Short
決して手の届かないあの人への恋

決して手の届かないあの人への恋

By:  エイスースCompleted
Language: Japanese
goodnovel4goodnovel
29Chapters
45views
Read
Add to library

Share:  

Report
Overview
Catalog
SCAN CODE TO READ ON APP

15歳の時、白石紬(しらいし つむぎ)は、姉の白石澪(しらいし みお)が近所の九条航(くじょう わたる)を壁際に追い詰めてキスしているのを見た。航の背筋はピンと伸びて、耳まで真っ赤になっていたが、拒んだりはしなかった。 18歳の時、紬は、澪と航が手を繋いで両親に挨拶をし、結婚の相談をしにくるのを見ていた。 20歳の時、紬は、澪が留学という貴重なチャンスを手にするために、結婚式の前日に逃げ出したのを知った。 その時、紬は路地の入り口まで追いかけ、澪の後ろ姿に向かって震える声で叫んだ。「お姉ちゃん!彼と別れるなら……私がもらってもいい?」 澪は一瞬足を止めると、振り返りもせず、適当に手を振った。「いいよ、あげる」 こうして、両家の面目のため、自分自身の誰にも言えない秘密の気持ちのために、紬は自分のものではないウェディングドレスを着て、ブライダルカーに乗り込んで、航の花嫁になった。

View More

Chapter 1

第1話

15歳の時、白石紬(しらいし つむぎ)は、姉の白石澪(しらいし みお)が近所の九条航(くじょう わたる)を壁際に追い詰めてキスしているのを見た。航の背筋はピンと伸びて、耳まで真っ赤になっていたが、拒んだりはしなかった。

18歳の時、紬は、澪と航が手を繋いで両親に挨拶をし、結婚の相談をしにくるのを見ていた。

20歳の時、紬は、澪が留学という貴重なチャンスを手にするために、結婚式の前日に逃げ出したのを知った。

その時、紬は路地の入り口まで追いかけ、澪の後ろ姿に向かって震える声で叫んだ。「お姉ちゃん!彼と別れるなら……私がもらってもいい?」

澪は一瞬足を止めると、振り返りもせず、適当に手を振った。「いいよ、あげる」

こうして、両家の面目のため、自分自身の誰にも言えない秘密の気持ちのために、紬は自分のものではないウェディングドレスを着て、ブライダルカーに乗り込んで、航の花嫁になった。

あれから3年が過ぎた。紬は手料理を覚え、航の制服にアイロンをかけ、彼の身の回りの世話を完璧にこなした。けれど航の態度は、いつも壁を隔てているかのように冷たかった。

それでも紬は、ずっと航を愛し続けられると信じて疑わなかった。

そんなある日、紬はいつも通り航にお弁当を届けるため、彼が働く特殊部隊の基地を訪ねていった。その時、仕事を邪魔してはいけないという航の言葉を思い出し、外で待つことにした。

いつの間にか雨がしとしとと降り出した。紬はお弁当を抱きしめて、中身が濡れないように必死で守った。

だが、時間がことごとく過ぎても航は現れなかった。紬は航の持病で胃が痛みを起こしていないかと心配になり、意を決しておずおずと彼のオフィスの前へと向かった。

そこで紬が目にしたのは、全身の血の気がすっと引いていくような光景だった――

人前ではいつも冷酷で厳しい航が、今、床に片膝をついているのだった。その目の前には、3年間姿を消していた澪が座っていた。

航はとても優しい手つきで、壊れ物を扱うかのように澪の足首を包み込んで、ゆっくりと揉みほぐしていた。

「痛っ……もっと優しくして」澪は甘えるように声をあげた。

航はすぐに手の力を更に和らげて、澪を見上げて言った。「今の力加減はどう?」その声には心配の色が滲んでいた。

澪はそんな彼を見つめ、ぷっと吹き出して笑った。

「何が可笑しいんだ?」航が低い声で優しく尋ねた。

すると、澪の口元が綻んだ。「別に、ただ……紬が今、外で雨に濡れながら、あなたにお弁当を届けるためにずっと待っているでしょ。彼女はあんなにあなたのことを心から恋焦がれているのよ。なのに、あなたはここで私の足を揉んでいるの。それを見られたら、泣かれちゃうかもと思ってね」

それを聞いて、航は淡々と答えた。その声には何の感情の起伏もなく、けれどその言葉は、冷たくて鋭いナイフのように、真っ直ぐに紬の胸に突き刺さった。

「あいつが泣くのなんて、どうでもいい。

君が痛がっているかどうかのほうが、俺にとってよっぽど大事なんだ」

この短い言葉は、雷の轟きのように紬の耳元で思いっきり弾けた。

紬は全身が凍りつき、抱えていたお弁当ですら焼けたように熱くなり、手に持てなくなりそうになった。

「奥さん?隊長に会いに来たんですか?どうして入らないんですか?」ふと、通りかかった一人の隊員が、不思議そうに声をかけた。

その声で、部屋の中にいた二人もはっと気づいたようだ。

紬は航が顔を上げ、入口へ視線を向けるのを見た。慌てた彼女は、何か悪いことでもして見つかったかのように、お弁当を抱えて一目散に走り去った。

雨は激しさを増し、先ほどよりいっそう強くなっていた。

大粒の雨が体や顔に降り注ぎ、芯まで凍えさせていたが、紬はまるで感じていなかった。

彼女はただ必死で走り続けた。そうすれば、あの息苦しい光景や、航の無情な言葉から逃れられるかのようだった。

涙が雨に混ざり流れ落ち、切なさが喉の奥に詰まった。

紬にはどうしても分からなかった。なぜ……

同じ親から生まれた娘なのに、子供の頃から美味しい食べものや綺麗な服をもらったり、温かい愛情を受け褒められるのはいつもすべて澪だけだった。

自分が着る服はすべてお下がりで、おもちゃも、いつも澪がいらなくなったものばかりだった。

そして今、自分が何よりも大切にしていた愛する人でさえ、元々は澪が要らなくなって、譲ってくれた相手なのだ。

航と結婚できて、自分がどれだけ喜んだか、彼は知ることがないだろう。

この喜びは、紬にとって3年もの冷たい月日を乗り越えてきた糧なのだ。

幼い頃、近所の子にいじめられて大声で泣く紬を、航は険しい顔で守ってくれた。その後、手に持っていた体温を帯びた飴をくれた。

学生時代も、テストがだめになって泣いていた紬を、航はそっと寄り添って、「次、また頑張ればいいさ」と励ましてくれた。

そんな想いを胸に、大人になってから、制服を格好よく着こなす航の姿をこっそり見て、紬は何度もときめいていたのだった。

だから、澪が彼を捨てようとしていると知った時、紬は精一杯の勇気を振り絞って、「お姉ちゃん!彼と別れるなら……私がもらってもいい?」と言ったのだ。

澪が見向きもしなくなった相手でも、紬にとっては大切に守りたい想い人だったから。

紬はそんな大切な想い人を心から愛し、ありったけの愛情を注いできた。

なのに結局、その人は、15歳の時からずっと澪しか見ていなくて、一度だって自分に振り向いてくれることはなかった。

泣きながら笑い、雨の中でどれほど走ったか分からず、ただずぶ濡れになった紬は気が付くと、役所の前に立ち尽くしていた。

その瞬間、紬はふっとあれほど愛してきた相手でも、諦めようと決めるのはほんの一瞬なのだと気づかされたのだった。

そう思って、紬は冷たい水滴を拭い、意を決したかのように呼吸を整えて、役所へと向かった。

「すみません、離婚調停の申請をしたいです」

役所の職員はびしょ濡れで酷い状況の紬を前に、少したじろいだ様子だったが、深く聞き出そうとはしなかった。

というのも、これだけの雨の中で、妻をびしょ濡れにさせるのはきっとろくでもない男だろうから。

状況を察して、職員は申請用紙を差し出し、優しく記入するように促した。

紬が申請書に記入すると、職員から段取りについて説明を受けた。「離婚調停の場合、この後申請は家庭裁判所に引き渡されることになっている。手続には数日かかります。あとで必要な追加書類を揃えてもらう必要があり、その場合はまた後日ご連絡いたします」

それを聞いて、紬は小声で、「ありがとうございます」と言った。

だが、役所から出てほんの数歩も歩かないうちに、後ろからクラクションの音が響いた。

見回すと、そこに見慣れたジープが停まっていて、ゆっくり下りてくる窓の向こうから、航の整った横顔が現われた。

彼はずぶ濡れの紬を見るなり、かすかに眉間にしわを寄せた。「なんでそんなに濡れているんだ?乗りなさい」

今までの紬だったら、一緒に乗れる嬉しさで、何も考えずに大喜びで座席へ跳び込んでいたに違いない。

けれど今の彼女は首を軽く横に振り、こう言った。「いい。自分で歩いて帰るから」

そう言って、彼女は道端の軒先で蹲る浮浪者をチラッとみて、少し躊躇った後、近寄っていった。そして、これまでしっかり抱えていた自慢のお弁当をそっとその人の前へ置いて立ち去った。

一方、航は紬の一連の動きを見て、珍しく驚きと戸惑いの色を浮かべた。

彼は眉間をきつく寄せ、とっさに、もしかしてさっき職場で紬に何もかも見聞きされてしまったのではと察した。

多分、それで彼女はすぐにそこから去って行ってしまったのだろう。

Expand
Next Chapter
Download

Latest chapter

More Chapters
No Comments
29 Chapters
第1話
15歳の時、白石紬(しらいし つむぎ)は、姉の白石澪(しらいし みお)が近所の九条航(くじょう わたる)を壁際に追い詰めてキスしているのを見た。航の背筋はピンと伸びて、耳まで真っ赤になっていたが、拒んだりはしなかった。18歳の時、紬は、澪と航が手を繋いで両親に挨拶をし、結婚の相談をしにくるのを見ていた。20歳の時、紬は、澪が留学という貴重なチャンスを手にするために、結婚式の前日に逃げ出したのを知った。その時、紬は路地の入り口まで追いかけ、澪の後ろ姿に向かって震える声で叫んだ。「お姉ちゃん!彼と別れるなら……私がもらってもいい?」澪は一瞬足を止めると、振り返りもせず、適当に手を振った。「いいよ、あげる」こうして、両家の面目のため、自分自身の誰にも言えない秘密の気持ちのために、紬は自分のものではないウェディングドレスを着て、ブライダルカーに乗り込んで、航の花嫁になった。あれから3年が過ぎた。紬は手料理を覚え、航の制服にアイロンをかけ、彼の身の回りの世話を完璧にこなした。けれど航の態度は、いつも壁を隔てているかのように冷たかった。それでも紬は、ずっと航を愛し続けられると信じて疑わなかった。そんなある日、紬はいつも通り航にお弁当を届けるため、彼が働く特殊部隊の基地を訪ねていった。その時、仕事を邪魔してはいけないという航の言葉を思い出し、外で待つことにした。いつの間にか雨がしとしとと降り出した。紬はお弁当を抱きしめて、中身が濡れないように必死で守った。だが、時間がことごとく過ぎても航は現れなかった。紬は航の持病で胃が痛みを起こしていないかと心配になり、意を決しておずおずと彼のオフィスの前へと向かった。そこで紬が目にしたのは、全身の血の気がすっと引いていくような光景だった――人前ではいつも冷酷で厳しい航が、今、床に片膝をついているのだった。その目の前には、3年間姿を消していた澪が座っていた。航はとても優しい手つきで、壊れ物を扱うかのように澪の足首を包み込んで、ゆっくりと揉みほぐしていた。「痛っ……もっと優しくして」澪は甘えるように声をあげた。航はすぐに手の力を更に和らげて、澪を見上げて言った。「今の力加減はどう?」その声には心配の色が滲んでいた。澪はそんな彼を見つめ、ぷっと吹き出して笑った。「何が可笑しいんだ?
Read more
第2話
だが、それでも航は説明しようとせず、ただ雨の中に佇む、ずぶ濡れなりながらも背筋をピンと伸ばしている紬を見つめて繰り返した。「ここは駐車禁止だ。乗りなさい」その言葉を裏付けるように、後ろの車がいら立った様子でクラクションを鳴らした。紬は黙り込んだ。しかし、道のど真ん中でこれ以上目立ちたくはなかったので、彼女はドアを開けて後部座席に乗った。車内に入ると、かすかにクチナシの香りが漂ってきた。澪のお気に入りの香水だ。予想通り、助手席の澪が振り返り、にこやかに微笑みかけてきた。「紬、久しぶり。今日帰国したばかりなの。まさか航に会うなんて、本当に偶然ね」紬は黙ったまま頷き、窓の外へと視線をそらした。それから、車は走り出した。紬は、ものすごい速さで過ぎ去る窓の外の景色を見つめていた。しかし、どうしてもフロントシートの二人の会話が耳に入ってしまうのだ。航は落ち着いて運転しながらも、たびたび澪を気遣い、「喉は渇いてない?水ならあるよ」と優しく声をかけてあげたりしていた。車が少しガタガタと揺れると、航はごく自然に手を伸ばして澪の体をかばった。「気をつけて」こんなにも至れり尽くせりの優しさを、紬は航と結婚した3年間で、一度も体験をしたことはなかった。紬は窓の外を見つめながら、襲いかかる深い切なさを一身に受けてひたすら耐えていた。自分の人生は、なんて悲惨なんだろう。両親からも愛されず、夫からも愛してもらえない。でも、もういい。これからは、自分のことだけを大切にしよう。もう二度と、誰の愛も求めないと心に決めた。その時、澪が小さく声を上げてお腹を押さえた。「どうした?」航がすぐに澪を覗き込み、声をこわばらせて聞いた。「ううん、なんでもない……生理だから。家に帰って休めば治まるから」しかし、航は眉間にしわを寄せた。「初日はいつも痛みがひどいだろう。無理をしないで、すぐに病院へ行こう」そう言って、彼はウィンカーを出して車線を変更し、病院へと向かおうとした。一方、それを聞いた紬は信じられない思いで航を見つめ、胸が締め付けられるように痛んだ。彼女は前に自分が生理痛で動けなくなり、額に冷や汗を流しながらソファで丸まっていた時のことを思い出したのだ。その日はたまたま航が書類を取りに帰ってきたが、苦しむ自分を見ても少
Read more
第3話
時間が過ぎゆく中、雨は次第に止み、辺りは完全に暗闇に包まれた。1時間はとっくに過ぎていたが、航は影すら見せなかった。チンピラは初めのうちこそおどおどしていたが、待ち続けるうちにとうとう痺れを切らした。「クソッ!これだけ待っても来ねえってことは、ハナから来る気なんてねえんだ!俺をコケにしやがって!」チンピラは怒りに任せて紬の方へと向き直り、雨に濡れて体の線がくっきりと浮かび上がったその身体を、濁った目で舐め回すように見つめると、不意に邪悪な考えを思いついたようだ。「おい!」チンピラは両手を揉み合わせ、いかがわしい笑みを浮かべた。「金はもういらねえ。その代わり、一晩俺の相手をすれば、この件は水に流してやるよ!どうだ?」そう言うと、チンピラは紬に向かって飛びかかってきた。紬は恐怖のあまり取り乱して、叫んだ。「来ないで!主人は絶対に……絶対に来るから!もう少しだけ待って!」「待てるかよ!こっちはもう待ちくたびれたんだ!」チンピラは力強く紬の腕を掴み上げると、もう片方の手でその服を引き裂き始めた。「離して!助けて!」紬はパニックに陥り泣き叫んだ。手足を振り乱して必死に抵抗したが、男の力の前では全く歯が立たなかった。逆に激しく身をよじったせいで、腕や首筋が引っ掻かれて、血が滲み出た。その瞬間、絶望が冷たい潮波のように、紬を完全に飲み込んでいった。チンピラが紬を濡れた地面に押さえつけ、その悪臭を放つ口を近づけてきたまさにその時、紬がなりふり構わず振り回していた手が、ふと自分の首にかかっているネックレスに触れた。それは元々、航が澪へ贈るはずだった結婚祝いの品。澪が去った後、手元に残しておくのも目障りだったのか、紬が嫁いでいった日に、彼はそれを紬に適当にあげたのだ。この3年間、紬はそのネックレスを肌身離さず身につけ、一度も外したことはなかった。だが今、紬はそれを力任せに引きちぎると、遠くへ向かって思い切り投げ捨てた。「このネックレス、高く売れるわ!賠償には十分でしょ!持っていって!」チンピラは一瞬呆気に取られ、無意識に紬から手を離してネックレスを拾いに走った。紬はその隙に地面から這い上がり、ありったけの力を振り絞って、一度も振り返ることなく雨の中へと駆け出した。どれくらい走り続けたか、チンピラを完全に振り切ったと確信
Read more
第4話
そう思うと、航の胸の内に、何とも言えないモヤモヤとした不快感が広がった。あの日、自分のために作った弁当を、紬がそこら辺の浮浪者にあげてしまってから、どうも様子がおかしいのだ。しかし、その違和感も一瞬で消えた。航は特に気にすることなく頷き、いつも通りの淡々とした口調で言った。「無事なら、それでいい」少し間を置いて、彼はキッチンを見回すと、ふと言った。「今日は食材を買ってきたんだ。ご飯作るから、待っててくれ」そう言うと、彼は紬の様子を気にすることなく、そのままキッチンへと向かった。一方、紬は元の場所に立ち尽くしたまま、ぽかんとしてしまった。航が……料理を作る?結婚して3年間、航がキッチンに立ったことなど一度もない。毎日の食事を用意するのは、いつも自分の役目だった。だが、すぐにキッチンから野菜を切る音が聞こえてきた。その手つきは、思いのほか手際が良かった。しばらくすると、航は本当にいくつかの見栄えの良い料理をお皿に盛り付け、テーブルに並べた。「ほら、食べて」と、彼は紬に声をかけた。紬は静かに歩み寄り、ダイニングテーブルの前に座った。航は紬に箸を手渡した。そして自分はメモ帳とペンを取り出し、向かい合って彼女を見つめた。「食べてみて、それぞれの味の感想を教えてくれないか?」紬は意図が分からなかったが、言われるがままに箸を取り、一通り口に運んでみた。「この生姜焼きは、お肉がちょっと硬い。火を通しすぎかな。卵焼きは塩加減がちょうど良くて、卵もふわふわしている。ナスのお浸しは、味がちょっと濃いかも、ナス本来の旨味が消えちゃってる」……紬は料理を口に運んでは、淡々とした声で、客観的に良い点と悪い点を伝えた。航は目の前でペンを握り、メモ帳に素早く書き込んでいく。その表情は極めて真剣で、まるで重要な任務に臨んでいるかのようだった。そして、紬がすべての料理の評価を終えると、航もペンを置いた。それから彼は立ち上がると、そばにあった弁当箱を引き寄せた。テーブルから紬が「美味しい」と褒めた料理だけを丁寧に移し替え、蓋を閉めた。すると、テーブルに残されたのは、紬が「味が濃い」と言ったナスのお浸しと、「お肉がちょっと硬い」と言った生姜焼きだけだった。航はそのまま弁当箱を手に取り、出かけようとした。ふと、紬にじっと
Read more
第5話
その日の夜、航が帰ってきたとき、紬はもう布団に入っていた。彼女はドアに背を向け、静かに寝息をたてて、眠っているようだった。航はベッドの脇に立ち、しばらく紬を見つめた。どうも、何かがおかしいと感じていた。いつもなら、遅く帰ると紬はおずおずと話しかけてきたものだ。どれほど冷たくあしらっても、彼女はめげずに話しかけてきていた。しかし、この数日の紬は、不気味なほど静かだった。航が口を開こうとしたそのとき、外から突然、緊急の警報音が響き渡った。それと同時に航が所属していた部隊の隊員が激しくドアを叩いた。「隊長!大雨のせいでダムが決壊しました!水が堤防を越え、周囲の民家を呑み込んでいます!上層部からの命令です、直ちに避難を!」それを聞いて、航は表情を一変させて、急いで合羽を羽織った。出ていく直前、彼は振り返って紬を起こして言った。「特殊部隊の隊長として俺はまず、一般市民の避難誘導を優先しないといけないから。君はこの俺の妻だから、強くあるべきだ!ひとまず自分で避難をしてくれ、後でまた様子を見にくる」それだけ言うと、航は振り返ることもせず、土砂降りの雨の中に飛び出していった。一方、紬はベッドにただ横たわったまま、遠ざかる足音を聞きながら、心に波風一つ立てなかった。彼女はとっくに慣れていた。航にとって、自分はいつも後回しにされる側だから。しかし、今回の洪水がこれほど激しいものだとは思わなかった。わずか30分ほどで、泥水が敷地に流れ込み、水位はみるみるうちに上がっていった。紬は慌ててロフトへ上り、窓の外を覗いた。すでに官舎の団地全体が水没し、海のようになっているのだった。さらに、時間が経つにつれて、官舎の団地から聞こえていた助けを求める声や泣き声は少なくなっていき、次第に静まり返った。世界に取り残された自分は、たった一人だけ、水に呑まれていく孤島に囚われ、身動きが取れなくなってしまったようだ。このまま見捨てられてしまうのだと思ったそのとき、雨の向こうから突然、聞き覚えのある声が届いた。「隊長!奥さんがまだ中にいます!」声のする方へ視線を向けると、航がびしょ濡れの制服姿で、足をとられながらも官舎を目指して必死に水の中を進んでくるのが見えた。航は、来てくれた……この時、紬の胸に自分でも情けなくなるほどの、ちっぽ
Read more
第6話
紬は両親の焦りながらもどこか当然だという表情を見つめ、ふと過去の様々な記憶が脳裏を過った。澪が幼い頃に熱を出した時、家族みんなで大騒ぎした。父の白石宗佑(しらいし そうすけ)は夜中に慌てて医者を呼びに行き、母の白石貴子(しらいし たかこ)は寝ずに看病していた。その時、自分まで起こされて、水などを運ばされ、看病の手伝いをさせられたものだ。澪が転んで少しすり傷を作っただけで、両親はひどく心配し、よしよしとあやして抱きしめていた。あるとき不意に手を怪我し、血が止まらなくなった時、両親はまず、そそっかしいと自分を責め立てた。それから、早く自分で手当てをしてきなさいと言ったのだ。澪の勉強を見てあげるのが滞ってしまうから。いつだってそうだった。自分が病気でも、怪我をしていても、最後には、「もっとケアが必要な」澪の世話をさせられるのだった。だから、今回も紬は何も言わず、手の甲の点滴の針を抜き取ると、痛む体を引きずるようにして、ゆっくりとベッドから降りた。すると、両親は紬が素直に従ったのを見て、ようやく少し表情を和らげ、澪の病室へと彼女を急がせた。病室に入ると、澪がベッドにもたれて座っていた。その顔は青白く、か弱い様子で航が口元に運んでくれた水を飲んでいるのだった。紬が入ってきたのに気づき、航の視線は一瞬、彼女の手の甲から滲み出る血に止まった。すぐに、彼は眉間にしわを寄せ、かすかに表情を曇らせた。すると、澪は優しい声で言った。「お父さん、お母さん、航。みんなずっと付き添ってくれてありがとう。お仕事もあるでしょうから、もう行って大丈夫よ。私には紬がついているから、安心して」航にはまだ、災害対応の後始末という仕事があったし、両親にもそれぞれの仕事があった。彼らは澪にしっかりと安静にするよう何度も言い含め、惜しみながら病室を後にした。最初から最後まで、彼らは紬に対して「体調はどうか」、「怪我は痛まないか」などと、一言も声をかけることはなかった。こうして、みんなが去ると、病室は紬と澪の二人きりになった。途端に澪は、さっきまでのしおらしい態度を急に変え、当然のように紬を顎で使った。「紬、喉が渇いたわ。お水を一杯ちょうだい。紬、肩が凝っちゃった。揉んでくれる?紬、果物が食べたい。リンゴを買ってきてちょうだい。ちゃんと皮を剥いて、食
Read more
第7話
航は一瞬言葉に詰まった。それから何か言おうと口を開いたものの、喉に詰まって上手く言葉が出てこなかった。「すまない。俺は……本当に忙しくて」少し時間を置いてから、航は紬を宥めようとしたのか続けて言った。「今から一緒に食事でもどうだ?あるいは何か欲しいプレゼントはないか?すぐに用意ができるものなら……」しかし、航が話し終える前に、ドアの外から、慌ただしい足音に交じって誰かの叫び声が響いてきた。ほどなくして、紬の両親は慌てた様子で、取り乱した澪の手を引いて入ってきたのだ。「航くん、大変よ!大変なことが起きたの!」貴子は泣きそうになりながら言った。「澪が……澪が友達のためを思って手伝った取引が、不正取引の疑いがかかったの!それで今、起訴されて、このままじゃ澪が逮捕されてしまうわ。どうしよう!」それを聞いて、航は顔を強張らせて、澪に顔を向けて聞いた。「君が関わっていたという確たる証拠は掴まれているのか?」澪はすでに恐怖のあまり顔が青ざめていた。彼女は涙ながらに頭を振って言った。「それは……多分ないと思う。取引をしていた時はずっと覆面をしてて、人目を避けたつもりだし……」それを聞いて、航は黙り込んでしまった。テーブルを指でコツコツと叩きながら、眉間にしわを寄せ、明らかに何か考えを巡らせている様子だった。室内には重苦しい沈黙が続き、ただ澪のすすり泣きと白石夫婦の焦りを交えた荒い吐息だけが響いた。やがて意を決したかのように顔をあげた航は鋭い目線を、暗い隅に小さくなっている紬に向けた。「紬、澪の代わりにすべての犯行を認めてきてくれないか?」それを聞いて、紬は耳を疑った。彼女は信じられない思いで、立ち尽くし彼を見つめた。だが、航は紬の驚きの視線を受けても、その口調は頑なで、全く動揺を見せなかった。「澪は体が弱いうえに、精神面も弱い。これで捕まればきっとそんな仕打ちに耐えられないはずだ。それにこの件はどうせ大したことにはならないから、君が彼女の代わりに何日間か勾留されれば、俺が必ずなんとかして保釈してやる」「いやよ!」と紬はきっぱりと断った。その声は怒りと悲しみが重なって震えるほどだった。どうしていつも自分なんだ?何もしてない自分がなぜいつも澪のために犠牲にならないといけないんだ?「嫌だって!?」それを聞いた貴子は勢いよく向
Read more
第8話
その瞬間、絶望に打ちのめされた紬はついに耐えきれなくなって涙を流した。結局、彼らにとって、自分の命なんてどうでもよくて、澪のためならいつだって犠牲にできる道具でしかないのだ。多分運がよかったのだろう、あるいは神様のご加護があったのかもしれない。紬はどうにかこの手術を乗り越え、生き延びることができた。けれど、彼女の体はもうボロボロだった。まともにベッドから起き上がって歩くことすらできないほど、弱り切っていた。入院している間、誰もお見舞いに来なかったし、看病してくれる人もいなかった。両親は、手術を終えたばかりで、つきっきりの看病が必要な澪のことしか見えていなかった。航も……きっと澪のそばにいるのだろう。紬は術後の痛みにじっと耐えながら、不自由な体で食事をし、水を飲み、トイレへいくのも一人きりでこなしていた。それから、ようやく退院の日を迎え、紬は自分ひとりで手続きを済ませると、まだ回復していない体をひきずりながら、家へと向かった。ところが、玄関のドアを開けると、そこには思いがけない人――澪がいた。綺麗なワンピースを着て、血色の良い澪は、見るからに大切に看病されてきた様子だった。その姿は、やせ細って顔色の悪い紬とはあまりに対照的なのだ。紬を見かけて、澪は彼女の前に歩み寄ると、単刀直入に切り出した。「紬、航を私に返してほしいの」紬は何も言わず、ただじっと澪を見つめていた。澪はあたかも当然のことであるかのように話を進めていった。「あの頃は、夢を追いかけて留学することになったから、仕方なく航をあなたに譲ってあげたのよ。それであなたが彼と結婚できたわけだけど、私が戻ってきたからには、もう彼を返してもらうわ。それに、この1ヶ月の間に、航がどれだけ私を愛しているか分かったでしょ?だから、分をわきまえて、痛い目を見る前に大人しく身を引いてくれると助かるんだけど」それを聞いて、紬は心の中で自嘲気味に笑った。身を引く?わざわざそんなことする必要なんてある?航は最初から、澪しか見ていなかった。ほんの一瞬だって、自分のことを見てくれたことはなかったのだから。紬が黙ってただ嘲笑を浮かべているのを見て、澪はバカにされたと思い、カッとなった。「なによ?彼と数年結婚していたからって、愛されてる気になってるの?バカなこと言わないで。今
Read more
第9話
紬が再び目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。病室には航が付き添っていた。紬の意識が戻るのを確認すると、彼は少し黙り込んでから重い口を開いた。「紬、昨日俺と澪は……あの状態じゃ見捨てるわけにいかなかった。少し手助けしただけで、本当に関係を持ったわけじゃない……これは裏切りにはならないだろ……」紬はその言葉を静かに聞いていた。しかし、顔には何の感情も浮かんでいなかった。航がどれだけ綺麗事で誤魔化そうとしても、結局一つの結論に行き着くのだ。自分と澪の二人が並んだとき、航はいつも迷わず澪を選ぶのだと。ほんの少し手を貸しただけだとしても、航は澪を気持ちよくしてやるために、法律上の妻である自分を放置したのだ。挙句の果てに自分は、彼らの動きをただ聞くしかなく、結局、自傷して薬の辛さに耐えるしかない窮地に追い込まれた。あまりの疲労に紬は目を閉じた。もう航と一言も話す気になれなかった。一方、航は、紬が何も言い返さないのを見て、自分の言い訳は受け入れてもらえただろうと思った。実際、彼は最後のラインだけは越えずに持ちこたえ、法的な意味では本当に婚姻を裏切っていないと考えていたのだ。それから、紬が無事であることを確認すると、航はゆっくりと立ち上がった。「それじゃあ、よく休んでくれ。俺は……澪の様子を見てくる。彼女も昨日は酷く驚かされたようだから」そう言い終えると、彼は病室を後にした。航が去ってしばらくすると、今度は役所の人間が病室にやってきた。「九条様でしょうか?お届け先の住所にいらっしゃらなかったため、病院までお邪魔しました。あなたが提出された離婚調停申請ですが、あなたの状況から酌量のうえ申請が認定されました。それで、今後のご意向を確認させていただきたくお伺いいたしました」そう言って調停の担当者が彼女に調停調書の謄本を手渡した。差し出された調停調書の謄本を受け取ったとき、紬はそれを両手で強く握り締めた。それと同時に、今までにないほどの深い安心感を全身で感じ取っていた。「ありがとうございます。これから離婚届の提出を進めて行きたいと思います」と、紬は小さな声でお礼を述べた。相手が去ると、紬は急いで起き上がり、何とか退院手続きを済ませると、家に帰って用意していた荷物をとってから、すぐにでもここから立ち去ろうとした。ところ
Read more
第10話
「紬は出て行ったわよ。多分もう戻ってこないでしょう」航の耳には、貴子の言った言葉が雷のように炸裂した。さらに、目の前に差し出された、調停調書にも彼は大きな衝撃を受けた。航は思わず、それを受け取った。指先が冷たい紙に触れた瞬間、胸が激しく締めつけられた。視線は、「調停調書」と書かれた文字から、その下の認証文と日付印へと移り、航の頭の中は、一瞬で真っ白になった。出て行った?もう戻ってこない?そんな、バカな。そんなこと、あるはずがない。自分を10年間も愛し続け、結婚してからの3年間、自分を人生のすべてだと思ってくれた紬。どんなに冷たくあしらわれても静かに寄り添ってくれた紬が、自ら離婚を求め、決然と立ち去るなど航には到底信じられなかった。その瞬間、驚き、困惑、そして信じられない気持ちと彼自身でさえ気が付いていない焦りと動揺が、冷たい荒波のように、一気に航の胸に押し寄せた。そう思って、調停調書を握りしめていた指先には白くなるほど力が入った。だが、すぐに彼はいつもの傲慢な認識が頭を過り、その一瞬の動揺をかき消した。代わりに心底から苛立ちが沸々と湧きあがり、航は眉間にしわを寄せた。紬はまた、ワガママを言っているのだろう。きっと、いつものように拗ねているだけに違いない。もっと関心を持ってほしいから、こんな極端な方法で自分に妥協させ、構ってもらおうとしているんだ……これまでも紬が不機嫌になるのは、決まって自分に甘えたいときや、もっと気にかけてほしいときだけだった。本気で自分の元を去る覚悟など、紬にあるはずがない。彼女にとって、自分への愛は命そのものなのだ。そこまで考えると、航のこわばっていた表情が、わずかに和らいだ。すると、彼は調停調書を無造作にリビングのテーブルへ放り投げた。どうせいつものわがままで、すぐに後悔して自分から取り消しに来るに違いない、と考えたからだ。一方、貴子は航の様子を見て、彼も納得したのだと思い込み、満面の笑みを浮かべた。振り向いて彼女は、嬉しそうに澪の手を取って言った。「澪、ほら、今日はお母さんが大好きな料理を作ったのよ。航くんもお腹が空いているでしょ?早くしないと、食事が冷めてしまうわ」それを見て、宗佑もせかすように航を席へ促した。こうして、一家はまるで、「紬が離婚を切り出して
Read more
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status