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極道若頭は、愛しき飼い主を逃さない 〜狂犬と呼ばれた彼が、私にだけ従順な理由〜
極道若頭は、愛しき飼い主を逃さない 〜狂犬と呼ばれた彼が、私にだけ従順な理由〜
Author: 花柳響

第1話:朱に染まる出逢い①

Author: 花柳響
last update Last Updated: 2026-01-27 14:02:26

 人生とは、不完全情報ゲームである。

 経済学部の教授は、乾いたチョークの粉が舞う講壇でそう言いきった。

 互いの手札が見えないテーブルで、プレイヤーはいかにして利得を最大化するか。あるいは――いかにして「損失」を最小限に食い止めるか。

 私の生存戦略は、徹底して後者だった。

 勝ちたいわけじゃない。目立ちたくもない。

 ただ、負けないように。誰の記憶にも爪痕を残さず、路傍の石ころのように、あるいは風景の一部として息をする。それが、親戚の家をたらい回しにされ、どこへ行っても「余り物」として扱われて育った私が導き出した、たったひとつの正解だったからだ。

 けれど、机上の空論と現実は違う。

 ゲームの盤面なんてものは、いつだって理不尽な暴力によって、いともたやすくひっくり返される。

 ――今の、私のように。

 ◇

 一月の冷たい雨が、アスファルトを黒く塗りつぶしていた。

 大学からの帰り道、私はいつものように商店街のアーケードを抜け、家賃三万円のアパートへ続く裏路地へと足を踏み入れた。時刻は午後九時を回ったところだ。

 背筋がざわりとしたのは、路地に入ってすぐのことだった。

 足音がする。

 ……三人。いや、四人か。

 傘を叩く雨音に紛れているけれど、聞き間違いじゃない。革靴が水を踏む、重たく湿った音が、私の歩調に合わせてぴたりと背後をついてくる。

 胃のあたりが、ぎゅっと縮みあがるような感覚。

 私はコートのポケットの中で防犯ブザーを強く握りしめ、歩く速度を上げた。あと五十メートルで大通りに出る。そこのコンビニまで走れば――。

「おい、待ちえや」

 喉に絡みつくような低い声とともに、行く手を塞がれた。

 いつの間にか回り込んでいた男が二人。

 振り返れば、退路を断つように背後にも二人。

 完全に、囲まれている。

「……何ですか」

 声が裏返らないよう、下腹に力を込める。

 彼らは明らかに堅気ではなかった。雨に濡れてよれた安物のスーツに、鼻をつく甘ったるい香水と、繊維に染みついた古いタバコの臭い。そして何より、私を見る目が、とろりと白濁して濁っている。

「小鳥遊 咲良(たかなし さくら)ちゃんだな?」

 心臓が早鐘を打った。

 ただの通り魔や強盗じゃない。彼らは「私」という個人の顔と名前を特定して狙っている。

「人違いです」

「ハッ、とぼけんなよ。写真と一緒だ」

 前方の男が一歩、水たまりをバシャリと踏んで距離を詰めてくる。街灯の薄明かりに照らされたその顔には、品定めをするような粘着質な笑みが張り付いていた。

 男の手には、黒い塊が握られている。バチバチ、と青白い火花が雨の中で散った。スタンガンだ。

「大人しく来てもらうぜ。お前みたいな貧乏学生でも、『血』には価値があるんだとな」

「血……?」

「すっとぼけんな、『久遠(くおん)』の隠し種が」

 ――クオン?

 聞き覚えのない単語に、思考が一瞬、白く弾ける。

 けれど、男たちは私の混乱など待ってはくれない。

 逃げ場はない。講義で学んだ論理(ロジック)も、交渉術も通じない。私の人生で積み上げてきた「目立たず生きる」というささやかな防御策が、圧倒的な暴力を前にしては紙切れ一枚の役にも立たないのだと、現実に突きつけられる。

「ギャアギャア騒がれると面倒だ。ここで眠ってもらう」

 男がぬっと腕を伸ばしてくる。

 タバコのヤニで茶色く汚れた爪が、私の肩を掴もうとした瞬間。

「嫌ッ……!」

 私は反射的に男の手を振り払おうとした。

 だが、所詮は女の力だ。逆に手首を万力のように強く掴まれ、強引にねじ上げられる。

「痛っ!」

「活きがいいなァ、おい! そういう女、嫌いじゃねえぞ」

 骨がきしむ痛みに、視界が涙で滲む。

 酸素がうまく吸えない。雨の冷たさと恐怖で、歯の根が合わない。

 誰か、助けて。

 いや、誰も来ない。母さんが死んでから、誰も私なんて助けてくれなかったじゃないか。

(考えるのよ、咲良。泣いても状況は変わらない)

 必死に自分に言い聞かせるけれど、膝が笑って力が入らない。

 男の生温かい、腐ったような吐息が顔にかかる距離まで迫る。

 目の前が真っ暗になるような絶望が、私を頭から飲み込もうとした。

 その時だ。

 ヒュッ、と空気が鋭く裂ける音がした。

「――あ?」

 私の手首を掴んでいた男が、間の抜けた声を上げる。

 次の瞬間。

 ゴヂュッ。

 水を含んだ雑巾を固く絞るような、あるいは生木を無理やりへし折るような、嫌な音が路地裏に響き渡った。

「ぎ、……アッ?」

 男の腕が、ありえない方向に曲がっていた。

 肘から先が、まるで操り人形の糸が切れたようにだらりとぶら下がっている。

「ガ、アアアアアアアアアッ!?」

 遅れて脳に届いた激痛に、男が喉を裂くような悲鳴を上げてのけぞった。

 拘束が解け、私は濡れた地面に尻餅をつく。冷たい泥水がスカートに染み込んでくる。

 何が起きたのか理解できず、呆然と顔を上げると――そこに、男が立っていた。

 激しく降りしきる雨の中、傘もささずに佇む、喪服のような黒いスーツの男。

 街灯の逆光で表情は見えない。

 けれど、その立ち姿から放たれる肌を刺すような圧迫感が、一月の雨の冷たささえ忘れさせた。

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