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第1206話

Author: 夏目八月
礼子は黙ったまま、血の気が引いた顔をしていた。

文絵への腹立ちは消えていなかった。あの天方十一郎のことを擁護するなんて、分別が足りないというもの。天方家の醜聞ときたら、耳にするだけで胸が悪くなる。

あれほど大きな屋敷で、あんな穢れた事が起きているのに、それを指摘してはいけないというの?

確かに文絵を平手打ちしたのは衝動的だった。でも文絵だって悪いわ。天方十一郎の味方なんかするべきじゃなかった。良家の娘なら、そういう人や出来事とは距離を置くべきなのに。

二人は黙って座っていた。時折、羽菜のすすり泣く声が聞こえる。礼子は一言も発さなかった。

頭の中が混沌としていた。様々な思いが渦を巻いて……やがて、か細い声で呟いた。「本当は……女学院に戻りたいの。でも皇后様がお嫌いだから……」

余りに庇護された環境で育った少女は、秘密を守る術も、物事の重大さも知らなかった。そうして羽菜に話してしまった。

「えっ……皇后様が?」羽菜は泣き止んで目を丸くした。「でも女学院は太后様のご命令で……」

「きっと北冥親王妃が塾長だからよ」礼子は声を潜めた。「前に伯母様と参内した時に聞いたの。陛下は最初、北冥親王妃を妃にしようとなさったんですって。皇后様は今でも彼女がお嫌いで……だから女学院も、工房も……」

話し終えると、人差し指を唇に当てた。「誰にも言っちゃダメよ。これは秘密なの」

「はい、私も誰にも言いませんわ」羽菜は慌てて頷いた。

そして再び涙を零しながら続けた。「でも、どうしてこんなことに……あの男たち、なぜ書院に押し入って、誰彼構わず抱きつこうなんて……」

「そうね……」礼子は相槌を打ちかけて、突然何かを思い出したかのように言葉を切った。表情が恐怖に歪んでいく。

「どうしたの?」羽菜は礼子の様子の急変に不安を覚えた。

雷に打たれたかのように硬直した礼子は、震える唇で答えた。「な、何でもないわ……ただ……怖いなって。あんな目に遭ったら……一生が台無しになるもの」

「ええ……本当に恐ろしいわ」

礼子は魂の抜けたような足取りで帰っていった。去り際、今日の会話は誰にも話さないように、と念を押した。

「安心して。絶対に言わないわ」

けれど少女の「絶対」は、ただの約束事に過ぎない。礼子が帰るや否や、羽菜は母親のもとへ駆けていった。

賢明な赤野間夫人は、数言で事態の
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