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第2話

Author: 酒井聴子
娘が病気になり、会社に休みを申し出て、彼女を病院へ連れて行った。

タクシーに乗ったとき、つい癖で、いつもの住所を口にしてしまった。

降りてから気がついた——そこは一条家が経営する病院だった。

娘は隣で採血されていて、小さな顔をぎゅっとしかめている。

私は心配でたまらず、彼女の頭をそっと撫でて、優しく声をかけた。

その時、不意に院内がざわつき始めた。

顔を上げると、見慣れた姿がこちらへ歩いてくる。

――慎也だ。

数日前、有希が事故に遭ったせいで、一条夫人はすぐに彼女を病院で静養させると決めた。

今、有希はこの病院の最上階で入院しているはずだ。

慎也はこちらに気づいたようで、驚いた顔をして私たち親子に近づいてきた。

「楠乃(くすの)はどうしたんだ?それに……なんで俺に一言も連絡しなかった?」

私は鼻で笑い、スマホを取り出して慎也とのトーク画面を見せつけた。

画面には、三時間前に送ったメッセージがはっきりと表示されている。

慎也は気まずそうに視線を逸らし、何も言わない。少し間を置いて、突然話題を変えた。

「ちょうどよかった……母さんが君に、ちょっと上まで来てほしいって」

私は娘を抱き上げ、慎也に案内を促した。

有希の病室は最上階、一条家専用の個室だ。

部屋に入ると、有希が大きなお腹を抱えて、ベッドから降りようとしているところだった。

慎也は慌てて彼女に駆け寄り、優しく支える。その表情には、彼女を気遣う思いに満ちていた。

一条夫人が私を冷たい目で睨みつけていた。

この家の両親は、昔から私のことを認めたことがない。

私は「私の故郷では、籍を入れずに一緒に暮らすのが普通なんです」と何度も説明してきた。

それでも一条家の両親は、私のことを「無責任だ」「ふしだらな女だ」と決めつける。

さっきまでの冷ややかな態度が嘘のように、一条夫人は有希に向かってにっこりと微笑んだ。

「有希はこの前、大変な思いをしたけど……幸い母子ともに無事だった。

なら、これからのことも、ちゃんと決めないとね」

そう言って慎也の肩を軽く叩き、私には冷ややかな視線を投げる。

「ふしだらな女が産んだ子なんて、ろくなもんじゃない。一条家の名に泥を塗るだけだ。

外では、有希のお腹の子だけが慎也の子供だって言うんだよ」

慎也は顔をしかめ、「母さん、それはさすがに……理央だって……」と反論しかける。

私は深く息を吸い、娘を抱えて慎也の前に立つ。

「ほら、楠乃。これからは、この人のことは『おじさん』って呼ぶのよ。『パパ』じゃない」

そして、一条夫人に向き直り、淡々と告げた。

「お望み通りに」

慎也は驚き、狼狽した表情を浮かべた。

楠乃は状況がわからず、唇を震わせて泣き出す。

慎也には目もくれず、私は楠乃の頬をそっとつまんであやした。

有希は恥ずかしそうに微笑んで、私に視線を送ってきた。

「理央さん……私、本当にあのとき怖かったんです。この子ももうダメかと思って」

そう言って、彼女は目元をそっと拭う。

「慎也から聞いたんです。あのブレスレット、妊婦のお守りになるって……楠乃を生んだときに着けていたそうですね」

有希は私の手首をじっと見つめる。その意図は、言葉にしなくても分かった。

――そのブレスレットは、私と慎也が付き合って三年目の記念日に、彼から贈られたものだ。

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