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第2話

作者: クカ

誰にも、私の声は届かない。

蒼介は紗耶を一瞥しただけで、すぐに視線を逸らした。

「俺は結婚している。わかってるよな、紗耶」

紗耶の目はたちまち赤くなり、涙が今にもこぼれ落ちそうに揺れた。

この泣き方。

さすが、ヒット作を何本も当てた女優だ。

「蒼介さん、まだ私のことを責めてるの?

あのときは、どうしようもなかったの。川原監督についていかなければ、私たちは業界から干されてしまう……

あそこで立ち止まるわけにはいかなかったの……」

そう言い終えるか終えないかのうちに、彼女の目からとうとう涙がこぼれ落ちた。

うつむいた姿は、まるですべてを諦めてしまったかのようだった。

「私のこと、汚いって思ってるよね?私だって、そう思ってるわ……」

それをそばで聞いていた私は、ようやく腑に落ちた。

この人気カップルが別れた理由は、ずっと謎のままだった。

知っているのは、二人の三度目の共演が、業界きっての大物監督・川原彰(かわはら あきら)の作品だったということだけだ。

それまでずっと恋人役を演じてきた二人だったが、その映画では蒼介が男二番手、紗耶がヒロインになった。

映画の撮影が終わると同時に、二人は別々の道を歩むようになった。

今の紗耶の言い方だと、当時、彼女は監督に強いられたということになるのだろうか。

蒼介の目にも、同じように複雑な色が浮かんでいた。

芸能界に長くいれば、みんなキレイごとだけじゃないってわかる。

脅されたのか、取引だったのか、真相なんて、本人にしかわからない。

紗耶をじっと数秒見つめていた蒼介は、ドアを勢いよく開けた。

落ち着いた口調に、どこか諦めもついていた。

「入れ。雨が止んだら帰ってくれ」

紗耶はソファに腰を下ろした。

そして彼はベッドにもたれ、何気なく本をめくっていた。

ようやく、雨が上がった。

「……じゃ、おやすみなさい、蒼介さん」

挨拶も忘れずに、紗耶は素直に部屋を出て行った。

ただ私には見逃せなかった。

彼女が部屋を去る瞬間に見せた、あの何かを確信したような笑みを。

その後の二日間も、紗耶は同じ口実で家に居座った。

けれど、蒼介の様子は私が思っていたほど上機嫌ではなかった。

暇さえあれば、スマホを手に取り、何度も見返していた。

おかしいわ。

彼と紗耶の間に、どうして何も起きないのだろう。

私がいない今、二人にとってはまさに絶好のチャンスのはずなのに。

……

その日、蒼介のスマホが鳴った。

表示された番号を見て、私のマネージャーからだとすぐわかった。

電話に出ると、すぐに媚びた声が聞こえてきた。

私に対する態度とは大違いだ。

「最近、花音さんの姿を見かけませんでしたか?実は彼女に振りたい仕事があるんですが、ずっと電話が繋がらなくて」

蒼介の瞳が微かに揺れ、低い声で問い返した。

「あいつから連絡はないのか?何日目だ?」

「ないんですよ。最近はスケジュールも空いていたので、この二日間何度かかけてみたんですが、ずっと電源が切れていて」

それを聞いた蒼介の顔に、複雑な色がよぎった。

そばで見ていた私は、そこに一瞬の「焦り」を読み取った気がした。

……きっと気のせいだ。

電話を切ると、彼は指の関節でトントンと軽く膝を叩き始めた。少し焦っているときの癖だ。

しばらくして、今度はアシスタントに電話をかけた。

「花音はここ数日どこにいたか、当たってみて」

蒼介は疲れたように眉間を押さえた。

でも、私はもう、彼の考えていることが分からない。いや、もう理解したいとも思わなかった。

だから私は二階へと漂っていった。

そこでは、紗耶が光の部屋の片付けをしているところだった。

私が心を込めて整えた子ども部屋を見て、しばらくぼんやりした。

三日も帰っていないのに、光は一度だって「ママはどこ?」と聞かなかった。

毎日ニコニコと甘い笑顔を浮かべて、紗耶の後ろをついて回っていた。

この子は、私が身を削って産んだ子なのに。

この子を産むとき、私は大出血した。

当時、蒼介は撮影中で連絡がつかず、手術の同意書にサインする人は誰もいなかった。

最後は産婦人科の先生が決断し、すぐに緊急手術。

私も、子どもも……ようやく助かった。

四、五歳までは、光もこんなふうに甘い声で私を「ママ」と呼んでくれていた。

でも、蒼介に連れられて、紗耶のいる撮影現場でちょっとした役をやってから、だんだん、あの子は私が近づくのを嫌がるようになった。

どうしていいか分からず、私はただ必死にご機嫌を取り、もう一度光との距離を縮めようとした。

けれど、ほとんど意味はなかった。

そんな昔のことを思い出していると、突然、陶器がガシャンと割れる鋭い音が響いた。

棚の上に置いてあった三つの陶器の人形が、無残な破片になって床に散らばっていた。

私は反射的にしゃがんで、拾おうとした。

でも、指がすり抜けた。

そうだ、透明な私はもう、触れない。

ああ……

私はもう死んでいる。

紗耶の方を見上げると、無表情な顔には、僅かに気づきにくい得意げな色が浮かんでいた。

その時、光がおもちゃを手にして小走りで部屋に入ってきた。

床に散らばる陶器の破片を見て、不満そうに小さな口を尖らせた。

そのすぐ後ろから蒼介も駆けつけ、この惨状を見るなりスッと顔を曇らせた。

紗耶は瞬時に怯えたような、パニックになったような顔を作り、何度も頭を下げた。

「ごめんなさい! 棚にホコリが溜まっていて……

花音さんが最近掃除してないみたいだったから、拭いておこうと思ったら、手が滑ってしまって……」

私は怒りに襲われ、全身がワナワナと震えた。

あの三つの陶器人形は、光の五歳の誕生日に、珍しく家族三人で出かけた陶芸教室で手作りしたものだ。

結婚して以来、数少ない、本当に数少ない温かい思い出の品だったのに。

蒼介の目の前に飛び出し、彼を真っ直ぐに睨みつけながら、震える声で叫んだ。

「この女はわざとやったのよ!」

なのに私の声は届かない。

蒼介は床の破片を静かに二秒ほど見つめ下ろした。

おそらく、私の可愛げのなさを思い出したのだろう。

彼は冷たく言い放った。

「割れたものは仕方ない。謝る必要はない」

そう言い残し、背を向けて出て行く。

光はまだ部屋の入り口に立ち尽くし、泣きそうな顔をしていた。

「さやさん……それ、パパとママと僕で一緒に作ったやつなのに」

紗耶は慌てて歩み寄り、光を抱き上げると、甘い声でなだめた。

「光くん、泣かないで。今度、もっといいのを一緒に作ってあげるから、ね?」

光は大人しく彼女の腕の中に収まっていたが、ふと何かを思い出したように小さな顔を上げた。

「僕、もうずっとママに会ってないや」

光の背中をポンポンと叩いていた紗耶の手が、ピタリと止まった。

彼女は微笑みを絞り出した。

「ママはお仕事中なのよ。前に見た映画、覚えてる?あれは全部、ママが撮ったお仕事なの」

光は鼻をすすり、乱暴に涙を拭った。

「ママが、他のおじさんとベッドの上で喧嘩してる映画のこと?」

私は雷に打たれたように硬直した。

信じられなく、光を見つめていた。

紗耶は相変わらず笑みながら、頷いてみせた。

「そうよ、光くんは賢いわね」

光はフンッと鼻を鳴らした。

「じゃあ、ママなんかいらない。みんな、ママは恥知らずだって言ってるもん。

僕、さやさんにママになってほしい」

胸を大きく貫かれたような痛みを覚え、怒りが少しずつ込み上げてきた。

怒りが、血の代わりに全身を巡り始める。

私は両手を振り回し、何度も紗耶の身体をすり抜けさせながら、半ばヒステリックに叫んだ。

「どうして!どうして光にそんなものを見せたの!?まだ子どもなのに!」

でも、どれほど怒りをぶちまけても、誰の耳にも届かない。

無音の虚しさの中で、怒りの炎は少しずつ消え失せていった。

最後には、ただ心が完全に死に絶え、私は丸くうずくまった。

過去の無数の惨めな記憶が、波のように押し寄せて来た。

疲れた……痛い……

どうして、死んで魂になった後まで、こんなことを受けなければならないの?

……

夜がすっかり更けてから、私はようやく光の部屋からフラフラと抜け出した。

するとちょうど、薄着のネグリジェを着ている紗耶が、蒼介のドアをノックする場面に出くわした。

今回、回りくどいマネはしなかった。

彼女はドアが開くや否や、まっすぐに蒼介の胸に飛び込んだのだ。

蒼介も予想外だったのか一歩後ずさり、両手は行き場を失ったように宙に浮いていた。

紗耶の瞳が、涙で潤んでいる。

「蒼介さん……本当はまだ、愛してくれているんでしょう?」

彼女の肩を押して引き剥がす蒼介は、冷たい声で断った。

「言ったはずだ、俺は結婚していると!」

それでも紗耶はますます強くしがみつき、必死に訴えかけた。

「彼女を愛していないことくらい分かってる!

あの時、彼女が蒼介さんを罠にはめて妊娠さえしなければ、あんな女と結婚なんてしなかったはずよ!」

その言葉を聞いた瞬間、彼女を突き放そうとしていた蒼介の腕が止まった。

表情に、迷いと恍惚が走っていた。

彼がたじろいだのを見逃さず、紗耶はさらに泣き縋った。

「どうして私たち、もう一度やり直せないの? 彼女は……このまま帰ってこないかもしれないじゃない?」

私はこの滑稽な茶番を静かに見つめていた。

もはや胸が痛むことすら忘れてしまったかのように。

蒼介にとって、私の存在は所詮、手段の汚い女でしかない。

この数年間、どれだけ良き妻、良き母になろうと尽くしてきたとしても。

結局、死ぬその瞬間まで、夫の心も息子の心も、他の女のところにあったのだ。

その息詰まるような空気は、突然鳴り響いた着信音によって破られた。

蒼介はハッと我に返ったように、今度こそ強い力で紗耶を突き飛ばした。

ポケットから取り出したスマホには、見知らぬ番号が表示されている。

ひどく動揺していたせいか、ふいにスピーカーボタンを押してしまった。

静まり返った夜の部屋に、知らない男の声が唐突に響き渡る。

「もしもし、早乙女花音さんのご主人、深津蒼介さんでしょうか?」

私はピンときた。

でも、最初に湧き上がった感情は驚きではなく「解放感」だった。

ああ、ようやく私の死体が見つかったのね。

今じゃどういう見た目なのかな。

骨すら残ってなかったら……それはさすがに、惨めすぎる。

蒼介は深く息を吸い込みながら、その声には抑えきれない怒りが滲んでいた。

「あいつはどこだ!?彼女に電話を代われ!」

電話の男は彼の怒鳴り声を気にせず、淡々と用件を告げた。

「こちらは市警察です。今朝、早乙女さんの遺体を発見しました。

お手数ですが、身元確認のために警察署までお越しいただけますか」
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