彼の息子は諸王に封じられ、封地で比較的安逸な生活を送っていた。湛輝親王が一人で京で寂しい老後を過ごしたいわけではなく、子や孫に囲まれて暮らしたいと思っていた。ただ、年を取ると故郷に帰りたくなるものだ。同時に、天皇に対して自分がここにいることで、息子や孫に反逆の心がないことを示したかったのだ。彼は自分の子孫を心配しているわけではなかった。ただ、この老人の目には見えている状況があった。野心を持つ者が各地の親王や諸王を取り込もうとしているのではないかと恐れ、そのために急いで京に戻ってきたのだ。今夜、玄武を呼び出したのは、酒の勢いを借りて酔った振りをし、警告とも暗示ともつかない言葉を伝えるためだった。老人にできることはこれくらいだった。最後に、湛輝親王は玄武の肩を叩いて言った。「お前の嫁さんだが、わしは大変気に入った。今度、わしの所に連れてきて挨拶させなさい」玄武は笑って答えた。「はい、必ずお連れします」「よし、わしは帰るぞ!」湛輝親王は髭をさすりながら、大声で笑って去っていった。その足取りは極めて安定しており、人の手を借りる様子もなく、明らかに酔っていない様子だった。玄武が振り返ると、さくらが潤の手を引いて歩いてくるのが見えた。彼は迎えに行き、習慣のように彼女の手を取った。「寒くないか?」「大丈夫よ。お酒を少し飲んだから、体が温まっているわ」さくらは酒を飲み過ぎることはなく、お酌の際に少し口をつけた程度だった。さくらは付け加えた。「母上は少し飲み過ぎたようで、今夜は屋敷に戻らず、宮中で上皇后様と一緒に年越しをするそうです。寧姫も母上と一緒に残るそうです」「そうか」玄武はさくらの手を取り、さくらは潤の手を引いて、宮殿を出て屋敷へと向かった。親王家も今夜は賑やかだった。沢村紫乃と棒太郎という二人の客人がいる上、大晦日ということもあり、屋敷では盛大な宴が用意されていた。すでに数かごの銅銭が用意されており、王妃が戻ってくるのを待っていた。年越しの際、誰かが良い言葉を言うたびに、一掴みの銅銭を褒美として与えるのだ。かごいっぱいの銅銭があれば、それだけ多くの祝福の言葉が聞けるというわけだ。夫婦が屋敷に戻り席に着くと、従者たちが次々と入ってきて、縁起の良い言葉を口々に述べた。有田先生は囲炉裏でお茶を煮て、さつまいもを焼いていた
賑やかな宴は夜通し続き、子の刻を過ぎてようやく皆それぞれの部屋に戻っていった。潤はとっくに眠たくなっていたが、頑張って起きていた。棒太郎が彼を抱いて部屋まで連れて行った。玄武はさくらを抱きしめていた。布団の中は暖かく、彼女の心もこうして温めることができればと願った。何か話すかと思っていたが、さくらは何も言わなかった。ただ静かに彼の腕の中で横たわり、規則正しい呼吸を繰り返していた。眠っているのかどうかも分からなかった。さくらは当然眠れていなかった。眠れないし、動きたくもなければ話したくもなかった。ある種の出来事は、ただ耐え忍ぶしかない。歯を食いしばって耐え抜けば、時が流れ、埃が積もり、すべての痛みを封じ込めてくれるはずだ。これが彼女のいつもの対処法だった。しかし、以前よりも良くなったのは、今では彼女を心から大切に思ってくれる人がいることだった。玄武も心に痛みを感じていたが、それ以上にさくらを心配していた。彼女は嬉しい時には彼に笑顔を向けるが、悲しい時には決して彼の前で涙を見せない。いつも暗く悲しい面は隠し、彼に見せるのは冷静さと笑顔ばかりだった。さくらは一度も彼への愛を口にしたことがなかった。ただ一度、潤に向かって言ったことがあるだけだ。しかし彼には、それが潤をごまかすためだったことがわかっていた。ただ、その時の自分はそれを真に受けてしまった。もちろん、それは自分を騙していたのだ。心の中では皇兄を恨んでいた。邪馬台の戦地から戻って来て、さくらとの仲を深めてから正式に求婚するつもりだった。しかし皇兄の一言で、彼とさくらの結婚は急遽決まってしまったのだ。しかし、さくらが彼に求婚の意思があったことを知っているのは良かった。少なくとも、彼が真心を持って接していることを彼女に伝えられたのだから。さくらはようやく夜明け頃に眠りについた。恵子皇太妃が宮中にいるため、早朝の挨拶に行く必要はなかった。しかし、しばらくすると鐘の音で目が覚めた。しばらくぼんやりとしていたが、結局起き上がって着替えることにした。お珠が髪を整えに来て言った。「親王様は早朝から正院でお客様の応対をされています。何人かの役人が挨拶に来られたそうです」「奥様方は同伴されていますか?」さくらは尋ねた。親王家の女主人として、夫人たちが来ていれば応対
さくらは「ふーん」と言った。「普通の女性ならそう考えるのも分かるわ。でも、沢村家は関西の名家で、百年以上衰えることなく続いてきたのよ。あなたの叔母さんのことで結婚が少し難しくなっただけで、元々が高貴な家柄なのに、どうしてわざわざ高い地位を求める必要があるの?少し身分の低い家に嫁いで、夫の家で実権を握った方が、生活は楽になるんじゃない?」「だから彼女が愚かだって言ってるのよ」紫乃はさくらに伊勢の真珠の耳飾りを付けた。「燕良親王が沢村家を狙っているのは、単純な話じゃないわ。今朝早くに彼は都を離れたわ。あなたの叔母さんの葬儀をどんな風にするつもりなのか、分からないわ」「見張りは付けたの?」さくらは尋ねた。「ええ、付けたわ」紫乃はさくらの頬を摘んだ。「笑って。この数日、あまり笑ってなかったわね。もし私に子孫がいたら、私が死んだ後も、毎日笑っていてほしいわ」さくらは紫乃の手を払いのけた。「あなた、まだ夫もいないのに、どこから子孫が来るのよ」「三本足のヒキガエルは見つけにくいけど、二本足の男なんて見つけるのは簡単でしょ?」紫乃はそう言いながらも、興味なさそうだった。彼女は少しも結婚したくなかった。さくらの結婚は悪くないが、皇族には面倒なことが山ほどある。さくらが安心して暮らせるとは思えない。そして、沢村紫乃は......そう、彼女に釣り合う男などいない。間違いなく。新年は宴会や招待の中で水のように流れ去り、正月十五日の上元節を迎えた。祝賀行事が多く、玄武は夜遅くに花火を見に連れて行くと約束していた。しかし、昼頃になると突然凍雨が降り始めた。雪ならまだ何とかなるが、凍雨となれば災害だ。花火は見られそうもない。災害救助と人命救助に走り回ることになりそうだ。玄武は刑部卿でありながら、禁衛府の将でもあった。独楽のように忙しく動き回りながらも、さくらに使いを送り、決して外出しないよう伝えた。天気は骨身に染みるほど寒く、水滴は瞬時に凍りついた。後庭では、以前恵子皇太妃が移植させた梅の木が数本、凍雨の重みで倒れた。東南の角にある槐の木も半分倒れ、塀の一部を押し潰してしまった。屋敷内も大忙しだったが、幸い有田先生の的確な指示のおかげで、枝や壊れた煉瓦の片付けは整然と進められた。天候が回復次第、修復作業に取り掛かる予定だ。長らく
老夫人はすでに疲れ果てていたが、親王家の温かいお茶とお粥、おかずに舌鼓を打ち、たっぷり二杯の肉入りお粥を平らげ、さらにもう一杯欲しいと尋ねた。さくらは一万両の藩札とお粥を机の上に置いた。建康侯爵家の老夫人は目を丸くして、さくらを見上げた。その心中の衝撃たるや、手と唇が震えるほどだった。彼女は二日間走り回って、やっと700両の銀子を集めたところだったのだ。老夫人が感動のあまり言葉を失っているとき、恵子皇太妃が傍らで言った。「誰か、私の銀票入れの箱を持ってきなさい。老夫人に二万両の藩札を差し上げましょう」息子の嫁がしようとしていることを、当然ながら支持し、さらに倍額で支援しようとしたのだ。建康侯爵老夫人は興奮のあまり急に立ち上がり、涙が溢れそうになった。「落ち着いてください、お座りください」さくらは老夫人が興奮のあまり血圧が上がってしまい、良いことが悪いことに変わってしまうのを恐れた。老夫人の数人の孫嫁たちも、思わず目に熱いものがこみ上げてきた。その中の一人が、とうとう涙ぐみながら言った。「今日、私たちは将軍家に伺いました。お金を寄付してもらうつもりはありませんでした。あの家が続けざまに結婚で苦労していることを知っていましたから。ただ、祖母が疲れて喉が渇いていたので、お粥を一杯いただこうと思ったのです。ところが、ドアを叩いたとたん、琴音夫人が出てきて、『こんなお年寄りが物乞いに来るなんて』と言うのです。本当に侮辱的でした。祖母は一文たりとも自分のために使っていません。自分の小遣いの大半も寄付してしまったというのに」「黙りなさい!」老夫人が叱責の声を上げた。彼女はめったに外出しないが、将軍家と北冥親王妃の過去を知っていた。こんな時にそれを持ち出すべきではない。叱られた孫嫁はハッとして、慌てて謝罪した。「申し訳ございません。わざと言ったわけではありません。ただ、皇太妃様と王妃様が何も言わずにこれほどの銀子を寄付してくださり、祖母を信頼してくださっているのを見て、つい興奮して分別を失ってしまいました。どうか王妃様、お許しください」彼女は動揺のあまり取り乱し、ただ王妃に誤解されないようにと必死だった。本当に祖母の無念を晴らしたかっただけなのだ。恵子皇太妃は、その琴音夫人が葉月琴音、つまり自分の息子の嫁の古い敵であることを知って
そう言えば、将軍家の方々のことは長らく気にかけていなかった。今や北條守には二人の夫人がいて、きっと老夫人を丁寧にもてなしているだろう。恵子皇太妃は言った。「そうね。誰かと喧嘩した後は、言葉を選ばなくなるものよ。誰が来ようと、お構いなしに罵るわ。それも最も悪意のある言葉で」恵子皇太妃がそう言いながら、首をすくめた。明らかに後ろめたさを感じているようだった。紫乃は笑いながら尋ねた。「そのお話し方、何か裏話がありそうですね」恵子皇太妃は苦笑いした。「昔、淑徳貴妃と喧嘩して負けたことがあってね。陛下が私を慰めに来たんだけど、私は陛下に向かって罵詈雑言を浴びせてしまったの。大変なことになるところだったわ。幸い姉上が来て事態を収拾してくれたから良かったけど。そうでなければ、私は冷宮で蜘蛛の巣でも紡ぐはめになっていたかもしれないわ」さくらと紫乃は顔を見合わせて笑った。この姑は時と場所をわきまえずに話すことがあるのだ。太后様も本当に彼女を大切にしているのだろう。今や姑となった彼女を適度に諭しているようだ。正月に宮中に数日滞在したのも、おそらく姑としての心得を説いたのだろう。とにかく、宮中から戻ってきてからは、この素直な姑は以前よりもさくらに優しくなった。二日後、どういうわけか葉月琴音が建康侯爵家老夫人を「老いぼれの物乞い」と罵ったという話が広まった。京の貴族社会全体が震撼した。いや、京都全体が震撼したと言っていい。凍雨の災害で、京都は最も早く復旧したものの、多くの被災者が老夫人から送られた綿入れと食料の恩恵を受けていた。それに、老夫人は数十年にわたって善行を続けており、先帝までもが「積善の家」という扁額を下賜していたのだ。もし普通の人が老夫人を罵ったのなら、これほどの怒りは生まれなかっただろう。しかし、評判の悪い将軍家の葉月琴音が罵ったとなると、民衆の怒りを買うことになった。たちまち、各家庭から腐った野菜や臭い卵が将軍家の門前に投げ込まれた。夜中には、汚物まで門前に撒かれた。それも一桶や二桶ではない。このため、同じ路地にある他の邸宅も迷惑を被った。将軍家は路地の入り口近くにあり、路地の突き当たりは壁だったので、外出するには必ず将軍家の前を通らなければならなかった。夜に汚物を撒きに来た人々の中には、門を間違えて隣
しかし、中には「さくらは北冥親王妃で、元々太政大臣家の嫡女だ。家柄も豊かで銀子も無尽蔵だろう。数万両の寄付など大したことではない」と言う者もいた。一方で、「将軍家は貧しく、老夫人も長く病気だった。寄付する銀子がないのも無理はない」と擁護する声もあった。このような意見はすぐさま反論を浴びた。「貧しいってことの意味を勘違いしてないか?北條守が葉月琴音を娶った時、結納金だけで1、2万両の銀子だったって聞いたぞ。それに親房家の奥様が嫁いだ時の嫁入り道具の多さ、お前は目が見えてないのか?貧しいだって?あの家の指の隙間から漏れる金だけでも、お前の一年分の食い扶持になるぞ。仮に貧しいとしても、寄付しないならしないでいい。なぜ建康侯爵家老夫人を老いぼれの物乞いなんて罵る必要がある?あのお方は90歳を過ぎているんだぞ。厳寒の中を歩いて寄付を募ったのは誰のため?被災地の民のためだ。どこが悪くて物乞いと罵られなきゃならないんだ?それに、北冥親王家が金持ちなのは確かだ。でもお前はどうなんだ?10両の銀子はあるだろ?1両寄付しろって言われたら、する気になるか?しないだろ?だから彼らにはそういう器量と度量があるんだ。京都の貴族に金がないわけじゃない。なのになぜ彼らだけが3万両も寄付したんだ?」民衆のこうした議論の声は、当然親王家にも届いた。上原さくらは使いを出して寄付者リストを確認させた。案の定、北冥親王家の寄付額が最多だった。彼女は一瞬憂鬱になった。まるで北冥親王家が目立とうとしているかのようだ。しかも、建康侯爵老夫人が名簿を役所に提出すると言っていたが、表彰するかどうかは役所の判断次第だ。さくらは以前の寄付は公表されなかったので、今回も公表されないだろうと思っていた。なぜ今回は掲示されたのだろう?彼女が銀子を寄付したのは純粋に善意からで、被災した民を助けたいと思ったからだ。目立ちたかったわけではない。さくらが憂鬱に沈む一方で、恵子皇太妃は喜んでいた。わざわざ人を遣わして確認させ、榎井親王家の寄付が300両だと知ると大笑いした。「300両?よくそんな額を出す気になったものね。近々宮中に行ったら、淑徳貴太妃に聞いてみましょう」榎井親王は淑徳貴太妃の息子で、斎藤家の娘を娶っており、かなりの財産があるはずだった。さくらは口元を引き
さくらは思わず笑みを漏らした。しかし、事情をはっきりさせる必要があった。紫乃に頼んで寧姫を連れ戻し、椅子に座らせた。「会ったことあるの?」さくらが尋ねた。寧姫の瞳が輝きを増す。「はい。遊佐さんが皇后様に挨拶に来たとき、お見かけしたんです」「どこが好きなの?」「わかりません。ただ、見た瞬間に好きになってしまって......」さくらは斎藤六郎の容姿がどんなものか知らなかったが、一目惚れというのは外見と大いに関係があるものだと思った。「そう。じゃあ、お姉さんが人を遣わして聞いてみようか?」「それは私の一存では決められません。母上と姉上にお任せします」寧姫は口元を押さえきれずに上げた。「でも、まあ、聞いてみてください」姫の結婚話なら、本来なら聞く必要もない。誰かを気に入れば、勅命一つで決まるはずだ。しかし、さくらは斎藤六郎の意思を知りたかった。もし皇室の威光に屈して仕方なく結婚するのなら、婚後の生活も幸せにはなれないだろう。皇后の考えは分かっていた。斎藤家の子弟はみな優秀だが、姫と結婚させるなら、一番目立たない三男家の齋藤六郎が最適だと。他の有望な子弟を無駄にしないためだ。しかし、恵子皇太妃は満足していなかった。斎藤家との縁組には賛成だが、できれば五男がいいと思っていた。六郎は三男家の人で、あまり出世の見込みがない。しかも、六郎は特に才能があるわけでもない。学問でも際立たず、毎日あれこれいじくり回しているだけで、あまり役に立ちそうにない。そのため、さくらが尋ねたとき、恵子皇太妃は沈黙した後こう言った。「五郎では駄目かしら?」「寧姫は六郎さんが好きなんです」「好きだからって何になるの?好きなんて一時的なもの。一緒に暮らせばすぐ飽きるわ。やっぱり、見栄えのする婿を迎えないと」「でも、姫の夫君は名誉職程度で、大きな役職には就けません。寧姫と心が通じ合うことの方が大切です」恵子皇太妃はまだ納得していない様子だった。「ほら、他の親王が娶った斎藤家の娘なんて素晴らしいでしょう。本家の嫡出だもの」さくらは穏やかな声で言った。「斎藤家の娘がそんなにいいなら、私はだめなんですか?比べるなら、榎井親王様が玄武様に及ぶわけがありません。玄武様がいるからこそ、どの妃も貴方を越えられないのです。貴方が彼女たちと比べるなんて、
玄武が当直から戻ってくると、さくらはこの件について彼に話した。玄武は外套を脱ぎ、菊田ばあやに渡すと、座って茶を二杯飲んだ。しばらく慎重に考えてから言った。「斎藤六郎は典型的な裕福な家の息子だな。遊びや食事が好きで、寧とは......趣味が合うだろう。「数日後には、斎藤家が婚約の挨拶に来るわ。私としては通常の結婚の手順通りに進めたいと思うの。寧姫に聞いたところ、彼女自身がこういった儀式を楽しみにしているそうよ」「寧の結婚は、寧の好みに合わせて行おう。私は彼女の兄として、戦場で九死に一生を得たのも、彼女たち母娘が思いのままに生きられるようにするためだ」彼はさくらの手を取って座り、優しい眼差しで言った。「本来なら、この言葉をあなたにも言いたかったのだが、それは適切ではないだろう。あなたの父や兄の軍功、そしてあなた自身の軍功が、あなたの一生を安泰にするのに十分だからね」さくらは微笑んだ。「あなたがそう言ってくれるだけで、私は幸せよ」玄武の瞳が揺れた。「本当か?では、本心を話そう。逃げないでくれ。邪馬台の戦場に初めて赴いたとき、私の心には一つの信念しかなかった。邪馬台を取り戻し、帰ってきてさくらを娶ることだ」彼が少し力を込めて引くと、さくらは彼の膝の上に座った。菊田ばあやはそれを見て、すぐに他の者を連れて退出した。さくらは彼の肩に顔を寄せた。「あなたの願いは叶ったわね」「君はどうだ?」彼の声には少し緊張が混じっていた。「私と結婚して、君の願いは叶ったかい?」さくらは笑いながら、少し力を込めて顎を彼の肩に押し付けた。「叶ったわ。そして、幸せよ」彼は急に力を込めて抱きしめ、さくらはほとんど息ができないほどだった。「さくら、これで私は何も望むものはない」さくらは玄武の腕の中にしばらくいた後、彼を押しのけて言った。「棒太郎に私兵を設立させる件は、今どんな具合?」「もう始めているよ。棒太郎が君に話していないのか?元々私と出陣していた人の中に、私の親王家の者が百人ほどいる。今、彼らを北冥軍から引き抜いて戻そうとしているんだ。この件については陛下と親房甲虎大将軍に一言言わなければならないがね」「そう。親王邸の空き地で工事が始まっているのは見たけど、私兵が入ってくるのを見かけなかったから聞いてみたのよ」「そういったことは君が気にする
紫乃は今、師範の務めの傍ら、石鎖姉さんたちと小さな捜査班を組んで、女性を狙う悪漢たちの取り締まりに当たっていた。最初は簡単だと思っていた。犯人を見つけ出し、痛めつけて自白を取り、役所に突き出せばよい……だが、役所では「拷問による自白」と一蹴されるだけだった。石鎖姉さんが密かに被害者たちを訪ねても、誰もが被害を否認した。よくて否認、酷い時は門前払いだった。結局、証拠不十分で釈放される。その度に紫乃の胸の内で殺意が湧き上がった。武芸界の掟なら、さっさと始末をつけて逐電すればよかったのに。だが、今の彼女は武芸界の人間ではない。親王様は刑部の長、さくらは玄甲軍を率いている。人殺しなど許されるはずもない。これが精一杯考えついた方法だったが、まるで効果がない。徒労に終わり、一人も投獄できていない。だから紫乃の瞳の奥には、常に憤りと憂いが渦巻いていた。二人はしばらく言葉を交わし、さくらは慰めるように言った。「気を落とすことないわ。少なくとも痛い目に遭わせて溜飲は下がったでしょう。あなたの監視の目があると分かれば、そう簡単には悪事は働けないはず」「殴っただけじゃ足りないの」紫乃はこめかみに拳を当て、頭を傾げて苦々しげに言った。「法の裁きを受けさせたいのよ」「被害に遭った娘たちが声を上げられないのよ。むしろ、できるだけ深く隠しておきたいんでしょう」「じゃあ、このまま野放しにするしかないの?本当に手立てはないの?」紫乃の声には焦りが滲んでいた。さくらは静かに提案した。「次も証拠が集まらないなら、役所に突き出す必要はないわ。思い切り痛めつけて、手か足を折るか……もしくは二度と女性に手出しできないようにしてしまえば」紫乃の表情が明るくなった。「それ、いい考えね」「でも、よく調べてるの?」「もちろん」紫乃は即座に答えた。「安心して。慎重に調査してるわ。冤罪は絶対に避けてる。ただ、被害者が証言を拒むし、私たちの調査方法も正式なものじゃないから、役所では取り上げてもらえないのよ」最初は自白さえ取れば役所が処罰してくれると思っていたのに。証拠や被害者の証言が必要だとは知らなかった。この件に関して、さくらにも手の施しようがなかった。法の厳格さは守られねばならない。姉妹のように親しい二人は顔を見合わせ、互いの瞳に励ましの色
十二月十五日、清和天皇は春長殿を訪れられた。皇后は目を真っ赤に腫らし、斎藤礼子の退学の件を申し上げた。この一件で既に斎藤家を諭されていた陛下は、皇后までもがこの話を持ち出すとは思いもよらず、心中穏やかならざるものがあった。されど、それを表には出されなかった。天皇の不快な様子を察した皇后は、すかさず話題を変え、「この頃、都の名だたる貴婦人方が、こぞって上原さくらを持ち上げ、女性の鑑だの手本だのと申しておりますわ」と申し上げた。「なるほど、面白い話だな」清和天皇は意味深な笑みを浮かべながら言った。「皇后への賛辞はどこへ消えたというのか。朕の皇后となる前から、都一番の才媛と謳われていたはずだ。むしろ手本とすべきは皇后、そう思わんか」皇后は一瞬たじろいだ。陛下の言葉が褒め言葉なのか、それとも皮肉なのか。真に自分のために憤っておられるのか、皆目見当もつかなかった。最近では、陛下のお心が益々掴めなくなっていた。觴を差し出しながら、しばし躊躇った後、おそるおそる申し上げた。「北冥親王妃の勢いが、いささか目に余るように存じます。女学校に伊織屋に……以前は非難していた者までもが、今では賛辞を惜しまず。それに北冥親王様も、陛下の深い信頼を得ておられ……これはいかがなものかと」清和天皇は眉を寄せられたが、何もお答えにはならなかった。皇后は天皇の表情を窺い、わずかに安堵の息を漏らした。やはり陛下も北冥親王夫妻の台頭を警戒なさっているのだ。あの夫婦への称賛があまりにも大きすぎる。朝廷の重臣たちは心服し、民も賛辞を惜しまない。陛下がお気に召さないのも当然だろう。勢力を広げすぎた二人は、いずれ禍根を残すことになるはず。まずは上原さくらに痛い目を見せてやろう。上原さくらは紅羽や粉蝶たちに女学校の見張りを命じた。斎藤家が以前のままなら心配はいらなかったのだが、今は各分家がそれぞれの思惑を持ち、礼子の退学騒動で皇后様の怒りは頂点に達しているはず。あの日の四夫人の振る舞いは、まるで無頼の徒のよう。警戒するに越したことはない。最近、紫乃は二人の師姉と共に多忙を極めており、さくらと言葉を交わす機会も減っていた。この日は珍しく早めの屋敷帰りで、皇太妃様への挨拶に誘うことができた。皇太妃の居室は心地よい暖かさに包まれていた。嫁と紫乃の姿を認めると、
式部卿は屋敷に戻るなり、景子を呼びつけ、激しい怒りをぶちまけた。「お義兄様」景子も憤然として言い返した。「私どもは皇后様のご意向に従っただけです。本来なら礼子を広陵侯爵の三郎様に薦めようと考えておりましたが、皇后様が武将方の支持がないとおっしゃって」皇后が縁談を持ちかけようとしたものの、太后様に阻止されたことを語り、憤りを隠さない。「天方家は傲慢すぎます。私ども斎藤家の娘が釣り合わないとでも?義兄様、彼らは斎藤家を眼中にも入れていないのです」「なぜ天方家が我々を重んじる必要があろう?我々が天方家を重んじたことがあったか?」式部卿は鋭く問い返した。問題はまさにそこにある。いつからか、一族の者たちは誰もが斎藤家に敬意を払うべきだと思い込むようになっていた。恐怖が背筋を這い上がった。知らぬ間に、斎藤家は朝廷の権力を掌握していると世間に見られ、一族もそう思い込んでいる。なぜそう思うようになったのか。周囲が持ち上げすぎたからに他ならない。「でも、私たちは斎藤家なのに……」景子は言葉を濁らせた。この一件を機に、式部卿は一族を集めた。言動を慎み、軽々しい振る舞いを控え、謙虚に、控えめに。無用な交際は避け、党派を結ぶなどという嫌疑を招かぬよう、厳しく諭した。側室の件は、一族内の女たちの間で噂になっただけだった。男たちは表向き非難しながらも、内心では理解を示していた。そう、男は常に同じ男の過ちを許す。それは過ちとは呼べないものだからだ。今日の訓戒は、族人たちも守るだろう。式部卿の胸中には不安が渦巻いていた。大皇子の粗暴さと愚かさが露呈する前まで、特別な策を講じる必要はないと考えていた。天の寵児として、皇位は自然と彼のものになるはずだった。だが、大皇子の凡庸さが次第に明らかになってきた。それも単なる平凡さではない。性格も徳も欠けていた。陛下もそれを見抜いているに違いない。こんな時期に何か画策すれば、必ず疑念を招くことになる。せめてもの救いは、大皇子がまだ幼いことだ。まだ教育の余地がある。今は目立たぬよう、大皇子の教育に専念する。それこそが正しい道筋だった。しかし、この考えを耳にした皇后は、父の臆病さを責めた。今こそ人脈を広げるべき時だと。特に武将たちと、なかでも兵部大臣の清家本宗との親交を深めるべきだと。使いを通じて父に伝言を送り
式部卿は茫然と立ち尽くしていた。平手打ちを食らったわけでもないのに、頬が火照ったように痛んだ。そしてようやく、自分の軽率さに気付いた。たかが書院の生徒同士の諍いごときで、朝廷を巻き込むことになってしまった。朝議終了まで、彼はただそこに立っていた。清和天皇は彼を御書院に残すよう命じた。しかし、御書院の外で立って待つように、との仰せだった。寒風が刃物のように肌を切り裂く厳寒の中、丸二時間、陛下は彼を中へ招くことはなかった。胸の内は複雑な思いが渦巻き、怒りの炎が胸腔の中を暴れ回った。自分は陛下の義父ではないか。たとえ今回の件で非があったにせよ、こんな寒さの中に放置されるいわれはない。二時間も経つと、体は凍えて硬直しかけていた。吉田内侍は耐え難そうな様子を見かねて、手焙りを持ってきてくれた。極寒の中、わずかな温もりですら救いだった。樋口信也が慌ただしく御書院に入り、しばらくして戻ってくると、式部卿の前に立った。「斎藤様、なぜここに?」「陛下のお召しを待っております」歯の根が寒さで震えながら答えた。「陛下は先ほど、どこへ行かれたのかと探すようにと仰せでした。お待ちかねですぞ、早くお入りください」式部卿は無表情のまま礼を言い、こわばった足を引きずるように中へ入った。拝礼、着座の許可、すべては普段通りだった。だが式部卿にはわかっていた。陛下の心中には怒りがある。先ほどの二時間は明らかな懲らしめだ。しかし、たかが女学校のことで、と腹の中で反発を覚えずにはいられなかった。御書院の暖かさが身に染みわたり、ようやく体の震えが収まってきた頃、吉田内侍が熱い茶と共に一枚の調書を差し出した。式部卿は不審そうに手に取り、目を通した途端、血の気が引いた。そして次の瞬間、怒りが込み上げてきた。景子母娘に欺かれていたのだ。発端は礼子が、天方十一郎が自分に求婚したと吹聴し、「年寄りが若い娘に手を出す」と嘲り、周りの生徒たちを煽り立てたことだった。「斎藤家は天方家との縁組みをお望みなのですか」清和天皇は淡い笑みを浮かべた。「義父上よ、都の権貴や文官たちは皆、婚姻で繋がりを持とうとしている。今や天方十一郎までも目を付けられるとは。朕が彼を重用したのは間違いではなかったようですな。義父上までがそれほど評価されているのですから」「陛下」式部
さくらは自分の馬を従者に任せ、三姫子の馬車に同乗した。伝えるべき事柄が二つあった。「五郎師兄が、あまり良くない不動産や田地をいくつか売却しました。代金は藩札に換えず、全て都景楼の地下倉庫に保管してあるそうです」「西平大名家が彼に申し訳が立たないのですから」三姫子は小声で答えた。「好きなように使えばよろしい。私も別に幾らか蓄えてありますから」「使いはしないでしょう。五郎師兄は銀子に困っていませんから」さくらは次の話題に移った。「椎名青舞の身元について、陛下の調査で確認が取れました。飛騨のある夫人を義母として認めているとのこと。沢村の姓については、関西の沢村家の分家で、飛騨で商いを営んでいる家からとったものだそうです。以前、夫人がお調べになった密会の相手も、恐らくはその沢村家の者でしょう。今なら陛下も穏便に処理してくださるでしょうが、もし陛下が動かれないとなると、甲虎様は深みにはまることになりかねません」さくらは飛騨での私兵調査など、重要な情報は意図的に伏せた。それらは決して口外できない。今の情報だけでも、三姫子への警告としては十分なはずだった。今なら親房甲虎が翻意すれば、西平大名家にもまだ逃げ道はある。爵位は失うかもしれないが、最悪の事態は避けられる。後は三姫子が甲虎を説得できるかどうかだった。しかし三姫子は黙って頷くだけで、何も語らなかった。その様子を見て、さくらは悟った。三姫子は既に全力を尽くしたのだ。しかし、甲虎は耳を貸さなかったのだろう。さくらは三姫子の手を軽く握り、慰めの言葉は何も口にせずに、途中で馬車を降り、自分の馬で屋敷へと戻った。世の中には、知らず知らずのうちに人々が受け入れていくことがある。以前は、さくらが官服姿で馬を走らせていると、様々な視線を向けられた。だが今では誰もが慣れた様子で、中には笑顔で会釈を送る者さえいる。人々は異端とも言える親王妃を受け入れたのだ。しかし、異端な女性そのものを受け入れたわけではなかった。斎藤礼子の退学は、その日の夕刻には式部卿の耳に入った。しかし景子と礼子は事の真相を語らなかった。ただの少女同士の諍いで、上原さくらが裁定を下した結果、礼子だけが退学になったと説明した。式部卿は普段なら緻密な思考の持ち主だが、近年は増長していた。斎藤家の教育に自信があり、一族から無作
庭の石の腰掛けに、三姫子と文絵が腰を下ろした。庭には花木が植えられているものの、どれも元気がない。冬の寒さに萎れ、一層寂しげな景色を作り出していた。「どうして天方将軍のことを弁護したの?」三姫子は手巾で娘の頬の傷周りを優しく拭った。軽く押してみても血は滲まない。幸い傷は深くなく、醜い傷跡になる心配はなさそうだった。ただ、その平手打ちの跡があまりにくっきりと残っているのを見ると、母としての胸が締め付けられた。娘が十一郎の味方をするとは不思議だった。あの一件については、子供たちには一切話していないはずなのに。これまで、こういった厄介な事柄は徹底して子供たちから隠してきたつもりだった。最近の噂が子供たちの耳にも入っているのだろうか。彼らがどこまで知っているのか、確かめておく必要があった。文絵が腫れた頬を上げた。その瞳は純真そのものでありながら、年齢不相応な落ち着きを湛えていた。「お母様、覚えていらっしゃいますか?十一郎様が叔母様を連れて里帰りした時、私に何をくださったか」三姫子は記憶を辿った。「そうね、側仕えのばあやが、あなたと賢一くんにそれぞれ金の瓜の種と金の鍵をくれたわ。随分と気前の良い贈り物だったわね」文絵は首を横に振り、瞳に強い意志を宿して言った。「国太夫人の『山河志』でした。十一郎様は私にこうおっしゃいました。この世では、女性は嫁ぐ以外に生まれた土地を離れる機会は少ない。けれど、外の世界は広大で美しい。たとえ自分の目では見られなくても、我が大和国の素晴らしい景色を知っておくべきだと。空がどれほど広く、どれほど高いかを知れば、目先のつまらないことにとらわれず、他人の機嫌を取るために自分を卑下することもなくなるはずだと」三姫子は息を呑んだ。そうだったのか。あの時の自分は、金銀の装飾品にばかり目が行っていた。何と庸俗な自分だったのだろう。里帰りの際も、贈り物の品々から夕美の天方家での立場を推し量ることばかり気にしていた。「あれから今まで、十一郎様は私たちや叔母様を責めることは一度もありませんでした。でも、お母様」文絵の声が震えた。「十一郎様は本当は悔しくないのでしょうか?怒りを感じないのでしょうか?あんなことがあっても、本当に何事もなかったかのように過ごせるのでしょうか?きっと傷ついて、苦しんでいるはず。だから縁談の話にも積
礼子は母の手を振り払い、三姫子に向かって怒鳴った。「謝りません!私をどうにかできるとでも?殴り返せるものなら殴ってみなさい!」礼子は涙を浮かべた赤い顔を、三姫子の目の前に突き出した。その表情には、言いようのない屈辱が滲んでいた。そうですか」三姫子は冷笑を浮かべた。「では斎藤帝師様に、斎藤家のしつけについてお尋ねするとしましょう」そう言うと、さくらの方を向いて続けた。「塾長、その折には証人としてお力添えいただけませんでしょうか」「帝師様にお会いする際は、事の次第を余すところなくお伝えいたします」さくらは答えた。景子は帝師の耳に入れば大変なことになると悟った。自分たちは間違いなく厳しい叱責を受けることになる。歯を食いしばりながら、景子は礼子に命じた。「謝りなさい」「嫌です!」礼子は涙を流しながら足を踏み鳴らした。「私が悪いんじゃありません。いじめられて、書院も追い出されそうなのに、なぜ私が謝らなければならないの?」三姫子とさくらの冷ややかな視線を感じ、四夫人は厳しい表情で言い放った。「過ちを犯したのだから、謝罪は当然のことです」この数日間の屈辱に耐えかねていた礼子は、母までもが自分を助けず謝罪を強要することに、激しい憤りを覚えた。「絶対に謝りません!好きにすればいいです。死んでも謝らない!」そう叫ぶと、礼子は外へ駆け出した。だがさくらがいる以上、逃げ切れるはずもない。数歩で追いつかれ、三姫子の前に連れ戻された。さくらは三姫子に向かって言った。「この事態は雅君書院の管轄内で起きたこと。書院にも責任があります。こうしましょう。文絵様の顔に傷を負わせた以上、役所に届け出て、しかるべき処置を仰ぎましょう。書院として負うべき責任は、私どもも当然引き受けます」「では王妃様のおっしゃる通り、役所へ参りましょう」三姫子は毅然とした態度で娘の手を握った。「いやっ!役所なんて行きません!」礼子は悲鳴のような声を上げた。良家の娘が役所に引き立てられるなど、これからの人生はどうなってしまうのか。「早く謝りなさい!」景子は焦りと怒りの混じった声で叱責した。「さっさと謝って、この呪われた場所から出て行くのです」しばらくの沈黙の後、礼子は不承不承と文絵と三姫子の前に進み出た。口を尖らせながら、「申し訳ございません。私が悪うございました」
景子の顔色が一層険しくなった。自分の言外の意味が通じなかったはずはない。「大げさに騒ぎ立てる必要などございません」景子は強い口調で言った。「謝罪なら構いませんが、退学というのは行き過ぎでしょう。所詮は子供同士の些細な揉め事。こんなことで退学させれば、雅君女学が融通の利かない学び舎だと噂されかねません。ご令嬢のためだけでなく、学院の評判もお考えください。私の娘が退学した後、もし変な噂でも立てば、傷つくのは書院の名声ですよ」先ほどまでは三姫子への脅しだったが、今度は書院までも脅そうというわけだ。「暴力を振るった生徒を退学させないほうが、よほど書院の評判を損なうでしょう」さくらは冷ややかに微笑んだ。「景子様にお越しいただいたのは、双方の体面を保ちながら、謝罪なり賠償なりを済ませ、子供たちの諍いで両家に確執が生まれることを避けたかったからです。ですが、退学は避けられません。自主退学を拒むのでしたら、私の権限で退学処分とさせていただきます」景子ははさくらには逆らえず、他の教師たちに向かって言った。「先生方、教育者として生徒の些細な過ちくらい、お許しになれないのですか?」「本来なら即刻の退学処分でした」相良玉葉も強い態度で返した。「国太夫人と塾長が礼子様の体面を考慮して、自主退学という形を提案なさったのです」「もう十分でしょう」国太夫人が手を上げて制した。「自主退学を選びなさい。これ以上言い募っても、皆の気を損ねるだけですよ」景子は玉葉を鋭く睨みつけた。生徒たちの証言によれば、退学処分を最初に提案したのは玉葉だった。他の教師はただ同調しただけ。相良家と天方家の過去の因縁など、誰もが知っているというのに。まだ隠せると思っているのだろうか。十一郎が相良家を見向きもしないのは当然のこと。今や相良家を支える者など誰もいない。名声だけが残った没落貴族に過ぎない。式部を掌握する斎藤家なのだ。もし太后様が一言発せられ、上原さくらが宮中に駆け込んで阻止していなければ、十一郎はとっくに斎藤家に縁談を持ちかけていたはずだ。景子は確信していた。以前の婉曲な断りは、村松裕子という女の政治的慧眼の欠如によるものだ。十一郎なら分かっているはず。武将が権勢を振るうには、朝廷の後ろ盾が不可欠なのだから。婚姻による同盟こそが、最も確実な結びつきなのだ。「相良先
三姫子も侍女の織世を連れて姿を見せた。娘が平手打ちを食らったと聞き、まず娘の様子を見に行った。頬は腫れ上がり、細い傷まで付いていたが、国太夫人が既に薬を塗ってくださったと知る。娘を二言三言なだめた後、急いで書雅館へ戻り、国太夫人にお礼を述べた両夫人が席に着くと、さくらが仲介役として事の経緯を詳しく説明した。説明を終えると、斎藤礼子と親房文絵、そして証人となる数名の学生たちを呼び寄せ、両夫人からの問いただしに備えた。景子夫人の表情は明らかに険しかった。一つには、分別のない娘が書院でこのような話を持ち出したことへの憤り。もう一つには、天方十一郎が礼子など眼中にないなどと、親房文絵が放った言葉への腹立ちだった。そんな噂が広まれば、娘の評判に関わる。とはいえ、娘の斎藤礼子が手を上げた以上、口論とは訳が違う。景子は仕方なく頭を下げ、そっけない謝罪の言葉を三姫子に向けた。「確かに、若い娘たちの言い争いとはいえ、不覚にも娘が手を出してしまい申し訳ございません。どうか寛大なお心で」三姫子は礼子を一瞥した。まるで自分が被害者であるかのように、礼子の顔には今なお不満げな表情と、理不尽な扱いを受けたような悔しさが浮かんでいた。「もう元服も済ませた娘です。子どもではないのですから、自分の行動には責任を持つべきでしょう。手を上げたのは礼子様なのですから、謝罪するのもまた礼子様自身であるべき。その後、許すか許さないかは私の判断にお任せください」景子は内心、西平大名家が斎藤家の立場を考慮するはずだと踏んでいた。上原さくらがこうして両家を呼び寄せたのも、穏便に解決を図りたいという配慮からに違いない。しかし、自分が譲歩したにもかかわらず、三姫子がこれほど頑なとは。他の生徒たちの前で面目を潰されたも同然だ。生徒たちは必ずや家に帰って今日の出来事を話すだろう。景子は背筋を伸ばした。事を荒立てたいというのなら、とことんまで話し合おうではないか。事情は承知していたものの、威厳ある態度で生徒たちに尋ねた。発端は何だったのか、なぜ口論になり、どうして暴力に発展したのか。生徒たちは塾長の前で、たとえ斎藤礼子の味方であっても贔屓はできず、事の次第を最初から順を追って説明するしかなかった。「まあ」景子は文絵の発言に食いつき、冷笑を浮かべた。「文絵お嬢様、天方十一郎様の弁護と