「もう、恋で苦しむのは嫌なの。だからお願い。自分の気持ちくらい、自分でなんとかして」嫌いになれたわけではない。だからこそ、もう同じ場所へ戻りたくない。一度は、揺れる気持ちに負けて時雄のそばに戻った。その結果、どれほど傷ついたかよく知っているから、もう同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。この一年のことを思い返すと、萌花はひどく疲れた気持ちになった。時雄は感情を必死に抑え込んでいる。その顔を見て、萌花はさらに突き放すしかないと思った。「それに、あなたは……あと五年しかないって言っていたでしょう?」時雄の表情が固まった。

  • 断ち切るのは我が意   第357話

    絵理のその言葉に、周囲がまたざわめき始めた。宗一郎が口を開いた。「たしかに今技術案件で小林グループとはいくつか話が進んでいる。数日前、小林さんが京浜へ出張するついでに挨拶に来ると言っていたので、こちらから招待状を出しておいたんだ」宗一郎は腕時計を確かめ、「そろそろ着くころだな」と言って入口へ目を向けた。すると、ちょうどスーツ姿の男が会場へ入ってくる。宗一郎の表情がぱっと明るくなった。「噂をすれば、だ」その瞬間、会場中の視線が一斉に入口へ向いた。すらりと背の高い男が、落ち着いた足取りでこちらへ向かってくる。端正な顔立ちのせいか、彼の周りだけ空気が変わったように見えた。会場には華やかに着飾った人々があふれていて、それでも時雄が姿を見せた瞬間、周囲の視線は自然と彼へ吸い寄せられる。端正な顔立ちに、隙のない立ち姿。落ち着いた身のこなしからは、良家の出らしい品のよさがにじんでいる。萌花は時雄の姿を見た瞬間、胸が小さく跳ねた。時雄まで、ここに来るとは思っていなかった。時雄は一同の前まで来ると、宗一郎に丁寧に挨拶した。その途中で、視線が一瞬だけ萌花をかすめた。けれど彼は何も見なかったかのようにすぐ宗一郎へ向き直った。宗一郎は機嫌よく言った。「時雄さん、ちょうどよかった。今まさに、あなたの話をしていたところなんだ」時雄は少し驚いたような顔を作った。「そうでしたか。どうやら何か面白い場面を逃したようですね」そう言いながら、何気ないふりで萌花と誠司のほうへ視線を流した。はなは、萌花の表情が一瞬揺れたのを見逃さなかった。その瞬間、胸の奥で冷たい笑みが広がる。さっきまで萌花にしらを切られ、どう追い詰めるか迷っていたところに、よりによって時雄が現れたのだ。これ以上の好機はない。自分の妻が、別の男の妻としてこの場に立っているのを見て、時雄が平然としていられるはずがない。萌花の芝居も、これで終わりだ。絵理が我慢しきれずに口を開いた。「先ほど、あちらの方が、こちらの方は小林さんの奥さんだと言ってたんです」絵理は萌花のほうへ視線を向けた。時雄はそこで初めて、堂々と萌花を見た。はなは、期待を押し殺すように時雄を見つめている。時雄が萌花を妻だと認めた瞬間、彼女の芝居は終わる。もう逃げ場

  • 断ち切るのは我が意   第356話

    はなは、わざと萌花のほうを見た。「皆さん、見てください。幸田社長の奥さまにそっくりではありませんか」萌花には、はなが何を狙っているのかすぐに分かった。この場に来る前から、身元を疑われる可能性は考えた。この前、萌花はメディアに出ている。しかしそれは数か月前の海城ノ浦でのことで、京浜とは人脈も空気も違う。だから、はなが写真を持ち出すまで、誰もそこに気づかなかった。はなが写真を見せたことで、周囲の人々が次々と集まってくる。「本当にそっくりですね」「どういうこと?小林家といえば海城ノ浦でもなかなかの名家だろう。小林社長の奥さまと幸田社長の奥さまが、ここまで似ているなんて」「小林グループとは仕事で付き合いがあるが、離婚したなんて話は聞いていないぞ。まさか、二股ということはないだろうな」「お腹を見てください。もうすぐ生まれそうじゃありませんか。もしこの方が小林夫人なら、それは誰の子なんでしょう」はなが何を狙っているのか、萌花にはよく分かっている。けれど、ここで慌てる必要はないと彼女は思った。会場にいる人たちはもともと自分の素性を知らない。はなが出したのも、本人だと断定できる証拠ではなく、ただの写真にすぎない。萌花は静かに口を開いた。「何か誤解されているようですね。写真の方とは、たしかに少し似ているかもしれません。でも、私はその方ではありませんし、小林社長という方も存じ上げません」萌花は最初から、認めるつもりなどない。蓮との噂が出たときもそうだった。決定的な証拠がないなら、こちらが慌てて認める必要はない。どうやらはなは、萌花がその場でしらを切るとは思っていなかったらしい。「萌花さん、本当に否定するんですか。恥ずかしくないんですか」その瞬間、誠司の表情が冷えた。「はなさん、そんな失礼な言い方はお控えください」萌花も芝居を続けた。「萌花さん?それ、どなたのことですか。誠司、この方はどうやら人違いしているようです」すると、周囲からも声が上がり始めた。「さすがに人違いでは?小林社長の奥さまと幸田社長の奥さまが同一人物なんて、あり得ないでしょう」「このはなって、どういうつもりでこんな話を持ち出したんでしょうね。噂を流すのは簡単でも、否定する側はどれだけ大変か分かっていないんでしょうか」「幸田

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    一方、はなも萌花に気づいて、一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにこちらへ歩いてきた。だが近づくにつれ、萌花の隣にいる男の顔を見て、はなの表情がわずかに変わった。はなは萌花ではなく、先に誠司へ笑顔を向けた。「幸田社長、帰国してからまたお目にかかれるなんて思いませんでした」誠司は隣の人物と話していたが、はなの声に気づいて振り向いた。相手の顔を見た途端、表情がわずかに冷える。「ああ」萌花は少し意外に思った。誠司がはなを知っているとは思わなかったからだ。はなの隣にいる中年男も驚いたようだ。「はな、幸田社長とお知り合いなんだ」はなは微笑んだ。「大学でお世話になった教授が幸田社長とお知り合いで、そのご縁で一度だけご挨拶させていただいたことがあるの」だが誠司は、はなの言葉に合わせる気などまったくないようだ。「その先生とは、何度か仕事で顔を合わせただけです。今はもう関わりもありません。もっとも、学生に不適切な行為をした件で逮捕されたと聞いてますが」はなの顔色が一瞬で変わった。「え……そうだったんですか。全然知りませんでした。学生のころは、とてもそんな方には見えなかったので……」はなは、ひどく驚いたような表情を作った。誠司はそれ以上相手にせず、返事もしなかった。はなは仕方なく、今度は萌花へ視線を向ける。「萌花さん、どうしてこちらに?」誠司の表情にも、少し意外そうな色が浮かんだ。「お知り合いですか」はなは、萌花が答えるより先に口を開いた。「もちろんです。萌花さんとは、昔からいろいろありましたので」そのとき、会場の視線が一斉に入口のほうへ流れた。今日の主役である絵理が宗一郎の腕にそっと手を添え、こちらへ歩いてきた。「誠司さん、来てるんですね」宗一郎に声をかけられ、誠司は礼儀正しく挨拶した。「東堂さん、お元気そうで何よりです。絵理さん、お誕生日おめでとうございます」絵理の顔に、明るい笑みが広がった。「誠司さんのプレゼント、とても気に入りました」そう言い終えたところで、絵理の視線が萌花に止まって、表情がはっきりと変わった。「誠司さん、こちらは?」誠司が答えるより先に、宗一郎が穏やかに口を開いた。「誠司さんの奥さんだ。昨日話しただろう。誠司さんはもう結婚されてる

  • 断ち切るのは我が意   第354話

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