FAZER LOGIN「奥様、この前ご覧になっていたピンクのバーキンが入荷いたしました。ご主人様からご指定いただいていたお色ですので、いつでもお受け取りいただけますよ」 エルメスの担当者から弾んだ声でそう告げられた瞬間、私はソファに座ったまま、手にしていたリモコンを思わず強く握りしめた。 ピンク? そんなはずはない。私が欲しいと何度も口にしていたのは、ショーウィンドウの中でひときわ目を引いていた、あの鮮やかなオレンジレッドだった。 半月ものあいだ、何度も彼に話していたのに。 「……本当に、ピンクなんですか?」 喉がかすかに詰まりながら問い返すと、担当者は不思議そうでもなく、はっきりと言った。 「はい。ご主人様が、いちばん柔らかな桜色のピンクをご希望だと、念を押されていました」 電話を切ったあと、私は夫に確認しようと立ち上がった。 けれどその拍子に、書斎の机の下に置かれたままの未開封の荷物につまずく。 見覚えのあるロゴ。 それは、彼がこれまで何度も私に贈ってくれた高級ランジェリーブランドの箱だった。 なぜか胸騒ぎがして、私はその箱を拾い上げる。 リボンをほどき、包みを開くと、中から現れたのは黒いレースのブラジャー。タグはまだついたままだった。 何気なく、サイズ表記に目を落とした瞬間―― 全身の血の気が一気に引いた。 B75。 私はこの十年間ずっと、C70だというのに。
Ver mais私は目を鋭く細めた。美海の爪が届くより早く、咄嗟に手を上げ、その手首を強く掴む。容赦なんてしなかった。あまりの痛みに、美海が「痛っ……!」と悲鳴を上げる。「やり合うつもり?」私は彼女の顔を覗き込んだ。痛みと怒りで歪んだその顔をまっすぐ見つめ、声だけを低く落とす。ひとことひとこと、鋭い刃みたいに突き刺すように。「あなたに、その資格があると思ってるの?今は辰也ですら、私の顔色をうかがっているのよ。あなたみたいな女が、何を勘違いしてるの?」美海は唇をきつく噛みしめたまま、何も言い返せなかった。さっきまでの勢いが嘘みたいに萎んでいく。私はそれ以上何も言わず、ただ嫌悪を隠しもせずに、その手を振り払った。そのときだった。二台のパトカーが、音もなく門の前に止まった。制服姿の警察官たちが数人、まっすぐこちらへ歩いてくる。先頭の男は鋭い目で、その場に立ち尽くしていた美海を捉えた。「相沢美海さんですね」低く厳しい声だった。美海は一瞬で顔色を失った。泣くことすら忘れたように、唇を震わせる。「刑事犯罪捜査課です。あなたには、他者と共謀して学歴および職歴を偽装し、江口グループの職に就いた疑いがあります。さらに、その立場を利用して会社の資金を流用し、個人の借金返済に充てた疑いもあります。金額は少なくありません。これから署まで同行してもらいます」「ち、違う……!私、そんなことしてません!」美海は悲鳴のような声を上げた。そのまま這うように辰也のほうへ縋りつこうとする。「辰也、助けて!お願い!社長……山本さん……!私が悪かったです、もうしません……だから許してください……!」泣き叫びながら、みっともなく地面に手をつくその姿を、辰也はただ見下ろしていた。足元に崩れ落ちた美海。無表情の警察官たち。そして最後に、辰也の視線は私へ向く。私は何も言わず、その光景を見ていた。表情ひとつ変えずに。その瞬間だった。辰也の顔に残っていた最後の抵抗が、完全に消えた。残ったのは、果てのない疲労と、色を失った諦めだけ。すべてを受け入れるしかないと悟った人間の、乾いた虚無だった。彼はまるで一瞬で力を抜かれたみたいに、肩まで目に見えて落ちていた。辰也は、もう一度も美海を見なかった。代わりに、ゆっくりとポケットから折り
市場の反応は、何よりも早かった。江口グループの株価はまるで断頭台に乗せられたみたいに、連日、寄り付きからストップ安。画面いっぱいに並ぶ赤の数字が、見ているだけでぞっとするほどだった。株主たちは辰也と父親の携帯を鳴りやまないほど鳴らし続けた。問い詰める声、責め立てる声、不安に駆られた声。収拾のつかない混乱だった。ほんの数日で、江口家は火の車になった。あちこちにほころびが生まれ、今にも崩れ落ちそうだった。――山本家の後ろ盾を失った瞬間、江口家という船は、一気に沈みかけたのだ。五日目の夕方、インターホンが鳴った。モニターに映っていたのは辰也だった。いつもの高価なオーダースーツは着ていない。皺の寄ったシャツを無造作に羽織り、ネクタイもだらしなく緩んでいる。顎には青い髭がうっすら伸び、画面越しでもわかるほど、目は真っ赤に充血していた。精も根も尽き果てたような、そんな疲れ切った姿だった。私は使用人に任せず、自分で外へ出た。夜風が少し冷たい。「……署名する気になった?」腕を組み、門廊の柱に寄りかかったまま尋ねる。声には、自分でも驚くほど何の感情も乗っていなかった。辰也は私を見つめた。その眼差しは複雑だった。疲労の奥に、諦めきれない色がある。それどころか、自分でも気づいていないようなかすかな恨みすら混じっていた。「詩音……」掠れきった声で、彼はようやく言う。「少し……話せないか。条件なら相談できるはずだ。何も持たずに出ていけなんて……さすがに無理だ。江口家が今どういう状況か、君だってわかってるだろ……」「ええ。わかってるわ」私は途中で遮った。声は氷のように冷たい。「だから何?それが私に何の関係があるの?条件を変えるつもりはない。署名するか、このまま江口家が沈んでいくのを見ているか――選びなさい」そのときだった。耳をつんざくようなブレーキ音が響く。振り向くと、辰也の両親の車も到着していた。母親は転がるように車から降りると、ほとんど駆け寄るようにして私の前へ来た。涙なんて一瞬で浮かべて、今にも私の手を掴もうとする。「詩音さん……詩音さん、お願いよ……!全部、辰也が悪いの。あの子が馬鹿だったのよ、どうか今回だけは許してあげて……!お願い、江口家を潰さないで……!」父親はその少し後ろ
「もう一度だけ、俺にチャンスをくれないか。今回のことは……なかったことにしてくれないか」大勢の前だというのに、辰也の目ははっきりと赤くなっていた。けれど――その体には、美海の痕が残っている。そんな男を、どうやって許せというのだろう。どうやって、何もなかったことにしろというのだろう。そんなこと、できるはずがない。私は反射的に一歩下がり、吐き気のするようなその腕を避けた。視線は、自分でもわかるほど冷えきっていた。「触らないで」そう言い捨てると同時に、私は離婚協議書を机の上へ叩きつける。「署名して。財産も権利も何も持たずに出ていってもらうわ。辰也、せめて最後くらい、自分の体面を守ったら?」もう話し合いの余地はない。それを悟ったのだろう。辰也は書類の中の「一切の財産分与を放棄する」という条目に目を落とし、苦しげだった表情を、ゆっくりと険しい色に変えていった。次の瞬間、彼はその書類をひったくり、力任せに引き裂いた。紙片が、雪のように床へ散る。彼は私を見据えたまま、低く、しかしはっきりとした声で言った。「詩音、お前もわかっているはずだ。俺は江口家の後継者だ。何も持たずに出ていくなんて、そんなことができるわけがない。そんな条件、認めると思うな。ちゃんと条件を話し合おう。これ以上、取り返しのつかないところまで行くな」それを聞いて、美海は急に強気になった。涙を拭いながら、辰也に同調するように声を上げる。「そうよ!辰也は江口家を支える人なのよ!どうして全部捨てて出ていかなきゃいけないの?あなた、自分が何をしてるかわかってるの?江口家を潰したいだけじゃない。ほんとに性格悪い女!辰也があなたから離れていったのだって、そういうところが嫌だったからでしょ!」私はその言葉を聞きながら、ただただ呆れていた。ここまでくると、もう怒りすら滑稽に思えてくる。よくもまあ、ここまで醜く並べたものだ。私はゆっくりとバッグを開き、分厚いファイルを取り出した。中には、同じ離婚協議書が何通もきれいに揃えて入っている。そのうち一通を抜き取り、ひらりと辰也の足元へ落とした。「破れば?破ったら、もう一枚出すだけよ。弁護士のところにも、まだ何十枚も控えてるの。社長さんなら、そのくらい覚悟してると思ったけど?」辰也はそれでも、黙ったまま動
十年も一緒にいたのだ。彼が私をわかっていないはずがない。裏切りを、私がどれほど許せないか。彼を、私がどれほど本気で愛してきたか。そんなこと、辰也はちゃんと知っている。――それでも、やったのだ。男の目元がわずかに揺れた。そこに、ためらいとも痛みともつかない色が滲む。声まで少しだけ弱くなる。「詩音、俺は……」もう我慢の限界だった。私はためらうことなく、彼の頬を打った。ぱん――と、乾いた音がその場に響く。それと同時に、美海の甲高い悲鳴が上がった。「辰也っ、大丈夫?」さっきまでほとんど口も挟めなかった女が、今度は必死の形相で彼の前に立ちふさがる。私を見る目は、まるで獲物を威嚇する獣のようだった。「何するんですか、山本さん!どうして辰也を叩くんですか!」――どうして?そんなもの、決まっている。家の反対を押し切ってでも、彼と結婚したかったから。彼が子どもを望んだ、そのひと言のために、出産への恐怖すら乗り越えようとしたから。この十年、私は一度だって彼を裏切らなかった。自分の気持ちにも、彼への愛にも、ずっと誠実でいたから。それでは足りないのだろうか。けれど、そんなことをこの女に語る気はなかった。美海なんかに聞かせる価値もない。何様のつもりなのだろう。私がわざわざ言葉を尽くしてやるほどの相手でもない。私は頬を赤く腫らし、みっともなく立ち尽くす辰也を見つめた。すると不思議なことに、胸の中がすっと冷えていく。――なんだ。この人も、結局この程度だったのだ。私はバッグから一通の書類を取り出し、淡々と言い放つ。「辰也。サインして。離婚する。それから――あなたは、何も持たずに出ていって」辰也は愕然とした顔で近づいてきて、私の手から書類をひったくるように受け取った。目の中に浮かんでいた戸惑いが、やがて確信へと変わっていく。彼は信じられないものを見るように書類を見つめ、それから私を見た。「……離婚、するっていうのか?」ここ数日、私もずっと考えていた。この結婚生活は十年。ここで歯を食いしばって、何もなかったふりをして、続けていくこともできるのではないかと。でも、考え直した。私は手にしたものを失うことなど恐れていないのだ。十年くらい、失ったってやり直せる。辰也がどうして浮気した
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