結婚式当日、両親が突然、婚約者を連れて私の部屋に現れた。そしてこう言った—— 「今日の花嫁、結月じゃなくて、思羽にしてほしいの。 お姉ちゃん、もう長くないの。末期の病気で……彼女のたった一つの願いが、湊一と結婚することなの。 実の妹でしょ?少しぐらい譲ってあげなさい。家族のために、お願い」 婚約者の朝霧湊一(あさぎりそういち)も隣でこう続けた—— 「心配しないで。ただのセレモニーだよ。彼女が逝ったあと、正式に籍を入れればいい。ね?」 私はもちろん、首を縦に振らなかった。 すると、父と母は無言で私の手足を縛りあげた。 「式が終わったら、ちゃんと出してあげるから」 でも—— 彼らが家を出てから間もなく、部屋にひとりの男が押し入ってきた。 知らない顔、知らない声。 そして、私は…… 何の理由もなく、残酷に命を奪われた。 ようやく私の存在を思い出したとき、家族の目に映ったのは、腐り果てた私の死体だけだった——
View More私はうつむきながら、土の上に小さな円を指でなぞる。——命もまた、ひとつの円なのだろう。彼らはみんな、私に「さようなら」を言ってくれた。そして、すみれの子どもも、少しずつ大きくなっていった。彼らが私に手を振ると、木蓮の木がざわりと揺れる。まるで、私の代わりに挨拶してくれているように。何年が経ったのか、もうわからない。私の魂は、だんだんと透けるようになっていった。風に運ばれ、時には戻れなくなることも増えた。「すみれ……じゃあね。小さな子も、またね」私は精一杯、彼らに手を振った。消えていく寸前、すみれが涙を浮かべながら、同じように手を振ってくれた。「結月……さようなら。来世では——また姉妹になろうね」私の存在が光の粒になって、風に溶けた。番外編:朝霧湊一視点俺は、結月を愛していた。でも、その愛は、今となってはただの皮肉だ。あの日、思羽が両親を連れてきて、「最期の願い」だと言って結婚を懇願された。「湊一さんは立派だ、きっと結月も理解してくれる」そう言われ、俺はその場の感情でうなずいてしまった。——でも、忘れていた。結月は子どもの頃からずっと「譲って」ばかりだった。その日までも、結婚相手まで譲らなければならなかったのか。彼女が何度も口にしていた偏愛の苦しさ。俺は、それに目をつぶり、仲間となって、彼女を追い詰めた。——俺は、人間のクズだ。ハネムーン先の海辺で、思羽が抱きしめてきた。でも、波の音の奥に、俺は結月の気配を感じた。美しい景色、豪華な料理。すべてが色褪せて見えた。「帰ったら……すぐに謝ろう」そう思った。けれど、家に戻っても、いつものように迎えてくれる人はいなかった。誰もいない家を前に、得体の知れない不安に胸がざわついた。最初は、結月が怒っているだけだと思った。いつものように、俺が下手に出て謝れば、すぐに元通りになるはずだと——でも、いくら待っても、連絡は一向に来ない。まさか、結月が……この世からいなくなったなんて。七年も愛し合ってきた恋人が、本当に、俺の前から永遠に去ってしまうなんて——想像すらしていなかった。警察から電話がかかってきたとき、俺は必死に祈った。「どうか、結月じゃありませんように。どうか、ど
万物が芽吹き、春の光が地を照らす。木蓮の枝には小さな蕾が膨らみ、その下には、今年もすみれが早朝からやってきた。彼女は、私の好きだった白いワンピースを身にまとい、ケーキを手に草の上へと腰を下ろす。私はそっと彼女の肩に寄り添うようにして目を閉じる。——すみれの身体からは、相変わらず柔らかくて優しい洗剤の匂いがした。清潔で、温かくて、心が落ち着く香り。すみれは私の気配を感じたのか、ひとり言のように話しはじめた。日々の愚痴、最近の出来事、世間の話、そして——私の家族のことも。彼女の話によれば——思羽と翔吾は共に服役中。思羽が産んだ子は、湊一に押し付けられたが、DNA鑑定の結果、彼の子ではなかった。湊一は会社を潰し、今では廃人のように日々を過ごしているという。すみれは小さく笑った。その顔には、あの頃の哀しみよりも、前を向こうとする強さが宿っていた。「すみれ、早いね。今日も来てくれたのか」背後から聞こえてきた声に、彼女が振り向く。そこには、私の両親と湊一がいた。彼らもケーキや菓子を手にしていた。どれも、かつて思羽だけに与えられていたものたち。今さら与えられたところで、私はもう、何も感じなかった。すみれは草の上に寝転がり、口に猫じゃらしを咥えたまま言う。「はは……大したもんだよ。あんたらが、結月の誕生日を覚えてたなんてね。てっきり、頭の中には思羽のデータしか残ってないのかと思ったわ」その言葉に、三人はうつむいたまま、何も言い返せなかった。私はそれを見て、思わず笑ってしまった。やっぱり、すみれの毒舌は絶品だ。すみれは荷物をまとめ、静かにその場を後にした。家族は供え物を墓前に並べ、それぞれが心の奥底のごめんねを口にした。泣きすぎた母は、今ではもう目が見えなくなっていた。両親の背は丸くなり、手足は震えていた。湊一もまた、かつての姿を完全に失っていた。髪は白く、目の輝きもない。——あの頃、私が恋をした彼はもう、どこにもいなかった。話すうちに、母がまた泣き出した。父と湊一が彼女を支え、歩いて帰っていく。墓前には——子どものころ大好きだったマンゴー味のアイス、欲しくて買ってもらえなかったフリルのスカート、行きたくて行けなかった海辺の合成写
彼は最後まで、私の遺影の正面を見ようとはしなかった。祭壇を飾る白い布は、彼の目を真っ赤に染めていた。湊一は、深く、そして取り返しのつかない後悔に沈んでいた。——あの時、思羽の「最期の願い」なんて受け入れなければよかった。——結月を、もっと大切にしていればよかった。——あのぬくもりと未来を、裏切らなければよかった。一緒に年を重ねていけたはずなのに。今では、もう生と死で隔てられてしまった。背後から誰かに罵倒されても、彼は一言も返さない。すべてが自業自得であり、自分はそれに値すると分かっていたからだ。誰も気づかぬ祭壇の影に、黒い影がすっと忍び寄った。誰にも気づかれぬように、そっと祭壇の上の骨壺を抱きかかえ、外ではまだ雨が静かに降り続いていた。その骨壺は、まるで赤ん坊のように大切に胸に抱きしめられ、一滴の雨さえも当たらぬよう、そっと、そっと守られていた。その人物は——すみれだった。彼女の目の下には濃いクマができ、かつての明るさは失われていた。小さな太陽のように、誰より元気で、誰よりよく笑った彼女が、今はまるで、壊れかけの月のようだった。彼女は濡れた地面を踏みしめながら、静かに歩き始めた。私と、子どもの頃に一緒に遊んだ道を——まるであの頃のように。「結月、覚えてる?幼い頃、酔った父に殴られ、私は二階の部屋に閉じ込められた。飲まず食わずで、まるで見捨てられたかのように放置されたあの日。誰も助けてくれなかったのに……あんたは梯子をかけて登ってきた。高いところが怖いって言ってたのに、手を震わせながら……母は、私が閉じ込められていることも、半死半生にされていることも知っていた。でも、助けてくれたのは、皮肉にもあなただったんだよ、結月——助け出してくれた後、ずっと貯めてたお小遣いで肉饅買ってくれて。二人でその肉饅食べたよね。あれ、本当においしかった……あれ以上に美味しい肉饅、ないんだよ……」彼女は微笑みながらも、頬には涙が伝っていた。私はその涙を拭おうとしたけど、指先は彼女をすり抜けた。——愛は、たくさんのものを救える。——でも、愛ではどうしても救えないものもある。もし最初から、終わりが決まっていたなら——私は、彼女ともっと長く過ごしたかった。だっ
「湊一、違うの!彼女の言ってることなんて嘘よ!私と浅倉翔吾はもう別れてるの、私は……私は何もしてない、濡れ衣よ!」思羽は縋るような声で叫んだ。だが、すみれは鼻で笑った。バッグの中から厚みのある封筒を取り出すと、その中の写真をバラリと湊一の前に広げた。写真には、つい最近まで続いていた、思羽と翔吾の親密な関係が克明に写っていた。「湊一!私を信じて!違うの、これは違うの!」さらに何かを言いかけた思羽に、母の手が飛んだ。パァン、と乾いた音が室内に響き、思羽は尻餅をついてその場に崩れ落ちた。……ここ数日、思羽はひどく落ち着きを失っていた。首にかけていたネックレスも姿を消し、湊一とは口もきかない冷戦状態。謝罪のつもりで食事を用意しても、湊一はそれを無視して帰ってこなかった。——そして、警察から知らされたのは、結月の体には、新しい命が宿っていたという残酷な事実。しかも、その命は、もう人の形をしていた。その日、警察署の中に響いたのは、湊一の慟哭だった。「うわああああああああああ!!」拳を床に何度も叩きつけ、血が滴るまで泣き叫んだ。父と母も、声を失って泣き崩れた。——生きていたときには誰もくれなかった「心」。死んで初めて、彼らはそれを私に向けた。そんな中、翔吾が逮捕されたという報せが入った。そして警察は、思羽の自宅のインターホンを鳴らした。「事情聴取のため、綾瀬思羽さん、ご同行願えますか」——翔吾が自白したのだ。結月を殺したのは、自分であり、その動機は「思羽の指示だった」と。「思羽は俺を愛してる、でも金がなきゃ結婚できない」——そう言って、彼女は私の婚約者を思い出した。そして、順調に伸びていた私たちの会社にも目をつけた。一番手っ取り早い方法は、私をこの世から完全に消すこと。彼女が湊一と結婚し、財産を手に入れた後で離婚し、すべてを持って彼と海外に逃げる——そうやって仕組んだのが、私の「自殺」を装う計画だった。すべては思羽の筋書き通りだった。だが、翔吾は最後に理性を失い、私を凌辱した。遺体からは、彼のDNAが検出された。そして、決定的だったのは——思羽の癌は、完全なる虚偽だった。彼女の病気も、涙も、すべては私をこの世から消すための準備
湊一は、その場で崩れるように倒れ込んだ。「そんなはず……ない……」呆然と呟きながら、手から滑り落ちたスマホが床に叩きつけられ、画面が粉々に砕け散った。「湊一、どうしたの?しっかりして!」母が慌てて彼を支えようと手を伸ばした、そのとき——「結月が……死んだんです」「……は?」母の顔が一瞬で青ざめる。「何言ってるのよ!結月が死ぬなんて、そんなの嘘に決まってるでしょ!」怒鳴りながら、湊一の肩を激しく揺さぶる母。家族は警察署へ向かうタクシーに飛び乗り、誰もが願った——「どうか人違いであってくれ」と。しかし、安置所で白布に覆われた遺体の足元から見えたのは、見覚えのある亜麻色の髪。湊一の手が震えながら布を捲る。——そこには、腐敗の進んだ私の姿があった。父と母は泣き崩れ、母は遺体にすがりついて叫ぶ。「結月……お願いだから目を覚まして……ごめんなさい、ごめんなさい……」冷たい安置所に、絶望の泣き声だけがこだまする。やっと彼らも私のために涙を流し、後悔の色を見せた。けれど——私がもうこの世にいないという事実だけは、変えようがなかった。湊一はその場に崩れ落ち、ぼう然と私の顔を見つめていた。顔に触れようとしたが、損傷がひどく、どこにも「私らしさ」は残っていなかった。「ごめん……ごめんな……」彼はその場に跪き、頬を何度も何度も自ら叩いた。思羽は、そんな光景から目を背け、遠くで気配を殺すように立っていた。泣くこともせず、まるで「穢れ」を避けるかのように。しかし——やがて周囲の悲鳴と怒号に耐えきれず、わざとらしく涙を浮かべながら足を踏み鳴らした。「湊一……私、怖い……ここにいたら赤ちゃんに悪いよ……帰ろう?」「怖いなら……外で待ってなよ」「やだ!湊一がいなきゃイヤ!」湊一は必死に感情を抑えながら言葉を選んでいたが、思羽は一切譲ろうとせず、ついには私を罵り出した。「本当に迷惑な女ね……死んでもまだ私たちの邪魔をするなんて……!」「出ていけ!!」ついに堪忍袋の緒が切れた湊一が、怒りに満ちた声で思羽を一喝した。「彼女はお前の妹だろ!?少しは心ってもんがないのかよ!」両親ももう止めなかった。ただ私のそばで、幼かった娘を見つめながらすすり泣いていた。思羽はし
「うん、もちろん。思羽のためなら、なんでもするよ」湊一は笑顔を浮かべ、気前よくうなずいた。思羽を喜ばせようと、夕食の席では誰一人として「私の失踪」には触れなかった。そのとき——玄関の扉を激しく叩く音が響いた。湊一の顔が一瞬にして輝いた。彼は誰よりも早く立ち上がり、玄関へ駆け寄っていった。きっと、思ったのだ。今日、結月が思羽の妊娠を知り、全てを許して戻ってきたのだと。家族そろって、笑い合える日がようやく来たのだと。だが——扉の外に立っていたのは、彼が予想だにしなかった人物だった。新名すみれ(にいなすみれ)。私の幼馴染であり、親友。腕を組んだすみれは、鋭い視線で湊一を頭からつま先まで値踏みするように見下ろした。そして開口一番——「結月はどこ?」すみれは複雑な家庭で育った。母親は離婚後に再婚し、彼女は酒浸りの父親と暮らすことになった。そんな環境が、彼女をまるで少年のような率直で強気な性格に育てた。けれど私の前では、いつも優しくて、頼れる存在だった。どんなときも、私のためなら真っ先に動く。守ってくれる。そんな人だった。「ここにはいないわ。探すなら、別の場所へ行って」そう言って思羽が湊一の背後から現れ、ドアを閉めようとした。だが、すみれの手が素早く扉を押さえた。力強く中に踏み込みながら、声を張り上げる。「結月?いるんでしょ、返事して!」「出て行きなさいよ!あのバカ女、ここにはいないって言ってるでしょ!」思羽が叫びながらすみれに掴みかかる。そのまま二人は取っ組み合いになり、室内はたちまち修羅場と化した。「すみれ!落ち着いてくれ、結月は本当にいないんだ!」湊一は慌てて思羽をかばい、すみれを突き飛ばした。その光景に、すみれの怒りは限界を超えた。バチン——!彼女の平手打ちが湊一の頬を打ち抜く。湊一の顔がはじかれるように横を向いた。次の瞬間、頬に真っ赤な痕が浮かんだ。「朝霧湊一!あんた、結婚式当日に花嫁を替えて、平気な顔してるってどういう神経してるのよ!結月がどれだけあんたのことを思ってたか……その気持ちを踏みにじって、何してんのよこのクズ!二人そろって地獄に落ちなさいよ!偏った親もまとめて、全員報いを受ければいい!もし結月に何かあ
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