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第2話:朱に染まる出逢い②

Auteur: 花柳響
last update Date de publication: 2026-01-27 14:05:37

「……汚ねぇ手で、俺のお嬢に触るなよ。三下」

 腹の底に重く響くような、低く、湿り気を帯びた声。

 ずぶ濡れの黒いスーツ。陶器のように白い肌に張り付く長い前髪。そして、開いた襟元から覗く赤と黒の刺青。

「あがつま……ちはや……?」

 数時間前、小さな画面越しに見た名前が、無意識に唇からこぼれ落ちていた。

 男――我妻千隼は、その声に応えることもなく、ただ退屈そうに首をコキリと鳴らした。

「テメェ、何だ……! ?」

「黒鉄の使いっ走りか。躾がなってねぇな」

 逆上した三人の男たちが、懐からナイフや警棒を引き抜き、一斉に千隼へと襲いかかる。

「死ねや、ガキィッ!」

 だが、それは戦闘と呼べるようなものではなかった。

 千隼はポケットから手を出すことすらしない。水たまりを滑るような流麗な足さばきで、最初の一人の拳を紙一重でかわす。すれ違いざま、男の膝裏に革靴のつま先を冷酷なまでに正確に打ち込んだ。

 ゴッ、と鈍い音が響き、男がいとも簡単に崩れ落ちる。

 残る二人が怯んだ一瞬の隙。千隼の姿がブレた。

 瞬きをする暇も与えず間合いを詰め、一人の顔面を鷲掴みにする。そのまま容赦なく、コンクリートの壁面へと力任せに叩きつけた。

 ぐしゃり。

 硬い骨が砕ける音とともに、雨で濡れた壁にどす黒い染みがべったりと広がる。

「ば、化け物……!」

 最後の一人が顔を引きつらせ、めちゃくちゃにナイフを振り回した。

 千隼は口の端を微かに吊り上げると、刃の軌道を素手で払い落とし、男の手首を掴んで無造作にひねり上げる。

 バキバキバキッ!

「ぎゃああああああああ!」

「うるせぇ。お嬢の耳が汚れるだろ」

 千隼は一切のためらいもなく、男の鳩尾に革靴のつま先を深くめり込ませた。

 男はボールのように吹き飛び、ゴミ捨て場の山に頭から突っ込んで動かなくなる。

 雨音だけが、暴力の熱を冷ますように激しくアスファルトを叩いている。

 わずか数十秒。四人の男たちが、たった一人の手によって、ただの肉の塊に変えられていた。

 震える指先で泥水を掴み、ずるずると後ずさりする。助かった。確かに助かったはずなのに、身体が、芯から凍りついたように動かない。

 あのチンピラたちよりも、もっと凶悪で、もっと言葉の通じない存在が、目の前にいる。

 コツ、コツ、コツ。

 革靴が路面を叩く音が近づいてくる。正確なリズム。逃げ場のない足音。

 千隼が、目の前で足を止めた。

 見上げると、長めの黒髪が雨に濡れ、白地に暗い熱を孕んだ三白眼が、じっとこちらを見下ろしていた。

「……あなた、さっきのニュースで。警察に連行されていたはずじゃ」

 掠れた声で、どうにかそれだけを絞り出した。

 千隼は頬の汚れに気づくと、親指で無造作にそれを拭い取った。そして、その指先についた血を、舌でちろりと舐め取る。

 その仕草が、あまりにも艶めかしく、暴力的で、心臓を鷲掴みにされたように息が止まる。

 ゆっくりと膝をつき、目線を合わせた。

「あれですか。ただの茶番ですよ」

 事もなげに、言う。

「顧問弁護士が紙切れ一枚差し出せば、五分で終わる手続きだ。……国家権力ごときで、この俺を縛れると思わないでください」

 法も、警察も、彼を止める術にはならない。その事実は、今まで信じてきた「世界のルール」がこの男の前では何の役にも立たないことを、残酷なまでに突きつけていた。

 雨の匂いと、鉄錆のような血の臭い。

 それに混じって、ムスクと白檀が混ざり合ったような上質なコロンの香りが、鼻腔を強引に満たした。男の色気が、酸素を奪うような濃度で押し寄せてくる。

「お怪我はありませんか」

 丁寧な言葉遣い。けれど、その響きには有無を言わせない絶対的な重圧が混じっている。

 血の滲む冷たい指先が、顎をそっと持ち上げた。

 肌に触れた指は、驚くほど熱い。雨で冷え切った身体に、異常なまでの生命力が直接流れ込んでくる。

 千隼は口角を上げた。

 獲物を捕らえた喜びを隠さない、冷酷で、けれど狂おしいほど美しい笑み。

「お迎えに上がりました、――お嬢」

 視界がぐらりと揺れる。

 逃げ場のない至近距離で、底知れない漆黒の三白眼に完全に縫い付けられていた。

 呼吸がうまくできない。酸素が、足りない。

 熱い吐息が、頬を、唇を撫でる。

 もう、逃げられない。

 意識は、そこでプツリと途絶えた。

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