LOGIN銀座の高級イタリアンレストラン。柔らかな照明とジャズの調べが、落ち着いた雰囲気を作り出していた。
麗奈は、高瀬亮介という男性と初めて対面した。
三十八歳。ロバート・チェンの義理の弟――ロバートの妹と結婚していたが、三年前に妻を病気で亡くしていた。現在はGSCの欧州統括を務めている。
「藤崎さんの評判は、ロンドンまで届いていますよ」
高瀬は、穏やかな笑みを浮かべた。長身で知的な雰囲気を持つ男性だった。眼鏡の奥の瞳には、温かさと同時に鋭い観察力が宿っていた。
「大げさです」
「いえ、本当です。あなたの手がけた製薬会社のケーススタディは、既にハーバードのビジネススクールで教材として使われています」
麗奈は驚いた。まだ一年も経っていないプロジェクトが、既にそこまで評価されているとは。
「藤崎さん、失礼ですが……あなたはなぜこの業界に?」
高瀬の質問は、単なる社交辞令ではなかった。本当に興味を持っているようだった。
「元々、広告代理店にいました。しかし……事情があって」
「東邦広告ですね」
麗奈の手が、一瞬止まった。
「調べたんですか?」
「いえ、ロバートから聞きました。そして、私なりに背景を調べさせていただきました。失礼をお許しください」
高瀬は真剣な表情になった。
「あなたは、不当な扱いを受けた。しかし、それに押しつぶされることなく、ここまで登ってきた。それは、並大抵の精神力ではできないことです」
麗奈は黙ってワインを口に含んだ。
「藤崎さん、一つお願いがあります」
「何でしょうか?」
「私と一緒に、日本のコンサルティング市場を変えませんか?」
高瀬は、タブレットを取り出した。
「GSCは現在、アジア市場の拡大を計画しています。特に日本市場は、伝統的な企業文化と急速なグローバル化の狭間で、多くの企業が方向性を見失っている。そこに、私たちのチャンスがあります」
画面には、詳細な市場分析データが表示されていた。
「あなたには、日本企業の心を理解する能力がある。それは、外国人コンサルタントには絶対に真似できない強みです。私には戦略があり、あなたには実行力がある。一緒にやりませんか?」
麗奈は考えた。この提案を受け入れることは、単なるキャリアアップではない。それは、日本のビジネス界で本当に影響力を持つ存在になることを意味していた。
「考えさせてください」
「もちろん。ただし、一つだけ」
高瀬は真っすぐ麗奈を見た。
「あなたは、
その質問は、麗奈の核心を突いていた。
彼女は本当に、過去を忘れていたのだろうか? 田所と狩野への怒りは、消えていたのだろうか?
「分かりません」
麗奈は正直に答えた。
「ただ、今は前を向いて進むことしか考えていません」
「それで十分です」
高瀬は微笑んだ。
その後の一年間、麗奈は文字通り業界の伝説となった。
彼女が手がけたプロジェクトは、すべて目覚ましい成果を上げた。化粧品、自動車、不動産、金融――業種を問わず、麗奈の戦略は的中した。
彼女の手法は、常にデータに基づいていたが、同時に人間の感情への深い理解があった。
ある自動車メーカーのプロジェクトで、麗奈はこう分析した。
「この車を買う人は、単に移動手段を求めているのではありません。彼らは『自由』を買っているんです。しかし、現代の自由とは何か? それは、束縛からの解放ではなく、『選択肢を持つこと』です」
彼女は、車のマーケティングを「ライフスタイルの選択肢」として再定義した。都市での利便性、週末の家族旅行、一人の時間――すべてのシーンで、この車は「あなたらしい選択」を可能にする。
結果、ターゲット層が大幅に拡大し、販売台数は前年比百五十パーセント増加した。
業界誌は麗奈を「日本マーケティング界の新星」と評した。
しかし、麗奈自身は、成功の中でも常に冷静だった。
「高瀬さん、成功は脆いものです」
ある日、プロジェクトの打ち上げで、麗奈は高瀬にそう言った。
「一つの判断ミスで、すべてが崩れる。私はそれを、身をもって知っています」
「だからこそ、あなたは強いんです」
高瀬は答えた。
「成功の甘さを知らない人は、簡単に調子に乗る。しかし、一度底を見た人は、常に足元を見て歩く」
二人の間には、いつしか仕事を超えた信頼関係が築かれていた。
そして、ある春の日、転機が訪れた。
ロバートが、麗奈を自分のオフィスに呼んだ。
「藤崎さん、あなたに大きなプロジェクトを任せたい」
机の上には、一つのファイルが置かれていた。
表紙には、見覚えのある社名が書かれていた。
東邦広告。
麗奈の心臓が、激しく鳴り始めた。
「東邦広告が、経営危機に陥っています」
ロバートは、淡々と説明を始めた。
「大手クライアントの離反、不適切な経営判断、そして内部の不正疑惑。彼らは、外部コンサルタントによる経営再建を余儀なくされています」
「それで……GSCに依頼が?」
「はい。そして、私はあなたをプロジェクトリーダーに推薦しました」
麗奈は、ファイルを手に取った。指先が微かに震えていた。
「もちろん、断ることもできます。個人的な事情があることは理解しています」
麗奈は、ゆっくりとファイルを開いた。
そこには、東邦広告の詳細な財務状況、組織図、そして経営陣のリストがあった。
狩野達也の名前が、取締役営業本部長として記載されていた。
田所健一の名前も、営業部次長として載っていた。
「私、このプロジェクトを
麗奈の声は、驚くほど冷静だった。
「本当にいいんですか?」
「はい。これは、私にとって必要なことです」
麗奈は、ファイルを閉じた。
「過去と向き合う時が来たようです」
ロバートは、麗奈の目を見た。そこには、かつての傷ついた女性ではなく、確固たる意志を持ったプロフェッショナルがいた。
「分かりました。ただし、一つだけ約束してください」
「何でしょう?」
「あなた自身を見失わないこと。復讐は、時に自分自身を蝕みます」
「大丈夫です。私は、もう二年前の藤崎麗奈ではありません」
麗奈は立ち上がった。
「では、来週から東邦広告に入ります。準備を始めます」
オフィスを出た麗奈は、窓から東京の街を見下ろした。
どこかにある東邦広告のビル。かつて自分が雨の中で去った場所。
「ただいま」
麗奈は小さく呟いた。しかし、それは帰郷の言葉ではなく、戦いの宣言だった。
それから六ヶ月が経った。 麗奈は、GSC日本代表としての最初の年を、目覚ましい成功で締めくくろうとしていた。新規クライアントは三十社を超え、チームは二倍の規模に拡大した。業界誌は彼女を「日本コンサルティング業界の新時代を切り開く女性リーダー」と評した。 しかし、麗奈にとって最も大きな変化は、仕事ではなく、心の中にあった。 高瀬亮介との関係は、静かに、しかし確実に深まっていった。週末のディナー、時折の旅行、そして何より、互いの仕事を尊重し合いながら過ごす穏やかな時間。 麗奈は、初めて「愛」というものを、恐れずに受け入れられるようになっていた。 五月のある週末、高瀬が麗奈を箱根に誘った。「少し、ゆっくり話したいことがあるんです」 彼の言葉には、いつもと違う真剣さがあった。 二人は、芦ノ湖を見下ろす高台のホテルに宿泊した。 夕暮れ時、高瀬が麗奈をテラスに誘った。 眼下には、夕陽に照らされた芦ノ湖が広がっていた。湖面は、オレンジとピンクの光を反射して、まるで溶けた宝石のように輝いていた。遠くには富士山のシルエットが、空に浮かび上がっていた。「きれいですね」 麗奈は、湖を見つめながら呟いた。「ええ、本当に」 高瀬は答えたが、彼の視線は麗奈に注がれていた。 しばらくの沈黙の後、高瀬が口を開いた。「藤崎さん……いえ、麗奈さん」 彼が名前で呼ぶのは珍しかった。麗奈は、高瀬を見た。「私は、あなたに初めて会った時から、特別な何かを感じていました」 高瀬の声は、穏やかだが、確固たる意志を秘めていた。「それが何なのか、最初は分かりませんでした。尊敬なのか、憧れなのか、それとも……」 彼は、麗奈の手を取った。「でも、時間が経つにつれて、はっきりと分かりました。これは、愛だと」 麗奈の心臓が、激しく鳴り始めた。「あなたは、私が出会った中で最も強く、最も美
三ヶ月後。 麗奈は、GSCの日本代表に正式に就任した。 三十五歳での抜擢は、業界でも大きな話題となった。 彼女のオフィスからは、東京の街が一望できた。 あの日、雨の中で去った東邦広告のビルも、遠くに見えた。「藤崎代表、次の会議の準備ができました」 秘書が、資料を持ってきた。「ありがとう。すぐに行きます」 麗奈は立ち上がった。 デスクの上には、一枚の写真が飾られていた。 高瀬との写真。先月、二人で訪れた鎌倉での一枚。 二人の関係は、ゆっくりと深まっていた。 恋人と呼ぶには、まだ早い。しかし、確かに特別な関係。 麗奈は、もう焦っていなかった。 会議室に向かう途中、窓の外を見た。 青い空。白い雲。穏やかな風。 あの雨の日から、二年半が経っていた。 その間に、彼女は多くのものを失い、多くのものを得た。 そして、最も大切なものを見つけた。 それは、自分自身だった。 夜、麗奈は高瀬と食事をした。「今日、東邦広告から報告がありました」 高瀬が言った。「再建計画は順調で、今期は黒字化の見込みだそうです」「それは良かった」 麗奈は、微笑んだ。「園田社長、頑張っているようですね」「田所さんも、新しい部署で活躍しているそうです」「そう……みんな、前を向いているのね」 麗奈は、ワインを口に含んだ。「高瀬さん、私、最近考えるんです」「何を?」「復讐について」 麗奈は、グラスを見つめた。「私は、復讐を果たしたのでしょうか? それとも、諦めたのでしょうか?」「どちらでもないと思います」 高瀬は答えた。「あなたは、復讐を超えたんです」「超えた?」
プロジェクトの最終報告会が、一週間後に控えていた。 業界関係者、メディア、そして東邦広告の全社員が集まる、公の場での発表。 麗奈は、その報告書の最終稿を書き上げていた。 しかし、最後のページで、彼女の手が止まった。 狩野の不正を公にすることで、東邦広告のイメージは大きく傷つく。それは、無関係の社員たちにも影響を及ぼす。 そして、田所も、その余波を受けることになる。「これでいいのだろうか……」 麗奈は、自問した。 その夜、麗奈は高瀬と食事をした。「報告書、完成しましたか?」「はい……でも、迷っています」 麗奈は、グラスを見つめた。「狩野の不正を完全に公にすれば、会社は大きなダメージを受けます。でも、隠蔽すれば、また同じことが繰り返される」「難しい判断ですね」「高瀬さんなら、どうしますか?」 高瀬は、しばらく考えた。「藤崎さん、あなたは何のためにこのプロジェクトを受けたんですか?」「それは……」「復讐のためですか? それとも、会社を救うためですか?」 麗奈は、答えられなかった。「両方だと思います」「では、どちらを優先しますか?」 麗奈は、深く息を吸った。「私、分かりました」 彼女は、高瀬を見た。「私は、復讐を選びません」「本当にいいんですか?」「はい。狩野の不正は明らかにしますが、それを復讐の道具にはしません」 麗奈は、決意を固めた。「会社を救うこと。それが、私の本当の目的です」 最終報告会の日。 会場には、三百人以上の関係者が集まっていた。 麗奈は、壇上に立った。「皆様、本日は東邦広告の経営再建プロジェクトの最終報告をさせていただきます」 彼女
臨時取締役会の日。 東邦広告の本社会議室には、すべての取締役と、主要株主、そして監査法人の代表が集まっていた。 麗奈は、プロジェクトチームと共に、最終報告を行う準備をしていた。「藤崎さん、準備はいいですか?」 ロバートが確認した。「はい。すべて整っています」 麗奈は、資料を確認した。狩野の不正の証拠、田所の脅迫の記録、そして過去五年間の組織的問題の分析。 会議室に入ると、狩野達也が既に席に着いていた。 彼は、麗奈を睨みつけていたが、その目には明らかな恐怖が宿っていた。「それでは、GSCからの最終報告を始めます」 園田社長が議事を開始した。 麗奈は、壇上に立った。「皆様、本日は東邦広告の経営再建プロジェクトの調査結果を報告させていただきます」 スクリーンに、最初のスライドが映し出された。「当社の調査により、営業本部において重大な不正行為が発覚しました」 会議室がざわついた。 麗奈は、一つずつ証拠を提示していった。 架空の経費報告。不正な契約。クライアントへの虚偽報告。そして、横領。 すべての証拠が、狩野達也を指し示していた。「さらに、これらの不正行為を隠蔽するため、部下への脅迫と責任転嫁が行われていました」 麗奈は、田所に関する資料を提示した。「田所次長は、家族を人質に取られ、不正行為への加担を強要されていました」 会議室は、静まり返っていた。「そして……」 麗奈は、深く息を吸った。「二年前のミラノプロジェクトの失敗についても、同様の構図がありました」 スクリーンに、当時のプロジェクト資料が映し出された。「当初の戦略は、綿密な市場分析に基づいた優れたものでした。しかし、最終段階で大幅な変更が加えられ、その結果、プロジェクトは失敗しました」 麗奈は、狩野を見た。「その責任は、当時
麗奈は、すべての証拠を園田社長に提出した。 社長室で、ロバートと高瀬も同席する中、麗奈は冷静に報告を行った。「狩野本部長による横領の総額は、三千二百万円に上ります」 麗奈は、証拠書類を一つずつ提示した。「さらに、複数のプロジェクトで意図的な情報操作と、部下への責任転嫁が確認されました」 園田社長の顔は、蒼白だった。「そんな……狩野が……」「そして、もう一つ」 麗奈は、田所に関する資料を取り出した。「田所次長は、狩野本部長に脅迫されていました。妹さんの医療費を人質に取られ、不正行為に加担させられていたようです」「田所も……」「はい。彼は、内部告発を試みましたが、実行できませんでした。おそらく、家族への危害を恐れたのでしょう」 麗奈は、園田を見た。「社長、これらの事実は、公にすべきです」「しかし、会社のイメージが……」「隠蔽すれば、さらに傷は深くなります」 ロバートが言った。「東邦広告の再建には、透明性が不可欠です。不正を認め、正すことで、初めて信頼は回復します」 園田は、長い沈黙の後、頷いた。「分かりました。来週、臨時取締役会を開きます。そして……狩野を解任します」 その夜、麗奈は一人で田所に会いに行った。 待ち合わせ場所は、かつて二人がよく訪れたカフェ。 田所は、既に席に着いていた。憔悴した様子だった。「麗奈……」「久しぶりね、健一」 麗奈は、初めて彼を名前で呼んだ。「私、すべて知ったわ」 田所の目に、涙が浮かんだ。「麗奈、本当にごめん。俺は……」「謝らないで」 麗奈は、手を上げて田所を制した。
狩野達也との面談は、午後三時に予定されていた。 麗奈は、会議室で資料を広げながら、深呼吸を繰り返していた。二年間待ち続けたこの瞬間。しかし、彼女は自分に言い聞かせた。 これは復讐ではない。これは仕事だ。 ドアがノックされた。「失礼します」 狩野達也が入ってきた。 五十歳。灰色の髪を綺麗に整え、高級スーツを着こなした男。表面的には、成功したビジネスマンの雰囲気を漂わせていた。「GSCの藤崎さんですか」 狩野は、麗奈の顔を見て、一瞬動きを止めた。しかし、すぐに笑顔を作った。「以前、うちにいた藤崎さんと同姓同名ですね。偶然とは恐ろしい」「偶然ではありません」 麗奈は、冷静に答えた。「私は、二年前まで御社に勤めていた藤崎麗奈です」 狩野の笑顔が、凍りついた。「そう、ですか……」「はい。そして今、私は御社の経営再建を担当するコンサルタントです。不思議な巡り合わせですね」 麗奈は、資料を開いた。「では、面談を始めさせていただきます。まず、営業本部の過去三年間の実績について」 一時間の面談で、麗奈は狩野の話術の巧みさを再認識した。 彼は、すべての失敗に対して巧妙な言い訳を用意していた。市場環境の変化、クライアントの理不尽な要求、部下の能力不足。責任は常に、自分以外の何かにあった。「狩野本部長、一つ質問があります」 麗奈は、特定のプロジェクトファイルを開いた。「昨年の秋、大手化粧品メーカーとの契約が突然解除されましたね。その理由は何でしたか?」「それは……先方の経営方針の変更で」「本当にそうでしょうか?」 麗奈は、別の資料を取り出した。「私たちの調査では、クライアントは御社の提案内容に不信感を抱いていたようです。具体的には、市場データの改ざんの疑いがあったと」 狩野の顔色が変わった。