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妻の座を降りた日

妻の座を降りた日

By:  歌の夜行Completed
Language: Japanese
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私――氷室夏弥(ひむろ なつみ)の誕生日パーティーの最中、シャンデリアが音を立てて砕け散った。 夫の氷室和哉(ひむろ かずや)は私を置き去りにし、インターンの秘書・三上実里(みかみ みのり)を咄嗟に抱き寄せた。 いつもは冷えきっているその顔に、見たこともないほどの優しさが浮かんでいる。 「実里……危険が迫ったあの瞬間、ようやく気づいた。俺にとっていちばん大切なのは、お前だった」 呆然としているうちに、実里を気づかって駆け寄ってきた息子の氷室悠真(ひむろ ゆうま)に突き飛ばされ、私は床に倒れ込んだ。 「どいてよ!氷室夫人になるのは、実里さんなんだから!」 少し離れた場所で寄り添う三人の姿を見ている。 今度こそ、本当にもう疲れた。 氷室夫人なんて、誰がなりたければなればいい。

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Chapter 1

第1話

私――氷室夏弥(ひむろ なつみ)の誕生日パーティーの最中、シャンデリアが音を立てて砕け散った。

夫の氷室和哉(ひむろ かずや)は私を置き去りにし、インターンの秘書・三上実里(みかみ みのり)を咄嗟に抱き寄せた。

いつもは冷えきっているその顔に、見たこともないほどの優しさが浮かんでいる。

「実里……危険が迫ったあの瞬間、ようやく気づいた。俺にとっていちばん大切なのは、お前だった」

呆然としているうちに、実里を気づかって駆け寄ってきた息子の氷室悠真(ひむろ ゆうま)に突き飛ばされ、私は床に倒れ込んだ。

「どいてよ!氷室夫人になるのは、実里さんなんだから!」

少し離れた場所で寄り添う三人の姿を見ている。

今度こそ、本当にもう疲れた。

氷室夫人なんて、誰がなりたければなればいい。

和哉が悠真の言葉に続こうと口を開きかけた、そのとき。

私は大股で歩み寄り、彼の胸元に付いていたマイクを乱暴に引きはがした。

耳をつんざくようなノイズが一瞬で会場中に響き渡った。その不快さは、さっき和哉が実里に向けて口にしたあの告白と同じくらい、吐き気がした。

ひそひそと囁き合う招待客たちの声が、あちこちから絶えず耳に入ってくる。

氷室グループの株主たちは、「社長の顔に泥を塗るなんて、正気じゃないのか」と私を責めるような声を上げた。

その一方で、「和哉さんたちもどうかしてる。この大事な場で愛人をかばうなんて正気じゃない」と囁き合う者もいた。

周囲のざわめきを浴びて、和哉の表情はみるみるうちに暗く沈んでいった。

彼はすぐに使用人たちへ指示を飛ばし、招待客たちを会場から退がらせた。

だが――実里だけは、その場に残された。

真紅のドレスをまとった実里は、気丈で誇らしげな表情で和哉の隣に立っていた。

その姿は、和哉が今でも忘れられずにいる、亡くなった初恋の人――藤森澪(ふじもり みお)によく似ていた。

悠真は、まるで私が逆上して手でも上げるとでも思っているかのように、大げさなくらい実里の前に立って彼女をかばった。

こうして並んでいると、あの三人のほうがよほど家族らしく見えた。

和哉は実里をなだめながら、苛立ちを隠そうともせず私を問い詰めた。

「マイクを付けたままだったのを忘れていただけだろう。それくらいのことで、どうしてそんなに騒ぐんだ?それとも……実里のことが気に入らないのか。

彼女は鈴蘭邸に住まわせる。お前の目に触れないように配慮する。

安心しろ。おばあ様にも約束している。氷室夫人の座はこれからもずっとお前のものだ」

黙ったままの私を見て、悠真は頬をふくらませ、憎々しげに言い放った。

「もういい加減にしてよ!あんたみたいな孤児が、最初から僕のママになんてふさわしくないんだ。僕は実里さんにママになってほしい!

あっち行けよ!僕の新しいママに手を出したら、絶対に許さないからな!」

目の前の夫と息子は、まるで私を敵でも見るかのような目を向けていた。

何か言いかけて口を開いたものの、結局そのまま閉じた。

実里はほんの一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐに華やかな笑みを浮かべてこちらを見た。

「奥さん。私と社長は本気で愛し合っているんです。世間がどう言おうと、そんなことは気にしていません。

私のことで、そんなにお怒りになる必要はありませんよ。社長のような方なら、もっとふさわしい方がいて当然ですから」

もう、何もかもが面倒だった。これ以上、三人と言葉を交わす気にもなれない。

私は手首から氷室家に代々伝わるブレスレットを外し、和哉に差し出した。

「これ、返すわ」

和哉は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに不機嫌そうな顔でそれを受け取ると、無造作に実里の手首にはめた。

「やるよ」

それからこちらを振り向き、皮肉っぽく口元をゆがめる。

「さすが氷室家が小さい頃から育ててきた花嫁候補だな。ずいぶん物分かりがいいじゃないか。

何百年も受け継がれてきた家宝なのに、あっさり手放すんだな」

私の顔色が少しも変わらないのを見て、和哉はふいに冷たく笑った。

「そこまで物分かりがいいなら、今日はどうして俺に恥をかかせた?

それとも、わざと俺を笑いものにしたかったのか?

マナーでも習い直したらどうだ。自分の立場を、少しはわきまえるようになるだろ」

いつまでたっても私が何も言わないので、和哉は実里の手を取ると、そのまま背を向けた。

そのまま歩き出しかけたところで、和哉は指にはめていた指輪を外し、こちらへ無造作に放り投げた。

「氷室家のブレスレットがいらないっていうなら、お前がくれた指輪もいらない」

指輪は床の上で何度かくるくると回り、やがて部屋の隅へ転がっていき、そのまま見えなくなった。
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第1話
私――氷室夏弥(ひむろ なつみ)の誕生日パーティーの最中、シャンデリアが音を立てて砕け散った。夫の氷室和哉(ひむろ かずや)は私を置き去りにし、インターンの秘書・三上実里(みかみ みのり)を咄嗟に抱き寄せた。いつもは冷えきっているその顔に、見たこともないほどの優しさが浮かんでいる。「実里……危険が迫ったあの瞬間、ようやく気づいた。俺にとっていちばん大切なのは、お前だった」呆然としているうちに、実里を気づかって駆け寄ってきた息子の氷室悠真(ひむろ ゆうま)に突き飛ばされ、私は床に倒れ込んだ。「どいてよ!氷室夫人になるのは、実里さんなんだから!」少し離れた場所で寄り添う三人の姿を見ている。今度こそ、本当にもう疲れた。氷室夫人なんて、誰がなりたければなればいい。和哉が悠真の言葉に続こうと口を開きかけた、そのとき。私は大股で歩み寄り、彼の胸元に付いていたマイクを乱暴に引きはがした。耳をつんざくようなノイズが一瞬で会場中に響き渡った。その不快さは、さっき和哉が実里に向けて口にしたあの告白と同じくらい、吐き気がした。ひそひそと囁き合う招待客たちの声が、あちこちから絶えず耳に入ってくる。氷室グループの株主たちは、「社長の顔に泥を塗るなんて、正気じゃないのか」と私を責めるような声を上げた。その一方で、「和哉さんたちもどうかしてる。この大事な場で愛人をかばうなんて正気じゃない」と囁き合う者もいた。周囲のざわめきを浴びて、和哉の表情はみるみるうちに暗く沈んでいった。彼はすぐに使用人たちへ指示を飛ばし、招待客たちを会場から退がらせた。だが――実里だけは、その場に残された。真紅のドレスをまとった実里は、気丈で誇らしげな表情で和哉の隣に立っていた。その姿は、和哉が今でも忘れられずにいる、亡くなった初恋の人――藤森澪(ふじもり みお)によく似ていた。悠真は、まるで私が逆上して手でも上げるとでも思っているかのように、大げさなくらい実里の前に立って彼女をかばった。こうして並んでいると、あの三人のほうがよほど家族らしく見えた。和哉は実里をなだめながら、苛立ちを隠そうともせず私を問い詰めた。「マイクを付けたままだったのを忘れていただけだろう。それくらいのことで、どうしてそんなに騒ぐんだ?それとも……実里のことが
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第2話
かつて私がこの指輪を買って和哉に贈ったとき、彼は眠るときでさえ外そうとしないほど大切にしていた。それなのに今は、あまりにもあっさりと手放した。和哉は実里の手を引いたまま行ってしまった。悠真も、私が引き止めるとでも思ったのか、慌てたようにそのあとを追っていった。そばに立っていた年配の執事が、深いため息をついた。「奥様、どうしてわざわざ旦那様のお気に障るようなことをなさるのですか?旦那様が昔のことを忘れられないのは、奥様だってご存じでしょう」私はかすかに笑うと、床に落ちていた指輪を拾い上げてゴミ箱に放り込み、そのまま何も言わなかった。部屋に戻ると、身につけていた華やかなドレスを脱ぎ、自分の白いシャツに着替えて、クローゼットにある私の服を片っ端からスーツケースに詰め込んだ。普通の夫婦なら離婚となれば、財産のことや、頭を冷やす時間のことまで考えるのだろう。けれど、私と和哉をつなぎとめているものなんて、悠真という子どもひとりだけだった。あの頃、この地方中の話題になった氷室家の盛大な結婚式で、当人同士が婚姻届すら出していなかったなんて、誰が想像しただろう。五年たった今でも、あの日の和哉の言葉は、はっきりと頭の奥に残っている。「俺の心も、戸籍の上の妻って立場も、ずっと澪のものだ。結婚式の日になれば、お前は後悔することになる」そう言い放った和哉の顔には、残酷な笑みが浮かんでいた。あれはただのその場の勢いで言った言葉だと思っていた。けれど和哉は、澪の遺影を手にしたまま、本当に式場に現れた。口元に嘲るような笑みを浮かべたまま、彼は私を見下ろした。「夏弥。俺と結婚したいなら、澪の遺影の前で誓え。俺と結ばれるためなら、何だってできるって言ってたよな?お前は二番目でいろ。これから先も、俺の妻は澪だけだ」あの世で一人ぼっちの澪を不安にさせるわけにはいかない――だからこうするしかないんだと、彼は言った。胸が引き裂かれそうだった。それでも私は脇目も振らず、この結婚にすがりつき、彼のために悠真を産んだ。じゃあ、私はどうすればよかったのだろう。相手は和哉だった。十五年ものあいだ私のそばにいて、空気みたいに当たり前で、それでもなくてはならない存在だった。あんなふうに満たされた時間が、たしかに私
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第3話
質素ではあったけれど、自分だけの小さな居場所がある。それだけで、私はもう十分に満たされていた。氷室家には、かつて私だけの温室があった。まだ幼かったころ、私と和哉が並んで本を読んだり、休んだりしていた場所だ。けれど澪と出会ってから、彼は私たちが植えた花を一本残らず自分の手で引き抜いた。代わりに、自分の好きなスケートボードを並べた。そしてその真ん中には、真っ赤に改造されたフェラーリが据えられていた。かつて和哉が澪とともにトロフィーを手にしたときの愛車で、誰ひとり触れることすら許されなかった。澪がレース事故で亡くなった翌年、八千代が使用人に命じて、それらをすべて処分させた。それを知った和哉は、八千代のコレクションをめちゃくちゃに壊した。さらに、八千代と夫の氷室雄一郎(ひむろ ゆういちろう)の思い出の品を踏みつけたまま、ふてぶてしく煙草に火をつけて言った。「今度また俺と澪のものに手を出してみろ。この屋敷に火をつけてやる。誰一人ただじゃ済まないぞ!」あの日から、その温室は氷室家の誰も近づけない場所になった。和哉に特別に許された悠真を除いて、誰も入ることはできなかった。午後、私は駿平と約束して、星空のタイムラプスを撮るため山へ向かった。そこからは歩いて登るしかなかった。少しでも荷物を持とうとした私に、駿平は機材をさっと背中に隠して笑った。「これは渡しませんよ。女の子に重い物を持たせるなんて、そんなことできません」その一言に、私はふいに遠い記憶へ引き戻された。和哉と一緒にいたころ、彼はいつも大股で先を歩き、私はその後ろから荷物を持ってついていき、水まで手渡していた。悠真も物心がつくころには、それを当たり前のように真似するようになった。和哉には嬉しそうに悩みごとを打ち明けるくせに、歩き疲れると私を呼びつけて抱っこをせがんだ。出かけるたび、和哉と悠真は汗ひとつかかず、何事もない顔をして歩いていた。その一方で私は、荷物をいくつも抱えたまま、スマホを肩に挟んで会社の仕事まで片づけていた。ときどき和哉はそんな私を見て、鼻で笑った。「そんな荷物でいつまで手間取ってるんだよ。夏弥、お前ほんと役に立たないな。澪だったら、お前なんかよりずっとうまくやる。なんでおばあ様がお前なんか俺に押しつけたんだよ
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第4話
悠真は一瞬ぽかんとすると、次の瞬間、大声で泣き出した。静まり返った夜の中、その泣き声だけがやけに鋭く響いた。「なんだよそれ!ママを替えるなんて、あれは冗談だったのに!なんで本気にするんだよ!相手は子どもなんだぞ!ひどいよ!実里さんのほうがずっと優しい!もう二度と口なんかきいてやらない!」私は何も言わず通話を切り、そのまま番号を着信拒否にした。駿平は心配そうに私を見たが、何も聞かなかった。私は彼に軽く笑いかけ、そのまま草の上に寝転んだ。氷室家に入ったとき、八千代は私に礼儀作法を教える先生を八人もつけた。立ち居振る舞いの細かいところまで厳しく見られ、少しでも隙があれば許されなかった。何があっても、人前で取り乱すことだけは許されなかった。来る日も来る日も鞭で打たれ、罰を受け続けた。求められていたのは、ただ一つ――氷室家に恥をかかせないことだった。あるとき、道端で花を摘んでいるところを和哉に見つかり、彼は苛立ちを隠そうともせず冷たく言い放った。「夏弥、氷室家がお前を育てたのは、恥をかかせるためじゃない!少しは未来の氷室夫人らしい振る舞いを身につけたらどうだ?だからお前は、いつまでたっても澪に敵わないんだ」あのころ浴びせられた言葉が、今も耳の奥で何度もよみがえった。でも今は、もうどうでもよかった。私はもう、あの人たちの望むように朽ちたりはしない。外の広い世界を見に行って、自分の夢にもう一度向き合う。そしていつか、和哉が目の前に立っても、何事もなかったようにその横を通り過ぎられるようになりたい。夜更けに深く眠り込み、目を覚ますと、私はテントの中でいつの間にか寝袋にくるまっていた。外へ出ると、駿平はもうカメラの前に立っていて、その横顔は初めて見るほど真剣だった。彼は素早くカメラを構え、朝日が夜の名残を押しのける一瞬を切り取っていく。「夏弥さん、動かないで!」その声に驚いて、髪を整えようとしていた手が止まった。駿平は目を輝かせたまま、私に向かって夢中でシャッターを切り続けた。どうやら、私をモデル代わりにしているらしい。撮り終わると、私は思わずこわばった腰に手を当てた。やっぱり、モデルなんてそう簡単にできるものじゃない。無理をしてモデル役なんか引き受けたせい
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第5話
彼がこんなに気が利くなんて思ってもみなかった。こんな細かいことまで気づいてくれるなんて。驚いた顔をしていたのがわかったのだろう。駿平は得意げに、背中の後ろから小さな瓶を取り出した。「これ、家まで取りに戻ったんです。俺、マッサージ習ったことあるんですよ。けっこう上手いんで……よかったら揉みますよ。モデルしてくれたお礼ってことで」駿平は目を細めて笑った。その様子が、しっぽを振っている子犬みたいで、思わず笑ってしまう。私がうなずいた途端、彼はさっと手を伸ばしてきた。正直、驚くほど気持ちよかった。長年悩まされてきた腰の痛みが、彼の手の下で少しずつやわらいでいく。和哉が私の腰の傷を嫌っていたのには理由がある。この傷は――私が和哉をかばって負ったものだった。大学一年のとき、彼は澪のことで家を飛び出し、雄一郎に見つかって、危うく脚を折られかけた。私はとっさに飛び出して、その椅子を受け止めた。意識を失う直前、和哉の声がかすかに聞こえた気がした。「夏弥、目を開けろ……もう無茶はしない。本当に悪かった。なんでそんなことするんだよ。おじい様の前に出てくるなんて……こんな若いうちに腰なんか痛めて、これからどうするんだ。マッサージも習ってくるから。覚えたら毎日ちゃんとやってやる」――けれど、その約束が守られることはなかった。退院した日の朝、和哉は見張りのボディーガードを気絶させ、澪と一緒にそのまま海外へ逃げてしまった。腰を押さえながらようやく居場所を突き止めて訪ねたとき、和哉は澪の脚を優しく揉んでいた。その表情は、私が一度も見たことのないほど大切そうで、静かなものだった。私に気づいた澪は、わざとらしく和哉の襟元をつかむと、そのまま強く唇を重ねた。何もかも見透かしたような視線を向けられて、私はその場から逃げ出した。テレビのニュース取材で、最近の別居騒動について問われた和哉の声は、相変わらず波ひとつ立たないように静かだった。「妻は少し気分転換に出ているだけです。すぐ戻ります」その口ぶりはあまりにも確信に満ちていて、私が氷室家を離れられるはずがないと、最初から決めつけているようだった。レポーターは羨ましそうに声を弾ませた。ああいうふうに、私を羨ましがる人が大勢いることは知っている。草原で育った一
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第6話
夕方までずっと描き続けて、ようやく私はパソコンを閉じ、何か食べようと立ち上がった。箸を手に取ったところで、ふと隣の駿平のことを思い出した。あの日の仕事に打ち込む様子を見るかぎり、和哉と同じで、夢中になると食事も忘れてしまうタイプなのかもしれない。妊娠八か月のころ、八千代が重い病に伏せり、会社に入ったばかりの和哉は目が回るほど忙しく、食事を抜いては胃を痛めていた。それから私は、食事の時間になるたびにお弁当を持って、彼のオフィスへ通うようになった。最初のうちは断られて、応接室で何時間も待たされることもあった。けれど、そのうち彼も慣れていったらしかった。仕事の手を止めては、食事をしながら会社のことを私に話してくれるようになった。今思えば、あれが結婚してからたった一度だけ訪れた、穏やかで静かな時間だったのかもしれない。私は頭に浮かんだ思いを振り払い、隣の庭の門を叩いた。「もうごはん食べた?少し作りすぎちゃったんだけど、よかったら一緒にどう?」駿平は子犬みたいにぱっと目を輝かせ、お腹を押さえながら大げさに声を上げた。「よかった!夏弥さん、俺のこと忘れてなかったんですね。仕事に集中すると、本当に食べるの忘れちゃうんですよ。今すぐ手を止めて行きます!」それからの数日、私と駿平のあいだには、なんとなくひとつの決まりごとのようなものができていた。彼は毎日うちへごはんを食べに来て、食後には皿洗いや家事まで手伝ってくれた。そんな駿平のふるまいが、少しずつ私の空っぽになっていた心を埋めていった。私のデザイン案はほどなく白見原の会社に採用され、面談に来てほしいと連絡が入った。発つ日、私は朝早くから駿平に別れを告げに行こうとした。扉を開けた途端、駿平の家の前に何台ものスーパーカーが停まっているのが目に入った。黒い服に身を包んだ、どう見てもボディガードらしい男たちが八人、一直線に並んで駿平の家の前を固めていた。私はしばらくためらってから、ようやく意を決して近づいた。けれど、あと少しのところで、黒服の一人がすっと手を伸ばし、私の行く手を遮った。「夏弥さんに近づくな!」すると駿平が大股で駆け寄ってきて、その男の手首を一気につかんだ。いつも顔に浮かべている明るい笑みは跡形もなく消え、その目には、見たことのな
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第7話
以前は八千代がいたから、氷室家の食卓にも、ときどき辛い料理が並び、私の好みにも気を配ってくれていた。けれど、その後氷室家に残ったのは、私と和哉だけだった。私が唐辛子を使った料理を作るたび、和哉の声には決まって苛立ちが混じった。「俺が澪の影響で辛いもの食べないって、お前だって知ってるだろ。なんでわざわざこんなもの作るんだよ。嫌がらせのつもりか?俺はただ、澪のことをもう少し心の中に残しておきたいだけなんだ。もう一緒に暮らしてるんだから、そのくらいは大目に見てくれないか。こんなくだらない真似、いったいいつまで続けるつもりだ」これ以上、和哉の中で自分の印象を悪くしたくなくて、私はもとの好みを手放し、彼に合わせて淡い味つけのおかずばかり食べるようになった。誕生日パーティーの数日前、彼が留守にしているあいだに、自分のためだけに辛い料理をいくつか作ったことがあった。けれど、その匂いに気づいた悠真が、何も言わずそのままゴミ箱に捨ててしまった。あの愛らしい顔を怒りで歪め、悠真はきつい目で私を睨みつけた。「パパが何回も言ってるでしょ!この家に唐辛子なんて置いちゃだめなんだよ。なんでパパが嫌がることするの?ずっとこの家にいるのに、まだそんな貧乏くさいもの好きなんて。僕のママになる資格なんかない!」悠真のあからさまな軽蔑の視線を受けながら、私は家にある辛味の調味料をすべて捨てた。ずっと口にしないでいると、舌はどうしたってその味に慣れなくなっていく。それでも、味の記憶は人の想いよりずっと長く残るものらしい。ほどなく私は額に汗をにじませながら夢中で箸を進め、久しぶりの楽しさを取り戻していた。白見原に戻ってからの日々は、思っていた以上に心地よかった。押しかけてくるマスコミもいなければ、煩わしい会社の仕事に追われることもない。あの日のことがよほど堪えたのか、それきり悠真から電話がかかってくることもなかった。こうして私は、ようやく氷室家とは完全に他人になった。なかなか戻らない氷室夫人である私よりも、今、世間の関心を集めているのは実里のほうだった。ニュースに次々と映し出される二人の親しげな写真を見ながら、私は思わず皮肉っぽく口元を歪めた。そのときになってようやく分かった。和哉は、私が思っていたほど澪を深く愛していたわけ
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第8話
駿平は痛がるふりをして私の首元にもたれかかり、いたずらっぽく笑った。「夏弥さん、こんな話聞いたことあります?他人の恋に割り込めば最低、友達の恋に割り込むならばれないように、自分から飛び込むなら――本気ってことですよ。夏弥さんの二番目になれるなら、俺はむしろラッキーです」吐息がくすぐるように首筋にかかって、思わず身体が震えた。気がつけば、私はほとんど彼の腕の中に囲い込まれていた。駿平はきらきらした目でまっすぐ私を見つめ、静かに言った。「ここまで本気なんですから、そろそろ本命にしてくれません?一緒に籍、入れましょうよ」手にしたばかりの婚姻届受理証明書を見つめながら、私はしばらく頭が追いつかなかった。さっきあんなことを言ったあとで、駿平は急にしょんぼりした顔になって、私のほうを見た。「母さんに、カメラマンとしてやっていきたいなら、まず先に結婚しろって言われてて。でも俺の周り、夏弥さん以外ほんとに誰もいないんです。頼める人なんて、ひとりもいなくて。夏弥さんも、まだそんなにすぐ離婚できないだろうし……俺、どうしたらいいんでしょう」駿平は困ったように眉を下げたまま、じっと私を見つめていた。そんな顔をされて、私はつい、和哉とは正式に籍を入れていないことまで話してしまった。きっと、十五年も一緒にいて、ほとんど毎日を隣で過ごしてきたせいだと思う。和哉はもう、私たちをつないでいるものが悠真という子どもしかないことも、そのうえ正式な婚姻関係すら結んでいないことも、いつの間にか気にも留めなくなっていたのだろう。それを聞いた途端、駿平は私の手を取って、そのまま役所へ向かった。昔の私は、いつかきっと、婚姻届に私と和哉の名前が並ぶ日が来ると信じていた。でも、その願いが叶う日が来るなんて、思ってもいなかった。隣にいた相手は、和哉じゃなかったけれど。本当に結婚が条件だったのかは分からないけれど、駿平のタイムラプス作品展は家族の後押しもあって、あっという間に開催が決まった。私が会場に着いたときには、展示はもう終わりかけていた。それでも、まだ多くの人が会場に残っていた。その中に、和哉と悠真によく似た親子の姿まで見つけた。この時間なら、あの二人はもう家に戻って実里と過ごしているはずだ。こんな場所にいるはずが
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第9話
ぬくぬく育ってきた和哉は、どう見ても駿平の相手になるはずもなく、もみ合ったかと思った次の瞬間には、あっさり床に叩きつけられていた。私が助け起こそうともしないのを見て、和哉の目が一瞬だけ揺れた。けれど次の瞬間には奥歯を噛みしめ、そのまま駿平を睨みつけて怒鳴った。「さっきあの絵を買いたいって言ったとき、非売品だって言ったよな。自分の妻のために描いたものだって。夏弥は俺の妻だ。いい加減にしろ」駿平は表情をすっと冷やすと、腕を組んだまま倒れた和哉を見下ろして、静かに笑った。「あなたの妻?人の奥さんを自分のものみたいに言うなら、それなりの根拠くらい出してもらえます?――今ここで。出せるなら、ですけど」和哉と悠真の顔色が、見る見るうちに変わった。あの二人がいちばんよく分かっている。この何年ものあいだ、私は氷室家にいても、ただ空気みたいな存在だった。二人とも私を見るのすら嫌がっていたのだから、一緒に写った写真なんてあるはずもない。追い詰められたように、和哉は虚勢を張って怒鳴り返した。「お前が俺の妻を隠しておいて、よくそんなことが言えるな。説明が必要なのはそっちのほうだろう」駿平は肩をすくめると、小さく笑った。「説明?別にいいですよ。あなたたちに証拠がなくても、俺にはありますから」そう言って、胸元から婚姻届受理証明書を取り出した。「俺と夏弥さんは、ちゃんと届けを出してます。今、夏弥さんは法的にも俺の妻です」和哉はその証明書を見つめたまま、しばらく動かなかった。長い沈黙のあと、和哉は駿平の肩越しに、まっすぐ私を睨みつけてきた。「夏弥、お前、ずいぶん勝手なことしてくれたな。俺に黙って外で他の男と届けを出したのか?今戻ってくるなら、お前がしでかしたことは全部なかったことにしてやる」そう言って、和哉は私に向かって手を差し出した。これまでの私は、その手が差し出されれば、何をしていても迷わず立ち上がり、彼のあとについて行った。けれど今回は、動かなかった。「和哉、もう氷室家の家宝は返した。私たちはとっくに終わってる」「終わってる?夏弥、氷室家が何年お前を育ててきたと思ってる。お前が終わりだなんてひと言言えば、それで済むと思ってるのか?」和哉の顔は怒りで青ざめていた。駿平
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第10話
いったい、どういうことなの?和哉はもともと血の気が多い。こんな状況を見るや否や、すぐに自分のボディガードに手を出せと命じた。そのせいで場は一気に騒然となり、あっという間に収拾がつかなくなった。ほどなくして、私たちは全員まとめて警察署へ連れて行かれた。駿平は眉のあたりを和哉にかすめられただけなのに、私の肩にもたれかかりながら「痛い、痛い」と大げさに呻いている。その一方で和哉のほうは傷がひどく、顔じゅう青あざだらけになって、取調室の向こう側で痛みに息を詰めていた。そんな様子を見て、駿平はつい吹き出した。「氷室さん、いい年して相変わらずですね。真っ先に手を出すなんて。それに比べて俺は若いのに落ち着いてるし、夏弥さんの隣には俺のほうが似合うと思いません?」私はテーブルの下でそっと彼の太ももに触れ、これ以上余計なことを言わないよう目で合図した。けれど次の瞬間、逆に駿平に手をつかまれた。そのまま私の手を持ち上げると、和哉の目の前で見せつけるように、わざとゆっくり指を絡めてきた。ねっとりと甘さを含んだその仕草に、和哉の表情が見る見るうちに険しくなっていった。だが立ち上がろうとした瞬間、警察官に肩を押さえられ、そのまま椅子へ押し戻された。正当防衛と認められたおかげで、私と駿平はほどなく解放された。部屋を出る前に、私は目を真っ赤にした和哉をまっすぐ見つめ、ふっと笑った。「和哉。氷室家に十五年育てられたのは事実よ。でも、私の両親はあなたたちを助けて亡くなったの。それに私は氷室グループであれだけ働いた。育ててもらった恩なら、とっくに返し終えてる。もう二度と、私の前に現れないで」悠真がぴたりと後を追ってこようとしたので、私は軽く手を上げてそれを制した。「たしかにあなたは私が産んだ子よ。でも、一度だって私をママって呼ばなかった。これから先も呼ばなくていい。行きなさい」そう言って私は背を向け、後ろで悲鳴にも似た声を上げる二人をそのまま置いて歩き出した。警察署を出た途端、駿平はまたいつもの人懐こい顔に戻った。「ねえ、夏弥さん。元夫さん、ほんと容赦なかったですよ。ほら俺、まだちゃんとかっこいいですよね?」よく見ようとして顔を近づけた瞬間、駿平はひょいと身をかがめ、私の唇の端にそっとキスを触れさせ
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