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第17話

Auteur: 酥不問(そふもん)
結婚式当日、段野家の屋敷は華やかな宴の会場へと姿を変えていた。

真紅のバージンロードが庭園を一面に覆い、招待客がひしめき合い、メディアのカメラがひっきりなしにシャッターを切る。世界同時生中継の準備も万端、現場はまさに豪奢そのもの。クリスタルのアーチから特注のシャンパンタワーまで、どこを見ても段野家の財力と地位が誇示されていた。

璃宛はオーダーメイドのウェディングドレスに身を包み、伏せた睫毛が微かに震える。相変わらず、か弱くも美しい姿だった。

司会者の声が響き、二人はゆっくりと壇上へ歩み寄る。

「それでは、指輪の交換に移ります」

会場は歓声と拍手の渦。

璃宛はほんのり赤くなった目元で、期待と恥じらいを滲ませて彼を見上げた。あの指輪を、彼が取り出すのを待っていたのだ。あのオークションで二十億円を叩き出して手に入れた、「一生に一人だけに贈る」という伝説の宝石リング。

あれは、きっと自分のためだと信じていた。

だが、寒夜がスタッフから受け取った指輪ケースを開くと、中身は新しく仕立てられた豪奢なダイヤモンドリング。確かに高価だが、彼女が夢に見ていたあの指輪ではなかった。

璃宛の
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