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潮風が届かない場所
潮風が届かない場所
Penulis: たまちゃん

第1話

Penulis: たまちゃん
野口亮太(のぐち りょうた)は、野口柚(のぐち ゆず)のことを命がけで愛している。周りの誰もがそう言っていた。

亮太は10年かけて柚を口説き落とし、ずっと大事にしてきた。彼女が少しでも眉をひそめると、心配でたまらなくなるほどだった。

それなのに、そんな亮太は、柚を三度も裏切ったのだ。

一度目は、取引先のパーティーでライバルに薬を盛られ、女子大生と一夜を共にしてしまった。

柚が離婚を切り出すと、亮太はその女子大生をすぐに海外へ行かせ、家の前で3日間も雨に打たれ続けた。

「柚、俺が悪かった。お願いだ、今回だけは許してくれ」

亮太の青ざめた顔を見て、柚は結局、彼を許してしまった。

二度目は病院でのこと。柚は、亮太があの女子大生と産婦人科にいるところを見てしまったのだ。

彼は目を赤くして説明した。「柚、2週間前に海外出張で事故に遭ったんだ。爆発しそうな車からあの子が助け出してくれて、それで命拾いした。

その後、彼女の妊娠がわかったんだ。おばあさんが命を盾に、赤ちゃんを残せって言ってきたんだ……」

亮太は柚を強く抱きしめ、震える声で言った。「頼むから、俺のそばを離れないでくれ。あの子が子供を産んだら、すぐに追い出すと誓う。子供は屋敷に預けて、二度とお前の前に現れさせないから」

柚は、その言葉を信じた。

三度目は、オークション会場でのことだった。亮太は柚と、彼女の母親の形見を競り合ったのだ。

そのサファイアのネックレスは、柚の亡き母親が一番気に入っていたものだった。そして、娘に残されたたった一つの形見でもあった。

だが、亮太はどんどん値段を釣り上げていく。そして最後にはとんでもない高値で競り落とし、ネックレスをあの女子大生に贈ってしまったのだ。

柚が個室に駆け込んで問い詰めると、亮太は疲れたように眉間をもんだだけだった。「佳奈は最近マタニティーブルーで、このネックレスが気に入ったらしい。

柚、彼女に譲ってやってくれないか?」

その瞬間、柚は不意に笑ってしまった。だが、それは涙がこぼれ落ちるほどの、悲しい笑みだった。

「もし、私が譲らなかったら?」

亮太は眉をひそめた。「柚、もうやめろ。佳奈はもうすぐ出産なんだ。子供が生まれれば、すべて元通りになる」

柚は彼を見つめた。心臓を斧で叩き割られたような衝撃だった。「元通りに?」

「元通り」って、どんな風に?亮太の目に自分しか映っていなかった頃のこと?それとも、大雨の夜に3時間も車を走らせて、自分のために苺のケーキを買いに行ってくれた時のこと?

彼は本当に、まだ覚えているのだろうか。

「亮太さん……」

後ろから村上佳奈(むらかみ かな)のうめき声が聞こえた。彼女はお腹を抱え、青ざめた顔で壁に寄りかかっている。「足を捻挫しちゃった……痛い……」

亮太は顔色を変えた。ほとんど反射的に柚を突き飛ばし、佳奈の元へ駆け寄ると、その体を横抱きにした。

彼の肩が強くぶつかり、柚はよろめいて後ろに下がる。そして、テーブルの角に額を強く打ち付けてしまった。背中には、一瞬で冷たい汗が噴き出した。

「亮太!」柚は震える声で亮太の名を呼んだ。

しかし彼は振り返りもせず、佳奈を抱いたまま大股で去っていく。柚には、慌ただしい後ろ姿だけが残された。

柚はその場に立ち尽くした。笑えば笑うほど、涙が溢れてくる。

命の恩人に加え、二人の間にできた子供。亮太、あなたはもう一生、あの女から逃れられない。

あなたと、どうやって元通りになれるっていうの……

柚はよろめきながら立ち上がり、こめかみの血をそっと拭うと、車に乗り込んだ。

運転手がおずおずと尋ねる。「奥様、家に戻られますか?」

「ううん」彼女は目を閉じた。「弁護士事務所へ」

2時間後、柚は出来上がったばかりの離婚届を手に、病院へ向かった。

最上階の特別病室の前。ボディーガードは彼女を見ると、気まずそうに顔を伏せた。

柚は廊下の突き当りに立った。亮太が佳奈のためにフロアを丸ごと貸し切っているのが見える。医師も看護師も、呼べばすぐに駆けつける体制だ。そして亮太は、片時も離れずに佳奈のベッドのそばにいる。彼女が眉をひそめただけで、まるで世界が終わるかのように緊張していた。

「西町のあのケーキ屋さんのティラミスが食べたいな……」佳奈が甘えた声でねだる。

亮太は一瞬もためらわなかった。車のキーを手に取ると、すぐに外へ向かう。「待ってろ、すぐ戻る」

柚は物陰に立ち、心臓をえぐられるような痛みに耐えていた。

亮太が去った後、彼女は病室のドアを押して入った。

佳奈は柚を見るなり、たちまち目を赤くした。「私を責めにいらしたんですか?ごめんなさい、わざとじゃなかったんです。ただ、あのネックレスが本当に欲しくて……」

佳奈は涙を浮かべ、声を詰まらせて言う。「亮太さんはあなたから奪って私にくださいましたけど、あれは私が無事に出産して、あなたと元通りになるためなんです。さっきも私の世話をしてくれていましたけど、心の中はあなたのことでいっぱいでした。私にはわかります」

「二人きりなんだから、芝居はやめて」柚は、彼女の見事な演技を観る気にはなれなかった。「昔、亮太はあなたに10億円を渡して縁を切ろうとした。それでもあなたは妊娠して彼の前に現れた。何を望んでいるか、私にはよくわかる」

佳奈の顔から涙が消え、表情が凍りついた。

「もう、あなたたちのゲームに付き合うのはうんざり」柚は離婚届を差し出した。「この離婚届、私が直接渡しても亮太はサインしないでしょ。あなたが、彼に気づかれないようにサインさせて」

佳奈は唇を噛んだ。「誤解です。お二人の仲を壊そうだなんて、一度も思ったことは……」

「チャンスは一度きり」柚は彼女の言葉を遮った。「よく考えて」

佳奈はその書類をしばらく見つめていたが、やがて手を伸ばして受け取った。「……私たち家族三人のために、ありがとうございます」

家族三人。

柚の胸は、まるで鈍い刃物でえぐられたようだった。痛みで呼吸さえも震える。

「それじゃあ……あなたたち家族三人が、ずっと幸せに暮らせますように」

家に戻ると、柚は段ボール箱を一つ抱え、亮太に関するものを片付け始めた。

彼女と亮太は幼い頃から一緒に育った。思い出は、数えきれないほどある。

最初に箱に入れたのは、一冊のアルバムだった。

最初のページを開くと、子どもの頃の二人の写真があった。小さなスーツを着た亮太は、無表情で柚の隣に立っている。でも、その手はこっそりと彼女のスカートの裾を掴んでいた。

亮太の母親の野口由美(のぐち ゆみ)が言うには、あの日彼はどうしても一人で写真を撮りたがらず、柚と一緒じゃなきゃ嫌だと駄々をこねたらしい。

それが、亮太が初めて柚への独占欲を見せた時だった。

二つ目は、中学の制服のボタン。

卒業式の日、クラス中の女子が男子の第二ボタンを欲しがっていた。でも、柚は席に座ったまま動かなかった。すると放課後、机の中に亮太のボタンがそっと置かれていたのだ。そこには【俺のしかもらっちゃダメ】というメモが添えてあった。

あの頃の亮太は、もう野口家の跡取りという立場を利用して、他の男子を彼女に近づけさせないようにしていた。

三つ目は、ダイヤモンドの指輪。

柚が結婚できる年齢になったその日、亮太は待ちきれないとばかりに、街の巨大モニターでプロポーズした。ヘリコプターから降り注ぐバラの花びらの中で、彼の手にあったその指輪はただ静かに光っていた。

亮太はその指輪を自ら柚の指にはめ、愛情のこもった瞳で言った。「柚、これからの人生、俺はずっとお前のものだ」

……

もし佳奈がいなければ、本当に二人で添い遂げられると思っていたのに。

柚は自嘲気味に笑い、それら全てを段ボール箱に詰め込むと、ゴミ箱にまとめて捨てた。

翌朝、彼女は下の階の物音で目を覚ました。

部屋を出ると、使用人たちがブランドものの紙袋を次々とリビングに運び込んでいるのが見えた。

エルメスのバッグ、カルティエの宝飾品、シャネルのオートクチュール……

佳奈はホールに立ち、か弱そうに首を振っていた。「亮太さん、こんなにたくさん……私、こんなものが欲しいなんて一度も……」

亮太は優しく彼女を見つめた。「いいから、受け取って。お前が喜んでくれれば、お腹の子も元気に生まれてくる」

亮太が言い終わるか終わらないかのうちに、柚の姿が目に入った。

彼の表情がこわばり、すぐに口を開いた。「柚、すまない。今回は佳奈のプレゼントしか買ってこなかった。お前が欲しいものは、今度買ってやるから」

柚が口を開く前に、佳奈が優しい声で言った。「亮太さん、私は柚さんが一番欲しいプレゼントをもう用意してあるわ」

そう言って、彼女は柚に近づき、書類封筒を手渡した。

柚が開けると、中には署名済みの離婚届が入っていた。

亮太のサインは、流れるような筆跡だった。昔、彼がラブレターに書いてくれた文字と、寸分違わぬ筆跡だった。
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