LOGIN富豪の娘で天才少女と謳われた二条萌花(にじょう もえか)は、身分違いの男を七年も追いかけた後、結婚して三年が過ぎた。 ある日、萌花は彼の心にずっと他に想いを寄せる女がいることを知った。 彼が萌花と結婚したのは、その女の留学資金を得ることが狙いだった。 彼女が生まれたばかりの子供を連れて帰国すると、一か月千六百万円の産後ケアセンターに入った。 「彼女は出産したばかりで体が弱っている。お前は料理がうまいから、栄養満点の食事を作ってやれ」と夫は、まるで当然のことのように言い放った。 「私の息子は人並み外れて優秀なの。側室がいて当然よ。女ならもっと度量が大きくなくちゃ」と姑は鼻高々に言った。 それに小姑まで「子供も産めない役立たずが、お兄ちゃんと結婚できたんだからありがたく思って私たち家族に尽くすのは当然だわ!」と嘲るように言った。 愛人の産後ケアまで一家総出で押し付けられると萌花の中で何かが吹っ切れた。 その瞬間、萌花の中で、理性の糸が『ぷつり』と切れた。もう、我慢できない。 クズ男一家を叩き潰す過程で、萌花の背後にはいつも、ある人物が支援していた。 振り返ると、そこに立っていたのはかつての宿敵であり、今や誰もが恐れ敬う小林家の三男・小林時雄(こばやし ときお)だった。 萌花は言った。「なぜ私に手を貸すの?何か下心があるんでしょ?」 彼は言葉で答える代わりに、いきなり彼女をベッドに押し倒した。 目を真っ赤に充血させた彼は言った。「萌花、俺は十年も前からお前を想い続けてきた。この十年間、俺がどんな思いで過ごしてきたか、お前に分かるか?」
View More恋に弱い者同士というのも、案外、幸せなのかもしれない。萌花は二か月ほど休んだあと、すぐに研究の現場へ戻った。生体チップの開発に寝食を忘れるほど打ち込み、今度はその技術を人工心臓へ応用することを目指した。時雄に残された時間は、五年。それでも萌花は、必ず間に合わせられると信じている。萌花は研究に追われ、どうしても育児に十分な時間を割くことができない。そのぶん時雄は、佳奈が生後二か月になる頃には、毎日のように会社へ連れていくようになった。二条佳奈(にじょう かな)という名前は、時雄がつけたものだ。実のところ、家には産後ケアのスタッフが二人、ベビーシッターが三人、それに家政を取り仕切る執事までいる。すべて須恵が厳選し、孫娘の世話を任せている人たちだ。それでも時雄は、どうしても安心できず、子どもは自分のそばに置いておくのが一番安心だと、かたくなに言い張った。ところが、会社の人間たちは、時雄の言い分を真に受けてはいなかった。娘を会社に連れてくるのは、どう見ても自慢したいだけにしか見えないとみんなは思った。そのため、社内ではこんな光景がすっかり日常になっている。時雄は佳奈を抱いたまま会議に出る。佳奈のおむつが濡れれば、何食わぬ顔で会議を中断し、会議机の上に娘を寝かせて、慣れた手つきでおむつを替える。取引先との商談中でも同じだ。腕の中の佳奈が目を覚まして声を上げると、時雄はすぐに商談を止めた。「すみません、少し待ってください。娘のミルクを用意してきます」最初のうちは、社員たちも「いいお父さんですね」と微笑ましく見ていた。けれど、それが毎日のように続くと、さすがに呆れる者も増えた。いつの間にか、時雄は陰で「娘自慢社長」と呼ばれるようになった。しかも佳奈が生まれてからというもの、時雄はやたらと晩餐会やメディア向けの発表会に顔を出すようになり、取材にも積極的に応じるようになった。もちろん、そのたびに佳奈は小さな飾りのように必ず時雄の腕の中にいる。ある公的メディアのインタビュー記事では、時雄について最後にこんな一文が添えられた。「時雄さんは奥さんと娘さんを深く愛しており、その姿からは一見、家庭内での立場が弱いようにも見える。しかし実際のところ、それは少し違っている。家庭内での立場が弱いのではない。彼には最初
来希もまた、その一部始終を見ていた。長く待たされるうちに、彼の心はほとんど麻痺していた。萌花も時雄も、もう助からない。見つかったとしても、焼け焦げた遺体になっているだけだと思い込んでいた。それなのに、時雄は萌花を抱いて降りてきた。時雄の姿はひどく痛々しい。それでも、彼は萌花を抱いたまま、確かに生きて降りてきた。胸の奥で、嫌でも一つの考えが浮かぶ。もしさっき、自分が命を懸けて中へ飛び込んでいたら、結果は少しでも違うだろうか。しかしその答えは来希自身がいちばんよく分かっている。そんなはずはない。その瞬間、来希は自分の中にある身勝手さと臆病さをはっきりと思い知った。自分にはできない。時雄のように、命を投げ出してまで誰かを救うことなどできない。自分は結局、利己的で、臆病で、卑怯で、そのうえ悪意にまみれた小物でしかない。来希は抜け殻のように背を向け、そのまま警察署へ向かった。翌日、この火災は各メディアで大々的に報じられた。市内でも有数の高級産後ケア施設で起きた火災は、事故ではなく放火だったことが判明した。来希はそのまま警察署へ向かい、犯行を認めた。その後、共犯としてはなも逮捕された。二人には、厳しい処罰が待っている。萌花が病院で目を覚ましたとき、目の中にはまだ恐怖の色が濃く残っていた。夢を見た。夢の中では、炎が空まで燃え上がり、巨大な蛇のようにすべてを呑み込もうとしている。その炎の中に、時雄が立っていて、全身の皮膚は焼けただれ、血と肉がむき出しになり、最後には燃え尽きて、舞い散る灰になってしまった。「いや……!」萌花ははっと目を覚まし、ベッドの上で身を起こした。病室には医師や看護師がいるが、時雄の姿だけが見当たらない。彼女は慌てて、そばにいた看護師の手をつかんだ。「時雄は?時雄はどうなったんですか?」看護師は、言いにくそうに口を開いた。「小林さんは……お怪我がかなり重くて、今も集中治療室で治療を受けています」萌花はそこでようやく、時雄が火災現場から救出されたあとに、心臓発作を起こしたことを知らされた。処置は済んだものの、意識はまだ戻らず、今も集中治療室にいるという。萌花は無菌ガウンに着替え、時雄に会いに行った。時雄は全身を包帯で覆われ、見えるところにもいくつ
その人は萌花を背負うと、そのまま部屋を飛び出した。萌花はその背中に身を預けながら、彼の体温と匂いを感じていた。その感覚は、あの年、雪の中で感じたものとまったく同じだ。間違いない。今、自分を背負っている人と、あのとき自分を助けてくれた人は同じだ。来希なのか。違う。来希ではない。萌花は必死に目を開けた。まぶしいほどの火の光の中で、その人の横顔が見えた。時雄だ。萌花は息を呑んだ。ようやく、すべてがつながった。あの年、雪の中で彼女を背負い、十キロもの道を歩いてくれた少年は来希ではなく、時雄だったのだ。これほどはっきり確信したことは、今まで一度もなかった。萌花はずっと、あの雪の日に自分を救ってくれたのは来希だと信じてきた。命を救われた記憶と、絶望の中で差し出された温もりが、その思い込みを十年ものあいだ支えていた。けれど今、はっきり分かった。自分が十年間、命の恩人だと信じ続けてきた相手は、最初から間違っていた。そのせいで、時雄と十年もすれ違ってしまった。その瞬間、萌花は運命とはなんて残酷なのだろうと思った。時雄は萌花を背負って非常階段を下りていった。濃い煙が立ち込め、目の前はほとんど何も見えない。二人とも目を開けていられない。酸素は薄く、空気には有毒な煙と灰が混じっている。萌花は、時雄の足取りが何度も乱れるのを背中越しに感じた。彼ももう限界に近い。自分を支える腕は震えているが、それでも時雄は決して力を緩めなかった。やがて、階下へ向かう通路は激しく燃え上がる炎に塞がれた。炎は噴き出す溶岩のように足元まで迫っている。萌花は朦朧とする意識の中で、そこがまだ十階だと分かった。時雄もすでに限界だった。有毒な煙を吸い込んだせいで足元はおぼつかず、意識も今にも途切れそうになっている。ここまで下りてこられたのは、ほとんど気力だけだ。それでも、まだ道のりは半分残っている。萌花もまた、かろうじて気力だけで意識をつないだ。「時雄、一人で逃げて」時雄一人なら、まだ助かる可能性があるかもしれない。けれど、自分を背負っていては足手まといになるだけだ。ただ、今の萌花は体がまったく言うことを聞かず、立ち上がることすらできなかった。時雄はかすれた声で言った。「馬鹿なことを言うな。君
一方、来希は監視室で監視の目をそらし、はなが誰にも見咎められずに動けるよう手を回している。二人の計画では、準備が整ったところで、はなが離れた場所から仕掛けに火を入れることになっている。それから、火の手が大きくなりすぎる前に、来希が中へ飛び込で萌花を助け出す。そういう筋書きだった。しかし、はなは来希が思っているよりもはるかに残酷だ。来希が動く頃には、炎はすでに制御できないほどの勢いで燃え広がっていた。はなが建物を出る前から、上階はすでに炎に包まれている。しかも火の回りは異様に早く、あっという間に燃え広がった。産後ケア施設の中は大混乱に陥っていて、中からは大勢の人が逃げており、あちこちで悲鳴と怒号が飛び交っている。その頃には濃い煙がもうもうと立ち込め、飛び込めば命の危険があるのは明らかだ。まして、エレベーターはすでに動かない。萌花の部屋は最上階にあって、そこまで階段を上がる前に煙に呑まれてしまうだろう。はなは遠くに燃え上がる炎と煙を眺めながら、声を上げて笑っている。「はな、話が違うだろ……!君、本当に狂ってる!」はなは嘲るように笑った。「来希、萌花のことを愛しているんでしょう?だったら助けに行けば?命を懸けて助ける勇気があるならね」来希は拳を固く握りしめた。中へ飛び込めば、自分もただでは済まない。それは分かっていた。そのとき、見覚えのある車が、ものすごい勢いで産後ケア施設の敷地へ入ってきた。時雄の車だ。時雄は、消防よりも先に駆けつけた。今日、時雄は赤ちゃんを連れて実家に帰ると、はなが晴人を本邸に預けていったことを知った。使用人によると、そのときのはなは明らかに様子がおかしかったという。夜になっても、時雄の胸騒ぎは消えなかった。結局、不安を振り切れず、彼は急いで産後ケア施設へ戻ってきた。すると遠くから、産後ケア施設のあたりに火の手が上がっているのが見えた。最上階を包み込むように燃え盛る炎を見た瞬間、時雄はためらわず火の中へ飛び込んでいった。その姿を見た来希は、誰かに喉を締め上げられたような感覚に襲われた。死ぬかもしれないと分かっていても飛び込めるのか。来希はその場に立ち尽くした。自分だって、本当は飛び込みたい。一度でいいから、勇ましい男として、萌花にまっすぐ見てもらいたい。
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