病院に連絡が入ると、すぐに雅彦の依頼に応じて、女性の医者がホテルへと派遣された。桃の体温を測ると、熱はなんと39度まで上がっていた。医者はすぐに解熱の点滴を準備し、注射を打ってから、他の症状の確認に入った。その際、彼女の手首には縛られた跡がはっきりと残っており、身体のあちこちにも見てはいけないような痕が広がっていた。医者は思わず息をのんだ。既婚者でもある彼女には、何が起こったのか、一目で理解できた。本来であれば――相手は菊池グループの株主、そしてこのホテルの実質的なオーナーでもある雅彦。他人の家庭のことに首を突っ込むべきではない。しかし、ベッドに横たわる桃の痛々しい姿を見ると、どうしても黙っていられなかった。「雅彦さん……事情はわかりませんが、この方の体は、今とても弱っています。高熱が出ていますし、これ以上無理をさせれば症状は悪化する一方です。きちんと食事をとらせて、休ませてあげてください。それが、彼女のためにも、あなた自身のためにもなるはずです」医者の言葉に、雅彦は反論する言葉もなく、ただ俯くだけだった。ベッドで目を閉じ、顔色も悪く、やつれきった桃の姿を見て、彼の胸に押し寄せるのは、罪悪感だけだった。本当は、傷つけるつもりなどなかった。彼女は、自分がこの世で一番愛している女性だったのに。ただ、桃は繰り返し別れを切り出し、彼の話に耳を貸そうともしないまま、一方的に関係を終わらせようとした。さらに、彼の人生から再び姿を消そうとしていた。その現実が、彼を追い詰め、理性を奪った。取り返しのつかないことをしてしまったのだと、今になってようやく思い知る。医者は、そんな雅彦の様子を見て、最初に想像していたような自分勝手な男とは少し違うと感じた。彼の目に宿る後悔の色を見て、少しだけ言葉を和らげた。「点滴はすでに打ちました。あとで塗り薬も渡しますので、腫れや炎症を防ぐために、彼女の傷に塗ってあげてください。それと、余裕があれば、アルコールで手足を拭いてあげてください。熱が下がりやすくなります」「……わかりました」雅彦は素直にうなずき、医者の指示を一つひとつ聞き入れた。やがて医者が薬を持って戻り、使用方法を丁寧に教えた。帰り際、医者は思わず最後にもう一言だけ口を開いた。「とにかく、彼女が完全に回復するまでは……絶対に、無
桃は、あまりにも執着と狂気を帯びた雅彦の姿を見て、まるで時が巻き戻されたかのような錯覚を覚えた。――自由を奪われ、他人の意志で人生をねじ曲げられる、あの日々。二度と戻らないと、心に誓ったはずだった。「つまり、また昔みたいに私を閉じ込めて、籠の中の小鳥として飼うつもりなの?」桃の声は、呆れと諦めに満ちていた。年月が経って、彼は変わったと信じていた。誰かを正しく愛することを、ようやく学んでくれたと。でも、結局、雅彦は何も変わっていなかった。本性は変えられない――どこまでも独善的で、誰にも息つく隙を与えない暴君のまま。それは、桃が望んでいた愛ではなかった。「雅彦、私が間違ってたわ。まさかやり直しても、あなたが変わっていないなんて……」桃は必死に抵抗しながら叫んだ。だが、雅彦はふっと笑みを浮かべた。「……たぶん、そうだな。でもな、桃。今回はもう、二度とお前を逃がすつもりはない」「お前はいつも、俺の気持ちを疑ってばかりだった。だったら今こそ、どれほど愛しているか、教えてやるよ」その瞬間、桃は彼の意図を悟った。目を見開き、彼の胸を突き飛ばそうとした。「……やめてっ!」叫び声が空気を裂くように響くも――彼女の声は、あっという間に押し潰され、消えていった。……どれほどの時間が経ったのか、わからない。桃は天井のシャンデリアをぼんやりと見上げていた。その瞳は虚ろで、思考も麻痺し、感覚も鈍く、痛みも、怒りも、何も感じなかった。まるで魂を抜かれた人形のように、ただ、されるがままに横たわっていた。雅彦自身も、自分が何をしているのかわかっていたが、もう何も止められなかった。もし、また桃が自分の子どもを身ごもってくれたら。その子を育てるうちに、くだらない不安も、逃げたい衝動も、すべて消えるのではないか。「桃、もうすぐ終わるよ。また、昔みたいに戻れるから……ね?」耳元で囁かれるその声に、桃は何の反応も示さなかった。まるで、何も聞こえていないかのように。それからしばらくして、この苦しみとも言える行為がようやく終わった。桃は目を閉じたまま、何も見ようとせず、何も聞こうとせず、ただ、ひどく疲れていた。そしてそのまま、意識が静かに闇の中へと沈んでいった。雅彦は浴室へ行き、湯を張る準備を始めた。湯を確かめ、ちょうどいい温度に
ホテルのスタッフは、最初は様子を見に行こうとした。もし家庭暴力などの事件なら、見て見ぬふりをするわけにはいかない。しかし、顔を上げた瞬間、そこにいたのが雅彦だとわかり、その圧のある冷ややかな表情に、誰もが言葉を飲み込んだ。このホテルは、すでに菊池グループから多額の出資を受けており、雅彦は実質的なオーナーでもある。彼に逆らえば、どうなるかなど考えるまでもない。誰も、彼の家庭問題に口を挟もうとはしなかった。誰一人助けてくれない現実に、桃は絶望した。そのまま雅彦に連れられ、彼がいつでも使えるように確保していたプレジデンシャルスイートへと押し込まれた。そして、雅彦はそのまま桃の体をベッドへと投げ出した。キングサイズのベッドに放り出された桃は、体が弾み、腰を痛めそうになりながら転がった。必死に体を起こし、逃げ出そうと身をよじった瞬間、雅彦の手が彼女の顎をがっちりと掴んだ。「ここまで来て、まだ逃げようなんて思ってるのか?」桃は彼の視線を避け、目を逸らしながら言った。「家に帰りたい。こんなところ、いたくない」「誰と一緒にいたいんだ?今日の君のそばにいた、あの男か?――あいつの顔を見るだけで、全部の苦しみが消えたのか?俺よりも、あいつの方がずっと幸せに見えるってか?」冷たい声が、室内に低く響いた。桃はその言葉に、心底うんざりしたように笑った。「そうよ。少なくとも、狂ったあなたと一緒にいるより、誰か他の人と一緒のがマシだから」その言葉が言い終わる前に、雅彦は顔を近づけ、強引に彼女の唇を塞いだ。まるで感情をぶつけるかのように、荒々しく、そして痛々しいほどに唇を押しつけた。これ以上、彼女の口から何も聞きたくなかった。傷つけられる言葉を、もうこれ以上――桃は必死に顔を背けようとしたが、逃げ場などなかった。そして、彼の舌が入り込んできたその瞬間――桃は迷わず、強く噛んだ。「……っ!」鋭い痛みに雅彦は眉をしかめたが、それでも唇を離さなかった。むしろ、その痛みが彼をさらに刺激したようで、彼の目は赤く染まり、激しさが増していった。まるで、怒りと悔しさを唇にぶつけるかのように。桃は口いっぱいに広がる鉄の味に、ようやく恐怖を実感した。舌を傷つけるというのは、簡単なことじゃない。けれど、雅彦はそれでもなお彼女を放そうとしなかった。
次の瞬間、雅彦は桃の手をぐっと掴み、彼女の体を無理やり車内に引き戻した。ちょうど車のドアを開けようとしていた桃は、その拍子に助手席へと倒れ込んだ。雅彦は自分のネクタイを解き、彼女の両手を縛り始めた。「……っ!?」突然の行動に、桃は目を見開いた。まさか、彼がここまで狂ったようなことをするなんて思ってもみなかった。彼女は必死にもがき、手足を使って雅彦を叩いたり蹴ったりしながら叫んだ。「やめて!何するつもりなの?放してよ!」「放す?一生、放さない。桃、お前が俺のそばから逃げようとするなら……こうするしかない。無理やりでも、お前を俺のそばに繋ぎとめるしかない……」雅彦の声は低く、どこか狂っているようだった。それでも、彼はネクタイをさらにきつく締めた。黒いネクタイが、桃の白く細い手首にきつく巻きつけられ、黒と白の対比が鮮やかだった。痛みに顔をしかめた桃の胸に、怒りと悔しさが込み上げた。そのまま、勢いよく雅彦の腕に噛みついた。桃の噛みつきは本気だった。その歯形からはすぐに血がにじみ出し、彼女の口の中に鉄の味が広がった。それでも雅彦は、一切顔色を変えなかった。むしろ――笑ったのだ。「いいじゃないか……これで、お前の爪痕を、永遠に残せた」その冷たく歪んだ笑みに、桃はぞくりとした不安を覚え、慌てて彼の腕から口を離す。恐怖を滲ませた目で雅彦を見つめた。「まだわからないの?私を行かせて。じゃないと……本気で、あなたを憎むことになる」彼女のその怯えた瞳を見て、雅彦の胸にはどうしようもない虚しさが広がった。やっと一緒になれたはずなのに、彼女の心には恐怖しか残っていなかったのか。「それでもいい。憎まれても、お前と無関係になるよりはマシだ」淡々と呟いた雅彦は、ハンドルを切り、車を別の方向へと走らせた。桃はその道に見覚えがなかった。そしてすぐに察した。「どこへ行くの?ここ、病院じゃないよね?」「病院なんて、人が多すぎて逃げられる可能性があるだろ?安心して。ちゃんと一流の医者を呼ぶから。……だから怖がるな」そう言う雅彦の横顔は、あくまで穏やかで、まるで普通のことを話しているかのようだった。けれど桃には、その言葉がどうしようもなく恐ろしく感じられた。「やだ……降ろして!今すぐ降ろしてよ!!」彼女は必死に身をよじり、手首のネクタイを
「……いやだ」雅彦は、桃の言葉を即座に否定した。その声音には、迷いがなかった。「桃、そんな意地を張るようなこと言わないでくれ。俺たちは、別れたりしない」動揺が、彼の心を揺さぶっていた。まさか、桃の口から別れの言葉が出るなんて、思ってもみなかった。「確かに、最近の俺は君をちゃんと見てなかった。君の気持ちを、ないがしろにしてしまった。全部、俺が悪い。……でも、それには理由があるんだ。せめて、俺にやり直す機会をくれないか?」そう言いながら、雅彦は車を路肩に停め、両手で桃の肩をしっかりと掴んだ。疲れきった顔色。血色のない唇。目の下には、薄く浮かぶクマ。彼女のそんな姿を見て、彼はようやく気づいた。最近の二人の関係には、確かに問題が生じていた。きちんと向き合って、解決しなければならない。でも、いきなり終わりなんて、そんなのあまりにも早すぎる。少なくとも、自分には猶予が必要だった。変わっていく姿を、彼女に見せるために。「雅彦、あなた、本当に私のこと、信じてる?私がどんなことを言っても、あなたは迷わず信じてくれるの?」桃の声は静かだった。しかし、その瞳は、まっすぐ彼の心を見透かしているようだった。雅彦は、言葉を失った。彼は、てっきり桃が求めるのは「浮気してないって誓って」とか、「愛してるって言って」みたいな言葉だと思っていた。でも違った。彼女が求めていたのは、無条件の信頼だった。疑うことなく、自分の味方でいてくれるという確信だった。けれど、一度たりとも彼女を疑ったことがないか?その問いかけに、雅彦は何も答えられなかった。彼の一瞬の迷いを見た瞬間、桃にはすべてが分かってしまった。もし本当に信じてくれていたなら、きっと何の迷いもなく、頷いてくれたはずだ。けれど、雅彦にはそれができなかった。結局、彼は心のどこかで、彼女を完全に信じきれていなかったのだ。ちょうど、さっきレストランで佐俊の顔を見ただけで、事情も聞かずに、彼女がその男の姿にかつての佐和を重ねていると決めつけた。桃は大きく息を吸い込み、滲みそうになる涙を堪えた。「もう、答えは出てるでしょ?」「もし本当に信じてくれてたら、私が莉子を追い詰めて自殺未遂させたなんて、思ったりしなかったはずよ」「本当に私を信じていたなら、ちゃんと調べて、真実を明らかにしてくれたはず
「それじゃあ、私……あなたに感謝すべきかしら?あなたのお心遣いのおかげで、今夜は私の夫をあなたのもとに行かせずに済んだんだから」桃は冷たく言い返した。もはや理性を保つことなど、どうでもよくなっていた。分かっている。莉子がわざと、雅彦に同情させようとしていることくらい、ちゃんと分かっている。でも、もう我慢なんてできなかった。「どうか、誤解しないでください。私と雅彦の間には何もありません。私はただ……」莉子の声はか細く、まるで傷ついた子猫のように震えていた。桃は思わず笑ってしまった。ここまでして、雅彦と自分の間を引き裂こうとするなんて、その演技力には感心すら覚える。「もういいわ。これで目的は果たせたんでしょ?今日だけじゃなく、雅彦はこれからずっとあなたのそばにいるでしょうし。おめでとう、莉子。思い通りになって、さぞ嬉しいでしょうね?」そう言い終えると、桃はスマホをそのまま雅彦に放り投げた。けれど、彼はそれを受け取ることもせず、ただ黙って彼女を見つめていた。その目に映る桃は、何の感情も湧かない人形のように見えた。まるでこの出来事など、彼女の心をかすりもしないようだった。「桃、もし君が嫌なら、今後は他の者を代わりに行かせるよ。だから、そんなふうに言わないでくれ……」「ううん、行けばいいじゃない。どうせ行かなかったら、また自殺するとか言い出すんでしょう?それで私が責められるくらいなら、いっそあなたが行ったほうがマシよ。もっとも、本気で死ぬ勇気なんて、彼女にはないでしょうけどね」冷たい笑みが、彼女の唇の端に浮かんだ。どうせ何を言っても、あなたが疑ってるのは私のほうで、悪いのも全部、私のほうなんでしょう。「莉子の手術はもうすぐだ。それが終われば、彼女も俺を頼らなくなる。そうしたら、きっと以前の生活に戻れるよ」「もう、戻れないわ」桃の声は静かだったが、はっきりとした拒絶がそこにあった。不思議なものね。昨日までは、母の言葉に励まされてこの人の心を繋ぎとめたい、子供たちにちゃんとした家庭を与えたいって、そう思っていたのに。今はもう、その気持ちすら、どこかへ消えてしまった。信じる気持ちが壊れてしまったら、もう、何をどう頑張っても、元には戻らない。彼と一生を共にしたいと思っていたあの気持ちも、今は、ただただ、しんどいだけだ