Masukグローバル・ストラテジー・コンサルティング社――通称GSC――のオフィスは、東邦広告とは全く異なる空気を持っていた。
六本木ヒルズの最上階フロア。床から天井までの窓ガラスから見える東京の夜景。洗練されたモダンデザインのインテリア。そして何より、働く人々の目つきが違っていた。
麗奈は、ロバート・チェンの前に座っていた。五十代半ばの彼は、ハーバード・ビジネス・スクールで教鞭を取っていた経歴を持つ伝説的なコンサルタントだった。
「藤崎さん、あなたのことは三年前から注目していました」
ロバートは、分厚いファイルを麗奈の前に置いた。
「あなたが手がけた化粧品ブランドのリポジショニング戦略。従来のターゲットを三十代から四十代後半にシフトさせ、『成熟した美しさ』というコンセプトで市場を開拓した。結果、売上は二年で三倍になった」
「それは……チーム全体の成果です」
「謙遜は不要です。私は、誰がその戦略の核心を考えたか知っています」
ロバートは麗奈の目をまっすぐ見た。
「あなたは、マーケティングの本質を理解している。それは『消費者の潜在的欲求を可視化し、それに応える価値を創造すること』だ。多くのマーケターは表面的なトレンドを追いかけるだけですが、あなたは違う」
麗奈は黙って聞いていた。
「ミラノプロジェクトの失敗について、私なりに調査しました」
ロバートは別のファイルを開いた。
「あなたの当初の提案は、イタリアの伝統的価値観と日本の美意識を融合させるという、非常に緻密な戦略でした。しかし、最終的にクライアントに提出された資料は、表面的なイメージ戦略に変更されていた。なぜですか?」
「それは……」
「答えなくても結構です。組織の政治については、私も長年見てきましたから」
ロバートは立ち上がり、窓の外を見た。
「藤崎さん、あなたには才能がある。しかし、東邦広告のような日本の伝統的な企業では、その才能は政治力や年功序列に押しつぶされる。あなたが必要としているのは、純粋に実力が評価される場所です」
「私に、何を求めているんですか?」
「GSCの日本市場戦略部門のシニアコンサルタントとして来てほしい。まずは契約社員として三ヶ月。その後、あなたの実績次第で正社員、そして将来的には日本代表も視野に入れています」
麗奈の心臓が高鳴った。
「年収は二千万円からスタート。実績に応じてボーナスが加算されます。ただし、厳しいですよ。GSCでは、結果が全てです」
「……考える時間をいただけますか?」
「もちろん。ただし、三日以内に返事をください」
麗奈はオフィスを出て、冬の夜風に当たりながら考えた。
東邦広告での八年間。積み上げてきた人間関係、業界での評価、そして田所との思い出。それらは全て、あの雨の日に失われた。
しかし、失ったものばかりではないかもしれない。
麗奈は、スマートフォンで東邦広告のビルを検索した。そこには、かつて自分が捧げた時間と情熱の残骸があった。
「終わったことに、執着しても意味がない」
麗奈は呟いたが、心の奥底では、まだ燻る炎を感じていた。
三日後、麗奈はロバートに電話をした。
「お受けします。いつから始められますか?」
「来週の月曜日から。ようこそ、GSCへ」
麗奈の新しいキャリアが始まった。
最初の三ヶ月は、文字通り地獄だった。
GSCのプロジェクトは、すべて厳格な成果主義で評価された。クライアント企業の売上向上、コスト削減、市場シェアの拡大――数字で測れる結果だけが意味を持った。
麗奈は、製薬会社の新薬マーケティング戦略を任された。競合他社がひしめく市場で、どうやって差別化を図るか。彼女は三週間、ほとんど眠らずにデータ分析と戦略立案に没頭した。
彼女が提案したのは、「医師ではなく患者をターゲットにしたダイレクト・マーケティング」だった。従来の製薬マーケティングは医師への営業活動が中心だったが、麗奈は患者教育プログラムを通じて、患者自身が医師に薬を指名する流れを作り出す戦略を設計した。
結果は驚異的だった。六ヶ月で新薬の処方率が四十パーセント増加。クライアントの製薬会社CEOは、麗奈を「天才」と評した。
「藤崎さん、あなたの正社員契約が決まりました」
ロバートは、契約書を差し出した。
「さらに、次のプロジェクトでは、あなたにプロジェクトリーダーを任せます」
麗奈は、GSCで急速に頭角を現していった。
彼女の強みは、単なるマーケティング理論ではなく、人間心理への深い洞察だった。消費者は何を欲しているのか。それは、彼ら自身も気づいていない潜在的な欲求だ。
ある高級腕時計ブランドのプロジェクトで、麗奈はこう提案した。
「この時計を買う人は、時間を知りたいのではありません。彼らは『時間を超越した存在』になりたいんです」
彼女は、広告コピーから販売戦略まで、すべてを「永遠性」というコンセプトで統一した。時計は単なる商品ではなく、世代を超えて受け継がれる家宝として位置づけられた。
売上は前年比二百パーセント増。
麗奈の評判は、業界全体に広がっていった。
そして、ある冬の夜、ロバートが彼女をディナーに誘った。
「藤崎さん、私には弟がいます。彼もこの業界にいるんですが、あなたに会わせたいんです」
その弟が、高瀬亮介だった。
それから六ヶ月が経った。 麗奈は、GSC日本代表としての最初の年を、目覚ましい成功で締めくくろうとしていた。新規クライアントは三十社を超え、チームは二倍の規模に拡大した。業界誌は彼女を「日本コンサルティング業界の新時代を切り開く女性リーダー」と評した。 しかし、麗奈にとって最も大きな変化は、仕事ではなく、心の中にあった。 高瀬亮介との関係は、静かに、しかし確実に深まっていった。週末のディナー、時折の旅行、そして何より、互いの仕事を尊重し合いながら過ごす穏やかな時間。 麗奈は、初めて「愛」というものを、恐れずに受け入れられるようになっていた。 五月のある週末、高瀬が麗奈を箱根に誘った。「少し、ゆっくり話したいことがあるんです」 彼の言葉には、いつもと違う真剣さがあった。 二人は、芦ノ湖を見下ろす高台のホテルに宿泊した。 夕暮れ時、高瀬が麗奈をテラスに誘った。 眼下には、夕陽に照らされた芦ノ湖が広がっていた。湖面は、オレンジとピンクの光を反射して、まるで溶けた宝石のように輝いていた。遠くには富士山のシルエットが、空に浮かび上がっていた。「きれいですね」 麗奈は、湖を見つめながら呟いた。「ええ、本当に」 高瀬は答えたが、彼の視線は麗奈に注がれていた。 しばらくの沈黙の後、高瀬が口を開いた。「藤崎さん……いえ、麗奈さん」 彼が名前で呼ぶのは珍しかった。麗奈は、高瀬を見た。「私は、あなたに初めて会った時から、特別な何かを感じていました」 高瀬の声は、穏やかだが、確固たる意志を秘めていた。「それが何なのか、最初は分かりませんでした。尊敬なのか、憧れなのか、それとも……」 彼は、麗奈の手を取った。「でも、時間が経つにつれて、はっきりと分かりました。これは、愛だと」 麗奈の心臓が、激しく鳴り始めた。「あなたは、私が出会った中で最も強く、最も美
三ヶ月後。 麗奈は、GSCの日本代表に正式に就任した。 三十五歳での抜擢は、業界でも大きな話題となった。 彼女のオフィスからは、東京の街が一望できた。 あの日、雨の中で去った東邦広告のビルも、遠くに見えた。「藤崎代表、次の会議の準備ができました」 秘書が、資料を持ってきた。「ありがとう。すぐに行きます」 麗奈は立ち上がった。 デスクの上には、一枚の写真が飾られていた。 高瀬との写真。先月、二人で訪れた鎌倉での一枚。 二人の関係は、ゆっくりと深まっていた。 恋人と呼ぶには、まだ早い。しかし、確かに特別な関係。 麗奈は、もう焦っていなかった。 会議室に向かう途中、窓の外を見た。 青い空。白い雲。穏やかな風。 あの雨の日から、二年半が経っていた。 その間に、彼女は多くのものを失い、多くのものを得た。 そして、最も大切なものを見つけた。 それは、自分自身だった。 夜、麗奈は高瀬と食事をした。「今日、東邦広告から報告がありました」 高瀬が言った。「再建計画は順調で、今期は黒字化の見込みだそうです」「それは良かった」 麗奈は、微笑んだ。「園田社長、頑張っているようですね」「田所さんも、新しい部署で活躍しているそうです」「そう……みんな、前を向いているのね」 麗奈は、ワインを口に含んだ。「高瀬さん、私、最近考えるんです」「何を?」「復讐について」 麗奈は、グラスを見つめた。「私は、復讐を果たしたのでしょうか? それとも、諦めたのでしょうか?」「どちらでもないと思います」 高瀬は答えた。「あなたは、復讐を超えたんです」「超えた?」
プロジェクトの最終報告会が、一週間後に控えていた。 業界関係者、メディア、そして東邦広告の全社員が集まる、公の場での発表。 麗奈は、その報告書の最終稿を書き上げていた。 しかし、最後のページで、彼女の手が止まった。 狩野の不正を公にすることで、東邦広告のイメージは大きく傷つく。それは、無関係の社員たちにも影響を及ぼす。 そして、田所も、その余波を受けることになる。「これでいいのだろうか……」 麗奈は、自問した。 その夜、麗奈は高瀬と食事をした。「報告書、完成しましたか?」「はい……でも、迷っています」 麗奈は、グラスを見つめた。「狩野の不正を完全に公にすれば、会社は大きなダメージを受けます。でも、隠蔽すれば、また同じことが繰り返される」「難しい判断ですね」「高瀬さんなら、どうしますか?」 高瀬は、しばらく考えた。「藤崎さん、あなたは何のためにこのプロジェクトを受けたんですか?」「それは……」「復讐のためですか? それとも、会社を救うためですか?」 麗奈は、答えられなかった。「両方だと思います」「では、どちらを優先しますか?」 麗奈は、深く息を吸った。「私、分かりました」 彼女は、高瀬を見た。「私は、復讐を選びません」「本当にいいんですか?」「はい。狩野の不正は明らかにしますが、それを復讐の道具にはしません」 麗奈は、決意を固めた。「会社を救うこと。それが、私の本当の目的です」 最終報告会の日。 会場には、三百人以上の関係者が集まっていた。 麗奈は、壇上に立った。「皆様、本日は東邦広告の経営再建プロジェクトの最終報告をさせていただきます」 彼女
臨時取締役会の日。 東邦広告の本社会議室には、すべての取締役と、主要株主、そして監査法人の代表が集まっていた。 麗奈は、プロジェクトチームと共に、最終報告を行う準備をしていた。「藤崎さん、準備はいいですか?」 ロバートが確認した。「はい。すべて整っています」 麗奈は、資料を確認した。狩野の不正の証拠、田所の脅迫の記録、そして過去五年間の組織的問題の分析。 会議室に入ると、狩野達也が既に席に着いていた。 彼は、麗奈を睨みつけていたが、その目には明らかな恐怖が宿っていた。「それでは、GSCからの最終報告を始めます」 園田社長が議事を開始した。 麗奈は、壇上に立った。「皆様、本日は東邦広告の経営再建プロジェクトの調査結果を報告させていただきます」 スクリーンに、最初のスライドが映し出された。「当社の調査により、営業本部において重大な不正行為が発覚しました」 会議室がざわついた。 麗奈は、一つずつ証拠を提示していった。 架空の経費報告。不正な契約。クライアントへの虚偽報告。そして、横領。 すべての証拠が、狩野達也を指し示していた。「さらに、これらの不正行為を隠蔽するため、部下への脅迫と責任転嫁が行われていました」 麗奈は、田所に関する資料を提示した。「田所次長は、家族を人質に取られ、不正行為への加担を強要されていました」 会議室は、静まり返っていた。「そして……」 麗奈は、深く息を吸った。「二年前のミラノプロジェクトの失敗についても、同様の構図がありました」 スクリーンに、当時のプロジェクト資料が映し出された。「当初の戦略は、綿密な市場分析に基づいた優れたものでした。しかし、最終段階で大幅な変更が加えられ、その結果、プロジェクトは失敗しました」 麗奈は、狩野を見た。「その責任は、当時
麗奈は、すべての証拠を園田社長に提出した。 社長室で、ロバートと高瀬も同席する中、麗奈は冷静に報告を行った。「狩野本部長による横領の総額は、三千二百万円に上ります」 麗奈は、証拠書類を一つずつ提示した。「さらに、複数のプロジェクトで意図的な情報操作と、部下への責任転嫁が確認されました」 園田社長の顔は、蒼白だった。「そんな……狩野が……」「そして、もう一つ」 麗奈は、田所に関する資料を取り出した。「田所次長は、狩野本部長に脅迫されていました。妹さんの医療費を人質に取られ、不正行為に加担させられていたようです」「田所も……」「はい。彼は、内部告発を試みましたが、実行できませんでした。おそらく、家族への危害を恐れたのでしょう」 麗奈は、園田を見た。「社長、これらの事実は、公にすべきです」「しかし、会社のイメージが……」「隠蔽すれば、さらに傷は深くなります」 ロバートが言った。「東邦広告の再建には、透明性が不可欠です。不正を認め、正すことで、初めて信頼は回復します」 園田は、長い沈黙の後、頷いた。「分かりました。来週、臨時取締役会を開きます。そして……狩野を解任します」 その夜、麗奈は一人で田所に会いに行った。 待ち合わせ場所は、かつて二人がよく訪れたカフェ。 田所は、既に席に着いていた。憔悴した様子だった。「麗奈……」「久しぶりね、健一」 麗奈は、初めて彼を名前で呼んだ。「私、すべて知ったわ」 田所の目に、涙が浮かんだ。「麗奈、本当にごめん。俺は……」「謝らないで」 麗奈は、手を上げて田所を制した。
狩野達也との面談は、午後三時に予定されていた。 麗奈は、会議室で資料を広げながら、深呼吸を繰り返していた。二年間待ち続けたこの瞬間。しかし、彼女は自分に言い聞かせた。 これは復讐ではない。これは仕事だ。 ドアがノックされた。「失礼します」 狩野達也が入ってきた。 五十歳。灰色の髪を綺麗に整え、高級スーツを着こなした男。表面的には、成功したビジネスマンの雰囲気を漂わせていた。「GSCの藤崎さんですか」 狩野は、麗奈の顔を見て、一瞬動きを止めた。しかし、すぐに笑顔を作った。「以前、うちにいた藤崎さんと同姓同名ですね。偶然とは恐ろしい」「偶然ではありません」 麗奈は、冷静に答えた。「私は、二年前まで御社に勤めていた藤崎麗奈です」 狩野の笑顔が、凍りついた。「そう、ですか……」「はい。そして今、私は御社の経営再建を担当するコンサルタントです。不思議な巡り合わせですね」 麗奈は、資料を開いた。「では、面談を始めさせていただきます。まず、営業本部の過去三年間の実績について」 一時間の面談で、麗奈は狩野の話術の巧みさを再認識した。 彼は、すべての失敗に対して巧妙な言い訳を用意していた。市場環境の変化、クライアントの理不尽な要求、部下の能力不足。責任は常に、自分以外の何かにあった。「狩野本部長、一つ質問があります」 麗奈は、特定のプロジェクトファイルを開いた。「昨年の秋、大手化粧品メーカーとの契約が突然解除されましたね。その理由は何でしたか?」「それは……先方の経営方針の変更で」「本当にそうでしょうか?」 麗奈は、別の資料を取り出した。「私たちの調査では、クライアントは御社の提案内容に不信感を抱いていたようです。具体的には、市場データの改ざんの疑いがあったと」 狩野の顔色が変わった。