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第1109話

Author: 夏目八月
側妃は髪を乱し、頬を腫らしながら、蹴られて燕良親王の上に倒れ込んだ。親王は激痛で呼吸も困難になった。

紫乃は躊躇うことなく、次は沢村氏に向かった。

「紫乃、何をするの!私はあなたの姉よ。私があなたを害するわけない……きゃあ!」沢村氏は悲鳴を上げながら後退りした。

紫乃は沢村氏の髪を掴んで持ち上げ、木に叩きつけた。沢村氏は腰が折れるかと思うほどの痛みに、涙を流した。

「最後に会った時の香り……あなたが盛った毒よね」紫乃は沢村氏を掴んだまま、殺気を帯びた目で睨みつけた。「万紅、あの下衆の手助けをして何の得があるの?王妃の座が安泰だとでも思ってるの?愚かで腐った女!」

紫乃は近くの私兵から刀を奪うと、沢村氏の胸に突きつけた。その殺意は隠すことなく剥き出しのままだった。

「違う……違うの!」沢村氏は本気で泣き叫んだ。その悲鳴は金森側妃の芝居じみた泣き声をかき消すほどだった。「紫乃、私だってこんなことしたくなかったの!でも親王様が……側妃が……二人とも狂ってるの!私を強要して……」

追い詰められた沢村氏は全てを吐露した。紫乃の目に宿る殺意が、本物だと悟ったからだ。

無相は密かに溜め息をつく。まさかこのような結末になるとは。

どんな計画も完璧ではない。万全を期したつもりでも。あれほど焦らず、官道の林を越えて山へ向かっていれば、こうも簡単には見つからなかったものを。

少なくとも、計画は成功したはずだった。

燕良親王の二人の息子と二人の娘は馬車の中で震えていた。今夜の出来事は彼らには寝耳に水だった。

親王は子供たちを大切に育て過ぎた。本物の殺気を知らない。影森玄武夫婦や沢村紫乃のような、命を賭けた闘志など見たことがなかった。

無相は沈黙を保ちながら、玄武たちと戦った場合の勝算を計算していた。

そして、禁衛府の到着はいつになるか。

天方十一郎の軍が到着するまでには、まだ半刻以上かかる。つまり、その時間内に玄武たちと、そして到着するかもしれない禁衛府の部隊を片付けなければならない。

彼らさえ倒せば、すぐに逃げ出せる。燕良州まで戻れば安全だ。

これが今唯一の活路だった。無相は燕良親王の方を窺った。合図を待つように。

燕良親王は地面に横たわったまま、無相と同じような計算を巡らせていた。だが玄武への警戒心が強すぎて、軽率な行動は取れなかった。何より、自分の
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