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第9話

作者: エイスース
紬が再び目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。

病室には航が付き添っていた。紬の意識が戻るのを確認すると、彼は少し黙り込んでから重い口を開いた。「紬、昨日俺と澪は……あの状態じゃ見捨てるわけにいかなかった。少し手助けしただけで、本当に関係を持ったわけじゃない……これは裏切りにはならないだろ……」

紬はその言葉を静かに聞いていた。しかし、顔には何の感情も浮かんでいなかった。

航がどれだけ綺麗事で誤魔化そうとしても、結局一つの結論に行き着くのだ。

自分と澪の二人が並んだとき、航はいつも迷わず澪を選ぶのだと。

ほんの少し手を貸しただけだとしても、航は澪を気持ちよくしてやるために、法律上の妻である自分を放置したのだ。挙句の果てに自分は、彼らの動きをただ聞くしかなく、結局、自傷して薬の辛さに耐えるしかない窮地に追い込まれた。

あまりの疲労に紬は目を閉じた。もう航と一言も話す気になれなかった。

一方、航は、紬が何も言い返さないのを見て、自分の言い訳は受け入れてもらえただろうと思った。

実際、彼は最後のラインだけは越えずに持ちこたえ、法的な意味では本当に婚姻を裏切っていないと考えていたのだ。

それから、紬が無事であることを確認すると、航はゆっくりと立ち上がった。「それじゃあ、よく休んでくれ。俺は……澪の様子を見てくる。彼女も昨日は酷く驚かされたようだから」

そう言い終えると、彼は病室を後にした。

航が去ってしばらくすると、今度は役所の人間が病室にやってきた。

「九条様でしょうか?お届け先の住所にいらっしゃらなかったため、病院までお邪魔しました。あなたが提出された離婚調停申請ですが、あなたの状況から酌量のうえ申請が認定されました。それで、今後のご意向を確認させていただきたくお伺いいたしました」

そう言って調停の担当者が彼女に調停調書の謄本を手渡した。

差し出された調停調書の謄本を受け取ったとき、紬はそれを両手で強く握り締めた。それと同時に、今までにないほどの深い安心感を全身で感じ取っていた。

「ありがとうございます。これから離婚届の提出を進めて行きたいと思います」と、紬は小さな声でお礼を述べた。

相手が去ると、紬は急いで起き上がり、何とか退院手続きを済ませると、家に帰って用意していた荷物をとってから、すぐにでもここから立ち去ろうとした。

ところが家に帰り着いて、息つく間もなく、両親がまたやってきたのだ。

「紬。昨日、航くんと澪が関係を持ったそうね……全部聞いたよ。本来なら、航くんと一緒になるべきだったのは澪で、あなたと彼が結婚したのもほんの弾みなんだから、これを機にもう航くんを澪に返してあげなさい」

「その通り。紬、少しは分をわきまえなさい。これ以上あなたが頑なになっていると、澪にも悪い評判が及んでしまうし、彼女の将来に響くじゃないか?」

二人はそこまでまくしたてると、力尽くで紬を引きずって、強引に離婚届を書かせようとした。

「離して!」紬は懸命に叫び、もがき続けた。この時、彼女の積もり積もった怒りが激しく爆発した。

「言うことを聞きなさいよ!」紬が反抗するのを見ると貴子は表情を一変させて、彼女の頬を思いっきり引っぱたいた。「いいこと!反抗したって無駄なんだからね。どのみち澪には絶対に、航くんと結婚させるから!」

叩かれた頬がズキズキとしたが、それよりも心に感じる痛みの方が辛かった。

すると、紬は両親の手を振り切って、ポケットに大事にしまっていた調停調書を出して、二人の顔に向けて乱暴に投げつけた。

「言われなくても別れてやるから!」そう叫んだ紬の身体は怒りで激しく震えていた。だが、彼女の決意は揺るぎがなかった。「よく見てみなさい!これで離婚届を出せば航との関係は完全に終わりよ!」

宗佑と貴子は、眼前に投げ出された紙を見てしばらく立ち尽くしたが、やがてその怒りに満ちた表情が大きな喜びへと変わり、笑顔を綻ばせた。

「あら!これで離婚も認定されたようなものじゃない!」貴子はすぐさま地面から調停調書を拾い上げ、満面の笑みを浮かべた。「よかったわ!本当によかった!これで澪が密かに航くんに恋焦がれて辛い思いをせずに済むのね!早く!さっさと離婚届を出しに行ってきなさいよ」

両親が喜びを隠さない表情を見て、さらに自分の存在を無視して澪の想いが叶ったことにだけ喜ぶ彼らの様子を見て、紬は胸の内に残ったわずかな肉親への期待も綺麗に消え失せた。

彼女は二人に背を向けて荷物の置かれた部屋へ足を進め、予め記入済みの離婚届とスーツケースを手に取ると迷うことなく玄関へ向かった。

その時になって、両親は初めて事の重大さに気付いたようだ。

「紬、一体これからどこへ行くんだい?離婚届を出しに行くのか?」宗佑はわずかに不安を帯びた声でふいに聞いた。

「私がどこに行こうがあなたたちには関係ないでしょ?離婚届は私の方で出しておくからご心配なく。

それじゃ、もう戻ってくるつもりはないから」

そう言って、紬はノブを押し、スーツケースを引きながら出ていった。外の空気は冷たかったが、それでも彼女は振り返ることなく、降り注ぐ眩い陽の光の中へ姿を消した。

残された宗佑はガランとする玄関を見つめたまま、そばの貴子に不安げな小声で耳打ちした。「ちょっと追いかけた方がいいんじゃない……」

「どうしてそんなことをする必要があるの?」貴子はどこか自信ありげにあしらって言った。「紬一人で何かできるの?大した金も持たせていないのよ!せいぜい帰る場所に困り、数日もすれば自分からのこのこ戻ってくるに決まってるわ!気にしないで!」

貴子はそう言ってただ手に持った調停調書に目を凝らした。「澪たちが帰ってきたらいち早くこの知らせを教えてあげないと。本当に待ちきれないわ。これで澪の長年の想いがようやく報われるわね!」

……

一方、澪は特に入院する必要もなかったので、診察が終わると帰宅できると言い渡された。

そこで、航は澪を自宅へ送り届けようとしたが、ふと、紬のことを思い出し、彼女の様子もついでに見に行ってみた。

しかし、向かった先で看護師から、紬はすでに退院手続を終わらせて帰ったと告げられた。

それを聞いて、航は眉間にしわをよせ、無性に苛立ちを募らせていた。

腕にあれほどの大怪我を負っているのになぜ少しも安静にせずすぐ退院したのだろう?紬は一体なにをわがまま言ってるんだ?

航の浮かない顔を見て澪がすぐさま甘い口調で宥めるように言った。「航、あまり怒らないであげて。もしかしたら今頃、紬はもうご飯を用意して私たちの帰りを待ってくれてるかもしれないわよ」

そう言われ、航は少しぽかんとしたが、すぐに胸に湧いた苛立ちも薄れたように感じた。

彼はそれ以上深く考えることもなく、そのまま澪を連れて帰宅した。

しかし、家に戻ると、そこには温かい食事が並べられることもなく、せわしなく支度をする紬の姿もなかった。

代わりに澪の両親が、リビングで満面の笑みを浮かべて、彼らを待ちわびているのだった。

がらんとしているリビングとキッチンを見渡して、航はなぜか嫌な予感が胸を過った。

「お義父さん、お義母さん。どうかされましたか?紬は?」

そう言われ、貴子はにこやかに立ち上がると調停調書を航へと近づけて見せた。そして、軽やかな口調で言った。

「ねえ、航くん。紬は出て行ったわよ。多分もう戻ってこないでしょう。

それよりこれ見て。ようやくあなたと紬の離婚が認められたのよ。離婚届も紬の方で提出しておくそうよ。

これで邪魔者はもういなくなったわけだから、あなたもやっと澪と一緒になれるってわけね」

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