Masuk千隼の声から、ふっと温度が消えた。
「実際は毒を盛られた。犯人はまだ内部に潜んでいる」 「……っ!」 「先代には正妻との間に子がなかった。今、久遠の血を引くのは貴女だけだ。貴女が三代目を継承しなければ、この組織は空中分解し、血で血を洗う抗争が始まる」 千隼は私の髪を一房、愛おしげに、けれど支配的に指先で掬い上げた。肌に触れた彼の指は、熱いのに、そこから伝わる意志は刃物のように冷徹だ。 「だから、昨夜のような三下が湧いてくる。貴女が生きていれば都合の悪い連中が、山ほどいるんです」 昨夜の記憶が、鮮明なフラッシュバックとなって脳裏を焼く。ねじ上げられた手首の痛み。男たちの、加虐心に満ちた濁った目。 「そんなの……関係ない。私は、私の人生を生きたいだけなの」 「関係ない? 昨夜、攫われかけたのに、まだそんな寝言を?」 「警察に行くわ! 全部話して、保護してもらう。こんな場所、一刻も早く出たいのよ」 私は布団を跳ね除け、立ち上がろうとした。 だが、それより速く、千隼の大きな手が私の肩を掴んだ。 「っ、きゃ……!」 凄まじい力で畳に押し倒される。視界がぐるりと回転し、気づけば千隼に覆い被さられていた。長い前髪が頬にかかり、視界を塞ぐ。至近距離にあるアメジストの瞳が、獲物を狩る捕食者のように昏く光っている。 「警察?」 千隼は、可笑しくてたまらないというように鼻で笑った。 「サツが貴女を守れると本気で思っているんですか? 法律だの正義だの、そんな綺麗事が通用するのは、陽の当たる場所だけだ」 彼の熱い指先が、私の首筋をゆっくりとなぞっていく。ドクドクと激しく脈打つ頸動脈の上で、その指が止まった。いつでも喉笛を潰せると、無言で告げるように。 「奴らは、留置所の中にだって刺客を送る。警察に駆け込んだ瞬間、そこは貴女の墓場になりますよ」 「……っ、う……」 反論の言葉が、喉の奥で詰まる。昨夜の男たちの目。あれは、法や国家権力なんて塵ほども恐れていない、狂犬の目だった。知っているはずのルールが通用しない世界が、すぐ隣に口を開けて待っている。 「じゃあ……どうしろって言うのよ。私に、ヤクザになれって言うの?」 視界が滲む。悔しさと恐怖、そして自分の無力さが、心臓を締め付けた。 「簡単ですよ、お嬢」 千隼は私の耳元に唇を寄せ、毒を孕んだ甘い声で囁いた。 「久遠の三代目になりなさい。そして、俺に命令すればいい。……邪魔な奴らは、すべて噛み殺せと」 耳朶を撫でる熱い吐息。背筋を激しい電流が走り、同時に、下腹の奥がじわりと熱くなる。怖い。恐ろしい男だ。それなのに、彼に支配されているこの状況に、私の本能が抗いがたく反応してしまっている。 「嫌……そんなこと……」 「なら、消されますか?」 千隼はふいにと身体を離し、冷淡に言い放った。 「ここを出たいなら、止めません。どうぞ、その襖を開けて外へ出てください。ただし」 彼は懐から、私が見覚えのある安物の腕時計を投げ出した。昨夜の路地裏に落としたものだ。 「この屋敷の門を一歩出れば、五分で貴女は攫われる。東京湾の底に沈められるか、もっと酷い目に遭って海外に売り飛ばされるか。……賭けてみますか?」 五分。 あまりにも具体的な、死の宣告。私は腕時計を握りしめたまま、指一本動かせなかった。帰りたい。あのアパートへ。平和で、退屈で、安全だった場所へ。 けれど、もう戻れないのだ。昨夜、この男に拾われた瞬間に、私の平穏な世界は終わりを告げたのだ。 「……なんで」 私は唇を噛み締め、目の前の怪物を睨み上げた。 「なんで、あなたが構うの。私を消せば、若頭のあなたが組を乗っ取れるんでしょう?」 極道映画なら、それが定番の結末だ。千隼は私の問いに、一瞬だけきょとんとした顔を見せ――やがて、喉を鳴らして低く笑い出した。笑い声が、静かな和室に木霊する。 彼は笑い涙を指で拭うと、再び私を見下ろした。その瞳には、さっきまでの冷徹さとは違う、ドロドロとした熱く、昏い感情が渦巻いている。 「俺がトップ? 冗談じゃない」 彼はうっとりと、恋する少年のような眼差しで言った。 「俺はね、お嬢。王様になんてなりたくない。……俺は、王を護り、王の敵をすべて引き裂く、貴女だけの『犬』になりたいんですよ」千隼の顔が、ゆっくりと沈み込んでくる。 至近距離でぶつかる彼の吐息は、雨の匂いを消し去るほど熱く、濃密な雄の香りを孕んでいた。「どこへ行こうと、地獄の底だろうと、追いかける。俺の飼い主が地獄の火に焼かれるなら、俺はその火をすべて飲み込んで、アンタを涼しい場所へ連れ帰る」 彼の瞳が、狂気的なまでの独占欲を剥き出しにして私を射抜く。 私は、彼の腫れ上がった頬の傷に指先を滑らせ、不敵に微笑んでみせた。「知っているわ。……でも、もう逃げない。私も、あなたを逃がさない」 かつては、千隼の執着は、私を逃がさないためだけにあった。 けれど今、この瞬間にその意味は反転した。 私が彼を、この不条理な世界へ繋ぎ止める。 彼が自らを「盾」として使い捨て、孤独な死へ逃げ込もうとするのを、私が力ずくで引き戻したのだ。 死地へ逃げることも、誰かの身代わりに壊れることも、もう許さない。 一生かけて私の隣で、私のために血を流し、私のために生の喜びを謳歌し続ける。それが、私が彼に科した、最も甘くて過酷な刑罰だった。「……愛しています、俺の飼い主(ごしゅじんさま)」 千隼の唇が、私の唇を塞いだ。 地下の金庫室での人工呼吸のような焦燥ではない。 互いの傷の痛みを確かめ合い、その奥にある魂の境界線を溶かし合わせるような、深く、重い口付け。 彼の舌が口腔を蹂躙するたびに、鉄錆の味と、ベルガモットの香りが混ざり合い、脳の髄を痺れさせる。 呼吸が詰まり、頭の中が白く明滅し始める。 手すりの向こう側、東京の街並みは依然として冷ややかに瞬いているが、その無数の光も、今はこの腕の中にある熱に比べれば背景のノイズに過ぎなかった。「……ん……ふ……っ」 唇が離れた瞬間、千隼は私の首筋に顔を埋め、深く、深く息を吸い込んだ。 犬が飼い主の匂いを記憶の底に刻み込むような、熱心で深い吸気音。「アンタの体温が&hell
地上数十メートル、空へ向かって突き出したバルコニーを、夜の静寂が支配していた。 宝石箱をひっくり返したような、あるいは燃え尽きることのない火葬場の火が瞬いているような、東京の夜景。かつて分厚い前髪の隙間から、風景の一部として怯えながら眺めていた街の光は、今ではまだ終わらない夜の中で静かに瞬いている。 冷たい風が吹き抜け、重厚な黒留袖の袖を乱暴に揺らした。 腹部の縫合痕が、風の冷たさに反応してジンと疼く。内臓を直接冷やされるような鋭い痛みは、自分が今、確かにこの世界の土を踏んで生きているという何よりの証明だった。 痛みを逃がすようにゆっくりと息を吐き出すと、隣にある巨大な熱源が微かに動いたのがわかった。「……お嬢。風が、冷え始めています」 掠れた、それでいて深い粘着質を孕んだ低い声。 我妻千隼の大きな手が、私の肩にかけられたジャケット――先ほどまで彼が羽織っていた黒い羽織を、さらに強く引き寄せた。 生地越しに伝わってくるのは、火傷しそうなほどの彼の体温と、雨上がりの杉林の匂い、そして消えることのない微かな煙草の香り。 見上げると、その三白眼が、夜景の光を吸い込みながら真っ直ぐにこちらを見つめていた。その瞳の奥には、数時間前の血の惨劇も、不来方との決別も、すべてを過去の塵として踏み越えた者だけが持つ、凄絶なまでの安堵が揺れている。「……千隼」 私は手すりを掴んでいた指先を解き、彼の方へと向き直った。 千隼は、習慣のように、あるいは主に対する絶対的な儀式のように、その場に膝をつこうとする。大きな身体がゆっくりと沈み込み、大理石の床に膝頭が触れる、その寸前。 私は、彼の左腕の袖をぐいと掴み、強引にその動作を制止した。「あっ……」 千隼の喉から、間の抜けた音が漏れた。 驚きに見開かれた瞳が、私の顔を捉える。 私は掴んだ腕にさらに力を込め、彼を再び直立させた。「今日は、隣に立って」 短く、断定するような響き。 千隼の喉仏が、大きく上下に動いた。戸惑いと
夜風が、二人の正装を乱暴に揺らした。 祝宴の喧騒は、もうほとんど聞こえない。 あるのは、重なり合う二人の鼓動の音だけ。 どれほどの時間が経っただろうか。 私は千隼の腕の中で、わずかに身じろぎをした。 名残惜しそうに腕を解く彼を見つめ、私はゆっくりと立ち上がった。 身体に残る重厚な着物の重みが、今度は「誇り」として感じられる。「……千隼。そろそろ行きましょう。祝宴はもう十分よ。二人だけで、ケジメをつけなきゃ」「どこへ?」 千隼が顔を上げると、私は彼に右手を差し出した。 彼は戸惑いながらも、その大きな掌を私の手に重ねる。「夜景の見える、バルコニーへ。……そこで、最後にあなたに命令があるの。……三代目としてではなく、久遠咲良としての、本当の命令がね」 私の瞳の奥で、決意の炎がチロチロと揺れているのを、彼は感じ取っただろうか。 千隼は、その白い指先を迷わず掴み、立ち上がった。 夜の帳が、さらに深く降りてくる。 街の灯りは遠く、星さえも見えない暗闇。 けれど、繋いだ手のひらから伝わってくる、この火傷しそうなほどの熱だけが、私にとって何よりも確かな道標となっていた。 二つの影は、一つの塊となって、静まり返った屋敷の奥へと消えていく。 その歩みには、もう迷いも、死への執着も、一欠片も残されていなかった。 ◇ 最上階へと続く階段を上るたび、古い建物の構造が軋むような、微かな音を立てる。 私の草履が板間を叩く、トントンという小気味よいリズム。 千隼は、私の半歩後ろ、影のように、けれど確実にそこに存在してついてくる。 バルコニーへと続く大きな窓が開け放たれていた。 白いレースのカーテンが夜風に膨らみ、幽霊のように舞っている。 私は迷うことなく、外へと踏み出した。 頬を打つ風が、白粉の匂いをさらっていく。 千隼もその後に続き、手すりに手をかけた。 眼下には、宝
私は、千隼の指の間に自分の指を滑り込ませた。 絡み合う指先。逃げ場のない繋ぎ方。 彼は驚いたように目を見開いたけれど、その手は微かに震えながらも、私を離すまいと握り返してきた。「敵を殺すことよりも、ずっと難しいお仕事よ。……飽きたからって、勝手にどこかへ行ったりしないで。死ぬことで逃げるのも禁止。……一生かけて、私の隣で生き続けなさい。これが、三代目としての私の決定よ」 千隼の喉が、ヒュッと鳴った。 私の言葉は、彼から「暴力」という唯一のアイデンティティを奪い、代わりに「生」という最も過酷な義務を課したものだった。 盾として死ぬよりも、伴侶として生き続けることの方が、彼には荷が重い。 けれど、その重みこそが。 空っぽだった彼の内側を、温かい泥のように、ゆっくりと満たしていくのがわかった。「……死ぬための犬ではないなら、俺は、何のために帰ってくればいい」「決まっているでしょう」 私は、絡めた手にぐっと力を込めた。 彼の手のひらにある硬い胼胝の感触が、愛おしくてたまらなかった。「私のところに決まっているわ。……ここは、あなたの帰る場所なのよ。千隼。あなたの魂に繋がれた鎖の先は、いつだって私の手の中にあるんだから」 千隼の視界が、急激に熱を帯びて歪むのがわかった。 砂利の上に、ポツリ、ポツリと黒い染みが広がる。 人を殺す時にすら眉一つ動かさなかった男が、泣き方すら忘れていたはずの身体から、堪えきれない嗚咽を漏らした。「……あ、……ぁ……」 声を出すこともできず、千隼は私の肩に額を押し当てた。 重厚な正絹の刺繍が、彼の頬にある新しい傷をチクチクと刺激する。 私は何も言わず、空いた右手で、彼の硬い黒髪をゆっくりと撫でた。 大きな身体が小刻みに震える。その振動が私の胸に直接響き、腹部の傷が再び疼いたけれど、不思議と痛みは心地よかっ
密着した太ももから、正絹の重厚な冷たさと、彼の身体が放つ尋常ではない熱が伝わってくる。 至近距離で見る彼の瞳は、かつてないほど揺れていた。「風が、気持ちいいわね」 私は結い上げた髪を解きたい衝動を抑えながら、白い首筋を夜気に晒した。 千隼は無防備な私の輪郭を、まるで貴重な宝石でも眺めるように、あるいは触れてはいけない壊れ物を見るように見つめ、すぐに視線を池の面へと戻した。「……お嬢」「なあに?」「俺は……」 言葉が、彼の喉の奥でつっかえているのがわかった。 彼は膝の上で、無傷の左手を固く握りしめている。 平和。 スラムのドブ泥にまみれていた幼少期から、一度として望んだことのない未知の概念。暴力という武器を奪われ、戦いのない世界に放り出された時、彼という肉の塊はどこに居場所を求めればいいのか、わからなくなっているのだ。「俺はまだ、貴女の犬でいていいんですか」 低く、ひび割れた声。 私は彼の方を見ず、ただ水面に映る月を見つめていた。 千隼の声は、夜風に乗って私の心臓をチリチリと焼いた。「不来方は死に、黒鉄との争いも終わった。アンタは、立派な王になった。……もう、俺のような暴力しか能のない獣は、アンタの視界を汚すだけではないのかと……」 心臓が、肋骨の裏側で嫌なリズムを刻んでいるのが隣にいる私にまで伝わってくるようだった。 盾として使い潰されることが、彼にとって唯一の「愛」の形だった。それを失った今、彼は自分が捨てられる恐怖に震えている。 スラムで親に置き去りにされたあの夜よりも、ずっと冷たくて鋭い孤独に怯えている。 長い、長い沈黙が流れた。 遠くで、男たちの勝ち鬨が一度上がり、また静寂が戻る。 私はふっと、鼻の奥で小さく笑った。「……本当に、救いようのない馬鹿犬ね」「……お嬢?」「犬でいていいかなんて、
大広間から漏れ聞こえる喧騒を背に、私は夜の静寂へと踏み出した。 数分前まで繰り広げられていた、新秩序の宣言。久遠組の新たな幕開けを祝う男たちの野太い笑い声と、三味線の甲高い音色は、厚い石壁を隔てると遠い波音のように重たく空気に溶けていく。 一歩進むごとに、重厚な黒留袖の裾が砂利を深く沈ませ、腹部の縫合痕がジンと疼いた。不来方から受けた銃弾の傷は、まだ完全には癒えていない。歩くたびに内側から肉を冷やされるような鋭い痛みが走るけれど、その痛みこそが、私たちがこの凄絶な盤面を生き抜いたという何よりの証明だった。 夜の庭は、ひんやりとした静寂に支配されている。 雨上がりの名残である湿った土の匂い。生い茂る杉の葉の、鼻を突くような鋭い香り。 私は、ベルガモットの香水と白粉の匂いが纏わりつく自分の身体を、夜気に晒して深く息を吐いた。 池のほとりに、一際巨大な黒い影を見つけた。 月明かりの下、石灯籠の青白い光に照らされて、彼は縁石に腰を下ろしていた。 我妻千隼。 漆黒の羽織に身を包んだその背中は、普段の威圧感とは裏腹に、どこか頼りなげで、今にも夜の闇に吸い込まれてしまいそうな危うさを孕んでいた。右肩の包帯が羽織をわずかに押し上げているのが見える。彼は自分の身体を労わることも忘れたように、ゆっくりと、深く重い呼吸を繰り返していた。 私は音を立てないように近づき、その横顔を盗み見た。 膝の上に置かれた彼の手を見つめる。節くれ立ち、無数の傷跡と喧嘩ダコが刻み込まれた、暴力の結晶のような掌。 これまで、この手でどれだけの障害を排除し、どれだけの喉笛を締め上げてきたのだろうか。不来方の妄執を粉砕し、観音の論理を跳ね除け、私をこの玉座へと押し上げた最強の番犬。 役目は、終わったのだ。 久遠組は「恐怖」ではなく「責任」によって再編され、血の雨が降る抗争の時代は、私が先ほど発した宣言と共に幕を閉じた。 もう、彼が盾となって弾丸を受ける必要はない。牙を剥いて誰かを噛み殺す必要もない。 けれど、自由を与えられたはずの彼は、まるで出口のない檻に閉じ込められたままのように、途方に暮れていた。「&