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第1255話

Author: 夏目八月
さくらは更に詳しく状況を尋ね、事の経緯が明らかになった。

明日香の両親は三男の結婚資金を工面しようと、山の獣たちが冬眠している間に、奥山で薬草採りを始めた。

良質な薬草は険しい山の斜面にしか生えていない。連日の採取で疲れ果て、寒さと空腹に苦しむ中、母が足を滑らせ、それを支えようとした父も一緒に転げ落ちてしまった。

たまたま通りかかった薬草採りの一行に助けられなければ、二人とも命を落としていたかもしれない。

命こそ取り留めたものの、母は腰を痛め、父は足を折ってしまった。これからは農作業はおろか、誰かの世話にならねばならない。しかも治療費もかさむ一方だった。

三男の結婚話も迫っており、かつて「家族が一つに」と語っていた少女が、その犠牲になろうとしていた。

「両親は知っているの?」さくらが尋ねた。

「いいえ。両親は瓦葺きの新しい家には入れず、古い納屋で養生させられているの」

「他の家族は皆、同意しているの?」

「分からないわ。でも長男が既に話をつけて、五両で売る約束までしたって。その男が家まで来てたところを、私が先回りして連れ出したの」

「梅田ばあやに任せましょう」さくらは静かに言った。「あなたも一緒に行っていいけど、怒りを表に出してはだめ。表立って彼らを傷つけるのは避けて」

あかりは心得ていた。親王家で過ごす中で、紫乃から教わったことがある。どんなに相手を殴りたくても、人前でやってはいけない。必ず人目につかないところでこっそりと。しかも、誰がやったのか分からないようにする、と。

慎重に事を運べば、後で足元を掬われることもない、というわけだ。

「今日は我慢したわ。殴らなかった。ただ連れ帰っただけよ」あかりは続けた。「分かったわ。梅田ばあやを探してくるから、夕食は一緒に食べましょう」

そう言うと、あかりは相変わらずの勢いで立ち去った。

夕暮れ時、当番を終えて屋敷に戻ったさくらは、事態を収拾して戻ってきた梅田ばあやと門前で出くわした。二人は共に中に入りながら、話を続けた。

「青雀先生に診察を依頼し、治療費は親王家持ちとさせていただきました。この件は長男夫婦が仕組んだことでして。長子という立場上、負担が自分たちに集中することを恐れ、手っ取り早く金策をしようとした。人を売るのが一番早い。たまたま明日香さんの年頃が丁度よく、買い手もついた。あかり様が
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  • 桜華、戦場に舞う   第1254話

    さくらは塾長として、学問以外にも武芸の指南ができることから、生徒たちに護身術と健康のための武術を学ぶ意思があるか尋ねてみた。その提案に、半数以上の生徒が目を輝かせて手を挙げた。とはいえ、武術の習得には素質が必要で、意欲があっても向き不向きがある。そこでさくらは、これほど多くの生徒が興味を示したことから、体力作りと身のこなしを学ぶ授業を新設することにした。護身術と健康増進を兼ねた内容だ。本格的な武術については、慎重に人選する必要があった。ちょうどその頃、あかりが紫乃が玄甲軍で指導していることを聞きつけ、女学校でも教えたいと言い出した。さくらに女教頭の身分を与えてほしいとしつこくねだったのだ。さくらは了承し、二人で交代で指導することになった。日々の基本的な授業なら、あかりでも十分教えられる内容だった。武術の特別クラスには十人が選ばれた。みな農家の娘たちで、素直な考えを持っていた。「もし生活が苦しくなったら、お嬢様方の護衛として仕えられる。身を売らなくても、給金もいいし」と口々に言っていた。その中に十七女という生徒がいた。代々農家で、一族に文字の読める者は一人もいなかった。彼女の名前すら、生まれた順で付けられただけのものだった。従姉妹たちの中で十七番目、一番末っ子だったため、ただ「十七女」と呼ばれていた。本来なら読み書きなど考えもしなかった家だったが、母親が露店商いを始めて計算ができないために何度も騙されるうちに、やはり学問は必要だと悟ったのだ。この機会を得るや否や、母親は即座に娘を入学させた。十七女は今年十一歳。賢く素直な性格で、生まれつき力持ちだった。本人の話では、四、五歳の頃から父の手伝いで穀物を運び、兄たちよりも多くの量を背負えたという。武術の稽古に参加した彼女は、「家に帰ったら兄や姉にも文字と武術を教えてあげる」と言い、幼いながらも「貧しさから抜け出すには技を身につけないと。家族が一つにならないと」と語った。いつも明るい笑顔を絶やさない十七女は、誰の気持ちも自然と晴れやかにしてしまう不思議な力を持っていた。先生方も皆、彼女を可愛がり、国太夫人は「明日香」という新しい名前を授けた。「明日香」——その美しい響きに十七子は目を輝かせたが、実際に書こうとして戸惑った。なんて難しい字だろう。それでも明日香は懸命に

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