LOGIN夫・藤本凛司の極秘任務が終わる日、私は娘の藤本涼音を連れて、受験する小学校へ願書を提出しに行く。 窓口の職員は、困惑したように画面を確認している。 「お子さんのお父さまですが、システム上では別の男の子の保護者として登録されています。入力内容に間違いはありませんか?」 思わず眉をひそめる。「そんなはずは……少し確認してみます」 スマホを取り出すと、凛司の投稿通知が目に飛び込んでくる。どうやら、私に見せない設定をし忘れていたらしい。 【秘密の結婚から7年。ようやく堂々と世界に宣言できる。君は、俺の妻だ】 添えられた写真には、私の親友・杉山里奈が息子を抱きながら、幸せそうに目を細めて凛司の肩にもたれかかっている。 二人の手には、私が持っているのと同じ、婚姻届の受理証明書が握られている。 頭の中が真っ白になり、震える指で画面をスクロールしていく。そこに並んでいるのは、祝福の言葉ばかりだ。凛司との共通の友人たち、それに私の職場の同僚までいる。 一番下にあるのは、義母・藤本澤子からのコメントだ。 【この7年間は里奈たちに苦労をかけたんだから、これからはちゃんと埋め合わせしてあげなさい】 【知紗には上手く隠し通すのよ。偽りの証明書だと知ったら、きっと傷つくから】 それに対して凛司は、笑顔のスタンプ一つで返している。 スマホを握る手が震え始める。私が澤子に尽くし、女手一つで娘を育ててきたこの7年間、凛司は、里奈たちのそばにいた。 みんな知っていた。知っていて、私を騙し続けてきたのだ。胸が苦しくて、息が詰まりそうになる。 涼音が私の服の裾をそっと引っ張って、外を指差す。 「ママ、雨ひどくなってきたね。まだパパを待つの?」 傘を広げて、涼音の小さな手を握る。 「ううん。ママと二人で行こう。 これからは……もう、誰も待たない」
View Moreびっくりして振り返ると、そこには凛司が立っている。目の下には濃いくまができて、以前よりずっと痩せている。「知紗……ずっと探してた」凛司の声は、かすかに震えている。「涼音のことを調べて、ようやく分かったんだ。あの日、お前は嘘なんかついていなかった。里奈とは離婚した。あいつには子どもを連れて出て行ってもらった。お前がいなくなってから、俺は一度もまともに眠れたことがない」凛司の言葉は、すべて本当だと思う。……かつて自分が大切にしなかった存在を、本当に失った瞬間、凛司の心には、大きな穴が空いた。何かを失ったような虚しさが、胸に残り続けた。仕事にも身が入らず、会社の業績も大きく落ち込んだ。澤子は口では厳しく責めながらも、息子がそんな状態になっている姿を見ると、やはり心を痛めていた。そして最後に、凛司へ1ヶ月の猶予を与えた。1ヶ月以内に私を探し出して、連れ戻せたなら、私を藤本家の嫁として迎え入れる。もし私が戻ることを拒んだなら、凛司はもう過去を引きずらず、家業を継ぐことに専念する。……今、凛司は私の手を握って、すがるような声で言う。「知紗、本当に悪かった。頼むから、一緒に帰ってくれ。今度こそ、ちゃんとお前を大切にする」そう言って、小さな箱を取り出して開く。中には、二つの結婚指輪が入っている。7年前、私が何気なく「結婚するときは、これをつけたい」と話したものだ。まだ覚えていたんだ。凛司は宝物を見せるように、指輪を差し出す。「知紗、見てくれ。俺は本気なんだ。婚姻届も用意してきた。お前が望むなら、飛行機を降りたその足で役所へ行って、もう一度結婚できる」私は片方の眉を少しだけ上げる。「本当に?」その瞬間、凛司は目を輝かせる。「本当だ。俺は分かってた。お前がそんなに冷たい人間じゃないって。帰ろう。指輪を受け取って、俺の妻として帰ってくれ。これからは、涼音の分まで、お前を幸せにするから」そう言って、凛司は私の手を握る。指輪をはめようとする。思いきり彼の手を払いのける。指輪は転がって、そのまま道端の溝へ落ちていく。凛司は呆然と私を見る。私は冷たい目で彼を見つめ、口元に薄い笑みを浮かべる。「ずいぶん都合のいいことを言うんだね。一緒に帰るなんて言ってないわ。正直に言うね。私の人生で一番
昼夜を問わず研究室にこもる日々が続く。それにつれて、給料も順調に上がっていく。最初は満足そうに見守っていたマイケル教授の表情も、いつの間にか心配そうなものへと変わっていく。ついには見かねて、私を止めに来た。「前の職場では競争が激しすぎて、誰もが無理をして頑張り続けると聞いたぞ。努力する姿勢は素晴らしい。でも、君の場合は少しやりすぎだ。いつか倒れてしまうんじゃないかとヒヤヒヤしているんだよ」作業を続けながら、適当に返事をする。「教授、すみませんが、場所をあけてくれますか?今ちょっと集中したいので」マイケル教授は困り果てた顔で、後ろにいるこころと顔を見合わせる。こころは肩をすくめて首を振る。「ごめんなさい教授、私にもどうにもできなくて」二人の会話など耳に入らないほど、ひたすら研究に打ち込む。他に理由なんてない。ただ、忙しさに身を任せていれば、張り詰めた気持ちが少しだけ楽になれるからだ。朝から晩まで研究室に入り浸って、誰よりも早く来て、誰よりも遅く帰る。そんな無茶を続けた結果、案の定、数日もしないうちに体が限界を迎えた。私が倒れたその日の朝、こころとマイケル教授が家にまでやってきた。玄関の前に立ちはだかる二人を見て、眉をひそめる。「まだ入力しなきゃいけないデータがあるの。それだけ終わったら休むから」「ダメ!」こころは一歩も引かない。仕方なく、別の方法を考える。「じゃあ、家でパソコンで作業するから」手を伸ばしてパソコンを取ろうとする。しかしマイケル教授が素早くパソコンを取り上げる。そのまま棚の中へしまって、鍵をかける。そして鍵を自分のバッグへ入れる。「今の君に必要なのはパソコンじゃない。休むことだ」どれだけ頼み込んでも、二人には一切通用しなかった。結局、折れるしかなかった。「分かった。言う通りにして、1日休めばいいんでしょ?」こころは安心したように笑って、一枚のカードを差し出す。「これ、研究センターからの福利厚生サービスだから。買い物でもしてきなよ。知紗さんの家、ベッドと持ってきた荷物以外、何もないじゃない。とても家って感じがしないよ」言われてみれば、その通りだ。ここに来て以来、仕事のことしか頭になかった。普段はパンをかじって水を飲むだけ。夜に帰れば、そのまま眠りにつく。家に何かを置こう
その夜、遅くまで荷物を片付けたあと、久しぶりに自分だけのために夜食を作った。今までは、いつも澤子が早く寝るため、この時間帯に家の中で音を立てるなんて絶対に許されなかった。夜中にトイレへ行く時だって、起こしてしまわないように気を遣って、わざわざ下の階まで降りていた。けれど今は、出来立ての温かいラーメンをすすっている。温かさが、空っぽだった胃と心の両方に染み渡っていく。これからは、自分のためだけに生きていく。明かりを消す。窓の外には、冴えた月が夜空に浮かんでいる。その夜、久しぶりに穏やかな眠りについた。……数日後、必要な書類も無事に揃って、正式に研究員として働き始める。毎日研究に没頭する。自分でも驚くほど、これまで培ってきた能力が通用しているようだ。そして1週間も経たないうちに、停滞していた研究を乗り越えた。金髪に青い目をした教授・マイケルが、老眼鏡越しに私の提出した資料を何度も読み返している。やがて、感極まったように大きく頷く。「素晴らしい!実に素晴らしい!」興奮冷めやらぬ様子で歩み寄ると、こちらの手を強く握りしめる。「世の中にまだ見つかっていない才能がどれほど多く眠っているのか、夏目さんに出会って、改めて思い知らされたんだ。もし7年前に来てくれていたら、医学の発展は、少なくとも数年は早まっていたかもしれない」過分な褒めの言葉に、少し顔が赤くなる。「教授、買いかぶりすぎです」そう言って謙遜すると、マイケルはゆっくり首を振る。「お世辞なんかじゃないよ。単刀直入に言おう、うちのコアチームに参加する気はないかね?いや、正確に言えば、我々の方が、君を必要としているんだ」すっかり親しくなったこころがその話を聞いて目を輝かせながら、呆然としている私の肘を突いて小声で囁く。「何ぼーっとしてるの!マイケル教授はここでもっとも信頼されている研究者で、そのコアチームに入れるなんて、将来が約束されたようなものよ!教授の研究はどれも、医学の進歩につながっているんだから、私だってここに長くいるけど、こんなに早く声をかけられた人は知紗が初めてよ」胸が高鳴る。「本当に私でいいんですか?」マイケル教授は豪快に笑う。「君ほど優秀な人が無理なら、この世にできる人間なんていなくなるよ。もっと自信を持ちなさい。分から
飛行機を降りる。見知らぬ街の通りには、金髪に青い目をした人々が行き交っている。人ごみの中から、一人のアジア系の女性がこちらへ歩み寄ってきて、優しく微笑む。「夏目知紗さん……ですよね?医学研究センターの、高橋こころと申します。気兼ねなくこころと呼んでくださいね。実は7年前にも、こちらで働かないかとお声がけしたことがあるんです。当時は赤ちゃんを授かられたとのことで、お見送りになってしまいましたが……まさか7年越しの今日、一緒に働ける日が来るなんて思いませんでした」穏やかに微笑み返す。「こちらこそ。再び声をかけていただけて光栄です」……凛司が極秘任務に就くことになったあの年、私はちょうど涼音を身ごもったばかりだった。凛司は私が一人で海外へ行くのは危険だと心配した。澤子も「海外に行くなら、結婚の話はなかったことにする」とまで言い切った。仕方がなく、こころの誘いを断って、T市で小さなクリニックを開業した。それからの7年間、毎日のように医学書や患者に向き合い続けてきた。そのおかげか、医師としての経験も腕も、昔よりずっと積み重なっていた。……こころは丁寧な仕草で私のスーツケースを手伝ってくれ、ふと私が抱えている骨壺に視線を落とす。「それは……」「娘です」と、静かに答える。こころは驚いて申し訳なさそうに言う。「ごめんなさい……お悔やみ申し上げます」首を横に振って、静かに笑う。「お気になさらないでください。この子の病気がかなり進んでいて……長くはありませんでしたから。ただ……最後まで、パパとママと一緒に小学校へ行って、たくさん友達を作りたいって言っていたんです」そう言って、私は俯いて寂しく笑う。結局、涼音の願いを何一つ叶えてあげられなかった。こころは私の肩をそっと叩く。「きっと、乗り越えられますよ」その優しい言葉が、少しだけ胸に染みた。……こころの車へ乗り込む。窓の外には、T市とはまるで違う街並みが広がっている。彼女が優しく笑いかける。「この辺りの景色、素敵でしょう?」「ええ、街並みも、建物も……すごく綺麗ですね」こころは嬉しそうに目を細める。「よかったです。こちらでも一番立地の良いお家を用意したんですよ。そういえば、娘さんのお墓はお決まりですか?もしまだ決まっ