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希望を胸に、過去にはもう戻らない

希望を胸に、過去にはもう戻らない

By:  ご飯ちょうだいCompleted
Language: Japanese
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久我祐真(くが ゆうま)を本物のお嬢様に奪われたあの日、私は自分が妊娠していることに気づいた。 八か月のあいだ、彼は宝生瑠奈(ほうしょう るな)のために盛大な結婚式を準備し、私は難産の末に大量出血しながら和希(かずき)を産んだ。 その後、ニュース速報が流れた―― 【久我家の御曹司・祐真が深夜に危険運転。宝生瑠奈は重傷、そして彼自身は生涯にわたって生殖機能を失った!】 私は彼に和希を奪われるのが怖くて、びくびくしながら五年間身を隠していた。 そして祐真の母の還暦の祝いの日、私は臨時でウェイターとして駆り出されることになってしまった。休憩室にいた和希がうっかり外へ飛び出してしまい、そのまま正面から祐真の母にぶつかった。 会場は一瞬にして、しんと静まり返った。 その顔は、まるで幼いころの祐真をそのまま写し取ったようだった! 祐真は人混みをかき分けて駆け寄り、かすれた声で叫ぶ。 「坊や、君は誰の子なんだ?」 和希は驚いてしまい、今にも泣き出しそうな声で訴えた。 「ママ……ママが見つからないの」 「ママの名前は神崎凛花(かんざき りんか)だよ」

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Chapter 1

第1話

久我祐真(くが ゆうま)を本物のお嬢様に奪われたあの日、私は自分が妊娠していることに気づいた。

八か月のあいだ、彼は宝生瑠奈(ほうしょう るな)のために盛大な結婚式を準備し、私は難産の末に大量出血しながら和希(かずき)を産んだ。

その後、ニュース速報が流れた――

【久我家の御曹司・祐真が深夜に危険運転。宝生瑠奈は重傷、そして彼自身は生涯にわたって生殖機能を失った!】

私は彼に和希を奪われるのが怖くて、びくびくしながら五年間身を隠していた。

そして祐真の母の還暦の祝いの日、私は臨時でウェイターとして駆り出されることになってしまった……

……

コンコンコン。

チームリーダーの鈴木が私の机を軽く叩いた。

「神崎、ホテルのほうが人手不足なの。今夜だけウェイターの応援に行ってきて。給料は三倍よ」

私は少しためらった。

祐真の母の六十歳の誕生日。こういう場なら、昔の知り合いに鉢合わせするかもしれない。それに夜、和希を家にひとり置いていくのも、どうしても心配だった。

「鈴木さん、夜は子どもについていないと……」

鈴木の口調はいら立っていた。

「ご両親のところに預けるなり、近所に頼むなり、どうしようもなければ休憩室にでも置いておけばいいでしょ。その程度のことも段取りできないの?」

隣の席のほうから、鼻で笑う声がした。

佐藤結衣(さとう ゆい)だ。普段からいちばん人の噂話が好きな女だ。

「あら、三倍の給料ですよ?私なら喜んで行くのに!

鈴木さん、これって神崎に気を遣ってあげてるんですよね?だって彼女、シングルマザーですもん。どこの誰の子かも分からない子ども抱えて、お金のかかることも多いでしょうし」

結衣の言い方はひどかったけれど、事実ではあった。

寒くなってきたし、和希はどんどん大きくなる。あの子に少しでもいい服を買ってあげたかった。

どうせホテルの外回りの手伝いだ。会場の中には入らない。

私はうなずいて引き受けた。

「ありがとうございます、行きます」

「よし、今すぐ着替えてきて。夕方六時、ホテルの裏口集合。遅れないでよ!」

立ち上がって更衣室へ向かう途中、結衣のデスクの前を通りかかった。

彼女はわざと聞こえるような声で言った。

「何気取ってんのよ。デキ婚どころか未婚で妊娠しておいて、何を清純ぶってるんだか。子どもの父親が誰かも分からないくせに、昔、男に孕まされた挙げ句、捨てられたんじゃないの?どこの馬の骨とも知れない子でしょ」

くすっ、と。

斜め向かいの同僚が口元を押さえて笑い、そばの若いインターンも俯いて忍び笑いをしていた。

それを聞いて、目の奥が熱くなった私はたまらず言い返した。

「佐藤、あなたも母親でしょう。口が悪すぎる」

結衣は勢いよく立ち上がり、腕を組んで言い返してきた。

「私の口が悪いって?」

「じゃあ、あんたは何も後ろ暗いことがないっていうの?男に媚びて、父親が誰かも怪しい子どもまで腹に抱えてるくせに、どの口で清い女みたいな顔してるのよ。

私があんたなら、こんなところで取り繕ってないで、さっさと帰って少しは見られる格好にでもするわね。まあ、安っぽい女には変わりないけど。運がよければ、どこかの見る目のない男が引っかかって、その子ごと面倒見てくれるかもしれないじゃない?」

腹が立って、目の縁が熱くなった。

さらに何か言い返そうとしたそのとき、鈴木がやってきて間に入った。

「もういいわよ佐藤、そのへんにしなさい。

神崎、あなたも早く子どもを迎えに行って。仕事に遅れないようにして」

私は顔を上げて、その熱を必死に押し戻した。

出ていくときも、結衣は隣の人たちと笑いながら話していて、言葉の端々に私を見下す視線を投げてきた。

私は背を向け、乱暴に目元をぬぐった。

神崎凛花(かんざき りんか)、泣いちゃだめ。

和希のためなら、どんなことだって耐えられる。

和希を迎えに行ったあと、やはりあの子をひとり家に置いておくのが心配で、私は思い切ってホテルの従業員休憩室に連れていくことにした。

絵本を用意して、お菓子と水も置いておく。

「和希、いい子にしててね。ママは外でお仕事してるから。ここで遊んでて、外に出ちゃだめよ。いい?」

和希はもともと聞き分けのいい子だ。

うなずいて私に聞いた。

「じゃあ、ママはいつ戻ってくるの?」

「すぐよ」

私は彼のおでこにキスをして、なだめるように言った。

「この絵本を読み終わるころには、ママが戻ってくるからね。いい?絶対に勝手に走り回っちゃだめよ?」

和希は力いっぱい頷いて、小指を差し出した。

「うん、ゆびきり!」

私は彼と指切りをして、約束のしるしを交わしてから、ようやく安心して宴会場へ向かった。

結衣とほかのウェイターたちも来ていて、会場内の入口の前に集まり、スマホを見ながら化粧直しをして、きゃっきゃとはしゃいでいた。

「はあ、久我家の御曹司って本当に惜しいよね。顔はいいし、お金もあるのに、あんな事に遭うなんて……」

「聞いた話じゃ、この宝生家のお嬢様って後から迎えられた娘なんでしょ。ちょっとヤンキー気質の女らしいよ。スピード出して刺激を求めるのが好きでさ。自分で勝手に身を滅ぼすだけならまだしも、男まで巻き込んで、このありさま。結局、自分の男を完全に不能にしちゃったんだから!」

「私に言わせれば、久我家も災難だよ。疫病神みたいな嫁を迎えたせいで、跡継ぎの話もあの女の代で終わりだもん」

……

そのとき、怒りを押し殺したような、甲高い女の声が背後から響いた。

「誰のことを疫病神って言ってるの!」

瑠奈が結衣たちをきっと睨みつけた。

彼女たちは顔色を変え、みんなうつむいて何も言えなくなった。

瑠奈の視線がさっと動き、少し離れたところにいた私をとらえた。

驚いたように声を上げる。

「神崎凛花?」
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ノンスケ
ノンスケ
なんとなくスッキリ。これで子どものために元さやとか言ったら、また大変になりそうだけど、子どものために自分を犠牲にせずに、自分の道をきちんと進んだ結果、自立した女性として本物の愛に辿り着いた。ラストも爽やかで良かった。
2026-04-22 21:14:15
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kogorou21
kogorou21
どこか爽やかなラストだった。 本物のお嬢様は離婚したあと、刑務所に入ったのかな? 60億をネコババした本物一家は怖いね〜(^.^; ヒロインがこの一家と血の繋がりが無くて本当に良かった♪ ヒロインが愛する夫と息子とさらには増えるであろう子どもとずっと穏やかな日々を過ごして欲しいと思う。
2026-04-22 17:31:08
1
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松坂 美枝
松坂 美枝
あっそういう終わりなんだとびっくり 長編だとなんだかんだ元サヤになるからこれもそうかなと思ったけど主人公は揺らがなかった 素晴らしい
2026-04-22 10:58:17
3
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10 Chapters
第1話
久我祐真(くが ゆうま)を本物のお嬢様に奪われたあの日、私は自分が妊娠していることに気づいた。八か月のあいだ、彼は宝生瑠奈(ほうしょう るな)のために盛大な結婚式を準備し、私は難産の末に大量出血しながら和希(かずき)を産んだ。その後、ニュース速報が流れた――【久我家の御曹司・祐真が深夜に危険運転。宝生瑠奈は重傷、そして彼自身は生涯にわたって生殖機能を失った!】私は彼に和希を奪われるのが怖くて、びくびくしながら五年間身を隠していた。そして祐真の母の還暦の祝いの日、私は臨時でウェイターとして駆り出されることになってしまった…………コンコンコン。チームリーダーの鈴木が私の机を軽く叩いた。「神崎、ホテルのほうが人手不足なの。今夜だけウェイターの応援に行ってきて。給料は三倍よ」私は少しためらった。祐真の母の六十歳の誕生日。こういう場なら、昔の知り合いに鉢合わせするかもしれない。それに夜、和希を家にひとり置いていくのも、どうしても心配だった。「鈴木さん、夜は子どもについていないと……」鈴木の口調はいら立っていた。「ご両親のところに預けるなり、近所に頼むなり、どうしようもなければ休憩室にでも置いておけばいいでしょ。その程度のことも段取りできないの?」隣の席のほうから、鼻で笑う声がした。佐藤結衣(さとう ゆい)だ。普段からいちばん人の噂話が好きな女だ。「あら、三倍の給料ですよ?私なら喜んで行くのに!鈴木さん、これって神崎に気を遣ってあげてるんですよね?だって彼女、シングルマザーですもん。どこの誰の子かも分からない子ども抱えて、お金のかかることも多いでしょうし」結衣の言い方はひどかったけれど、事実ではあった。寒くなってきたし、和希はどんどん大きくなる。あの子に少しでもいい服を買ってあげたかった。どうせホテルの外回りの手伝いだ。会場の中には入らない。私はうなずいて引き受けた。「ありがとうございます、行きます」「よし、今すぐ着替えてきて。夕方六時、ホテルの裏口集合。遅れないでよ!」立ち上がって更衣室へ向かう途中、結衣のデスクの前を通りかかった。彼女はわざと聞こえるような声で言った。「何気取ってんのよ。デキ婚どころか未婚で妊娠しておいて、何を清純ぶってるんだか。子どもの父親が誰かも分
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第2話
私は心の中で、どうしようもなく深いため息をついた。こっそりその場を離れようと思っていたのに、やっぱり見つかってしまった。無理に平静を装って歩み寄る。「宝生お嬢様」瑠奈は自分から二歩ほど私に近づき、私の安っぽいウェイターの制服姿を上から下まで眺めた。得意げで、それでいて白々しい笑みを浮かべていた。「やっぱりあなただったのね?今はウェイターなんてしてるの?それも外回り?大変でしょう?」そう言いながら、瑠奈は私を会場の中へ引っ張っていこうとした。その口ぶりは、本当に私のことを気遣っているかのように妙に親しげだった。「ほら、行きましょう。中の仕事を回してあげる。そっちのほうが楽だし。ひょっとしたら、お父さんとお母さんにも会えるかもしれないわよ?」瑠奈は私を引いて二歩ほど進んだところで、そばに立っていた結衣たちのことを思い出したらしい。たちまち顔つきが変わった。「あなたたち、クビよ。さっさと消えなさい!薄汚い連中!」結衣たちは腰が抜けたようになり、あやうくその場にひざまずきそうになっていた。許しを乞う言葉すら間に合わない。瑠奈を恨むこともできず、ただ私の背中を憎々しげに睨みつけるしかなかった。やはり、瑠奈は予想どおりの女だった。会場に入るなり、今思い出したような顔をして言った。「凛花さん、ごめんなさい、私ったら忘れてたわ。中は今、人手が足りてるの。残ってるのはトイレとゴミ箱の掃除くらいで。あなたなら……ねえ?」瑠奈がわざと私に恥をかかせようとしていることくらい、分かっていた。でも正直に言えば、この程度の嫌がらせは、この数年ひとりで耐えてきたことに比べれば大したことではなかった。「分かりました。すぐ行きます」私はあっさり引き受け、掃除道具を受け取った。会場の隅にあるゴミ箱を片づけていたとき、宴会場の主役である祐真の母がゆっくりと姿を現した。列席者たちが取り入るように取り囲むより早く、祐真の母の容赦ない叱責が響いた。「こんな有様で、どうやって長生きするのさ!よく見てみな、自分がどんな女を嫁にしたのか!久我家を潰す気かい!」私は顔を上げてそちらを見た。別れてから五年。時の流れは祐真にだけやけに優しかったらしい。相変わらず、人の目を奪うほど整った顔立ちをしていた。ただ、その眉間には
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第3話
瑠奈はしどろもどろになるばかりで、まともな言い訳ひとつ口にできなかった。助けを求めるように、ただ瑠奈の母へ視線を向けるしかなかった。すると瑠奈の母はすぐに一歩前へ出てきて、私の腕をつかもうと手を伸ばしたけれど、私はさりげなく身を引いてそれを避けた。彼女の手は空中で気まずそうに一瞬止まり、それからたしなめるような口調で言った。「もう、凛花ったら!あのときあなたはあまりにも慌てて出ていったでしょう。あのお金なら、ずっと預かっておいたのよ。ただ渡す機会がなかっただけ。ほら、こんなことになっちゃって、全部誤解よ、誤解!」瑠奈の父も横で手をこすり合わせながら、何度も頷いて同調した。「そうだそうだ、ちゃんと覚えてたとも!」こんな穴だらけの言い訳、白々しいにもほどがあった。祐真の顔は完全に冷えきり、どんよりと沈んだ目で瑠奈をじっと睨みつけた。「60億だ。一円たりとも欠けることなく、明日の正午までに凛花の口座へ振り込め。さもなければ、お前はもう俺の妻ではいられない」瑠奈は、祐真がここまで容赦ないとは思っていなかったのだろう。しかも、これだけ大勢の前でここまで追い詰められるなんて。彼女は私を毒々しい目でひと睨みしたあと、どうにか笑みを作って応じた。「祐真、私の手落ちだったわ。安心して、明日には必ず片づけるから」私はため息をついた。もう本当に、彼らの世界にはこれ以上巻き込まれたくなかった。今の私が望むのは、和希と穏やかに暮らしていくことだけだ。「お金は結構です。今の私なら、自分で生きていけます。まだ向こうに仕事が残っているので、失礼します」そう言って、私は誰の反応も見ず、そのまままっすぐ隅のほうへ戻っていった。宴会場には再びざわめきが戻り、私もまた黙々と仕事を続けた。雑巾とバケツを手に、仕上げるべき個室はあとひとつ。それが終われば、和希を連れて帰れる。そのとき、不意に遠くから騒がしい声が上がった。続いて、瑠奈の悲鳴が響く。「そんなはずない!さっきまでちゃんと手首につけてたのよ!あのダイヤのブレスレット、10億もするのに!どうしてなくなってるのよ!」胸の奥が、理由もなくすっと冷えた。嫌な予感が押し寄せてくる。次の瞬間、瑠奈がなおも言い募る声が聞こえた。「さっき……さっき私にいちばん近か
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第4話
祐真は、私を信じなかった。先頭にいた警察官も、もうためらわずに一歩前へ出ると、厳しい口調で私に告げた。「そちらの女性、あなたには高額貴重品の窃盗事件に関与した疑いがあります。これから署へ同行していただき、事情をうかがいます」カチャン、と音がした。冷たい手錠が、私の両手にはめられる。私は祐真を見た。けれど、何ひとつ言葉にならなかった。昔の傷がまた開いたように、胸の奥に鈍い痛みが走った。それは立っていることさえ難しくなるほどだった。私たちは幼いころからずっと一緒に育ってきた。祐真は、ずっと私を守ると言っていたのに。どうして。どうしてあなたは、何度も何度も私を傷つけるの。警察に連れて行かれるとき、瑠奈はさらに一歩近づいてきて、私にしか聞こえない声で身をかがめ、勝ち誇るように囁いた。「ゲスな女が、私に勝てると思ったの?」私はそのまま警察車両に押し込まれ、連行された。従業員休憩室では、結衣たちが顔をこわばらせたまま、自分の私物をまとめていた。「全部あの神崎のせいよ。絶対わざとだわ。宝生お嬢様が来たのを見ても、私たちに知らせもしないなんて!」インターンも調子を合わせた。「ほんとですよ!泥棒扱いで連れて行かれて当然です!できれば十年でも八年でもぶち込まれてくれればいいのに。そしたら、もう二度と偉そうにできませんよね!」結衣は職を失った怒りで、何も言わなかった。顔を険しくしたままリュックのファスナーを引き上げ、歯をぎりぎりと鳴らしていた。そのとき、帰ろうとした彼女の視界の端に、部屋の隅にいる小さな影が映った。和希だった。あの子はちゃんと約束を守って、勝手にどこかへ行ったりせず、古い絵本を静かにめくっていた。結衣の視線が和希に落ちる。その瞬間、悪意に満ちた考えが彼女の頭をつかんだ。彼女はリュックを放り出し、顔に作り笑いを浮かべて和希のほうへ歩いていった。「和希、絵本を見てるの?いい子ねえ」和希は少しおびえていたが、それでも礼儀正しく声をかけた。「こんばんは、おばさん」結衣はそれに応じ、親しげなふりをして和希の髪を撫でた。「はい、こんばんは。ねえ和希、おばさんがひとつ教えてあげる。あなたのママね、さっき制服を着た警察に連れて行かれたの。悪いことをしたから捕まったっ
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第5話
凜花の名前を聞いた瞬間、祐真は勢いよく顔を上げ、母と視線を交わした。胸の内で抱いた疑いは、もうほとんど確信に変わっていた。祐真の母はこみ上げる喜びに頭がくらみ、その場に立っているのもやっとというほどだった。この子は、彼女の孫だ。久我家の血を引く子。祐真の子ども――!祐真もまた、和希を抱く腕を震わせていた。驚愕、狂喜、後悔。さまざまな感情が火山のように胸の内で噴き上がっていた。けれど、腕の中の和希には、大人たちの胸中を渦巻く激流など分からない。もがくようにして祐真の腕の中から抜け出し、またよろよろと祐真の母のもとへ駆け寄ると、再びその足にぎゅっとしがみついた。泣き腫らした顔を上げ、涙をぼろぼろこぼしながら必死に願う。「おばあちゃん!ううっ……お願い、ママを助けて!ママはほんとにいい人なの!おばあちゃん、ママを出してって言って、お願いだよ、おばあちゃん!和希にはママしかいないの!」孫にこんなふうに泣きつかれ、祐真の母は胸がその涙で溶かされてしまいそうだった。すぐさま和希を抱き寄せ、声を詰まらせる。「泣かないで、泣かないでちょうだい、おばあちゃんのかわいい孫、いい子だから泣かないで……おばあちゃんがいるからね、おばあちゃんが絶対にあなたのママをいじめさせたりしない!今すぐ助けてあげるから!」そう言っているうちに、祐真の母は和希の擦りむいた小さな手と膝にも気づき、いっそう胸を痛めた。「あんたたち、ぼさっとしてないで何してるの!この子が転んでけがしてるのが見えないの!?すぐにお医者様を呼んで!今すぐよ!うちの孫がどこを痛めたのか診てもらいなさい!」そして今度は祐真のほうを向き、厳しい声でせき立てた。「祐真、何を突っ立ってるの!凛花よ、早く凛花をここへ連れ戻しなさい!誰であろうと邪魔するなら、久我家を敵に回すってことよ!」そこまで言うと、真っ青になった瑠奈を鋭く睨み据えた。それははっきりとした警告だった。そして結局、私は警察署で和希と再会した。和希が祐真の腕の中から飛び降りた瞬間、私はもう隠し通せないと悟った。和希は何もかもかなぐり捨てるように私の胸へ飛び込み、両腕で私の首にしがみつくと、声を上げて泣き出した。「ママ、和希、すごく怖かったよ!和希、ママと離れたくな
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第6話
祐真は私をじっと見つめていた。声はかすれ、もうまともな形を保っていなかった。「凛ちゃん……この何年ものあいだ、どうして……どうして俺に言ってくれなかったんだ?」今にも人を焼き焦がしそうなその視線を正面から受け止め、私は逸らさなかった。過去の光景が、砕けた欠片のように脳裏をよぎる――私を見るたび少しずつ冷えていった彼の目。瑠奈の生き生きとした奔放さを面白がる表情。婚約披露の席で、別の女を抱き寄せて笑っていた姿。そして私は、検査結果の紙を手にしたまま、病院の廊下でひとりしゃがみ込み、呆然としていた……私は口元を引きつらせた。たぶん笑おうとしたのだと思う。でも、うまくいかなかった。やっぱり、少し痛かった。「何を言えばよかったの?あなたが、私のことを堅すぎるだの、面白みがないだのって嫌がっていた頃には、もう私のお腹には和希がいたって?宝生家が連れ戻した瑠奈のほうが生き生きしていて、刺激があって、あなたに今までと違う人生を味わわせてくれるって思っていた頃、私はひとりでつわりに苦しんで、昼も夜も分からないくらいだったって?」言葉を続けるうちに、涙は、感情よりも先にこぼれ落ちた。「祐真、あの頃のあなたは……私のことが、もう好きじゃなかった。私のことを、よどんだ水みたいだって思ってた。あなたを縛るだけの存在だって。だから言ったところで、もっと鬱陶しがられるだけだと思ったの。子どもであなたを縛ろうとしてる重荷だって、そう思われるのが怖かった。もっと怖かったのは……お腹の和希が、生まれる前から、自分の父親に嫌われてしまうことだった。だから、あなたに話すつもりはなかったの。ひとりで、ちゃんと育てようって……それだけを思ってた」そこまで言うころには、祐真の顔はすっかり血の気を失っていた。彼は口を開いた。何か言い返したかったのだろう。けれど、結局ひと言も出てこなかった。居間には、彼の乱れた呼吸の音だけが残った。しばらくしてから、私はもう一度口を開いた。さっきより少しだけ声をやわらげながら。「この数年、たしかに大変だった。一人で子どもを育てて、仕事を探して、引っ越しもして、いろんなことに対処して……たまに、本当にもう無理かもしれないって思うこともあった」私は思わず奥の部屋に目を向けた。その視線は自然とやわらかく
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第7話
私は完全に言葉を失った。どうして和希がそんなことを知っているのか、まるで分からなかった。和希は、私の驚きを察したみたいだった。小さな唇をきゅっと結び、うつむいて、洗いすぎて白っぽくなった靴のつま先を見つめながら、そっと言った。「ぼくが年少さんのころね、ニュースにこのおじさんの写真が出るたびに、ママ、こっそり泣いてた。ぼく、なんでか分からなくて。だから……となりの席の花ちゃんに聞いたの。花ちゃんのパパとママも別れてて、一緒に住んでないんだって。花ちゃんが言ってた。ママはパパの写真を見ると、ときどき悲しくなって、泣いちゃうこともあるんだって」和希は顔を上げ、もう一度私を見た。その目には、胸が痛くなるほど早く大人になってしまったような、いじらしいほどの物分かりのよさがあった。「そのときぼく、思ったの。ニュースに出てたあのおじさん……たぶん、ぼくのパパなんじゃないかなって」私は和希を見つめたまま、目の奥がひどく熱くなった。そして、その幼い肩に顔を埋めると、涙が堰を切ったようにあふれ出した。「ごめんね、和希。ママが悪かった。パパはいないなんて、そんなふうにだまして……ママ、あなたにちゃんとした家をあげられなかった」和希は私に強く抱きしめられて、少し苦しそうだった。でも嫌がったりはせず、小さな手を伸ばして、いつも私があの子をなだめるときみたいに、不器用に私の背中をぽんぽんと叩いた。「だいじょうぶだよ、ママ」そう言って、何度も何度も背中を叩いてくれる。「和希はママがいればいいの。ママが笑ってくれたら、和希もうれしい」私は頬の冷たい涙を乱暴にぬぐい、和希をまっすぐ見つめた。「和希、ママはもう大丈夫。今日は、パパに幼稚園まで送ってもらいたい?」それを聞いた和希は顔を上げ、真剣な目で数秒間、祐真の顔を見つめた。それから首を横に振る。「やっぱり和希、ママに送ってほしい。パパ、ママにすごくひどいことしたもん。だから和希、たぶん……まだあんまり好きになれない」そのひと言は、祐真を容赦なく打ちのめした。和希は少しだけ前に出て、祐真にほんの一歩近づいた。目の前のパパがとても悲しそうにしているのを見て、少し考えるようにしてから、それでも続ける。「でもね、ほかのおともだちは、パパといっ
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第8話
「もう残り日数も少ないし、和希には今学期が終わるまでここに通わせたいの。小学校に上がるときに……そのとき転校させるわ」祐真は頷いた。声は低く沈んでいた。「分かった。君の言うとおりにする。警備の手配はこっちで進めておく。安心してくれ」その後、幼稚園を卒園すると、私は和希を連れて祐真が用意したマンションへ移り住んだ。祐真は、私の意図をきちんと分かっていたのだと思う。広すぎることはなく、それでも私たち母子が暮らすには十分で、内装は簡素で温かみがあった。子ども部屋もきちんと整えられ、和希の背丈に合った家具まで細かく用意されていた。和希は新しい家に少し好奇心を見せながらも、どこか不安そうでもあった。私は彼を抱きしめ、これから新しい冒険が始まること、そしてママはずっとそばにいることを伝えた。和希は全部を理解したわけではなさそうだったけれど、甘えるように私の胸にもたれて、小さな声で言った。「ママがいるなら、和希はこわくない」日々は、一見穏やかに過ぎていった。私はこれまでどおり会社へ出勤したけれど、すぐに空気の微妙な変化に気づいた。かつて私を顎で使っていたチームリーダーは、顔を合わせるたびにへつらうような笑みを浮かべ、言葉遣いまで慎重になり、しまいには自分からもっと楽な持ち場へ回そうかとまで言い出した。以前、結衣と一緒になって私の噂話をして笑っていた同僚たちも、今では顔を見るたびにぎこちない笑顔で挨拶し、見え見えのおもねりを向けてくる。生殖機能を失った久我家の御曹司には、別れた女との間に、ひそかに生まれていた五歳の息子がいた。神崎凛花は、久我家ただ一人の跡取りの母親だ。そんな話は、もうとっくに誰もが知るところになっていた。ある日の昼休み、給湯室から出たところで、思いがけない二人に行く手を遮られた――瑠奈の父と母だった。あの日の宴会で私に向けていた無関心な態度は、もう跡形もない。その代わり、芝居がかったほどの愛想のよさを顔いっぱいに貼りつけていた。瑠奈の父は両手をこすり合わせながら、媚びるように笑う。「凛ちゃん、これまでのことは全部誤解だったんだよ。瑠奈が分別のない子でね、母親に甘やかされて育ってしまって!俺たちから代わりに謝るよ!悪いのは全部俺たちだ!」瑠奈の母もすぐに話を継いだ。目尻には今にも
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第9話
祐真の母からも電話がかかってきた。どこか遠慮がちで、それでいて親しみをにじませた声だった。「凛ちゃん、私よ、祐真の母。あなたたちの昔のことは、私にも責任があるわ。こんなときになって優しい祖母みたいな顔をするなんて、たしかに今さらだって分かってる。でも、私は本当に……」私は深く息をついた。そんなふうに低姿勢に出てくる理由なんて、分かりきっていた。「久我夫人、そんなふうになさらなくて大丈夫です。私と祐真の間では、もう約束しています。毎週日曜日に、彼が和希を迎えに来て、久我家で過ごすことになっています。私は子どもを思いどおりに支配するような母親じゃありません。子どもが父親や祖母と関わることを邪魔したりはしません。あの子が受け取るべき家族の情は、私が奪うつもりはありませんから」祐真の母は、明らかにその意味を理解したようだった。次に口を開いたとき、その声には残念そうな響きが混じっていた。「やっぱり、昔の私の見立ては間違っていなかったわ。あなたは本当に、ずっと思慮深くて、分別のある子ね」少し言葉を選ぶように間を置いてから、探るように続けた。「ねえ凛ちゃん、ほら、今はもう和希もちゃんと家に戻ってきたでしょう。祐真のことも、このところ私はずっと見てきたけれど、あの子の心には、まだはっきりあなたがいるのよ。あなたたちの間には、何より和希っていう切っても切れない絆があるんだもの。だから……もう一度、お互いに機会をあげてみる気はない?やり直してみない?」もう一度、やり直す?私は電話を握ったまま、窓の外の曇った空を見た。五年という歳月、報われなかった想い、そのすべてが、私たち二人の身に消えない傷と変化を刻み込んでいた。けれど、すれ違ってしまった人とは、もう、すれ違ったままなのだ。返事をしようとしたそのとき、背後でごくかすかな物音がした。私は振り返った。いつ来たのか、祐真がもうリビングの入口に立っていた。その手には、みずみずしい真紅のバラの花束。そして、深い想いをにじませた目で私を見つめていた。電話の向こうで、祐真の母がためらうように「もしもし?」と声をかけてくる。私は受話器の向こうへ、静かに言った。「久我夫人、私と祐真は、もうすでに行き違ってしまったんです。私たちの人生は、ずっと前に別々の方向へ
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第10話
その後、和希は無事に幼稚園生活を終え、新学期からは久我家が手配した名門私立小学校へ転入した。子どもは私が思っていたよりずっと早く新しい環境になじみ、賢くて聞き分けもよく、その場所で少しずつのびのびとした表情を見せるようになっていった。そして、和希の生活が小学校で規則正しく落ち着いたことで、私の時間にも少しずつ余裕が生まれた。私は前の仕事を辞め、再びペンを執った。自分が本当に愛している世界――ジュエリーデザインへ戻ったのだ。いちばん基礎的な依頼を受けてデザイン画を描くところから始め、空いた時間に制作技法を体系的に学び、やがて自分のデザインを少しずつ実物にしていくことにも挑戦した。決して楽な道ではなかった。それでも私は、よりよい自分になろうと懸命に進み続けた。二年。長すぎもせず、短すぎもしない時間だった。私は業界で少し名の知られた、独立系のジュエリーデザイナーになっていた。そしてその二年間のあいだに、私は一人の穏やかで品のある医者と出会った。彼には祐真のように目を奪うほどの富や権勢はない。波乱に満ちた過去もない。けれど、落ち着いていて、ひたむきで、医者らしい思いやりと、知性ある人だけが持つ澄んだ気配を持った人だった。私たちは結婚した。式はごくささやかで、本当に親しい友人だけを招いた。和希はリングボーイならぬ花をまく役目を務め、小さなスーツを着て、真剣な顔で花びらを散らしていた。その顔は明るく、どこまでも穏やかだった。彼は私の手を引いて新郎のもとへ歩きながら、小さな声で言った。「ママ、今日はすごくきれいだよ。和哉パパも、今日はすごくかっこいい」私はその小さな手をぎゅっと握り返した。胸の内には、これまで味わったことのない静かな安らぎと満たされた気持ちが広がっていた。祐真は結婚式には来なかった。けれど人づてに贈り物を届けてきた。それは宝石でもなければ高級品でもなく、世界的に名の知られたあるジュエリーデザイン学院への研修招待状だった。そこに添えられていた手書きのカードには、相変わらず鋭い筆跡で、たった一行だけ記されていた。【自分の世界で、いつまでも輝くデザイナーでいてくれ。幸せを祈る】私は丁重に辞退した。子どものことで連絡を取り合うことはあるし、彼は定期的に和希を迎えに来
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