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極道若頭は、愛しき飼い主を逃さない 〜狂犬と呼ばれた彼が、私にだけ従順な理由〜
極道若頭は、愛しき飼い主を逃さない 〜狂犬と呼ばれた彼が、私にだけ従順な理由〜
Author: 花柳響

第1話:朱に染まる出逢い①

Author: 花柳響
last update publish date: 2026-01-27 14:02:26

「──……いい子ね、千隼」

 執務室の重厚な革張りソファ。その深く沈み込むような感触に体重を預け、目の前で恭しく跪く男の、硬い黒髪にゆっくりと指を通した。

 指先に絡みつく毛先からは、微かに雨の湿り気と、鉄錆によく似た血の匂いが立ち上ってくる。足元に伏せているのは、関東一円の裏社会を震え上がらせる『久遠の魔狼』こと、我妻千隼だ。

 返り血を浴びてまだ熱を失っていない頬を、すりすりと、膝へうっとり擦り寄せてくる。

 ストッキング越しに伝わる硬い頬骨の感触。そして、じわりと肌を焼くような、尋常ではない体温。まるで、血の滴る獲物を持ち帰り、主の撫でる手を待つ忠実な大型犬そのものだった。

「すべて掃除してきましたよ、お嬢。……貴女の視界を汚すゴミは、これでもう一匹もいない」

 細められた三白眼が、下から射抜くように真っ直ぐに見上げてくる。

 光を一切反射しない、底の抜けたような漆黒の双眸。そこには、どろりとした狂気的な熱と、太い鎖で何重に繋ぎ止めてもなお溢れ出すような、息苦しいほどの執着がこびりついていた。

 千隼は顔を寄せると、足首にそっと、吸い付くような重い唇を落とした。

 ちゅ、という微かな水音が、静まり返った室内で不気味なほど鮮明に響く。皮膚の表面をちりちりとした痺れが駆け上がり、思わずつま先を丸めた。

 無造作に寛げられたシャツの襟元から、決して背を見せない覚悟を刻んだ『百足と彼岸花』の赤と黒の刺青が、荒い呼吸に合わせて妖しく蠢いている。

 誰が想像できただろうか。

 かつて、分厚い前髪で顔を隠し、息を潜めて生きていた平凡な大学生、小鳥遊咲良が――この獰猛な狂犬の首輪を握り、夜の東京を支配する存在へと変貌を遂げるなんて。

「愛しています、俺の飼い主(ごしゅじんさま)。……どうか一生、俺の鎖を離さないでください」

 腹の底を直接揺さぶるような、低く、ねっとりとした声。

 これは、理不尽な運命に巻き込まれた女が、最強の番犬と共に世界を喰らい尽くす、反逆と愛の物語だ。

 ◇

「――人生とは、不完全情報ゲームである」

 乾いたチョークの粉が舞い、黒板を叩く無機質な音が講義室に響く。

 一月の冷え込んだ空気。暖房の効きが悪い教室の隅で、安物のコートの襟を立て、小さく身を縮めていた。

 老教授の声が、遠くの波音のように鼓膜を滑っていく。

「互いの手札が見えないテーブルの上で、いかにして損失を最小限に食い止めるか。……それが、持たざる者が生き残る唯一の術だ」

 その言葉は、処世術そのものだった。

 親戚の家をたらい回しにされ、どこへ行っても「余り物」として疎まれて育った日々。生き延びるために導き出した答えは、誰の記憶にも残らない「風景の一部」になること。

 だから、分厚い前髪を長く伸ばして顔を隠す。気味が悪いと罵られてきた、この紫がかった黒い瞳――アメジストのような色を帯びた異質な目を、誰にも見せないように。

 だが、必死に守ってきた平坦な日常に、避けがたい運命の引力が働き始めたのはその時だった。

 前の席に座る学生がこっそり眺めていた、スマートフォンの画面。

『……新宿の路上で起きた発砲事件。現場から逃走していた指定暴力団・久遠組の幹部、我妻千隼(あがつま ちはや)容疑者が先ほど身柄を確保されました――』

 無機質なアナウンサーの声が、ノイズ混じりのスピーカーから漏れ聞こえる。

 小さな画面の中、雨が打ちつける新宿の路上。パトカーの赤い回転灯が乱反射する中、警官たちに取り囲まれながら後部座席へ押し込まれようとしている一人の男が映し出された。

 手錠をかけられ、乱暴に頭を押さえつけられているというのに、その歩みには一切の怯えがない。それどころか、引きちぎられたシャツの襟元から覗く、血のように赤い彼岸花と悍ましい百足の刺青が、濡れた肌の上で妖しく蠢いているように見えた。

 ふと、男が顔を上げた。

 黒く長い前髪の隙間から、カメラのレンズを、いや、その向こう側にいる『こちら』を真っ直ぐに射抜く視線。

 黒目の下方に異常なほど白地が目立つ、鋭角的な三白眼。

 画面越しだというのに、獲物を値踏みするような漆黒の瞳と完全に視線が絡み合った錯覚に陥り、心臓がドクンと嫌な音を立てた。

 執着、そして圧倒的な熱。

 指先の血液が一瞬にして凍りつき、シャーペンを握る手に力が入らなくなる。

 我妻、千隼。

 テロップに表示されたその名前と、氷のように冷たい世界に暴力的なまでの色彩を叩きつけてきた三白眼が、鼓膜と網膜の奥にこびりついて離れない。

 不快だ。関わりたくない。あんな世界の住人、一生縁がないはずだ。

 そう強く言い聞かせ、ノートに無意味な幾何学模様を書き殴る。前髪をさらに深く下ろし、紫の瞳を世界から遮断する。

 だが、胸の奥に澱のように溜まった衝撃は、消えてはくれなかった。積み上げた理屈なんて、一瞬の嵐でひっくり返る。

 その時の私はまだ、それを認めようとはしていなかった。

 ◇

 大学の講義を終え、図書室で時間を潰してから外へ出ると、一月の冷たい雨が、アスファルトをどろどろとした黒に塗りつぶしていた。

 いつものように寂れた商店街のアーケードを通り抜け、裏路地へと足を踏み入れる。家賃三万円の湿気たアパートへ続く、最短ルートだ。

 ジジッ、ジジッ……と。

 寿命が尽きかけた街灯が、点滅しながら頼りなく足元を照らしている。

 背筋がざわりとしたのは、路地に入ってすぐのことだった。

 背後で、重たく湿った革靴が水を弾く音がする。三人、いや、四人。

 歩調を合わせるように、ぴたりと背後をついてくる粘着質な気配。

 胃の奥がぎゅっと縮みあがる。コートのポケットの中で防犯ブザーを握りしめ、早足になった。

 あと少し。大通りのコンビニの明かりが見えれば、そこは安全圏。

「おい。小鳥遊咲良だな?」

 不意に、喉に泥が絡みつくような低い声に道を塞がれた。

 心臓が冷水を浴びたように跳ね上がる。前方に二人、そしていつの間にか背後にも二人。よれたスーツから漂う、鼻を突く安物の甘ったるい香水と、雨に濡れたタバコのヤニの匂い。

「人違いです」

「ハッ、とぼけんな。写真と瓜二つじゃねぇか。その気味の悪い紫の目……『久遠』の血を引いてる証拠だろうが」

 前髪の隙間から覗くアメジストの色を指摘され、呼吸が浅くなる。

 男の一人が、泥水をバシャリと踏みにじって距離を詰める。その右手には、青白い火花を散らすスタンガンが握られていた。

「大人しく来い。お前みたいな貧乏学生でも、その血には億の価値があるんだよ」

 これ以上の対話は無意味だ。逃げ場を塞がれ、胃の奥がギリギリと軋む。

 男がぬっと汚れた腕を伸ばし、肩を掴もうとした。

「触らないで……!」

 反射的にその手を振り払おうとした。爪を立て、腕を思い切り引っ掻く。

「っの、アマが!」

 逆上した男が、手首を強引に掴み、背中へとねじ上げた。

「い、痛っ……!」

「活きがいいじゃねぇか。そういうのは、ベッドの上だけで十分なんだよ!」

 生温かい吐息が顔にかかり、強烈な吐き気が込み上げる。腕が軋むたびに、視界が涙で白く滲んでいく。

 誰も来るはずがない。泣いても状況は変わらない。考えるのよ、咲良。

 けれど、膝が笑って力が入らない。意識が恐怖に飲み込まれそうになった、その時だった。

 ヒュッ、と空気が鋭く裂ける音が響いた。

「――あ?」

 手首を掴んでいた男が、間の抜けた声を漏らす。

 次の瞬間。

 ゴヂュッ。

 水を含んだ雑巾を力任せに絞り上げたような、あるいは生木を無理やりへし折るような、おぞましい破壊音が路地裏に鳴り渡った。

「ぎ、……あ?」

 男の腕が、物理的にありえない方向に折れ曲がっていた。肘から先が、糸の切れた操り人形のようにぶらりと垂れ下がっている。

「ガ、アアアアアアアアアッ! ?」

 遅れて脳に届いた激痛に、男が喉を裂くような悲鳴を上げて転げ回る。

 拘束が解け、濡れたアスファルトにへたり込んだ。冷たい泥水がスカートを汚していくが、そんなことはもうどうでもよかった。

 呆然と顔を上げると、激しく降りしきる雨の中、街灯の逆光を背に受けて立つ一つの影があった。

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