INICIAR SESIÓNたった一度、換気のために窓を開けた。それだけのことで、夫の幼馴染が風邪を引いた。 激怒した夫・久我蓮(くが れん)は、妊娠中の久我紬(くが つむぎ)を屋敷の裏手にある業務用冷凍倉庫へ閉じ込めるよう命じた。 「俺の子を腹に宿しているからといって、莉奈(りな)を虐めていいとでも思ったか? あいつの髪一本でも傷つけてみろ。百倍にして償わせてやる」 紬はガタガタと震えながら、凍りついたコンクリートの床に頭を擦り付けた。「ごめんなさい、謝るから……!これからは莉奈さんの下僕として何でもする。だから、許して……二度と彼女を傷つけたりしないから!」 けれど、蓮は冷酷な瞳で紬を一瞥し、重厚な鉄の扉を閉ざした。「頭を冷やせ。そうすれば、その腐った根性も少しはマシになるだろう」 ガチャリ、と鍵のかかる音が、紬の運命を断ち切った。 それから一週間後。幼馴染の風邪が完治し、蓮はようやく冷凍倉庫の中の紬を思い出した。 「おい、紬。反省したか?今すぐ莉奈に土下座して謝るなら、ここから出してやってもいい」 ……だが、彼は知らない。 氷点下の闇の中で、紬の体はとっくに冷たい塊になっていることを。 彼が「跡取り」として宝物のように大切にしていた小さな命と共に、紬の心臓が永遠に止まってしまったことを。
Ver más紬は宙に浮かび、蓮の遺体が運ばれていくのを見下ろしていた。彼女の心にはさざ波ひとつ立たなかった。恨みも、怨念もない。まるで赤の他人の結末を見ているような、不思議なほど静かな気持ちだった。かつて彼女は、彼を一生恨み続けると思っていた。冷凍倉庫での冷酷な仕打ちも、子供を殺されたことも、莉奈に騙されて自分を傷つけ続けたことも、すべてを呪ってやると。けれど、こうして魂だけの姿になり、彼が一生をかけて償う姿を見続け、意気揚々としていた「久我蓮」という男が、見る影もなく老いさらばえていく様を見届けていたら――あんなに激しかった恨みは、風に吹かれた煙のように消え去ってしまった。それは「許した」からではない。「憎むほどの価値もなくなった」からだ。紬はかつて、彼を熱烈に愛し、すべてを捧げた。けれど彼はその愛を踏みにじり、尊厳を粉々に砕いた。その愛はとっくに、あの極寒の冷凍倉庫の中で凍りつき、砕け散ってしまっていたのだ。もう二度と元に戻ることはない。その時、懐かしい声が聞こえた。「紬……」振り向くと、そこには父と母が立っていた。記憶の中にあるいつもの姿だ。母は濃紺のカーディガンを、父はグレーのジャケットを着て、優しい笑顔で紬に向かって歩いてくる。そして、二人の足元には、小さな影が寄り添っていた。白いベビー服を着た男の子。まん丸な顔に、愛らしい笑顔を浮かべている。その大きな瞳は、紬にそっくりだった。あの子だ。失われた子供だ。氷のように冷たく固まっていたあの日とは違う、とても健康的で、可愛い姿をしていた。「紬、迎えに来たよ」母が手を差し出した。その手は、幼い頃に握った時と同じように温かかった。紬はもう耐えきれず、切れた糸のように涙をこぼしながら駆け出し、母の胸に飛び込んだ。母は優しく紬の背中をトントンと叩いてくれた。小さい頃、いじめられて泣いていた彼女を慰めてくれた時と同じように。「よしよし、もう泣かないで。紬はたくさん苦労したわね。これからはもう、辛い思いなんてしなくていいのよ」父も目を赤くして傍らに立ち、娘の頭を撫でた。「バカな子だ。そもそも、蓮さんなんかと結婚させるべきじゃなかったんだ。お前にこんな苦労をさせて……すまなかったな」紬は首を横に振り、父を見上げた。「ううん、お父さんのせいじゃない。私が自分で選んだ道だから…
秋風が枯れ落ち葉を巻き上げ、墓の前でひとしきり舞った後、カサカサと音を立てて蓮の肩に降り積もる。彼は桃の木でできた杖に寄りかかっていた。持ち手部分に彫刻された「絡み合う蓮の花」は、かつての艶を失っている。それはまるで、長い年月の風雪に晒され、老いさらばえて脆くなった彼自身そのものだった。ここ数年、彼は墓の側を離れようとしなかった。墓石の横には色褪せたウールのブランケットが敷かれ、その上には紬が生前気に入っていたジャスミンの香炉が置かれている。だが今、香炉の中の灰は冷え切っている。彼が何かを思い出した時だけ、震える手でマッチを擦り、安物の線香に火を灯すのだ。頼りない煙が風に吹かれ、虚空へと消えていくのを、彼はただぼんやりと見つめていた。彼の髪はすっかり白くなり、薄くなった頭皮に張り付いている。目尻の皺は深い溝のように刻まれ、かつて鋭い光を放っていた瞳は、今や白く濁り、光を失っていた。座り込むたびに、彼は墓石を支えにして、荒い息を整えなければならない。胸の奥から響く咳は、まるで壊れたふいごが軋むような音を立て、一度咳き込むたびに身を引き裂くような痛みが走った。執事の佐久間は、屋敷に戻って療養するよう何度も説得した。介護士を雇い、温かいベッドで過ごすべきだと。しかし蓮は、そのたびに静かに首を横に振るのだった。彼は枯れ木のような指で、墓石に刻まれた「紬」の名前を何度も何度も撫でる。まるで、壊れやすい至宝に触れるかのように。「紬は、あの広い屋敷の寒々しさが嫌いなんだ」彼はいつも、うわごとのようにそう呟いた。「ここには彼女の好きな桐の木がある。子供も一緒にいる。ここなら、彼女は寂しくないはずだ」だが本当は、彼自身が一番よくわかっていた。寂しくてたまらないのは、紬ではなく自分自身なのだと。ある日の早朝。まだ空が白みきらないうちに、蓮は墓の脇に建てられた粗末な小屋から、足を引きずるようにして出てきた。それは佐久間が手配して建てた仮設の小屋で、中には粗末なベッドと石炭ストーブがあるだけだ。冬は氷室のように冷え込み、夏は蒸し風呂のように暑い。それでも彼は、ここを離れようとはしなかった。彼は色褪せた厚手の上着を羽織り、墓の前まで来ると、懐からハンカチに包まれた「何か」を大切そうに取り出した。震える手で包みを開く。中に入っていたのは、
冷凍倉庫に閉じ込められた莉奈は、極限の苦しみを味わっていた。骨の髄まで凍てつく寒さ、耐え難い飢え、そしていつ死ぬかわからない恐怖。それらが少しずつ彼女の精神を蝕んでいく。彼女はようやく理解したのだ。かつて自分が紬に与えた苦痛が、どれほど凄惨なものだったのかを。彼女は後悔し始めた。自分の愚かな行いを悔やみ、泣き叫んだ。もし紬に嫉妬などしなければ、もし執拗に彼女を陥れようとしなければ、こんな無残な結末を迎えることはなかったのに。しかし、今さら何を悔いても遅すぎた。蓮に彼女を許すつもりなど毛頭なかった。彼は使用人に命じ、莉奈がすぐに死んでしまわないよう、わずかな水と食料だけを与え、生かさず殺さずの状態で苦しみを長引かせたのだ。莉奈は扉越しに蓮へ命乞いをしようとしたが、蓮が姿を見せることは二度となかった。彼の心にあるのは、亡き妻への懺悔と、莉奈への尽きることのない憎悪だけだった。数日後。使用人が、息絶えている莉奈を発見した。その遺体はカチコチに凍りつき、顔には死の瞬間の恐怖が張り付いたままだった。その報告を聞いても、蓮は眉一つ動かさなかった。彼にとって、莉奈の死は心の中の憎しみをほんの少し和らげる材料にはなったかもしれない。だが、どれだけ彼女を苦しめたところで、愛する紬と子供が受けた傷も、失われた命も、何一つ戻ってはこないのだ。蓮はそれからも、来る日も来る日も紬の墓の前に座り続けた。雨の日も風の日も、彼はそこを動こうとはしなかった。長期間にわたりトップが不在となった会社は、深刻な経営危機に陥った。株主たちは激怒して蓮に会長職の辞任を迫り、かつて栄華を極めた久我家の資産と産業は、坂を転がり落ちるように没落していった。だが、蓮はそのことに関心すら示さなかった。富も、名声も、地位も、今の彼にとっては道端の石ころほどの価値もなかった。彼が唯一執着し、守りたかったのは紬と子供だけだった。しかし、その宝物は彼自身の手によって永遠に失われてしまったのだ。彼は夜ごと、夢を見るようになった。夢の中では、紬が優しい笑顔で彼に歩み寄ってくる。その腕には、元気な赤ん坊が抱かれている。「紬……!」蓮は涙を流し、愛おしいその姿を抱きしめようと手を伸ばす。しかし、指先が触れそうになった瞬間、二人の姿は霧のように消え失せてしまうのだ。「待ってくれ!行かないでくれ……
蓮は、紬の墓前にやってきた。墓前に手向けられた遺影の中で、紬は優しく微笑んでいる。けれどその笑顔は、まるで鋭利な刃物のように蓮の心を突き刺した。彼はあの小さな子供を、紬と同じ墓に眠らせてくれた。まだ名前もなく、この世界の温かさを知ることもなかったけれど、それでも彼にとっては大切な我が子だったのだ。「紬、すまない……」蓮は墓石の前に跪き、止めどなく涙をこぼした。「今さら何を言っても遅いことはわかっている。俺は莉奈に目を曇らされ、お前にあんな残酷なことをし、俺たちの子供まで死なせてしまった。莉奈はあの冷凍倉庫に閉じ込めた。お前と子供の命で償わせるつもりだ。こんなことでは到底、俺が犯した罪の償いにはならないとわかっているが、今の俺にできるのはこれだけなんだ。紬……もしお前の魂がまだここにあるなら、俺を許してくれないか?本当に後悔しているんだ。お前と子供に、会いたくてたまらない……」彼はそうして、日の出から日の入りまで跪き続け、ひたすらに懺悔を繰り返した。けれど、彼がどれだけ言葉を尽くしても、紬からの返事が返ってくることは二度となかった。その時、執事の佐久間が歩み寄り、蓮に一冊の日記帳を差し出した。「旦那様、これは奥様の日記帳でございます。遺品を整理していた際に見つけました」蓮は日記帳を受け取り、震える手でページを開いた。そこには、二人が結婚してからの日々が綴られていた。彼への愛、妊娠した時の喜び、そして彼に傷つけられた時の苦しみと絶望が、克明に記されていた。【今日、蓮さんはまた莉奈さんのことで私を怒鳴った。本当に悔しいし、悲しい。私は莉奈さんをいじめてなんていないのに、彼はどうしても私を信じてくれない】【赤ちゃん、今日ママはきみに音楽を聴かせたよ。聞こえたかな?ママはきみが生まれてくるのを本当に楽しみにしているの。いつか私たち家族が、幸せに暮らせますように】【蓮さんに部屋に閉じ込められてしまった。お腹が空いたし、すごく怖い。赤ちゃん、強くいてね。ママが絶対に守るから】そして、最後のページ。【冷凍倉庫に閉じ込められてしまった。寒い……すごく寒い。赤ちゃん、ごめんね。ママはもう耐えられそうにないの。守ってあげられなくてごめんね。……蓮さん、あなたが憎い。私はあなたを、永遠に許さない】最後の数行は、文字が乱れ、絶望に満ちていた。蓮