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私を捨てた夫は、すべてを失って後悔する

私を捨てた夫は、すべてを失って後悔する

Por:  花宮みおCompleto
Idioma: Japanese
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「奥様、この前ご覧になっていたピンクのバーキンが入荷いたしました。ご主人様からご指定いただいていたお色ですので、いつでもお受け取りいただけますよ」 エルメスの担当者から弾んだ声でそう告げられた瞬間、私はソファに座ったまま、手にしていたリモコンを思わず強く握りしめた。 ピンク? そんなはずはない。私が欲しいと何度も口にしていたのは、ショーウィンドウの中でひときわ目を引いていた、あの鮮やかなオレンジレッドだった。 半月ものあいだ、何度も彼に話していたのに。 「……本当に、ピンクなんですか?」 喉がかすかに詰まりながら問い返すと、担当者は不思議そうでもなく、はっきりと言った。 「はい。ご主人様が、いちばん柔らかな桜色のピンクをご希望だと、念を押されていました」 電話を切ったあと、私は夫に確認しようと立ち上がった。 けれどその拍子に、書斎の机の下に置かれたままの未開封の荷物につまずく。 見覚えのあるロゴ。 それは、彼がこれまで何度も私に贈ってくれた高級ランジェリーブランドの箱だった。 なぜか胸騒ぎがして、私はその箱を拾い上げる。 リボンをほどき、包みを開くと、中から現れたのは黒いレースのブラジャー。タグはまだついたままだった。 何気なく、サイズ表記に目を落とした瞬間―― 全身の血の気が一気に引いた。 B75。 私はこの十年間ずっと、C70だというのに。

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Capítulo 1

第1話

「奥様、この前ご覧になっていたピンクのバーキンが入荷いたしました。ご主人様からご指定いただいていたお色ですので、いつでもお受け取りいただけますよ」

エルメスの担当者から弾んだ声でそう告げられた瞬間、私・山本詩音(やまもと しおん)はソファに座ったまま、手にしていたリモコンを思わず強く握りしめた。

ピンク?

そんなはずはない。私が欲しいと何度も口にしていたのは、ショーウィンドウの中でひときわ目を引いていた、あの鮮やかなオレンジレッドだった。

半月ものあいだ、何度も彼に話していたのに。

「……本当に、ピンクなんですか?」

喉がかすかに詰まりながら問い返すと、担当者は不思議そうでもなく、はっきりと言った。

「はい。ご主人様が、いちばん柔らかな桜色のピンクをご希望だと、念を押されていました」

電話を切ったあと、私は夫の江口辰也(えぐち たつや)に確認しようと立ち上がった。

けれどその拍子に、書斎の机の下に置かれたままの未開封の荷物につまずく。

見覚えのあるロゴ。

それは、彼がこれまで何度も私に贈ってくれた高級ランジェリーブランドの箱だった。

なぜか胸騒ぎがして、私はその箱を拾い上げる。

リボンをほどき、包みを開くと、中から現れたのは黒いレースのブラジャー。タグはまだついたままだった。

何気なく、サイズ表記に目を落とした瞬間――

全身の血の気が一気に引いた。

B75。

私はこの十年間ずっと、C70だというのに。

私は吐き気をこらえながら、その黒いレースのブラを放り投げた。

そしてすぐに、彼へビデオ通話をかける。通話はあっさりつながった。

画面に映った彼の頬は、わずかに赤い。

「どうしたんだい、詩音。急にビデオ通話なんて。珍しいじゃないか。今まであんなに頼んでも、なかなかかけてくれなかったのに」

私は何も答えず、右手で彼の社長室のリアルタイム監視映像を開いた。

十年も一緒にいた相手だから、辰也は、私の様子がおかしいことにすぐ気づいたらしい。

「詩音、どうした?今日のドラマ、つまらなかったのか?それとも、ここ数日帰りが遅いから怒ってるのか?」

私は時計に目をやる。

一時半。監視映像の中では、机の上に置かれた料理がまだほとんど手つかずのままだった。

口いっぱいに食べ物を頬張っているところを見ると、相当お腹が空いていたのだろう。

それでも彼は、すぐに箸を置いた。

「どうしたんだい。そんなに怒らないでくれ。今朝は会議が六回立て続けで、本当に息つく暇もなかったんだよ」

やさしくなだめるような声。

「信じられないなら、監視カメラを見てみなよ。どれだけ大変だったか、すぐわかるだろ?」

――そう。

この監視カメラは、もともと彼自身が取りつけたものだった。

あのとき彼は私を抱き寄せて、こう言ったのだ。

「詩音、君はいつでも好きなときに、俺のオフィスの監視映像を見ていい。

俺のいる界隈に、まともな夫婦なんてほとんどいないことくらい、俺だってわかってる。それでも俺は、ありったけの誠意で、君に少しずつでも信じてもらいたいんだ。詩音、俺はあいつらとは違うよ」

スマホも、パソコンも、銀行口座も。暗証番号が必要なものは、すべて私の誕生日にしていた。

泣き寝入りなんて、私の性分じゃない。

私はようやく口を開いた。

「辰也。どうして私のバッグ、色が違っていたの?」

辰也は眉をひそめた。

数秒の戸惑いのあと、ふっと合点がいったような顔になる。

「ああ、この前のバーキンのこと?ピンクは姉ちゃんが欲しいって言ってたから、ついでに頼んだんだよ。君のオレンジは一緒に届いてなかった?それなら担当が伝え漏らしたんだな。ちょっと電話して確認するよ」

そう言うなり、彼は少し苛立った様子で内線電話に手を伸ばしかけた。

今までだってずっとそうだった。私のこととなると、彼はいつも誰よりも気にかけて、すぐに動いてくれた。

私はその手を止めるように言った。

「もういいわ」

彼はなおも私を安心させようとしたのか、スマホのカメラを切り替え、姉とのやり取りの画面を見せてきた。

【辰也、詩音ちゃんのバッグ頼むついでに、私の分もピンクでお願いしてくれない?】

でも――

本当に、そんな都合よく話が揃うものだろうか。

証拠は完璧。人も、物も。

頭の中がひどく散らかって、私は急に、あのレースの下着のことを問い詰める気力をなくしてしまった。

彼は忙しすぎて、サイズを間違えただけかもしれない。そう、自分に言い聞かせる。

けれど、通話を切った次の瞬間。監視映像に映ったあるものに、私は息をすることすら忘れた。

辰也の背後にある床まで届くガラス窓。そこに、女の顔がぼんやりと映り込んでいた。

そして次の瞬間、その女はゆっくりと、彼のデスクの下から這い出てきたのだ。

唇の端を指でぬぐい、満ち足りた猫のように、男の膝に頬をすり寄せる。あまりにも親密な仕草だった。

――そういうことだったのだ。

さっき、辰也の頬が赤かったのは、私からの電話がうれしかったからでも、食事で火照っていたからでもなかった。

デスクの下で、ひとりの女が彼にそういうことをしていたからだ。
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ノンスケ
ノンスケ
男って妻にバレなきゃ何してもいいと思ってるんだろうか。愛人を秘書に入れた時点で会社にはバレるし、いずれは妻の耳にも届くのなんて、考えればすぐにわかるのに。10年の結婚生活が、1人の配達員の女にふらついただけで一瞬にして消えた。クズ男への転落は簡単だったな。
2026-05-10 20:00:33
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かとうゆう
かとうゆう
財政を奥さんに握られておきながら、よく浮気ができるもんだなあ… しかも浮気を指摘されて逆ギレ、離婚拒否とか…恥を知らない男はみっともない。
2026-05-10 14:18:19
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松坂 美枝
松坂 美枝
男に尽くしすぎると調子こかれて浮気されるんで気をつけましょうという話 空虚な読後感…
2026-05-10 13:11:43
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第1話
「奥様、この前ご覧になっていたピンクのバーキンが入荷いたしました。ご主人様からご指定いただいていたお色ですので、いつでもお受け取りいただけますよ」エルメスの担当者から弾んだ声でそう告げられた瞬間、私・山本詩音(やまもと しおん)はソファに座ったまま、手にしていたリモコンを思わず強く握りしめた。ピンク?そんなはずはない。私が欲しいと何度も口にしていたのは、ショーウィンドウの中でひときわ目を引いていた、あの鮮やかなオレンジレッドだった。半月ものあいだ、何度も彼に話していたのに。「……本当に、ピンクなんですか?」喉がかすかに詰まりながら問い返すと、担当者は不思議そうでもなく、はっきりと言った。「はい。ご主人様が、いちばん柔らかな桜色のピンクをご希望だと、念を押されていました」電話を切ったあと、私は夫の江口辰也(えぐち たつや)に確認しようと立ち上がった。けれどその拍子に、書斎の机の下に置かれたままの未開封の荷物につまずく。見覚えのあるロゴ。それは、彼がこれまで何度も私に贈ってくれた高級ランジェリーブランドの箱だった。なぜか胸騒ぎがして、私はその箱を拾い上げる。リボンをほどき、包みを開くと、中から現れたのは黒いレースのブラジャー。タグはまだついたままだった。何気なく、サイズ表記に目を落とした瞬間――全身の血の気が一気に引いた。B75。私はこの十年間ずっと、C70だというのに。私は吐き気をこらえながら、その黒いレースのブラを放り投げた。そしてすぐに、彼へビデオ通話をかける。通話はあっさりつながった。画面に映った彼の頬は、わずかに赤い。「どうしたんだい、詩音。急にビデオ通話なんて。珍しいじゃないか。今まであんなに頼んでも、なかなかかけてくれなかったのに」私は何も答えず、右手で彼の社長室のリアルタイム監視映像を開いた。十年も一緒にいた相手だから、辰也は、私の様子がおかしいことにすぐ気づいたらしい。「詩音、どうした?今日のドラマ、つまらなかったのか?それとも、ここ数日帰りが遅いから怒ってるのか?」私は時計に目をやる。一時半。監視映像の中では、机の上に置かれた料理がまだほとんど手つかずのままだった。口いっぱいに食べ物を頬張っているところを見ると、相当お腹が空いていたのだろう。
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第2話
仲間うちで何かとからかわれ、妻にぞっこんの男として知られていた辰也が――本当に、浮気していた。私はソファに座り込んだまま、しばらく動けなかった。言いようのない鈍い痛みが、じわじわと全身を満たしていく。スマホの待ち受けに映る、彼とのツーショットを指先でなぞる。どれほどそうしていたのか、自分でもわからない。気づけば外では雨が降り始めていた。ぽつ、ぽつ、と静かな音を立てながら。そして私の視界にも、いつの間にか涙で潤んでいた。やがて私は意を決して、個人アシスタントに電話をかけた。「小林さん、調べて。辰也の近くに最近どんな女がいるのか」考えられる相手はいくらでもあった。新しく雇われた若い秘書かもしれない。江口家に取り入ろうとする、どこかの令嬢かもしれない。あるいは、同じ業界の女かもしれない。けれど――どれも違った。相沢美海(あいざわ みう)。二十五歳、デリバリー配達員。若いのに、六百万円もの借金を背負っている。博打好きの父親、病気の母親、そして何かと物入りな学生の弟。壊れかけた家庭を、ひとりで背負わされていた。顔立ちは整ってはいる。けれど、風に吹かれ日差しにさらされた肌はこんがりと焼け、華やかな美人というには程遠かった。「江口はいったい、この子のどこに惹かれたっていうの?」親友の高橋真奈(たかはし まな)は資料を机に叩きつけるように置いて、怒りを隠さなかった。彼女は知っている。辰也が私のために、誰もが羨むような盛大な結婚式を挙げてくれたことを。周囲では離婚や浮気が珍しくもない中、辰也が私を最優先にし続け、愛妻家として有名になっていたことも。だからこそ、この裏切りがどれほど私を傷つけるか、誰よりよくわかっていた。私はもう一刻も待てなかった。真奈に付き添ってもらい、江口グループ本社の下へ向かう。辰也の車が停まる区画の近くで、息を潜めて待つ。ほどなくして、辰也が姿を現した。けれど、思いがけず彼はラフな私服姿だった。それだけで、いつもより何歳も若く見える。結婚してからというもの、彼は外に出るときはほとんど必ずスーツだった。辰也という男は、江口家そのものの顔でもあるからだ。新婚旅行のときでさえ、彼は笑って私をなだめていた。「詩音、少しだけ我慢して。江口家は海外でも事業をしてい
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第3話
スマホを取り出し、私は辰也に電話をかけた。「辰也、今どこにいるの?」これまで何度もそうだったように、彼はすぐに電話に出た。結婚して間もない頃、私は一度、江口家と敵対する相手に攫われたことがある。助け出されたときにはすでに意識も朦朧としていて、その夜のうちに集中治療室へ運ばれた。彼はベッドのそばに膝をつき、私の首に残った傷跡におそるおそる触れた。大柄な男が小さく身を縮めるようにして、自分を責め、何度も自分の頬を打っていた。あとになってからも彼は何度も悔やんだ。会議中で私からの電話に気づかず、最後の助けを求める声を聞き逃したことを。「詩音、ごめん。俺が悪かった。これから先、何をしていようと、君からの電話には必ず出る。絶対に。だから安心してほしい。もし俺が君を大事にしなくなったら、そのときは何もかも失って追い出されても文句は言わない。江口グループだって全部、君に渡す」あの日の言葉どおり、それから十年、彼は本当にその約束を守り続けた。けれど今は違う。その男は、唇の端を濡らし、口紅の跡を顔じゅうに残し、シャツの胸元をはだけさせたまま、私の電話に出ていた。「もしもし、どうした?」私はひとことずつ、確かめるように問いかける。「いつ帰ってくるの?今日は早く帰るって言っていたでしょう」その瞬間、助手席の美海があからさまに不機嫌そうな顔をした。そして次の瞬間、彼女は辰也のズボンに手をかけ、そのまま顔を伏せた。全身が震える。胸の奥が痺れるように痛くて、苦しくて、張り裂けそうだった。怒りなのか、悔しさなのか。もう自分でもわからない。「っ……」辰也が堪えきれず、低く息を漏らす。けれどすぐに咳払いをしてごまかした。「どうしたんだ、詩音。もうすぐ帰るよ」美海は大胆だった。次の瞬間には身を起こし、そのまま辰也の唇を塞いでいた。辰也は彼女の肩を押さえて引き離そうとする。けれど美海は離れない。むしろ食らいつくように、激しく彼に口づけた。私の声は、もうはっきりと震えていた。「辰也……今夜は早く帰るって、約束したよね。帰ってきてくれなかったら……私、許さないから」私だって、この十年、彼を愛してきた。あの頃は周囲の反対だってあったのに、それでも彼を選んだ。私が捧げてきた愛も、偽りのないものだった。
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第4話
その瞬間だった。長い年月をかけて積み上げてきた信頼が、ドミノ倒しのように、音もなく崩れていく。トーク画面には何も残っていない。けれど辰也のアルバムの「お気に入り」の中には、ふたりのやり取りがしっかり保存されていた。【ピンクのバッグ、すごく可愛い!ありがとう、辰也。私にも、ついに自分だけのお姫さまバッグができたよ~ちゅっ】それに対する辰也の返事は、短い。【俺にとって、君が唯一のお姫さまだからな】たった一言。それでもわざわざ残しておくほど、大事にしていたのだ。さらに女のタイムラインを開く。投稿は少ない。たった三件だけだった。一件目は半年前。膝を擦りむいた写真と一緒に、弱々しい文面が添えられている。【最悪……今日は高級車にぶつかっちゃった。でも相手の車の持ち主がすごく優しいイケメンで、一万円だけで許してくれた】動画の端には、男の節だった指が映り込んでいた。その腕に巻かれているのは、私が誕生日に贈った七千六百万円のパテック・フィリップ。二件目は二か月前。女と男が指を絡め合う写真。そして、キスをしているシルエット。【雲の上の大企業家だって、愛の前ではひざまずくんだね。シンデレラみたいな物語が、まさか本当に私の身に起こるなんて。今この瞬間、私は世界でいちばん幸せなお姫さま!】三件目は、先週。高層階のレストランで、ドレスアップした女が微笑んでいる。もう一枚には、男が彼女の前に膝をつき、指輪をはめている姿が写っていた。顔は映っていない。それなのに、幸せが滲み出ている。【お姫さまみたいなお誕生日でした。王子さまがピンクダイヤの指輪でプロポーズしてくれたの~えへへ】その投稿日を見た瞬間、息が止まりそうになった。――まさに結婚記念日だった。そういうことだったのだ。辰也が新しく変えたパスコードは、私たちの記念日なんかじゃない。美海の誕生日だったのだ。偶然にも同じ日だった。私は必要な情報をすべて保存し、スマホを閉じようとした。ちょうどそのときだった。美海が、新しい投稿を上げた。満面の笑みでカメラに向かうその背後には、江口グループ本社が映っている。【うれしい。私、いよいよ本物のお姫さまになる準備を始めます。今日は待ちに待った入社初日!】私は深く息を吸い込み、画面を閉じた。「どうし
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第5話
真奈も横から、皮肉たっぷりに口を挟んだ。「ほんとよね。ずいぶんな歓迎ぶりじゃない。知らない人が見たら、新しい奥様でも迎えてるのかと思うわ」辰也は眉をひそめた。「何を言ってるんだ」そう言いながらも、無理に笑みを作る。そして、いつものようにやさしい声を取り戻し、私の手を取ろうとした。「詩音、どうして急に来たんだ?今夜は早く帰って、ちゃんと君と過ごすつもりだったのに」私は聞き分けのいい妻を演じるように、穏やかに微笑んだ。「私と過ごす?もういいわ、辰也。あなたは秘書のお相手で忙しいんでしょう?そんなあなたに、早く帰ってきてなんて、とても言えないわ。この前だって、相沢さんのせいで約束を破ったものね」その瞬間、辰也の顔に浮かんでいたやさしさが、ぴたりと凍りついた。目に見えて動揺が走る。「詩音……何を言ってるんだ?何か誤解してるんじゃないか?ここじゃなくて、帰ってから落ち着いて話そう。な?」私は彼の手をかわし、そのまま美海の前まで歩いていった。「誤解?」真正面から彼女を見据える。「相沢さん。あなたは、これが誤解だと思うの?」そして私は、彼女の服装をゆっくりと眺めた。「その格好、ずいぶんお金がかかっていそうね。うちの夫、あなたにはずいぶん気前がいいみたい。じゃなければ、学歴も仕事経験もないあなたが、どうして秘書なんて立場に就けるのかしら」美海は私の視線に気圧されながらも、必死に顔を上げた。声は震えている。それでも強がるように言い返す。「奥さま、わ、私はちゃんと正式に採用されたんです……!そんな言い方、ひどいです!」けれど、その目は最後まで私をまっすぐ見ようとはしなかった。私は鼻で笑い、バッグの中から一枚の書類を取り出して、机の上に叩きつける。「正式に採用、ね」わざと声を張る。「募集要項にはこう書いてあるわ。大卒以上。難関大学卒優遇。英語の読み書き会話が堪能であること。さらに大手企業の社長、もしくは役員秘書として三年以上の実務経験――」そこで言葉を切り、青ざめた美海を見つめた。「相沢さん。あなた、高卒よね。しかも六百万の借金まである。教えてちょうだい。この条件のどこを、あなたが満たしているの?」その場の空気が一瞬で変わった。あちこちから抑えきれないざわめきが漏れ、突
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第6話
周囲にいた役員たちの視線は、もう単なる驚きではなかった。事情を察し、あからさまに面白がるような色まで混じり始めている。辰也は、何だかんだ言っても江口家の後継者だ。その男が、大勢の前でここまで妻に私情を暴かれ、面目を潰されている。さすがに堪えきれなくなったのだろう。辰也の声には、はっきりと怒気が滲んでいた。「詩音。もう一度だけ言う。俺たちのことは、家に帰ってから話そう。これ以上、俺の堪忍袋の緒を切らせるな」そう言い捨てると、彼はすぐ隣の美海へ身をかがめ、低い声で囁く。「君は先に行け。ちゃんと俺がけじめをつけるから」けれど、その一歩を真奈がさっと遮った。「浮気相手だけ都合よく逃がして、はい終わり――なんて、そんな都合のいい話あると思ってるの?」「高橋、いい加減にしろ!」辰也は、本気で怒っていた。けれど真奈は怯まない。高橋家はいまや江口家と肩を並べる立場だ。辰也に睨まれたところで、怖じ気づくような相手ではなかった。それでも――目の前で堂々と美海を庇う辰也の姿に、胸の奥がぐらりと揺れる。覚悟していたはずなのに、心のどこかを、また鋭く引き裂かれたように痛んだ。私はばん、と机を叩く。声は、自分でも驚くほど冷たかった。「帰さないでください。まだ見せたいものが残ってるでしょう、相沢さん」私は小林に目配せし、そのまま駐車場で撮った映像を映すよう指示した。画面の中で、美海が甘えるように問いかける。「ねえ、昨日の夜、あのおばさんには触ってないでしょうね?一週間、あの女には手を出さないって約束、守れた?」続いて流れたのは、欲に濁った辰也の声だった。「もちろんだよ。君のためなら……念のため、面倒が起きないように睡眠薬も……」その瞬間、かろうじて保たれていた最後の体面まで、完全に引き裂かれた。「ビデオ撮ってたの?信じられない!辰也っ!」美海が甲高い声で叫ぶ。辰也は雷に打たれたように硬直していた。顔からはみるみる血の気が失せ、立ち尽くしたまま動けない。私はそんな彼を冷ややかに見つめながら、バッグの中から黒いレースのブラを取り出した。B75のタグが、嫌になるほど目につく。それを私は、そのまま美海の足元へ放る。「相沢さん。はい、あなたへの贈り物、持ってきてあげたわ。だって私、B
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第7話
十年も一緒にいたのだ。彼が私をわかっていないはずがない。裏切りを、私がどれほど許せないか。彼を、私がどれほど本気で愛してきたか。そんなこと、辰也はちゃんと知っている。――それでも、やったのだ。男の目元がわずかに揺れた。そこに、ためらいとも痛みともつかない色が滲む。声まで少しだけ弱くなる。「詩音、俺は……」もう我慢の限界だった。私はためらうことなく、彼の頬を打った。ぱん――と、乾いた音がその場に響く。それと同時に、美海の甲高い悲鳴が上がった。「辰也っ、大丈夫?」さっきまでほとんど口も挟めなかった女が、今度は必死の形相で彼の前に立ちふさがる。私を見る目は、まるで獲物を威嚇する獣のようだった。「何するんですか、山本さん!どうして辰也を叩くんですか!」――どうして?そんなもの、決まっている。家の反対を押し切ってでも、彼と結婚したかったから。彼が子どもを望んだ、そのひと言のために、出産への恐怖すら乗り越えようとしたから。この十年、私は一度だって彼を裏切らなかった。自分の気持ちにも、彼への愛にも、ずっと誠実でいたから。それでは足りないのだろうか。けれど、そんなことをこの女に語る気はなかった。美海なんかに聞かせる価値もない。何様のつもりなのだろう。私がわざわざ言葉を尽くしてやるほどの相手でもない。私は頬を赤く腫らし、みっともなく立ち尽くす辰也を見つめた。すると不思議なことに、胸の中がすっと冷えていく。――なんだ。この人も、結局この程度だったのだ。私はバッグから一通の書類を取り出し、淡々と言い放つ。「辰也。サインして。離婚する。それから――あなたは、何も持たずに出ていって」辰也は愕然とした顔で近づいてきて、私の手から書類をひったくるように受け取った。目の中に浮かんでいた戸惑いが、やがて確信へと変わっていく。彼は信じられないものを見るように書類を見つめ、それから私を見た。「……離婚、するっていうのか?」ここ数日、私もずっと考えていた。この結婚生活は十年。ここで歯を食いしばって、何もなかったふりをして、続けていくこともできるのではないかと。でも、考え直した。私は手にしたものを失うことなど恐れていないのだ。十年くらい、失ったってやり直せる。辰也がどうして浮気した
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第8話
「もう一度だけ、俺にチャンスをくれないか。今回のことは……なかったことにしてくれないか」大勢の前だというのに、辰也の目ははっきりと赤くなっていた。けれど――その体には、美海の痕が残っている。そんな男を、どうやって許せというのだろう。どうやって、何もなかったことにしろというのだろう。そんなこと、できるはずがない。私は反射的に一歩下がり、吐き気のするようなその腕を避けた。視線は、自分でもわかるほど冷えきっていた。「触らないで」そう言い捨てると同時に、私は離婚協議書を机の上へ叩きつける。「署名して。財産も権利も何も持たずに出ていってもらうわ。辰也、せめて最後くらい、自分の体面を守ったら?」もう話し合いの余地はない。それを悟ったのだろう。辰也は書類の中の「一切の財産分与を放棄する」という条目に目を落とし、苦しげだった表情を、ゆっくりと険しい色に変えていった。次の瞬間、彼はその書類をひったくり、力任せに引き裂いた。紙片が、雪のように床へ散る。彼は私を見据えたまま、低く、しかしはっきりとした声で言った。「詩音、お前もわかっているはずだ。俺は江口家の後継者だ。何も持たずに出ていくなんて、そんなことができるわけがない。そんな条件、認めると思うな。ちゃんと条件を話し合おう。これ以上、取り返しのつかないところまで行くな」それを聞いて、美海は急に強気になった。涙を拭いながら、辰也に同調するように声を上げる。「そうよ!辰也は江口家を支える人なのよ!どうして全部捨てて出ていかなきゃいけないの?あなた、自分が何をしてるかわかってるの?江口家を潰したいだけじゃない。ほんとに性格悪い女!辰也があなたから離れていったのだって、そういうところが嫌だったからでしょ!」私はその言葉を聞きながら、ただただ呆れていた。ここまでくると、もう怒りすら滑稽に思えてくる。よくもまあ、ここまで醜く並べたものだ。私はゆっくりとバッグを開き、分厚いファイルを取り出した。中には、同じ離婚協議書が何通もきれいに揃えて入っている。そのうち一通を抜き取り、ひらりと辰也の足元へ落とした。「破れば?破ったら、もう一枚出すだけよ。弁護士のところにも、まだ何十枚も控えてるの。社長さんなら、そのくらい覚悟してると思ったけど?」辰也はそれでも、黙ったまま動
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第9話
市場の反応は、何よりも早かった。江口グループの株価はまるで断頭台に乗せられたみたいに、連日、寄り付きからストップ安。画面いっぱいに並ぶ赤の数字が、見ているだけでぞっとするほどだった。株主たちは辰也と父親の携帯を鳴りやまないほど鳴らし続けた。問い詰める声、責め立てる声、不安に駆られた声。収拾のつかない混乱だった。ほんの数日で、江口家は火の車になった。あちこちにほころびが生まれ、今にも崩れ落ちそうだった。――山本家の後ろ盾を失った瞬間、江口家という船は、一気に沈みかけたのだ。五日目の夕方、インターホンが鳴った。モニターに映っていたのは辰也だった。いつもの高価なオーダースーツは着ていない。皺の寄ったシャツを無造作に羽織り、ネクタイもだらしなく緩んでいる。顎には青い髭がうっすら伸び、画面越しでもわかるほど、目は真っ赤に充血していた。精も根も尽き果てたような、そんな疲れ切った姿だった。私は使用人に任せず、自分で外へ出た。夜風が少し冷たい。「……署名する気になった?」腕を組み、門廊の柱に寄りかかったまま尋ねる。声には、自分でも驚くほど何の感情も乗っていなかった。辰也は私を見つめた。その眼差しは複雑だった。疲労の奥に、諦めきれない色がある。それどころか、自分でも気づいていないようなかすかな恨みすら混じっていた。「詩音……」掠れきった声で、彼はようやく言う。「少し……話せないか。条件なら相談できるはずだ。何も持たずに出ていけなんて……さすがに無理だ。江口家が今どういう状況か、君だってわかってるだろ……」「ええ。わかってるわ」私は途中で遮った。声は氷のように冷たい。「だから何?それが私に何の関係があるの?条件を変えるつもりはない。署名するか、このまま江口家が沈んでいくのを見ているか――選びなさい」そのときだった。耳をつんざくようなブレーキ音が響く。振り向くと、辰也の両親の車も到着していた。母親は転がるように車から降りると、ほとんど駆け寄るようにして私の前へ来た。涙なんて一瞬で浮かべて、今にも私の手を掴もうとする。「詩音さん……詩音さん、お願いよ……!全部、辰也が悪いの。あの子が馬鹿だったのよ、どうか今回だけは許してあげて……!お願い、江口家を潰さないで……!」父親はその少し後ろ
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第10話
私は目を鋭く細めた。美海の爪が届くより早く、咄嗟に手を上げ、その手首を強く掴む。容赦なんてしなかった。あまりの痛みに、美海が「痛っ……!」と悲鳴を上げる。「やり合うつもり?」私は彼女の顔を覗き込んだ。痛みと怒りで歪んだその顔をまっすぐ見つめ、声だけを低く落とす。ひとことひとこと、鋭い刃みたいに突き刺すように。「あなたに、その資格があると思ってるの?今は辰也ですら、私の顔色をうかがっているのよ。あなたみたいな女が、何を勘違いしてるの?」美海は唇をきつく噛みしめたまま、何も言い返せなかった。さっきまでの勢いが嘘みたいに萎んでいく。私はそれ以上何も言わず、ただ嫌悪を隠しもせずに、その手を振り払った。そのときだった。二台のパトカーが、音もなく門の前に止まった。制服姿の警察官たちが数人、まっすぐこちらへ歩いてくる。先頭の男は鋭い目で、その場に立ち尽くしていた美海を捉えた。「相沢美海さんですね」低く厳しい声だった。美海は一瞬で顔色を失った。泣くことすら忘れたように、唇を震わせる。「刑事犯罪捜査課です。あなたには、他者と共謀して学歴および職歴を偽装し、江口グループの職に就いた疑いがあります。さらに、その立場を利用して会社の資金を流用し、個人の借金返済に充てた疑いもあります。金額は少なくありません。これから署まで同行してもらいます」「ち、違う……!私、そんなことしてません!」美海は悲鳴のような声を上げた。そのまま這うように辰也のほうへ縋りつこうとする。「辰也、助けて!お願い!社長……山本さん……!私が悪かったです、もうしません……だから許してください……!」泣き叫びながら、みっともなく地面に手をつくその姿を、辰也はただ見下ろしていた。足元に崩れ落ちた美海。無表情の警察官たち。そして最後に、辰也の視線は私へ向く。私は何も言わず、その光景を見ていた。表情ひとつ変えずに。その瞬間だった。辰也の顔に残っていた最後の抵抗が、完全に消えた。残ったのは、果てのない疲労と、色を失った諦めだけ。すべてを受け入れるしかないと悟った人間の、乾いた虚無だった。彼はまるで一瞬で力を抜かれたみたいに、肩まで目に見えて落ちていた。辰也は、もう一度も美海を見なかった。代わりに、ゆっくりとポケットから折り
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