幼い頃、初恋の相手・律(りつ)と交わした「大人になったら結婚しよう」という約束を忘れられない小夜(さよ)。 離れ離れになっていた律と高校で再会したものの、彼はまったく小夜のことを覚えていないようで……? しかし少しずつ距離を縮めていくたび、違和感が大きくなっていく。本心をひた隠しにする律には、ある大きな秘密があった。 とびきり切なく、美しい純愛ストーリー。
View More両親への挨拶が済んだ後、私たちはふたりで借りたアパートへ向かった。 部屋に入るとどっと疲れが出て、ふたりしてソファに座り込む。「あー……よかった。ふたりも認めてくれて」「ああ。おじさんたちも、小夜とそっくりで素敵な人たちだって再確認したよ」 嬉しいことを言ってくれる律は「あ、もうお義父さんになるのか」と呟き、私は幸せな笑いがこぼれた。 手を繋ぎ、彼の肩にこてんと頭を乗せる。「これからずっと一緒にいられるなんて、本当に幸せ」「俺も」 幼い頃の約束をずっと実現させたいと思っていたけれど、実際にそうなると夢みたいな気分。 愛しさが膨れて、ふいにキスをしたくなって彼に顔を向けたら、同じことを考えていたのか視線が絡まった。 自然に唇を寄せ、温かな口づけを交わすと、律は私の髪を梳きながら熱っぽい瞳で見つめる。「……抱いていい? 改めて小夜の大切さを実感したら、全部欲しくなった」 心臓がときめきの音を奏でる。大人になった彼は、色気がありすぎてくらくらするほど。 私は頬が火照るのを自覚しながら、こくりと頷いた。「私も、律にいっぱい触れたかった」 正直に返すと、彼も少し頬を赤らめ「可愛くてたまんない」と微笑む。もう一度唇を寄せると、タガが外れたように濃密なキスをお見舞いされた。 私たちが抱き合える日はそんなに多くない。ふたりきりになれるのは週末だし、律の体調や仕事のタイミングで叶わない時もあるから。 だから、私は毎回緊張して、ずっとドキドキしているのだ。 ソファでたくさんキスをした後、ベッドに移動して身体中を甘く愛撫する。「愛してる」と何度も囁き合い、十分に慣らされてから熱く滾る彼を迎え入れた。 重なる肌からも、自分の中の奥深くでも、彼が生きていることを感じられる。 こんなに幸せなことはないと、とろけそうな意識の中で思いながら汗ばむ背中にしがみついた。 それから数日後、私の誕生日に、律とふたりで海に来ていた。夏真っ盛りで暑いけれど、手を繋いでゆっくり砂浜を歩く。 こうしているなにげない瞬間、一分一秒が、私たちにとっては宝物だ。「キョウは来月こっちに戻ってくるんだっけ?」「ああ。『早く帰りたい』ってそればっかり言ってるよ」 穏やかな波音に、私たちの笑い声が混ざり合う。 あれからキョウは自動車メーカーの営業マンに、ありさは調理師になった。別々の道に進んでも、相変わらず連絡はとっている
小夜、今までありがとう。 高校を卒業してから約五年。辛いことも楽しいことも、全部ふたりで分かち合ってきたけど、 終わりにしよう、俺たち。 * * * 高校を卒業して、早くも五年が経った。 律が飲む薬の量はそこまで変わらず、普通の生活を送ることができている。むしろ、だいぶ症状に慣れてきた分、以前よりも充実した毎日を過ごせていると思う。今はお互い社会人として精一杯生きる日々だ。 私は大学に進学し、理学療法士の資格を取って総合病院に就職した。この道を選んだのはもちろん、律を支えていくために勉強し、その力を存分に使いたいと思ったから。 リハビリのサポートは大変なことも多いけれど、患者さんとのおしゃべりは楽しいし、『あなたのおかげでこんなことができるようになったよ』と感謝されると心から喜びを感じられる。新たなやりがいを見つけられたので、私も律に感謝だ。 律はITのスキルを学べる専門学校に進み、今は大手のインターネット企業でデスクワークをしている。病気に理解があり、リモートワークもできる職場なので、自分のペースで無理なく働けているようだ。 大人になりスーツを着こなす律も当然カッコよくて、会社の女性社員に狙われやしないか、私は内心不安だったりするけれど。 私が就職してからアパートも借りて、週末はそこでふたりで過ごす半同棲生活を送っている。 これは律からの提案だった。『お互い実家暮らしじゃ、思う存分小夜に触れられないから』という、なんとも赤裸々な理由で。 こぢんまりとした部屋に好きな家具や雑貨を置いて、一緒にご飯を食べて寄り添って眠る。この平凡な生活がなにより幸せで、心を満たしてくれる。 ケンカはめったにしない。律が少し無理をして、それで私が怒ってしまう時がたまにあるものの、すぐに謝るから。 時に意見がぶつかって、仲直りしてまた笑い合う。その繰り返しで、私たちには誰よりも強い絆が出来上がっていると自負している。 ──しかし、私の二十三回目の誕生日を約一週間後に控えた今日。この日ばかりは、私と律はお互い固い表情で、あまり言葉も交わさずに隣り合って座っている。 私の家のリビングで、向かい合っているのは私の両親だ。〝話がしたい〟とだけ伝えてあったのだが、おそらく内容は予想できていただろう。 さらに、スーツを着ている律を見て確信したはず。私だけでなく、両親も緊張しているのがわかる。
一般公開が終わった後は後夜祭が行われる。その時に会おうと、律と約束していた私は、クラスの後片づけが終わると四組に向かった。 しかし、教室に律の姿はない。「逢坂なら、古畑と一緒にどこか行ったよ」「えっ?」 律とよく一緒にいる男子が教えてくれて、私は目が点になった。 律がキョウと? なにか話があったのかな。どこに行ったんだろう……。 少しだけ考えて思い浮かんだのは、以前彼に連れられて行った屋上に繋がる階段。なんとなくそこへ向かってみると、上のほうから話し声が聞こえてきた。 思わず忍び足になり、そうっと近づいてみると、聞き慣れた男子の声が聞こえてきた。「病気だなんて知らずに、いろいろ言って悪かったな」 この声に内容……やっぱりキョウが律に言っているようだ。 邪魔はできないけれど話も気になって、私はその場で静かに耳を澄ませる。「いいんだよ、そんなの。言われても仕方ないことをしてたのは俺なんだから。……ていうか、キョウのおかげで思い直すこともできたし」 キョウのおかげ? やっぱり私が知らない間に、ふたりは話していたのだろうか。「病気になってから、いろんな考え方がネガティブになってて。〝頭はしっかりしてんのに、どうして身体が言うこときかないんだ〟、〝俺は人に迷惑かけるばっかりだ〟ってずっと思ってたんだよ」 胸がきゅっと締めつけられるのを感じていると、彼は「でも」と続ける。「今は〝制限のある自分は、大切な人になにができるかを考えるためにこの頭があるんだ〟って思えるようになった。だから、ありがとな」 律の声は、明け方の空みたいに澄んでいて、私の胸の苦しさも和らいでいく。 キョウがなにを言ったのかはわからないけれど、律の気持ちを変えるくらいの影響力があったんだろう。さすが、親友だね。「……ようやく気づいたか」 キョウがふっと笑い、穏やかな声色で言う。「でも、律がそうやって考えてるってことが、小夜にとっては一番幸せなんじゃねーかな」 彼の言葉は、私の心にも優しく流れ込んでくる。 キョウの言う通り、私はなにもしてもらわなくても、律のその気持ちがあれば十分嬉しい。 姿が見えなくても、ふたりの和やかな雰囲気を感じる。昔よりもっと絆が深まったようで、私も自然に表情がほころんでいた。「……あ?」「ひゃっ!」 突然、階段を下りてきたギャルソン姿のキョウが現れて、私は飛び跳ねそうなくらいびっくりし
こんな賑やかな始まりを迎えた二学期、私の心は澄み渡っていた。 律の体調は気がかりだけれど、彼のクラスの仲よしな友達も、病気をカミングアウトして以来気遣ってくれているらしく、特に問題は起こっていない。 以前までのチャラチャラした雰囲気はまるで消えているし、女子たちは不思議がっているかもしれない。 そして、あっという間に文化祭を迎え、今日は一般公開二日目。 うちのクラスのコスプレカフェという名の出し物も、まあまあな盛り上がりだ。奇抜なコスプレをしている人もいる中、私はフリフリのレースがついたちょっとだけゴスロリっぽい服を着ている。 休憩の時間になると、ありさと一緒に比較的静かな体育館の横にやってきた。 なぜか海賊のコスプレをしている彼女、めちゃくちゃ似合っている。うっかり惚れてしまいそう。「なんか女子から熱い視線を感じるんだよね」「だって、ありさカッコいいもん!」 同じく熱い視線を送る私に、ありさは呆れ顔をする。「でも裏方の手伝いしてる時、料理の手際の良さに感心してる男子も結構いたよ」「そぉー? ま、あたしの魅力に気づいてくれる人がひとりくらいいてもいいか」 無邪気に笑ったありさは、美味しそうにクレープを食べ始めた。 私も種類の違うクレープを味わい、しばらくするとありさが神妙な顔をして言う。「それにしても、まさか逢坂くんが難病患者だったとはねー……」 つい先日、ありさとキョウにも、律が病気のことを打ち明けていた。 ふたりとも驚きを隠せない様子だったけれど、もちろん受け入れてくれている。「サニーサイド行った時に、意外と歩くのゆっくりだなぁとは思ったけど、それも病気のせいだったんだ」「うん……言われてみれば、って感じだよね。いつもは全然普通だし」 時々信じられなくなる。こんなに元気なのに、必ず動けなくなる時が来るなんて。 でも、いつか訪れるその時も、私は彼に寄り添っていたいと思う。「律は私たちに迷惑かけたくなかったみたいだけど、私は逆にもっとそばにいたいって思うようになっちゃったよ」 なにげなく口にしたけれど、恥ずかしいことを言った気がして顔が熱くなってくる。 照れ隠しで大口を開けてクレープを頬張ると、ありさがふふっと笑った。「でも、逢坂くんが離れようとしてたのも、小夜との将来をちゃんと考えてたからでしょ。それってすごいことだよね」 ありさの言う通りだ。 私はずっと当たり
「おはよー」「あー眠い……」「ねぇ、数学の課題やった?」 いつもと変わらない、クラスメイトの雑談が飛び交う新学期の朝。私はこれまでと少し違った気持ちで教室に入った。 自分の席に荷物を置いたありさは、満面の笑みを浮かべながら私の席にやってくる。「いやーもう本当によかったねぇ、小夜~!」「お前それ何回目だよ」 一緒に登校したキョウが、ありさに呆れた声を投げた。でも彼女はそんなこと気にせず、私に抱きついている。「だって嬉しいんだもん! 小夜の長かった恋が報われてさー」「ありがとね、ありさ」 私もすっごく嬉しいよ。律とまた気持ちが通じ合えたことも、ありさがこんなに喜んでくれることも。 夏休み中に、誕生日を祝ってくれた皆には律とのことを報告していた。病気については律が自分から話すと言っていたので、キョウとありさにもまだ打ち明けていない。 こうやって会うのは久々だから、ありさはテンションが上がっているらしい。私はそんな彼女からキョウに目線を移して微笑む。「キョウもありがとう。いっぱいお世話になりました」 うやうやしく頭を下げると、相変わらず無愛想な彼はちょっぴり意地悪なことを言ってくる。「またどっか行っちまわないように、鎖でもつけといたほうがいいんじゃねーの?」「もう大丈夫!」 自信を持って答えると、キョウの顔にもふっと笑みが生まれた。 思えば、キョウは事あるごとに私を助けてくれていた。今があるのは彼の力も大きいので、「本当にありがとね」と告げた。 満足げで、でもなぜか少しだけ寂しそうにするキョウに、真木ちゃんが近づいてくる。「新しい妻は、この海姫様なんていかがでしょう?」「へっ?」 まぬけな声を合わせ、キョトンとする私たち。真木ちゃんの後ろから姿を現した海姫ちゃんは、なにやら艶やかな笑みと仕草でキョウの肩に手を回した。 ギョッとする彼に、海姫ちゃんが色っぽく迫る。「たまには同学年もアリかーと思ってね。ぽっかり空いた隙間を埋めてあげるわよ、恭哉クン?」「……色気あるお姉様タイプもいいかもな」 顎に手をあてて真剣に言うキョウに、私たちは吹き出した。お互い冗談なのかどうなのか、すごく微妙だけれど。 そうして皆で笑い合っていると、急に教室内がざわめき出す。なんとなく周りに目を向けると、うちのクラスにはないオーラを放つ人物が中に入ってきた。「律……!?」 あれ、なんで律が? 彼がこの教
えっちゃんから話を聞いた後、彼が「どうぞ」と言うので、私は律の部屋に入らせてもらった。 顔色はさっきよりも良くなっていて、穏やかに寝息をたてている彼を見て、少し安心する。 夕日でオレンジ色に染まる、シンプルで男らしい部屋をぐるりと見回してみる。 小学生の頃は、サッカーボールやユニフォームが目につくところにあったけれど、今は見当たらない。チームの皆や、私たちと撮った写真ももう飾られていなくて、寂しい気持ちになった。 本棚には律が好きらしい漫画が並んでいて、その一番端に、漫画ではない本が何冊かある。 背表紙には、彼の病名が書かれている。病気についての解説書や、患者さんの闘病記のようだ。 律もこの病気の患者なのだと改めて思うと胸が苦しいけれど、私ももっと詳しく理解したい。 少し目を通してみたくて本を拝借しようとした時、その本の隣に見覚えがある箱を見つけて、私は動きを止めた。「これ……」 思わず小さな声を漏らして、お道具箱みたいなそれにそっと手を伸ばす。 可愛らしい赤いチェック柄のその箱は、律が引っ越す前に私やキョウがあげたものだと、すぐに思い出した。 確かこれにお菓子を詰めて、餞別のつもりであげたのだ。それをとっておいてくれたなんて。 懐かしさが込み上げつつ、今は中になにが入っているのか気になる。ちらりと律を見やるも、まだ起きる気配はない。 ……ちょっとだけ、見てもいい? ちょっとだけだから! 好奇心が勝ってしまった私は、心の中で勝手に律に断りを入れて箱に手を伸ばす。そっとふたを開けてみて、目を見開いた。 中に入っていたのは、これまた見覚えがある封筒の束。私が送った、手紙の数々だった。 全部、大事にとっておいてくれたんだ……。 嬉しさを噛みしめるも、ひとつだけ気になるものがある。たぶん私のものではない、ぐしゃぐしゃに丸められた紙だ。これはなんだろう。 どうにも気になって、また〝ちょっとだけ!〟と心の中で言い、ゆっくり開いてみる。 綴られた文字を見て、驚きで心臓が飛び跳ねた。シンプルな便箋には、【緒方小夜さま】と書かれていたから。 うそ……これ、律が私宛てに書いた手紙!? 信じられない気持ちで文字を追うと、私の名前の下には【十五歳の誕生日、おめでとう】と書かれている。 十五歳って、えっちゃんのふりをして手紙をくれたのと同じ、中学三年の時だ。どうしてそんなものが……と不思議
「サッカーができなくなっちゃったのも、それで……?」「そう。激しい運動はやっぱりやめたほうが良くてね。でも律の場合まだ症状は軽いし、薬を飲んでいれば日常生活には支障ないよ」 えっちゃんは私を安心させるように微笑んだ。日常生活に問題はないとわかって、少しほっとする。 とはいえ、大好きなサッカーができなくなって、律はどれだけ悔しかっただろうと思うと、やり切れなさでいっぱいだ。 えっちゃんもすぐに表情を曇らせて、声のトーンを落とす。「でも、今日は特別調子が悪かったみたいだね」「あんなふうになることはよくあるの?」 さっきの律の姿を脳裏に蘇らせて、胸の中に不安と心配が渦巻いたまま問いかけた。 彼は「そんなことないよ」と否定したものの、表情は浮かない。「薬の服用のタイミングや量が合わないと、いろんな副作用が出るんだ。人によって症状は違うみたいだけど……律は足が動かなくなっちゃったみたいだね。今日の状況を聞くと」 だから、踏切の真ん中で立ち止まったまま動けなくなってしまったんだ。あの時、私が彼を見つけていなかったらと思うとゾッとする。「ついこの間、薬の種類が変わったからそのせいかもな。少量の違いで症状が出るから、コントロールが難しいんだ。いつ、どれくらいの量を飲むのか、律が自分自身でちゃんと把握して、うまく付き合っていかなきゃいけない」「そんなに難しい病気なんだ」「ああ……。まあ、今日は暑さにやられたせいもあるかもしれないけど。これだから出無精は困るよ」 口を尖らせているけれど、弟想いなのが伝わってきて、少しだけ笑みがこぼれた。「じゃあ、薬を飲んでいれば症状は抑えられるんだよね?」 そんなに副作用が出てしまうのは怖いけれど、気をつけていれば大丈夫なのかな。完治はしないとしても……。 えっちゃんは、ほんの少し口角を上げて答える。「薬が効いている間は、普通に生活できるよ。寿命には関わらないから、他に病気や事故に遭ったりしなければ長生きできるし」「そうなんだ……!」 余命があるようなものではないと知って、私はあからさまに安心してしまった。 しかし、えっちゃんの声は明るくならないまま、「でも」と続ける。「症状は確実に進行する。何年もかけて、すごくゆっくりとだけど。何十年先かわからないけど、将来寝たきりになるのは避けられない」 その事実を聞いた瞬間、目の前が暗くなる感覚がした。 律の身体
電話で言った通り、十分足らずで来てくれたえっちゃんの車に乗り込むと、律は安心したのかすぐに眠ってしまった。 ほどなくして着いたのは、えっちゃんも一緒に暮らしているというマンション。彼は律を抱き抱えて一階の部屋に運び、私をリビングに上がらせてくれた。「悪かったね、迷惑かけて」「ううん、私は全然」「たまたま俺が休みでよかったよ」 苦笑するえっちゃんは、あまり動揺した様子はない。私はすごく心配したけれど、病院に連れていくほどでもないみたいだし……。 やっぱり、ちゃんと律の身体のことを知りたい。律が寝ている部屋のほうを眺めていると、キッチンに回ったえっちゃんが「なにか飲む?」と問いかけた。 お言葉に甘えて飲み物をもらうことにした私は、リビングのソファに座って彼を眺める。 その姿はすっかりカッコいい大人の男性だけれど、優しい雰囲気は昔のままでなんだか落ち着く。おかげで、四年ぶりだというのにまったく違和感なく話せる。「はい、おまたせ」「ありがとう。あの、おじさんたちは?」 琥珀色の液体の中で氷が揺れるグラスを受け取りながら聞くと、えっちゃんは私の向かい側のソファに座って説明してくれる。「引っ越してからは母さんと三人で暮らしてて、親父だけ仕事の関係で向こうに残ってる。律を診てくれる病院はこの街が一番よくて。俺もこっちで就職したから面倒見れるし」「そうだったんだね……」 ということは、おじさんだけ単身赴任している感じなんだ。律が病院に通いやすいように、この街に引っ越してきたということらしい。「今日は母さんも親父のとこに泊まりで行ってるから、小夜ちゃんも遠慮なくいてくれていいよ。律はまだ起きないだろうし」 穏やかに微笑んで、グラスに口をつける彼。私もアイスティーをひと口飲んで、気持ちを落ち着けてから口を開く。「……えっちゃん、律はどんな病気なの?」 核心を突くと、えっちゃんは少しだけ表情を曇らせて苦笑を漏らした。「律は隠したがってたけど、もう今日のことで小夜ちゃんも気づいたよね」 目線を上げた彼は、意を決したように真剣な表情でこう言った。「律は、身体を動かしにくくなったり震えたりして、運動がスムーズにできなくなる病気なんだ。今は進行を止める治療薬がなくて、難病に指定されてる」 難病……その重々しい単語を耳にして、ドクンと鈍い音が身体の奥で響いた。「高齢者に多い病気なんだけど、若くし
「はあ……よかったぁ」 一気に力が抜けて、へなへなと倒れ込みそうになるも、私の横には倒れたまま動かない律がいる。うつぶせで横に向けた顔は青白く、苦しそうに歪んでいる。「律っ! ねえ、大丈夫!?」 どうしよう、どう具合が悪いんだろう? あそこで動けなくなるくらいなんだから相当なはず。 まだパニックは治まらず、軽く律の肩を揺すると、彼の唇がかすかに動く。「さ、よ……」「え?」「ごめん……小夜……」 ──四年ぶりに〝小夜〟って呼んでくれた。こんな時なのに、感極まってじわりと涙が滲む。「危ない目に、遭わせて……ほんと、情けない……」 荒い息をしながら途切れ途切れに言葉をつむぐ彼に、私はぶんぶんと首を横に振った。「いいの、私は大丈夫だから。それより救急車──!」 とにかく電話するためバッグからスマホを取り出そうとすると、律がゆっくり手で制した。その手が震えていて、言葉に詰まってしまう。 なんとか上体を起こした彼は、はいつくばるようにして道の脇へ移動しようとする。よく見ると足も震えているみたいだ。 いつもの律から想像できない姿に困惑しながらも、とにかく今は彼を助けようと身体に腕を回して支えた。 あまり人目につかない木陰に一緒に座ると、律はポケットから取り出したスマホを震える手で私に差し出す。「越に、電話……」「えっちゃんに?」「ボタン……うまく、押せなくて」 それを聞いて、さらにぐっと胸が苦しくなった。 この状態を見ていれば、もう一目瞭然だ。律は、きっとなにかの病気を患っているんだって──。 髪で表情が隠された、頭を垂れる彼を見つめて、私は唇を噛みしめる。泣きそうになるのを堪えて〝逢坂 越〟の名前を探し、電話をかけた。 えっちゃんは、私が名乗るとすぐにわかってくれた。今の状況を伝えると、『十分くらいで着くから』と言ってもらえたので、ひとまず安心する。「えっちゃん、すぐ来てくれるって。もう少し待ってられる?」「ん、ありがと……さっきよりマシ」 いくぶんか表情が和らいできた律にほっとしながら、スマホを返した。「でもつらいでしょ? 私に寄りかかってて」 返事を聞くより先に、少し強引に彼の身体を抱き寄せる。律は抵抗せず、おとなしく私に寄りかかり、肩に頭を乗せた。 私の右側に触れている、柔らかな髪、温かい身体。無意識のうちにしっかりと手を握って、ただじっと彼の存在を感じていた。「……小夜
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