丹治先生が去った後、烈央は父を見つめた。「父上、どのような手立てを取ってでも、必ず文之進を止めねばなりません」安告侯爵は頷いた。「心配するな。もう二度と佐藤大将をこのような災難に陥れはせぬ」爵位や栄華を投げ打ってでも守るべき人がいる。安告侯爵自身、先祖は武将で、侯爵の位は戦場で勝ち取ったものだ。もし佐藤大将を守るために爵位を失うことになっても、祖父は咎めはしまいと思っていた。甥の文之進を説得できる確信はなかった。幼い頃から独特の主張を持ち、自分の将来を綿密に計画する性格だった。ただ、不運なことに、大きな任務が与えられる度に病気や不測の事態に見舞われ、功績を立てることも、陛下に自身の能力を示すこともできずにいた。東宮でも長らく平侍衛の地位に留まっていた。陛下の即位後、玄甲軍に編入されて御前侍衛となったものの、これといった昇進もなく、今回の関ヶ原行きも、安倍貴守が樋口信也に推薦してくれたからこそ実現したのだ。ずっと頭角を現したいと願っていた彼が、このような絶好の機会を簡単に手放すだろうか?丹治先生が安告侯爵邸を後にすると、すぐに北冥親王邸に使いを走らせ、事の次第を伝えさせた。玄武はそれほど心配していなかった。清張文之進は筋の通った人物で、ただ運に恵まれなかっただけだ。おそらく本人も報告すべきか内心で葛藤しているだろう。安告侯爵が話をすれば、報告を控える可能性は高いはずだった。そもそも、もし本当にこの発言で出世を図るつもりなら、密告による功績よりも、斎藤芳辰に率直に話を持ちかける方が得策だろう。芳辰は斎藤家の人間で、齋藤六郎は姫君の夫だ。密告よりもずっと良い見返りが得られるはずだった。また、長年陛下の側近くで仕えてきた文之進は、陛下のことをよく理解しているはずだ。陛下は一時的に彼を褒め、昇進させるかもしれないが、それは同時に、側近としての望みを永遠に断つことになる。帝王として、陛下は強大な武将や名家を警戒している。しかし個人としては、佐藤大将を心から敬重している。陰で刃を向ける者を喜ぶはずがない。こうして分析を重ねて、さくらを安心させた。「祖父上が戻られて、お前のその様子を見られたら、むしろ心配されるぞ。そんなに肩に力を入れるな。我々は孤立無援ではない。外を見てみろ。親房虎鉄が説明して以来、祖父上のことで街は持ちきりだ。多くの者
しかし、これほどの世論の高まりには、明らかに背後で動く者がいた。清和天皇は北冥親王家を疑ったが、調査を進めるうちに、意外にも糸を手繰れば手繰るほど、穂村宰相にまで行き着いた。あの文章や、茶屋や酒場で噂を広める語り部たちも、すべて穂村宰相の差し金だったのだ。しかも、この調査で分かったことは、穂村宰相も特に隠すつもりはなかったようだった。御書院で長い沈黙の後、天皇は樋口信也に告げた。「この件は調べなかったことにせよ。口外は固く慎むように」先帝の崩御前、穂村宰相は既に致仕を考えていた。しかし突然の崩御により、新帝即位の際の混乱を懸念し、相位に留まって全力で補佐を続けることを選んだ。朝廷の文武百官の中で、最も信頼できる者を挙げるなら、穂村宰相と相良左大臣のこの二人に他ならなかった。最近、宰相と関ヶ原の件について度々協議を重ねる中で、何か言いかけては止める様子が気になっていたが、今となっては全てが筋道を持って繋がっていた。彼と佐藤承は文利天皇の時代から、三代に渡って仕えてきた重鎮だった。文官と武将の間にも真摯な情が存在する。宰相がかつて語った言葉を思い出した。「辺境を守る大将たちがいなければ、国内の安定と繁栄もありえない」表向きは特別親しい付き合いもなく、長らく顔を合わせることすらなかったが、互いに深い敬意を抱いていたのだ。二月十三日の夕暮れ、斎藤芳辰らは佐藤大将を伴って都に入った。数日前から、民衆は城門で待ち続けていた。勅命による都への帰還を知り、幾日も待ちわびた末、ついにその時が来たのだ。日が沈み、残照が血のように染まっていた。巨躯の老将は黒馬に跨り、左右を御前侍衛に護られていた。その背筋は少しも曲がることなく、肌は黒銅のように光沢を帯びていた。まるで油を塗ったかのような艶があり、長途の雪や雨、霜にさらされても、肌は荒れることがなかった。まるでその肌自体が鉄壁であるかのように、風雪も霜雨も寄せ付けなかった。威厳に満ちた表情は、これほど多くの民衆が城門で待ち受け、自分の名を高らかに呼ぶのを目にして、わずかに困惑の色を見せた。今回の都への帰還では、軍紀の緩みで両国を再び戦乱の危機に陥れたことや、村の殺戮という残虐な事態を引き起こした責任を問われ、民衆の非難を浴びると覚悟していたのだ。戸惑いの後、彼の目は熱く潤んだ。二
玄武とさくらは城門から程近い酒楼にいた。二階の個室からの眺めは絶好で、窓を開けると城門付近の様子が手に取るように見渡せた。佐藤大将の行程は事前に把握されていたため、玄武は早々にこの個室を予約し、さくらが佐藤大将と対面できるよう手配していた。さくらは佐藤大将の姿から目を離すことができず、貪るように見つめていた。今にも駆け出して祖父の胸に飛び込み、幼い頃のように思う存分泣きたかった。あの頃のように、全ての辛い思いを祖父に打ち明け、すると祖父は優しく頭を撫でながら「誰がさくらを苛めたのか、このじいが懲らしめてやろう」と言ってくれたものだった。しかし今は、二階に立ったまま、祖父の馬が群衆に囲まれる様子を見守ることしかできない。耳を震わせんばかりの支持の声が響く中、涙が溢れ出た。祖父は本当に老いていた。以前は、こめかみに白髪が交じり始めていても矍鑠として意気軒昂で、都に戻れば父上と拳を交え、息一つ乱すことはなかった。今では、漆黑の髪はほとんど見当たらず、白髪に覆われていた。連日の道中で疲れが滲み出ており、大将としての威厳は保っているものの、疲労の色は隠せなかった。全体的に痩せこけ、かつては精悍で張りのあった頬も、今では同じ褐色ながら肉が垂れ下がっていた。それは紛れもない老いの兆しだった。さくらの最愛の祖父は、確かに老いていたのだ。佐藤大将は群衆の中を苦労しながら進んでいた。時には会釈で謝意を示し、時には御前侍衛が人々を押し返すのを心配そうに見つめ、民衆が怪我をしないかと気を配っていた。およそ半時間が過ぎてようやく、一行は酒楼の前にたどり着いた。本来なら御城番と禁衛府が道を開くはずだったのだが、あまりにも多くの民衆が押し寄せ、まるで人の壁のようになっていた。最初こそ人々の間を縫うように動けたものの、今や民衆は鉄壁となって佐藤大将を守るかのように取り囲んでいた。民衆の中には御前侍衛に手を出そうとする者もいたが、すぐさま誰かが「御前侍衛と衝突すれば佐藤大将のご迷惑になる」と声を張り上げて制止した。次第に、皆が「陛下はきっと辺境を長年守り続けたこの老将を公平にお取り扱いになる」と声を上げ始めた。最後には「天皇陛下の英明なるご判断」「天皇陛下の御仁徳」と称える声まで上がるようになった。この変化は極めて自然なものだった。わざとら
最後には山田鉄男と村松碧が禁衛と御城番を率いて群衆の中に入り込み、徐々に道を切り開いていった。佐藤大将と御前侍衛が通れるだけの道幅を確保したのだ。御前侍衛は佐藤大将を先導し、参内させた。その前に、すでに民衆の騒動と彼らの叫び声の内容は清和天皇の耳に届いていた。天皇は眉を寄せた。あの「天皇陛下の英明なる」という声々が一本の縄となって、自らを縛り付けているかのようだった。本来なら佐藤承が都に戻った後、まず刑部に入れ、比較的待遇の良い牢獄に収監するつもりだった。そうすれば平安京の使者にも説明がつきやすい。だが今となっては、そのような処置が可能だろうか。安倍貴守の案内で、佐藤大将は御書院に入り、跪いて叩頭した。「罪深き佐藤承、参内仕り候。陛下の御威光、万歳にございます」清和天皇は佐藤承に会う前まで、この一件の処理について整然とした計画を巡らせていた。しかし、目の前に跪く姿を見た時、かつての威厳に満ちた雄姿はどこにも見当たらなかった。まるで一つの山が崩れ落ちたかのように。その様子に胸が痛んだ。皇太子であった頃、佐藤承と上原洋平は深く自分を支持してくれていた。当時の北平侯爵家にもよく足を運び、心から上原家の若殿との交友を望んでいたものだ。時は移り、世は変わる。昔日の面影はない。帝となった今では、考えるべきことも増え、心も昔日のような純粋さを失い、様々な懸念と思惑が生まれていた。目の前の旧友の顔には、辺境の厳しい風霜が刻まれていた。鉄のように強かった老将が、今や野に住む老人のように見える。この時ほど、天皇の心が柔らかく、また痛みを覚えたことはなかった。思わず自ら立ち上がり、手を差し伸べた。「佐藤卿、お立ちなさい」佐藤承は老いた目に涙を溢れさせた。「不肖、陛下のご期待に添えず、この罪、万死に値します」清和天皇は深い溜息をつきながら、「座って話そう」と言った。自ら佐藤大将の腕を取って脇の座に導いた時、かつて鋼鉄のように強かった老将が、本当に老いていることを実感した。その肩と腕からは昔日の硬さは失われ、痛ましいほどに痩せていた。玉座に戻りながら、思わず嘆息が漏れた。「随分痩せられましたな。どうかご自愛ください」「陛下のご心配、まことに恐縮でございます」佐藤承は老いた目の涙を拭いながら、深い後悔と恥じらいを滲ませた。
以前、上原さくらが玄甲軍大将に任命された時、多くの朝臣が反対した。女性がそのような重要な地位に就くことは相応しくないと。しかし今、陛下の一連の動きを目にし、その意図を悟った彼らは、何か違和感を覚えていた。このままでは玄甲軍は遊び人の集まる御城番だけになってしまうのではないかと。玄甲軍は皇城の防壁として存在してきた。それが今や解体されようとしている。誰もがそれを適切とは思えず、まるで何か権威が崩されていくかのようだった。もちろん、さくらが大将に就任して以来、玄甲軍はより威厳を増し、人々に安心感を与えるようになっていた。当初さくらを快く思わなかった者たちも、今では心服するようになっていたのだ。そして、彼らのさくらへの信頼こそが、清和天皇の動きを加速させる要因となった。御前侍衛の玄鉄衛への改編に続き、次の一手も早まることだろう。佐藤大将は勤龍衛の護衛のもと佐藤邸へと戻された。長らく放置されていた屋敷は荒れ果てていたが、勤龍衛たちが自ら草を抜き、掃除に取り掛かった。吉田内侍は数名の宮人を選び、世話をさせることとした。北條守は自ら護衛する勇気はなく、佐藤大将が屋敷に入った後、勤龍衛二十名を配置した。十名は邸内に、残りの十名は三つの門の警備に当たり、正門に四名、裏門と側門にそれぞれ三名ずつ配された。佐藤大将が邸に戻って間もなく、淡嶋親王妃が供人を連れて正門に姿を現し、面会を求めた。勤龍衛に制止されたものの、騒ぎ立てることもせず、ただ外に立ち尽くしていた。他のことは知らぬ顔もできようが、父が都に戻ったというのに会いに来ないのでは、世間の非難も免れまい。幸い、今は淡嶋親王が都を離れていた。もし在京していれば、いつものように父との面会を許さなかっただろう。父は今や罪を負う身なのだから。陛下が屋敷住まいを許されたのは、たとえ勤龍衛の監視付きとはいえ、大いなる御恩であった。しばらく立っていたが、さくらも燕良親王家の者も姿を見せず、その上、寒さも厳しかったため、それ以上留まることはしなかった。北冥親王家では、さくらはようやく心を落ち着かせ、山田鉄男の報告に耳を傾けていた。玄武も刑部には戻らず、終日さくらに寄り添っていた。「よかった。望み通り、佐藤邸に戻ることができたな」玄武は報告を聞き終え、少し安堵の息をついた。少なくとも刑部には入れ
安告侯爵は供人も連れず、たった一人で訪れた。青い衣装に黑い厚手の外套を羽織り、知らない者が見れば、どこかの執事かと思うほどだった。玄武とさくらが真っ先に立ち上がって出迎え、他の者たちも続いて立ち上がった。安告侯爵が何も言わずに助力してくれたことに、皆が感謝の念を抱いていた。挨拶を交わした後、安告侯爵は率直に切り出した。「申し訳ないのですが、あの小僧を無条件で説得することはできませんでした。彼が一つ条件を出してきましてね。まずは王妃様と沢村お嬢様のお考えを伺わねばなりません」安告侯爵が「申し訳ない」と切り出した時は、皆の心臓が飛び出しそうになったが、後の言葉を聞いて安堵の溜め息をついた。紫乃は不思議そうに尋ねた。「どうして私の意見を?彼は一体何をするつもりなの?」安告侯爵も自分でその言葉を口にしながら、妙な感じがしていた。「彼が申しますには、沢村お嬢様の弟子になりたいとのこと。それも村松や山田と同じように、直弟子としてです」「えっ?私、彼に武術は教えているわよ」紫乃は清張文之進の意図が一瞬飲み込めなかった。御前の者として、一緒に稽古に参加することは許されているはずなのに、なぜ弟子入りを?自分はただ三人しか弟子を取らないと言っていたのに。安告侯爵は説明を加えた。「実力で昇進したいそうです。御前では武芸と機転が物を言います。機転なら十分なものを持っているのですが、武芸の方がいささか心もとないと」紫乃は「ふうん」と声を上げ、さくらの方を見た。さくらも同じように紫乃を見つめていた。この件は紫乃の意向次第だった。弟子を取るのは軽々しい決断ではない。紫乃の性格からして、村松たち三人を受け入れたのも随分と無理をしてのことだったのだから。「引き受けましょう」紫乃は深く悩むことはなかった。通常なら、彼女の性格からすれば、こうした形での強要には絶対に応じないところだった。だが、さくらの祖父のことだ。不要な原則にこだわる必要はない。「紫乃、ありがとう」さくらは感謝の言葉を述べた。「何を言ってるの。使い走りが一人増えるだけじゃない」紫乃は笑いながら言ったが、心の中では歯ぎしりしていた。いい度胸だわ、佐藤大将を盾に私を脅すなんて。弟子にしたら、覚悟しておきなさい。玄武はそれまで心配ないと言い続けていたが、安告侯爵の言葉を聞いて、今になって本当
「父上、ご安心ください。千載一遇の好機会です。必ず師匠の教えを守り、決して怠慢な態度は取りませぬ。不埒な振る舞いなど、絶対にいたしません」文之進は床に跪いて急いで言った。彼は紫乃の稽古に二度ほど参加したことがあったが、それ以外は当番で参加できず、時間が空いた頃には紫乃は個人指導をしなくなっていた。そのことを随分と嘆いていたのだ。家に帰っては両親に何度も話していた。沢村師匠の直弟子になれたらどんなにいいだろうかと。思いもよらなかったが、関ヶ原での不運続きの中で、こんな幸運に巡り会えるとは。自分のやり方が卑劣だということは分かっていた。だが同時に、この好機を逃せば二度と機会は来ないことも知っていた。なぜなら、御前侍衛は独立して玄甲軍の管轄から外れる。沢村師匠が彼らを教えているのは上原様への配慮からだ。御前侍衛が独立すれば、たとえ陛下が許可を出しても、以前のように何度も稽古に参加できない事態になるだろう。文之進の妻も夫と共に跪いた。夫婦一体、夫が弟子入りするなら、妻も同じように礼を尽くすべきだと。紫乃は拝師の茶を飲んだ後、弟子の妻への見面の印として腕輪を贈った。文之進の妻は目利きで、この腕輪の価値が分かっていた。すぐさま「あまりに貴重すぎて」と辞退しようとした。「お受け取りください。私には安物など持ち合わせておりませんので」と紫乃は言った。文之進の妻は一瞬戸惑い、助けを求めるように姑の顔を見た。「師匠からの贈り物なのだから、受け取りなさい。今後は暇を見つけては師匠のお世話をし、弟子の妻としての務めを果たすように」と文之進の母が言った。「はい」文之進の妻はようやく受け取り、感謝の念を込めて「ありがとうございます、師匠様」と言った。拝師の礼を終えると、文之進は家族に先に帰るように言った。父親は息子が何を残ってするのか理解していた。玄武とさくらに退出の挨拶をし、紫乃にも別れを告げた。有田先生が自ら玄関まで見送った。彼らが去ると、文之進は再び跪いた。「弟子、不義の行い、どうかお咎めください」紫乃はまだ師匠としての心得も十分ではなかったが、確かに腹立たしい思いはあった。さくらが過ちを犯した時、師叔の皆無幹心が叱責する際によく発する言葉を思い出した。師叔はいつも厳しい声で「何が間違いだったのか」と問うのだ。そこで紫乃
紫乃はさくらを引き寄せ、傍らで見物させた。今のさくらが祖父のことを心配しているのは分かっていた。弟子たちの試合を見せれば、武術好きのさくらの気を紛らわせられるだろう。玄武も付き添って座っていた。もちろんさくらのためだ。彼らの戦いぶりなど、基本的には気にも留めていなかったが......気にせざるを得なくなった。文之進は三人を相手に、まともに太刀打ちできず、ただただ打ちのめされているだけだった。あまりにも惨めな様相を呈していた。幸い、三人とも加減は心得ていた。頭や顔は狙わず、体に数発の拳や蹴りを入れる程度だ。人目につかない場所なら問題ない。とはいえ、このまま続ければ文之進はすぐに持ちこたえられなくなるだろう。玄武が制止しようとした時、さくらがすでに声を上げていた。武を修めた者として、このような一方的な打撃戦は見ていられなかった。文之進の弱点は明らかだった。基礎は比較的しっかりしているものの、それだけだった。技も拳法も足技も支離滅裂で、まともな型すら見られない。紫乃は、さくらの注意がすっかり逸れたことに安堵の表情を浮かべた。地面に転がる文之進を見る目も、少し柔らかくなっていた。「武術は何年になる?」さくらが文之進に尋ねた。文之進は大きく息を切らしながら答えようとしたが、紫乃が先に口を挟んだ。「師伯様にお答えしなさい」さくらは眉を寄せた。いや、彼らの師伯にはなりたくない。自分と紫乃は同門ではないのだから。文之進はゆっくりと立ち上がった。足取りはまだ怪しかったが、返答を忘れなかった。「師伯様、七歳から稽古を始め、今日まで二十年になります」「誰に習ったのだ?」文之進は答えた。「はい、正式な師匠は持ちませんでした。屋敷の師範から教わり、従兄とも稽古を重ねました。後に安倍貴守と知り合い、彼から指導を受けました。皇太子の侍衛になってからは、専ら安倍に教えを請うておりました」少し間を置いて、付け加えた。「他の兄弟たちにも付きまとっては手合わせを願い、見様見真似で技を盗んでおりました」一同が笑みを浮かべた。向学心はある。だが、あちこちから少しずつ学んだのでは乱雑になりがちだ。一つの流派をしっかりと身につけ、それから他を学べば何も問題はない。「なるほど、これでは雑多になるわけだ」紫乃も眉をひそめた。以前の稽古で、確かに文之進の
紫乃は今、師範の務めの傍ら、石鎖姉さんたちと小さな捜査班を組んで、女性を狙う悪漢たちの取り締まりに当たっていた。最初は簡単だと思っていた。犯人を見つけ出し、痛めつけて自白を取り、役所に突き出せばよい……だが、役所では「拷問による自白」と一蹴されるだけだった。石鎖姉さんが密かに被害者たちを訪ねても、誰もが被害を否認した。よくて否認、酷い時は門前払いだった。結局、証拠不十分で釈放される。その度に紫乃の胸の内で殺意が湧き上がった。武芸界の掟なら、さっさと始末をつけて逐電すればよかったのに。だが、今の彼女は武芸界の人間ではない。親王様は刑部の長、さくらは玄甲軍を率いている。人殺しなど許されるはずもない。これが精一杯考えついた方法だったが、まるで効果がない。徒労に終わり、一人も投獄できていない。だから紫乃の瞳の奥には、常に憤りと憂いが渦巻いていた。二人はしばらく言葉を交わし、さくらは慰めるように言った。「気を落とすことないわ。少なくとも痛い目に遭わせて溜飲は下がったでしょう。あなたの監視の目があると分かれば、そう簡単には悪事は働けないはず」「殴っただけじゃ足りないの」紫乃はこめかみに拳を当て、頭を傾げて苦々しげに言った。「法の裁きを受けさせたいのよ」「被害に遭った娘たちが声を上げられないのよ。むしろ、できるだけ深く隠しておきたいんでしょう」「じゃあ、このまま野放しにするしかないの?本当に手立てはないの?」紫乃の声には焦りが滲んでいた。さくらは静かに提案した。「次も証拠が集まらないなら、役所に突き出す必要はないわ。思い切り痛めつけて、手か足を折るか……もしくは二度と女性に手出しできないようにしてしまえば」紫乃の表情が明るくなった。「それ、いい考えね」「でも、よく調べてるの?」「もちろん」紫乃は即座に答えた。「安心して。慎重に調査してるわ。冤罪は絶対に避けてる。ただ、被害者が証言を拒むし、私たちの調査方法も正式なものじゃないから、役所では取り上げてもらえないのよ」最初は自白さえ取れば役所が処罰してくれると思っていたのに。証拠や被害者の証言が必要だとは知らなかった。この件に関して、さくらにも手の施しようがなかった。法の厳格さは守られねばならない。姉妹のように親しい二人は顔を見合わせ、互いの瞳に励ましの色
十二月十五日、清和天皇は春長殿を訪れられた。皇后は目を真っ赤に腫らし、斎藤礼子の退学の件を申し上げた。この一件で既に斎藤家を諭されていた陛下は、皇后までもがこの話を持ち出すとは思いもよらず、心中穏やかならざるものがあった。されど、それを表には出されなかった。天皇の不快な様子を察した皇后は、すかさず話題を変え、「この頃、都の名だたる貴婦人方が、こぞって上原さくらを持ち上げ、女性の鑑だの手本だのと申しておりますわ」と申し上げた。「なるほど、面白い話だな」清和天皇は意味深な笑みを浮かべながら言った。「皇后への賛辞はどこへ消えたというのか。朕の皇后となる前から、都一番の才媛と謳われていたはずだ。むしろ手本とすべきは皇后、そう思わんか」皇后は一瞬たじろいだ。陛下の言葉が褒め言葉なのか、それとも皮肉なのか。真に自分のために憤っておられるのか、皆目見当もつかなかった。最近では、陛下のお心が益々掴めなくなっていた。觴を差し出しながら、しばし躊躇った後、おそるおそる申し上げた。「北冥親王妃の勢いが、いささか目に余るように存じます。女学校に伊織屋に……以前は非難していた者までもが、今では賛辞を惜しまず。それに北冥親王様も、陛下の深い信頼を得ておられ……これはいかがなものかと」清和天皇は眉を寄せられたが、何もお答えにはならなかった。皇后は天皇の表情を窺い、わずかに安堵の息を漏らした。やはり陛下も北冥親王夫妻の台頭を警戒なさっているのだ。あの夫婦への称賛があまりにも大きすぎる。朝廷の重臣たちは心服し、民も賛辞を惜しまない。陛下がお気に召さないのも当然だろう。勢力を広げすぎた二人は、いずれ禍根を残すことになるはず。まずは上原さくらに痛い目を見せてやろう。上原さくらは紅羽や粉蝶たちに女学校の見張りを命じた。斎藤家が以前のままなら心配はいらなかったのだが、今は各分家がそれぞれの思惑を持ち、礼子の退学騒動で皇后様の怒りは頂点に達しているはず。あの日の四夫人の振る舞いは、まるで無頼の徒のよう。警戒するに越したことはない。最近、紫乃は二人の師姉と共に多忙を極めており、さくらと言葉を交わす機会も減っていた。この日は珍しく早めの屋敷帰りで、皇太妃様への挨拶に誘うことができた。皇太妃の居室は心地よい暖かさに包まれていた。嫁と紫乃の姿を認めると、
式部卿は屋敷に戻るなり、景子を呼びつけ、激しい怒りをぶちまけた。「お義兄様」景子も憤然として言い返した。「私どもは皇后様のご意向に従っただけです。本来なら礼子を広陵侯爵の三郎様に薦めようと考えておりましたが、皇后様が武将方の支持がないとおっしゃって」皇后が縁談を持ちかけようとしたものの、太后様に阻止されたことを語り、憤りを隠さない。「天方家は傲慢すぎます。私ども斎藤家の娘が釣り合わないとでも?義兄様、彼らは斎藤家を眼中にも入れていないのです」「なぜ天方家が我々を重んじる必要があろう?我々が天方家を重んじたことがあったか?」式部卿は鋭く問い返した。問題はまさにそこにある。いつからか、一族の者たちは誰もが斎藤家に敬意を払うべきだと思い込むようになっていた。恐怖が背筋を這い上がった。知らぬ間に、斎藤家は朝廷の権力を掌握していると世間に見られ、一族もそう思い込んでいる。なぜそう思うようになったのか。周囲が持ち上げすぎたからに他ならない。「でも、私たちは斎藤家なのに……」景子は言葉を濁らせた。この一件を機に、式部卿は一族を集めた。言動を慎み、軽々しい振る舞いを控え、謙虚に、控えめに。無用な交際は避け、党派を結ぶなどという嫌疑を招かぬよう、厳しく諭した。側室の件は、一族内の女たちの間で噂になっただけだった。男たちは表向き非難しながらも、内心では理解を示していた。そう、男は常に同じ男の過ちを許す。それは過ちとは呼べないものだからだ。今日の訓戒は、族人たちも守るだろう。式部卿の胸中には不安が渦巻いていた。大皇子の粗暴さと愚かさが露呈する前まで、特別な策を講じる必要はないと考えていた。天の寵児として、皇位は自然と彼のものになるはずだった。だが、大皇子の凡庸さが次第に明らかになってきた。それも単なる平凡さではない。性格も徳も欠けていた。陛下もそれを見抜いているに違いない。こんな時期に何か画策すれば、必ず疑念を招くことになる。せめてもの救いは、大皇子がまだ幼いことだ。まだ教育の余地がある。今は目立たぬよう、大皇子の教育に専念する。それこそが正しい道筋だった。しかし、この考えを耳にした皇后は、父の臆病さを責めた。今こそ人脈を広げるべき時だと。特に武将たちと、なかでも兵部大臣の清家本宗との親交を深めるべきだと。使いを通じて父に伝言を送り
式部卿は茫然と立ち尽くしていた。平手打ちを食らったわけでもないのに、頬が火照ったように痛んだ。そしてようやく、自分の軽率さに気付いた。たかが書院の生徒同士の諍いごときで、朝廷を巻き込むことになってしまった。朝議終了まで、彼はただそこに立っていた。清和天皇は彼を御書院に残すよう命じた。しかし、御書院の外で立って待つように、との仰せだった。寒風が刃物のように肌を切り裂く厳寒の中、丸二時間、陛下は彼を中へ招くことはなかった。胸の内は複雑な思いが渦巻き、怒りの炎が胸腔の中を暴れ回った。自分は陛下の義父ではないか。たとえ今回の件で非があったにせよ、こんな寒さの中に放置されるいわれはない。二時間も経つと、体は凍えて硬直しかけていた。吉田内侍は耐え難そうな様子を見かねて、手焙りを持ってきてくれた。極寒の中、わずかな温もりですら救いだった。樋口信也が慌ただしく御書院に入り、しばらくして戻ってくると、式部卿の前に立った。「斎藤様、なぜここに?」「陛下のお召しを待っております」歯の根が寒さで震えながら答えた。「陛下は先ほど、どこへ行かれたのかと探すようにと仰せでした。お待ちかねですぞ、早くお入りください」式部卿は無表情のまま礼を言い、こわばった足を引きずるように中へ入った。拝礼、着座の許可、すべては普段通りだった。だが式部卿にはわかっていた。陛下の心中には怒りがある。先ほどの二時間は明らかな懲らしめだ。しかし、たかが女学校のことで、と腹の中で反発を覚えずにはいられなかった。御書院の暖かさが身に染みわたり、ようやく体の震えが収まってきた頃、吉田内侍が熱い茶と共に一枚の調書を差し出した。式部卿は不審そうに手に取り、目を通した途端、血の気が引いた。そして次の瞬間、怒りが込み上げてきた。景子母娘に欺かれていたのだ。発端は礼子が、天方十一郎が自分に求婚したと吹聴し、「年寄りが若い娘に手を出す」と嘲り、周りの生徒たちを煽り立てたことだった。「斎藤家は天方家との縁組みをお望みなのですか」清和天皇は淡い笑みを浮かべた。「義父上よ、都の権貴や文官たちは皆、婚姻で繋がりを持とうとしている。今や天方十一郎までも目を付けられるとは。朕が彼を重用したのは間違いではなかったようですな。義父上までがそれほど評価されているのですから」「陛下」式部
さくらは自分の馬を従者に任せ、三姫子の馬車に同乗した。伝えるべき事柄が二つあった。「五郎師兄が、あまり良くない不動産や田地をいくつか売却しました。代金は藩札に換えず、全て都景楼の地下倉庫に保管してあるそうです」「西平大名家が彼に申し訳が立たないのですから」三姫子は小声で答えた。「好きなように使えばよろしい。私も別に幾らか蓄えてありますから」「使いはしないでしょう。五郎師兄は銀子に困っていませんから」さくらは次の話題に移った。「椎名青舞の身元について、陛下の調査で確認が取れました。飛騨のある夫人を義母として認めているとのこと。沢村の姓については、関西の沢村家の分家で、飛騨で商いを営んでいる家からとったものだそうです。以前、夫人がお調べになった密会の相手も、恐らくはその沢村家の者でしょう。今なら陛下も穏便に処理してくださるでしょうが、もし陛下が動かれないとなると、甲虎様は深みにはまることになりかねません」さくらは飛騨での私兵調査など、重要な情報は意図的に伏せた。それらは決して口外できない。今の情報だけでも、三姫子への警告としては十分なはずだった。今なら親房甲虎が翻意すれば、西平大名家にもまだ逃げ道はある。爵位は失うかもしれないが、最悪の事態は避けられる。後は三姫子が甲虎を説得できるかどうかだった。しかし三姫子は黙って頷くだけで、何も語らなかった。その様子を見て、さくらは悟った。三姫子は既に全力を尽くしたのだ。しかし、甲虎は耳を貸さなかったのだろう。さくらは三姫子の手を軽く握り、慰めの言葉は何も口にせずに、途中で馬車を降り、自分の馬で屋敷へと戻った。世の中には、知らず知らずのうちに人々が受け入れていくことがある。以前は、さくらが官服姿で馬を走らせていると、様々な視線を向けられた。だが今では誰もが慣れた様子で、中には笑顔で会釈を送る者さえいる。人々は異端とも言える親王妃を受け入れたのだ。しかし、異端な女性そのものを受け入れたわけではなかった。斎藤礼子の退学は、その日の夕刻には式部卿の耳に入った。しかし景子と礼子は事の真相を語らなかった。ただの少女同士の諍いで、上原さくらが裁定を下した結果、礼子だけが退学になったと説明した。式部卿は普段なら緻密な思考の持ち主だが、近年は増長していた。斎藤家の教育に自信があり、一族から無作
庭の石の腰掛けに、三姫子と文絵が腰を下ろした。庭には花木が植えられているものの、どれも元気がない。冬の寒さに萎れ、一層寂しげな景色を作り出していた。「どうして天方将軍のことを弁護したの?」三姫子は手巾で娘の頬の傷周りを優しく拭った。軽く押してみても血は滲まない。幸い傷は深くなく、醜い傷跡になる心配はなさそうだった。ただ、その平手打ちの跡があまりにくっきりと残っているのを見ると、母としての胸が締め付けられた。娘が十一郎の味方をするとは不思議だった。あの一件については、子供たちには一切話していないはずなのに。これまで、こういった厄介な事柄は徹底して子供たちから隠してきたつもりだった。最近の噂が子供たちの耳にも入っているのだろうか。彼らがどこまで知っているのか、確かめておく必要があった。文絵が腫れた頬を上げた。その瞳は純真そのものでありながら、年齢不相応な落ち着きを湛えていた。「お母様、覚えていらっしゃいますか?十一郎様が叔母様を連れて里帰りした時、私に何をくださったか」三姫子は記憶を辿った。「そうね、側仕えのばあやが、あなたと賢一くんにそれぞれ金の瓜の種と金の鍵をくれたわ。随分と気前の良い贈り物だったわね」文絵は首を横に振り、瞳に強い意志を宿して言った。「国太夫人の『山河志』でした。十一郎様は私にこうおっしゃいました。この世では、女性は嫁ぐ以外に生まれた土地を離れる機会は少ない。けれど、外の世界は広大で美しい。たとえ自分の目では見られなくても、我が大和国の素晴らしい景色を知っておくべきだと。空がどれほど広く、どれほど高いかを知れば、目先のつまらないことにとらわれず、他人の機嫌を取るために自分を卑下することもなくなるはずだと」三姫子は息を呑んだ。そうだったのか。あの時の自分は、金銀の装飾品にばかり目が行っていた。何と庸俗な自分だったのだろう。里帰りの際も、贈り物の品々から夕美の天方家での立場を推し量ることばかり気にしていた。「あれから今まで、十一郎様は私たちや叔母様を責めることは一度もありませんでした。でも、お母様」文絵の声が震えた。「十一郎様は本当は悔しくないのでしょうか?怒りを感じないのでしょうか?あんなことがあっても、本当に何事もなかったかのように過ごせるのでしょうか?きっと傷ついて、苦しんでいるはず。だから縁談の話にも積
礼子は母の手を振り払い、三姫子に向かって怒鳴った。「謝りません!私をどうにかできるとでも?殴り返せるものなら殴ってみなさい!」礼子は涙を浮かべた赤い顔を、三姫子の目の前に突き出した。その表情には、言いようのない屈辱が滲んでいた。そうですか」三姫子は冷笑を浮かべた。「では斎藤帝師様に、斎藤家のしつけについてお尋ねするとしましょう」そう言うと、さくらの方を向いて続けた。「塾長、その折には証人としてお力添えいただけませんでしょうか」「帝師様にお会いする際は、事の次第を余すところなくお伝えいたします」さくらは答えた。景子は帝師の耳に入れば大変なことになると悟った。自分たちは間違いなく厳しい叱責を受けることになる。歯を食いしばりながら、景子は礼子に命じた。「謝りなさい」「嫌です!」礼子は涙を流しながら足を踏み鳴らした。「私が悪いんじゃありません。いじめられて、書院も追い出されそうなのに、なぜ私が謝らなければならないの?」三姫子とさくらの冷ややかな視線を感じ、四夫人は厳しい表情で言い放った。「過ちを犯したのだから、謝罪は当然のことです」この数日間の屈辱に耐えかねていた礼子は、母までもが自分を助けず謝罪を強要することに、激しい憤りを覚えた。「絶対に謝りません!好きにすればいいです。死んでも謝らない!」そう叫ぶと、礼子は外へ駆け出した。だがさくらがいる以上、逃げ切れるはずもない。数歩で追いつかれ、三姫子の前に連れ戻された。さくらは三姫子に向かって言った。「この事態は雅君書院の管轄内で起きたこと。書院にも責任があります。こうしましょう。文絵様の顔に傷を負わせた以上、役所に届け出て、しかるべき処置を仰ぎましょう。書院として負うべき責任は、私どもも当然引き受けます」「では王妃様のおっしゃる通り、役所へ参りましょう」三姫子は毅然とした態度で娘の手を握った。「いやっ!役所なんて行きません!」礼子は悲鳴のような声を上げた。良家の娘が役所に引き立てられるなど、これからの人生はどうなってしまうのか。「早く謝りなさい!」景子は焦りと怒りの混じった声で叱責した。「さっさと謝って、この呪われた場所から出て行くのです」しばらくの沈黙の後、礼子は不承不承と文絵と三姫子の前に進み出た。口を尖らせながら、「申し訳ございません。私が悪うございました」
景子の顔色が一層険しくなった。自分の言外の意味が通じなかったはずはない。「大げさに騒ぎ立てる必要などございません」景子は強い口調で言った。「謝罪なら構いませんが、退学というのは行き過ぎでしょう。所詮は子供同士の些細な揉め事。こんなことで退学させれば、雅君女学が融通の利かない学び舎だと噂されかねません。ご令嬢のためだけでなく、学院の評判もお考えください。私の娘が退学した後、もし変な噂でも立てば、傷つくのは書院の名声ですよ」先ほどまでは三姫子への脅しだったが、今度は書院までも脅そうというわけだ。「暴力を振るった生徒を退学させないほうが、よほど書院の評判を損なうでしょう」さくらは冷ややかに微笑んだ。「景子様にお越しいただいたのは、双方の体面を保ちながら、謝罪なり賠償なりを済ませ、子供たちの諍いで両家に確執が生まれることを避けたかったからです。ですが、退学は避けられません。自主退学を拒むのでしたら、私の権限で退学処分とさせていただきます」景子ははさくらには逆らえず、他の教師たちに向かって言った。「先生方、教育者として生徒の些細な過ちくらい、お許しになれないのですか?」「本来なら即刻の退学処分でした」相良玉葉も強い態度で返した。「国太夫人と塾長が礼子様の体面を考慮して、自主退学という形を提案なさったのです」「もう十分でしょう」国太夫人が手を上げて制した。「自主退学を選びなさい。これ以上言い募っても、皆の気を損ねるだけですよ」景子は玉葉を鋭く睨みつけた。生徒たちの証言によれば、退学処分を最初に提案したのは玉葉だった。他の教師はただ同調しただけ。相良家と天方家の過去の因縁など、誰もが知っているというのに。まだ隠せると思っているのだろうか。十一郎が相良家を見向きもしないのは当然のこと。今や相良家を支える者など誰もいない。名声だけが残った没落貴族に過ぎない。式部を掌握する斎藤家なのだ。もし太后様が一言発せられ、上原さくらが宮中に駆け込んで阻止していなければ、十一郎はとっくに斎藤家に縁談を持ちかけていたはずだ。景子は確信していた。以前の婉曲な断りは、村松裕子という女の政治的慧眼の欠如によるものだ。十一郎なら分かっているはず。武将が権勢を振るうには、朝廷の後ろ盾が不可欠なのだから。婚姻による同盟こそが、最も確実な結びつきなのだ。「相良先
三姫子も侍女の織世を連れて姿を見せた。娘が平手打ちを食らったと聞き、まず娘の様子を見に行った。頬は腫れ上がり、細い傷まで付いていたが、国太夫人が既に薬を塗ってくださったと知る。娘を二言三言なだめた後、急いで書雅館へ戻り、国太夫人にお礼を述べた両夫人が席に着くと、さくらが仲介役として事の経緯を詳しく説明した。説明を終えると、斎藤礼子と親房文絵、そして証人となる数名の学生たちを呼び寄せ、両夫人からの問いただしに備えた。景子夫人の表情は明らかに険しかった。一つには、分別のない娘が書院でこのような話を持ち出したことへの憤り。もう一つには、天方十一郎が礼子など眼中にないなどと、親房文絵が放った言葉への腹立ちだった。そんな噂が広まれば、娘の評判に関わる。とはいえ、娘の斎藤礼子が手を上げた以上、口論とは訳が違う。景子は仕方なく頭を下げ、そっけない謝罪の言葉を三姫子に向けた。「確かに、若い娘たちの言い争いとはいえ、不覚にも娘が手を出してしまい申し訳ございません。どうか寛大なお心で」三姫子は礼子を一瞥した。まるで自分が被害者であるかのように、礼子の顔には今なお不満げな表情と、理不尽な扱いを受けたような悔しさが浮かんでいた。「もう元服も済ませた娘です。子どもではないのですから、自分の行動には責任を持つべきでしょう。手を上げたのは礼子様なのですから、謝罪するのもまた礼子様自身であるべき。その後、許すか許さないかは私の判断にお任せください」景子は内心、西平大名家が斎藤家の立場を考慮するはずだと踏んでいた。上原さくらがこうして両家を呼び寄せたのも、穏便に解決を図りたいという配慮からに違いない。しかし、自分が譲歩したにもかかわらず、三姫子がこれほど頑なとは。他の生徒たちの前で面目を潰されたも同然だ。生徒たちは必ずや家に帰って今日の出来事を話すだろう。景子は背筋を伸ばした。事を荒立てたいというのなら、とことんまで話し合おうではないか。事情は承知していたものの、威厳ある態度で生徒たちに尋ねた。発端は何だったのか、なぜ口論になり、どうして暴力に発展したのか。生徒たちは塾長の前で、たとえ斎藤礼子の味方であっても贔屓はできず、事の次第を最初から順を追って説明するしかなかった。「まあ」景子は文絵の発言に食いつき、冷笑を浮かべた。「文絵お嬢様、天方十一郎様の弁護と