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第2話

Author: シュアン
目が覚めると、凪紗は病室の白い光にぼんやりとしていた。

直人の秘書が彼女の目覚めに気づき、慌てて説明する。

「奥様、お悔やみ申し上げます。社長もすべてご存知で、大変残念がっておられました……」

凪紗は冷ややかに彼を見つめる。心臓は引き裂かれるようだった。

残念?

それが直人の態度?

聞かなくてもわかる。今頃直人は、美咲のそばに付きっきりなのだろう。

彼女は目を閉じ、背を向けた。もう何も話したくなかった。

秘書は空気を読んで去っていった。

凪紗はベッドの上で呆然と一日を過ごし、夜になってから、ある場所に電話をかけた。

「梶尾先生……私、戻りたいんです。潜入記者として、仕事を続けたいんです」

「本当か!やっと戻ってきてくれるんだな!国家通信社を代表して、お前の復帰を歓迎する!」

「先生、パートナーをこちらに派遣してください。汐見市の『魚売りの娘』を、永遠に消し去るために……」

凪紗は自分に一週間の猶予を与えた。

一週間で、あの夜の真相を突き止める!

そうすれば、もう一つの身分に戻ることができる。

国家通信社のトップ記者に。

三年前、凪紗は任務のため、潜入捜査で汐見市にやってきた。

彼女の表の顔、それが「魚売りの娘」だった。

その任務は非常に危険で、凪紗は潜入した身分を利用し、汐見市の地下に潜む麻薬密売組織と対峙した。

最後に、密売組織に捕らわれていた人質を救出し、その記事は国家通信社の一面を飾った。

それが、凪紗が最後に書いた記事だった。

梶尾春彦(かじお はるひこ)は、通信社での上司であり、かつて凪紗を指導した先生でもあった。そして、彼女の消息を知る唯一の人物だ。

「凪紗、お前の選択を受け入れるよ。だが、お前専用のコラムは、いつでもお前のために空けておく。お前は今も、有名な記者『安藤瞳(あんとう ひとみ)』だ」

安藤瞳。それが通信社での彼女のペンネームだった。

彼女はかつて、悪質なレンガ工場で働く労働者を救うために自ら危険に飛び込み、またある時は、災害地域の状況をいち早く伝えるため、まだ危険な状態の被災地で救助活動に参加した。

報道界で安藤瞳の名を知らない者はいなかった。彼女の突然の引退は、業界に大きな衝撃を与えた。

誰もが、正義を貫く初心を忘れない記者がまた一人いなくなったと、惜しんだ。

そして今、彼女は「安藤瞳」の名を再び掲げ、この国のために貢献する。

同時に、自分自身と父のために、正義を取り戻すのだ。

凪紗は一人で退院した。家に着くと、別荘の前に人だかりができていた。

誰かが鋭く彼女を見つける。

「あいつだ!」

無数のフラッシュがたかれ、凪紗は目が開けられないほどだった。

「あれが変質者の娘よ!」

「あの変質者、ICUで死んだんですって!胸がすくわ!」

無数の罵声が、凪紗の耳に突き刺さる。

あの日、彼女がサインした謝罪文は、直人の報道機関を通じてネット中に公開され、今や凪紗は世間の非難の的となった。

誰もが、父の憲一を唾棄すべき変質者だと決めつけていた。

凪紗は目眩がし、胸が苦しくて息もできない。

「違う……父はそんな人じゃ……」

彼女の言葉は人々の罵声にかき消され、あまりにも無力だった。

突然、額に鋭い痛みが走る。思わず手で触れると、べったりとした血が付いていた。

血のついた石が足元に転がる。それでも人々は罵倒をやめない。

「変質者の娘め!」

「どうしたんですか?」

弱々しい女性の声が、その場の空気を一変させた。誰もが振り返る。

美咲が、直人に支えられて車から降りてきたところだった。

「美咲よ!キャー!本物だわ!」

美咲は彼らに挨拶する。

「皆さん、ご心配ありがとうございます。もうずいぶん良くなりました……

今日、坂井さんのお宅に伺ったのも、私のために声を上げてくださったことにお礼を言いたくて。

あの記事は、本当に私の助けになりました。もし彼がいなかったら、今こうして皆さんの前に立つこともできなかったでしょう」

そう言うと、美咲はうつむいた。

直人がすぐに人々に向かって言った。

「皆さんが田島さんの状態を心配してくださるのはわかりますが、彼女はまだ心の傷が癒えず、あの日のことを思い出したくないのです。今日はこのへんで、皆さんお引き取りください」

美咲は直人に寄り添い、小さく頷いた。

「会いに来てくれて、ありがとうございます……」

人だかりが徐々に去っていく。凪紗は青白い顔で、無感情な瞳を直人に向けた。

相手は一瞬息を呑み、その目に緊張が走る。

「凪紗?その傷、どうしたんだ?

さっきから……ずっとここにいたのか?」

凪紗の視線が、地面に転がる石に落ちる。直人はすべてを察した。

彼の顔は険しくなり、声に怒気がこもる。

「警備員どもは何をしていたんだ!なぜあんな連中を中に入れたんだ!

凪紗、医者を呼ぶから、中に入って休んでくれ」

その言葉が終わるか終わらないかのうちに、美咲が彼の胸にぐったりと倒れ込んだ。

「直人、凪紗さんの顔を見たら、あの夜のことを思い出して……」

そう言うと、美咲は直人の胸に顔を埋め、声を詰まらせた。

「ごめんなさい……わざと凪紗さんを責めてるわけじゃないの。ただ、怖くて……」

直人の注意はすぐに彼女へと移り、その声は信じられないほど優しくなる。

「大丈夫だ。俺がそばにいる。今夜はずっと一緒にいてやるから……」

直人は、凪紗に視線を移したが、その迷いは一瞬だった。

「凪紗、今夜は帰ってくるな。美咲がお前を見ると、あの日のことを思い出してしまう。

どこかホテルで一晩やり過ごしてくれ。今夜が明ければ、また戻ってきていい」

凪紗が口を開く間もなく、直人はすすり泣く美咲を抱きかかえ、別荘へと入っていった。

別荘の大きな扉は閉ざされ、彼女には少しのチャンスも残されなかった。

凪紗は閉ざされた扉をじっと見つめ、苦笑を漏らした。

直人は知らない。父の入院費を払ったせいで、自分の財布にはもう一円も残っていないことを。

別荘の明かりが灯り、夕食のいい香りが漂ってくる。

凪紗は思い出した。以前は毎晩、家に帰ってきた直人が、料理をしている自分の後ろから抱きしめ、小さなプレゼントを渡し、驚く彼女の顔を見て微笑むのが日課だった。

「俺の凪紗は、世界で一番いいものに値する……」

どんなに情熱的な告白も、どんなに忠実な言葉も、結局はもろく崩れ去る。

初夏の風はまだ少し肌寒い。薄着の凪紗は、震えが止まらなかった。

別荘の明かりが消えた。

本来、直人と二人の部屋だったはずの場所で、今眠っているのは、別の女。

凪紗の涙が、風に吹かれてこぼれ落ちた。

この部屋の主人が変わったように、彼女も人生を変える時が来たのだ。

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